真夏のH! (HIGH PRESSURE edition) 


  

「‥‥‥びき、に?」
 唐突な言葉に、菜月は首を傾げる。
「ん。ビキニ」
 その席には菜月と自分しかいない‥‥‥わかっているのに、思い切り声を潜めて麻衣は繰り返す。
「って麻衣、ビキニなんかどうするの?」
 それは一体どういう意味の質問なのであろう。今度は麻衣が首を傾げた。
「着るの。‥‥‥他にないでしょ」
「まあそうだけど、なんで急にビキニ」
「え。だから、それはその」
 首を傾げたまま、目線の向きを明後日にやったまま、
「つまり、今度ね、お兄ちゃんと一緒に、海に」
 蚊の鳴くような小さな声で、ぼそぼそと話を続ける。
「ああ、なんだ。達哉とデートか」
 さして驚いた様子もなく、菜月は事情を了解し、
「‥‥‥ん」
「あーそっかそっか。なるほど、それで水着」
 一拍、間を置いてから、
「ってえええええ! 麻衣、今ビキニって言った!?」
 ほぼ貸し切りの店中に響くような驚きの声をあげた。



「だからそうだってさっきから‥‥‥」
「あああごめんごめん。そうでした、はい」
 流石に少し気を悪くしたか、口先を尖らせる麻衣に軽く両手を合わせる仕草を見せてから、手元のグラスの中身を菜月は一気に呷った。
「でも、だって麻衣、達哉と付き合うようになってからだって、ずーっとワンピースとかタンキニとか着てて」
「‥‥‥だからお兄ちゃんもう、そういう水着は見慣れちゃってるかも、ってこの間ふと思って」
 達哉と麻衣の間柄が『恋人』になってからも、それなりに時間は経っていた。例えば、来春には麻衣も大学を卒業し、その後は高等部に戻って教職に就くという。
 もう随分長い間『恋人』で、互いに好き合っていることも、そこに余人の入り込む余地などないことも散々わかっていて‥‥‥多分麻衣は、そして恐らく達哉も、それでもまだ誘惑し足りていないのだろう。
 何度降参させれば気が済むんだろうね、本当。
 麻衣にわからないように、何度目かの溜め息を吐く。
 それにしても。
「小さいことだけど、何ていうか、サプライズとかになればなあ、って」
 この『小さいこと』の小ささときたら。
「これだけ長い間カレシとカノジョしてるのに、今更ビキニ着たくらいで『サプライズ』になる関係っていうのがちょっと凄い、と思いました」
 あまりに素直な感想をついそのまま口にしてしまい、
「なんか菜月ちゃんに馬鹿にされてる気がする」
「いや誉めてる誉めてる。本当だよ?」
「本当かなあ?」
「本当だってば」
「‥‥‥むー」
 結果、軽く睨め付けるような目を向けながら、手元のカクテルグラスをちびちび傾ける麻衣を見つめて‥‥‥その眩しさに、菜月は少し目を細めた。
 達哉じゃなくて、私も彼氏欲しいかも。
 今度は麻衣が眩しそうにこっち見るくらいの。
「バーテンさん。今度はもうちょっと辛口っぽいの」
 心の中とは別の言葉で自分の口に蓋をする。
 視界の端で、寡黙なバーテンが頷くのが見えた。



「んで麻衣、それ買いに行くのは明日でいいの?」
 里帰り中の菜月の夏休みはまだ何日かある。別に焦る必要はないのだが、早いに越したこともないだろう。
「あ、うん。‥‥‥付き合ってくれる?」
「当たり前じゃない。可っ愛いの選んじゃうんだから」
 ぽん、と自分の二の腕を叩いて、菜月は笑う。
「ありがとー! 菜月ちゃん大好きっ!」
 スツールから上半身だけ乗り出すようにして、麻衣は隣の菜月に抱きついた。
「ふふん。惚れるなよ?」
 冗談めかして言いながら、わざとらしく髪を掻き上げて‥‥‥ふとカウンターの上に目をやると、いつの間に用意されたものやら、涼やかな色合いの液体と氷で七割方満たされた、新しいグラスがそこに佇んでいた。
「それで、ビキニってどんなのがいいの?」
「着たことないからよくわかんなくて。あ、すんごい花柄のビキニとか見たことあるんだけど、派手かなあ?」
 内緒話の夜はまだまだ続きそうだ。

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