彼の母の娘II[26651008]  


  

「最近、さやちゃんはどうしてるって?」
 売り上げを書きつけた帳簿を畳みながら、左門は達哉にそう訊ね、
「はい。ちょっと体調は心配ですけど、なんかいろいろやってるみたいです。それと、また立場が変わりそう、とかいう連絡も来ました」
 達哉はそんな風に答えた。



「なあ、ちょっと前から疑問に思ってたんだが、留学先で立場って何だ? さやちゃんは留学生なんじゃないのか? そういやちらっと、給料もらってるようなことも聞いたが」
「俺も最初は、留学生は勉強だけしてればいいのかと思ってたんですけど、でもよく考えてみたら、名目は留学生でも、姉さんはとっくに社会人でしたから」
 それも単なる社会人ではない。留学寸前まで『月王立博物館の事実上の館長』として文化交流政策の最先端を支えてきた傑物である。仮に本人が『勉強以外はしたくない』などと希望したところで、どうせ周囲が放ってはおくまい。
 ましてや、他ならぬさやかのことだ。何もなければ自分で仕事を掘り出してでも、とにかく誰かの役に立とうと頑張っていることだろう‥‥‥と、ここまでは、達哉のみならず、周囲の誰もが何となく想像していたことではあった。
『気持ちは嬉しいですし、働きぶりも見事なものですが、休むことも仕事のうちだと、どうか達哉と麻衣からも、さやかに伝えてください。私は、さやかの身体を壊させるために、さやかを月へ招いたのではないのです』
 それが、たまりかねたフィーナにこんな手紙を寄越させる程のものだとまでは、達哉も流石に思っていなかったが。
「おい何だ、それじゃこっちで博物館を仕切ってた頃よりも酷いじゃないか」
 呆れたように左門が呟く。
「それはそれで姉さんらしいとも思うんですが」
 こちらも呆れたように、
「でも多分、それでも姉さんは楽しくてしょうがなくて、だからきっと、こっちで館長やってた時みたいに、あっちでも大活躍してるんじゃないかって思うんです。やっと水を得た魚っていうか」
 だが、どこか嬉しそうに、達哉が呟く。



 さやか自身はあまり詳しく書いて来ないからはっきりと確かめてはいないが、さやかがただの『留学生』でいられたのはせいぜい渡航してから半年くらいの間だけだった、と達哉は考えている。
 少なくとも月王家の中では、恐らく『学生』でなく『文化交流政策の実務担当者』を招いたことになっている。勿論、最初は本当にただの『学生』を招いたつもりだったのだろうが、まず間違いなく、現在はそのように認識が変わっている筈だった。
 その証拠に‥‥‥左門の言う通り、その頃から、さやかには給与が支払われている。
 達哉は最初、それは朝霧家の経済的な事情を知っているフィーナの差し金で、給与、という名目で経済的な支援をしようとしているのではないかと勘繰りもした。
 が、その考えは既に自らによって否定されてもいる。
 ひとつには、フィーナにそういうつもりがあるなら、恐らく支払いは渡航と同時に開始されていた筈だろう、と思われることが挙げられる。月大使館経由で『さやかの給与』が振り込まれるようになったのは、さやかが月へ渡った時期とは確かに半年くらいのずれがあった。
 さらに、もうひとつの、もっと重要な根拠として。
 ただの経済的な支援にしては額面が大きいのだ。
 最初の頃よりも少しずつ増えてきていたその金額は、博物館の館長であった頃に受け取っていたのと、現在時点で概ね同額、と聞いている。それは、さやかと同年代の社会人としては比較的高い水準の給与だ。実際そう余裕はないものの、自分ひとりの収入で達哉や麻衣を学院へ通わせ、かつ、あの朝霧の家を維持できていた、という事実からもそれはわかる。
 また、勿論それは大学生の達哉がバイトで稼ぐよりも明らかに高額で‥‥‥つまり、留学生の筈のさやかが、実は今でも朝霧家の大黒柱を担っているのである。
 どう考えてもこれは、ただの『学生』に用意される待遇ではない。
 そして。
 いくら事情を知っているからといって、フィーナがそんな度を越した支援を、しかも継続して行いたがるようには、達哉には思えなかった。
『俺と麻衣は、これまでずうっと姉さんに甘えてきたから、今度は、姉さんも俺たちに甘えてほしいんだ』
 一旦は断る決意を固めたさやかに翻意をさせてまで、達哉と麻衣は月へと送り出した。その結果として自分たちがどうなるかについて、当然、残るふたりに何の考えもなかった筈はない。
 フィーナ自身が、そのことで朝霧家に波風を立てた張本人であり、それから朝霧家で起こったことの一部始終に立ち会ってきた生き証人、だからこそ。
 大きな借金があるわけでも、生活が破綻するほど逼迫しているわけでもないのに、自分の立場ならそれができるからといって、頼られもしないうちから救いの手を差し伸べては、さやかを送り出したふたりは『信じるに値しない』と態度で示すことになってしまう。フィーナなら多分、そういう風に物事を考えるだろう。
 達哉たちを、朝霧家の家族の絆を本当の意味で信じてくれているとしたら、恐らくフィーナはこの件について何もしない。同じように家族としてのフィーナを信じるから達哉はそう考える。そう確信している、と言い換えてもいい。
 そんなフィーナがわざわざ『給与』だと言って渡すのだから、それは多分、本当に『給与』以外の何物でもなくて。
 さやかは月でも、その給与に見合うような大活躍をしている。
 フィーナに余計なお節介の濡れ衣を着せることよりも、そう考えることの方が余程実情に即しているのだ。



