「あ」
何か思い出したような顔で、唐突に麻衣は振り向く。
「あら麻衣ちゃん、どうしたの?」
遅れてリビングに入ってきたさやかが首を傾げた。
「ん。そういえば聞き忘れてるな、って思って」
「何を?」
「いろいろ。地球の食べ物に嫌いなものはないかどうか、お箸は使えるのかどうか、それから」
「ああ‥‥‥」
釣られたようにさやかも振り返る。
「夕飯の支度を頑張っちゃうには、ゲストの御都合は大事でしょ。ええと、シンシアさん?」
さやかの背中の向こうへと声を掛けるが、
「あれ? シンシアさーん?」
返事の代わりに響いたのは、ぱたん、と扉の閉まる音だけであった。
「達哉くん、先にお部屋に通したのね」
「でも、荷物とか全然持ってなかったと思ったけど」
「重たそうなの、肩から提げてたじゃない」
「ああ、あのでっかいペンダントみたいなの?」
実際に触れてみたことはないから、本当に重いのかどうかは実はわからないが、確かにあれは重そうだ。
「どういう意味があるのかはわからないけれど、『静寂の月光』の司祭様はみんな着けてらっしゃるわ」
「え、でも、あの格好は趣味だって」
「ええ。お父様の趣味、って言ってた」
さやかが人差し指を立てた。
「お父様?」
「自分が好きで着ている服ならまだしも、別の誰かの好みに合わせているんだから、その相手がいない時くらい、堅苦しいのは抜きにしたいんじゃないかしら?」
「なるほど‥‥‥っていうか、でもシンシアさんのお父さんって、なんで娘にそんな紛らわしい服着せてるのかな? 結局、教団の人じゃないんでしょ?」
「それもまだよくわからないわね」
言っているうちに自分の肩が凝りでもしたのか、こきこきと何度か首を振る仕草。
「そんな服着たまま出てくるぐらいだから、よっぽど地球の街に興味があったんだね、シンシアさん」
「そういう気持ちも、わからないとは言わないけれど」
困ったような顔で、さやかは『地球のお茶』を冷蔵庫から引っ張り出し、コップに注ぐ。
「って、そういえば、まだかしら」
四つ目のコップに麦茶を注いでテーブルに置くが、今日の主役ふたりがまだ部屋から出てこない。
「達哉くんも出てこないし」
「何かやってるのかな」
「‥‥‥何かって、何を?」
「‥‥‥その、人には言えないようなこと、とか?」
勘ぐり過ぎも甚だしいが、
「ええええええええええええええええっ!」
しかしそれは、『声』というより『悲鳴』に近い何かのようでもあった。
「ダっダっダっダメよ! 月人のお嬢様にそんな、あ、あんなことやこんなことや、そっ、そんなことまでやっちゃうだなんてっ!」
早くも半分腰が浮いている。
「許しません! お姉ちゃんは許しませんよっ!」
「ちょ、ちょっとお姉ちゃん早まらないで! まだ何かやってるって決まったわけじゃ」
何故だか、数分前に誰かと誰かの脳裏にあったビジョンに、リビングの状況はよく似ていた。
「お姉ちゃんまだキスもしたことないのにっ!」
さやか説得のために捏造する物語のバリエーションから『恋人』プランを捨てておく判断は、結果からいえば功を奏したようだった。
「っていうか、お姉ちゃん、キスしたことないんだ」
不思議そうに呟く麻衣を、
「な‥‥‥っ」
一瞬、さやかの魂が抜けたような目が呆然と見つめて、
「なななんでそんなこと麻衣ちゃんが知ってるのッ!」
一瞬後、悲痛な叫びがリビングに木霊した。
『近い』どころではない。最早『悲鳴』そのものだ。
「自分で言ったんでしょ今! いいからお姉ちゃんはちょっと落ち着いて! はいお茶!」
麻衣のすごい剣幕に圧されたのか、
「は‥‥‥はい‥‥‥んく、ごくっ」
深呼吸の代わりに、ゆっくりと麦茶を飲み干す。
「‥‥‥で、遅いねえ、お兄ちゃん」
それから数分。
「そうねえ」
さやかはもう、すっかり落ち着いていた。
「早く来てくれないと、夕飯のメニュー決められないよ」
「それについてはいい案があるのだけれど」
「ん?」
「地球のポピュラーな家庭料理で、お箸使えるかどうかとかあんまり気にしなくていいもの。お魚が苦手な月人は多いけれど、そういう意味でも打ってつけ」
「あ、なるほど」
そこまで言ったところで、達哉がようやく姿を現した。
「さっきから騒がしいけど、何かあったの?」
「お邪魔します」
続いてシンシアがリビングに入ってくる。
肩の飾りと腰の帯を外してきただけのようだが、それだけの割に、随分と身軽になったように見えた。
「随分遅かったけれど、何をしていたの?」
「ああ、まあ」
まさか素直に『最近の月・地球事情のレクチャー』などと言うわけにもいかない。
「ええと、地球の食事のこととか」
「はい。いろいろ教えていただいておりました」
「そうですか‥‥‥なるほど」
邪気のないシンシアの微笑みに、ようやくさやかも安堵したように笑う。
「ではでは。お兄ちゃんから教わった中にこのメニューのことが入っているかはわかりませんが、シンシアさん」
さやかの人差し指のように、麻衣がおたまを振った。
「はい?」
「カレーライス、お好きですか?」
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