日が出ていれば夕暮れも近い頃合いだが、灰色の雨雲に隠れた空からは、夏らしい太陽の光は届かない。
そんな天気だというのに、気温や湿度ばかりがとても夏らしくて、
「暑い」
夏も盛りだというのに、見るからに暑そうないつも通りの服を着込んだリースが、不貞腐れたように呟く。
「夏ですから」
「わかってる」
「もう少し薄い服を選ばれては如何ですか?」
確かに、傍らを歩くエステルの服の方が、見た目には涼しげである。だがそれでも、ちょっとした外出の折にフィーナが着ていたような服に比べたら、それでもまだ、少し多めに重ね着をしているような印象があった。
「リースリット様は私と違って、何をお召しになってもよいのですから」
それに、エステルの服は普段と同じ教団司祭の略装で、言ってみれば会社員や大使館職員の制服のようなものだ。本人も気に入ってはいるがそれはそれとして、エステルが自分の好みで選んだ服、ということではない。
「これでいい」
一方、リースの服は恐らく本人の趣味だ。
いやもしかしたら、リースがそうしたことに極端に無頓着で、その服ばかりを何着も、まるで制服のように持っているだけなのかも知れないが。
「季節。お天気。月と太陽の巡り‥‥‥地球に赴任してしばらく経ちましたが、昨日と今日がまったく同じだったことは一度もなくて」
大きくて無骨な男物の蝙蝠傘の下で、
「人はともかく、地球の自然というのは、とてもおもしろいものですね」
エステルはそう言って少し笑う。
「でも、昨日と今日が同じじゃないと、昨日憶えたことが役に立たない」
傘も差さずに雨の中を歩きながら、リースはそんなことをぼそぼそと答える。
「だから地球の人は、その時々でたくさんのことを憶えざるを得なかったのでしょう。例えば、ほら」
スカートの裾を摘んでみせた。
「この傘は、男性の体格に合わせて作られた比較的大きなものだそうですが、こうして傘を差しているのに、結局、服は濡れてしまうのですね」
湿った裾から、ぽたぽたと滴が落ちた。
「水は空から降らなくていい。流れるべきところを流れていれば。こんな風に降られたら鬱陶しい」
「鬱陶しいと仰いますが」
エステルの空いている手がリースの手を取る。
「濡れていないじゃありませんか、リースリット様は」
その手首を軽く振ると、染み込めなかった水玉がぱらぱらと振り落とされる。だが、その小さな手や、ひらひらしたフリルつきの長袖が、降る雨に濡れた形跡はない。
「そうだけど」
現在のリースは、撥水性の極めて高い透明なフィルムを服の上から全身に纏ったような状態にある。
それも所謂『ロストテクノロジー』の効果であった。
「エステルも使えば濡れないのに」
「こちらには、『郷に入りては郷に従え』という言葉があるそうです。それに」
言いながら、エステルは傘の軸を肩に載せた。
「私たちには、封印されたロストテクノロジーを悪意ある者たちから護る、という使命もあります」
衝撃で傘から零れた飛沫は、すぐに雨に紛れてしまう。
「敢えて自らそれを見せびらかして、知らなかった者にまで存在を喧伝するかのような行いは、私としては本意ではありません」
「‥‥‥エステルに怒られた」
上目遣いに顔色を伺うような表情。
「はい、怒っていますよ」
そう言いながら、特に怒ったようには見えない表情。
「ですからリースリット様、今度は傘をお使いになられては如何ですか?」
エステルの手が、
「服が濡れる」
「それは仕方がありません。雨が降っているのですから」
その手のひらの中の、リースの手をきゅっと握る。
「多分、私たち月の民は、昨日と今日が同じでないことを必要以上に恐れているのだと思うのです」
昨日と今日は同じでなければならなかった。
それが大きく違ってしまったら‥‥‥ただでさえ人の居住に向かない月という環境の中でも予定外の変化に容易く対応できるほど人は器用ではないし、人はそう簡単に自分自身を作り替えられもしない。
「昨日は濡れなかったものが、今日は濡れてしまう。それは不便なことかも知れません‥‥‥でも、昨日と今日が違うことは、本当は楽しいことなのではないか、と」
突然。
繋いでいないリースの手に、エステルは傘を手渡した。
困惑顔のリースの前で、何の準備もなしに傘から離れたエステルが、至極当たり前に、雨に打たれている。
「エステル‥‥‥濡れる」
「それは仕方がありません」
たちまち重く湿った前髪から雨粒を滴らせながら、
「だって今日は、雨が降っているのですから」
エステルはそう言って、少し笑う。
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