「そうすると、結局さやちゃんのはアレか。うちのがミラノで働きながら修行してるようなもんなのか」
「はい。そういう感じだと思います」
 あるいは、単身赴任のようなものだ。
 最近は、達哉はそう考えるようにしていた。それが多分いちばん実態に近い。
「ふむ。‥‥‥まあ、薄々そんなことじゃないかとは思ってたが、しかしタツ、そりゃ大変だな」
「何がですか?」
「何がって、さやちゃんは大活躍してるんだろ? それが本当だとしたら、そんな大活躍する奴は、月の連中だって手元に置いておきたいんじゃないのか? ますます帰れんじゃないか」
「‥‥‥ああ、なるほど」
 今気づいたような顔をして、達哉はぽんと手を合わせる。
「おいおいおいおい」
 項垂れた左門はどっと疲れた様子で眉間に手をやるが、
「いや、まあ、それでもいいんです。だからそういうの、あんまり気にしてないんですけど」
 意外な言葉に顔を上げると、
「こうなったらもう、姉さんには気が済むまで大活躍して欲しい。そのせいで帰ってくるのが何年遅くなっても、俺も麻衣も、姉さんのこと、ちゃんと待ってますから」
 目の前の達哉はそう言って嬉しそうに笑った。
 今まで左門が一度も目にしたことのなかった、晴れやかな笑顔だった。
「痩せ我慢でもそれだけ言えれば立派なもんだ」
 さやかが撫でるようにでなく。
 左門は、ぽんぽん、と達哉の頭に手を置く。



「でも、おやっさんだってうちと大差ないじゃないですか。しかもふたりも行っちゃってるし」
「あ? ああ、まあ、な」
 溜め息のように言葉を吐き出して、それから左門は、珍しく煙草を咥えた。
 春日は未だに修行先のミラノから戻ってこない。
 獣医を目指す菜月も遠くの大学へ行ったきりだ。
 だから今、鷹見沢の家には、左門と仁がふたりで暮らしている。
「何だ、そういう、いなくなっちまう部分だけ見てると、さやちゃんも本当にうちの子みたいな気もしてくるな。菜月もやっぱり、俺よりも春日に似てるとは思ってたが、隣に住んでて、さやちゃんも影響受けちまったのかも知れんなあ」
 言葉はそれだけだったが、音にならない部分に込められた微妙なニュアンスが、煙に紛れて、閉店後のやや薄暗い店内に滲んだ。
「それは」
 達哉はしばらく考える間を置いて、
「‥‥‥違うと思います」
 はっきりと、そう答えた。
「ほう」
「姉さんはすごく迷ってたんです。それで一度は、留学するって話自体も断っちゃったりして。あの、こういう言い方していいのかどうか、わかりませんけど」
「何だ。今更気にするな」
「おばさんや菜月が自分で飛び出していくってことについて、姉さんみたいに迷ったり悩んだりしてるとこは、確か、俺は見たことないです。だから」
 だから、例えばおばさんや菜月とは、あるいは自分の父親とは‥‥‥姉さんは、そういう根本的なところが似ていない。
 達哉はそう思う。
「なるほど。確かにそうだ。‥‥‥さやちゃんの本当のご両親のことは俺もあまりよくは知らないんだが、今のタツを見てると思うよ。タツもさやちゃんも、やっぱり琴子さんの子供だな」



 ふう、と煙を吐いてから。
「ワインでも飲むか、タツ」
 三分の一くらい残っていた煙草を揉み消して、不意に左門は、座っていた椅子を引く。
「どうしたんですか急に?」
「どうしたってことも別にないが、もうタツだって成人してるんだし、たまにはいいだろう。お互い、女房がなかなか帰ってこない同士ってことで」
「に‥‥‥」
 まだ結婚もしていないさやかのことを『女房』などと言われるのは、正直、妙に気恥ずかしい達哉であったが。
「仁さんはいいんですか?」
「独り者は寂しく寝かしときゃいいのさ。ちょっと待ってろ、今つまみも出してくるからな」
 左門はまったく平然と、帳簿を持って立ち上がり、店の奥へ歩いていった。

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