彼女の恋人。[26670523]  


  

 こんこん、とドアがノックされた時、
「菜月、入るよ」
「うー」
 常夜灯も点いていないような暗い部屋の中で、菜月は机上に半身を投げ出して、窓の外の物音を聞くともなしに聞いていた。
「うー、って。どういう意味の返事だいそれは」
 聞き返した仁は、既に菜月の部屋の中にいる。
 向かい合わせになった隣の家の窓からの光がなければ、物の位置もわからないかも知れないような部屋の中を‥‥‥その割には危なげない足取りで、仁は菜月がいるであろう机に向かって歩を進めていく。
「そっとしといて、って意味」
 顔も上げずに菜月は答える。
「それは『うー』では伝わらないと思うんだが」
 つい先刻まで催されていた自分の誕生会では明るく振舞っていたようだが、やはりあれは、無理をしていたのだろう、と仁は改めて思う。
 多分、菜月が自分で思っていた以上に、それは苦しいことだったのだ。
 自分のための誕生会があって、そこに集まってくれた人の輪の中に、達哉だけがいない、という事実は。



 窓の向こうの部屋から聞こえてくる微かな物音は、さやかと麻衣が、達哉の部屋から幾つか荷物を運び出す物音、なのだそうだ。
 去年、人類史上最長の超長距離を股にかけた世紀の大恋愛の果てにフィーナ姫と結ばれ‥‥‥ごく短い期間とはいえ、今また月王国へと渡っている達哉に送り届けるために。
 そんな風にして、誕生日に託けて突如実家に戻った菜月の淡い期待は、当たり前のように簡単に裏切られた。
 最初から達哉はいなかったのだ。
 朝霧家にも。
 地球にも。



「相変わらず迂闊な妹君だね。それならそれで、ちゃんと確認してから帰ってくればよかったのに。半月もずらせば、達哉君だって月から戻っていたんじゃないか?」
「そうだけど」
 言い淀んだ菜月の脇に、持ってきた皿を置く。
「これは?」
 物憂げに顔を上げて、菜月はその皿を見つめる。
「まあ、僕からの誕生日プレゼントだよ。試作品で、まだあまり加減ができていないからね、割と苦味が強いだろうとは思うんだけど」
 皿の上には、銀のフォークと、控えめに添えられた生クリームと、それから、やや薄めに切り分けられた何切れかのケーキ。
 形は普通のパウンドケーキのようだが、全体に緑色がかったような不思議な色合いに見えるのは、部屋が暗いせいかも知れないし、それが本当に緑色のケーキだから、なのかも知れない。
「変な色」
「貴重なご意見、ありがとうございました」
 いきなりの率直すぎる感想に、少し困ったように仁は笑う。
 置かれた皿に顔を近づけてみると、憶えのある香りが鼻の奥を撫でていった。
「緑茶?」
「ほぼ正解だね。より正確にいえば、抹茶のケーキだけど」
「苦いの?」
「だからそう言ってるじゃないか、さっきから」
 再び、仁は苦笑。



「食べてみて、本当に苦かったら泣いてもいいよ、妹君。今はちょうど、泣いてることを知られたくない人に、内緒にできるタイミングでもあるわけだしね。そう、いっそ『苦いよー』って子供みたいに大騒ぎしてみたらどうだい? それで少しは気も晴れるかも知れない」
「泣いて騒ぐだけ?」
「だけ、って。それじゃ他にどうしたいんだ」
「ん‥‥‥えっと、もっと甘いのにして、とか言うのは」
「兄君様相手にそんなことをねだってもしょうがないだろう」
 頼まれもしないのにそのケーキを持ってきた張本人の言とは思えない物言いに続き、
「じゃあ、誰に言ったら」
「知らないよ。付け加えれば親父殿も違うし、もちろん、フィーナちゃんのものになってしまった達哉君に頼むっていうのも、今となっては問題ありだろうね」
 恐らく、今の菜月がいちばん聞きたくないであろう言葉すら、仁はしゃあしゃあと言い放ってみせる。
「じゃあやっぱり、兄さんしかいないじゃない」
「だから生クリーム付けといてあげたじゃないか。大体、ずっとここにいるのは別に構わないけど、よりによって僕を相手に、そんなに菜月は泣き顔を披露したいのかい?」
「‥‥‥意っ地悪っ」
「それでしゃもじが飛んでこないあたりが、重症なんだろうと思うよ。我が妹ながら不憫なことだ。‥‥‥それではまあ、ごゆっくりどうぞ、妹君」
 背中の向こうで扉が閉まる音がして。
 耳に入る音は、再び、達哉の部屋の物音だけになった。



 パウンドケーキをフォークで切って、小さな欠片を口に放り込んでみた。
「あ」
 『苦い』とばかり聞かされていたせいか、その奥にある仄かな‥‥‥意外な甘みに気づいて、菜月は思わず声を漏らした。
「苦‥‥‥い、から」
 それでも菜月は、言い訳か何かのようにぼそりと呟いて、
「ちょっと泣く」
 再び、机上に顔を伏せる。

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