「あれ? おはようございます、さやかさん。今日は早」
声を掛けたミアなど視界にすら入っていない様子で、
「って、あれ? さやかさん?」
片手で持っていた何かを開けた冷蔵庫に突っ込むと、
「あの‥‥‥さ、さやかさん?」
そのまま、さやかは二階へ引き返していった。
それからしばらく経って。
「ああ、ミアちゃんおはよ」
階下へ降りてきた麻衣が、キッチンで遭遇したのは、
「‥‥‥って、うわあ! 何この音?」
「ま、麻衣さん! さやかさんが‥‥‥さやかさんが‥‥‥」
泣きそうな顔のミアと、旧式の黒電話がどこか遠くでずっと鳴り続けているような、耳障りな音だった。
「え、お姉ちゃんがどうかしたの?」
「あの、先程起きてこられまして、冷蔵庫に」
「冷蔵庫に?」
言われるまま、冷蔵庫に近づくにつれて、あの耳障りな音がどんどん大きくなっていく。
「ミアちゃん‥‥‥さっきから気になってるんだけど、これ、何の音なの?」
「で、ですから、さやかさんが」
ミアの発言はいまひとつ要領を得ない。
「開けても大丈夫かな?」
「大丈夫だとは思いますが‥‥‥でも‥‥‥」
不用意に冷蔵庫の扉を開けた麻衣を襲ったのは、ごく狭い空間の中で幾重にも反響を重ねた、目覚まし時計の咆哮であった。
「ちょ‥‥‥っ! こんなところに、なんでっ!」
目を瞑り、片手で片耳を塞いだまま、手探りで棚の中を漁り、手に触れたそれを冷蔵庫から取り出した。
広いキッチンへ移動しただけで、音量は普通の目覚まし時計くらいまで下がった。
すかさず時計の後ろのスイッチをかちんと操作。
途端に静まり返ったキッチンで‥‥‥それでもふたりはしばらくの間、自分の耳を押さえたまま、怯えたように立ち尽くしているしかなかった。
「これって、お姉ちゃんのだね」
改めて、手の上の目覚まし時計をしげしげと眺める。
「ええ。ですから、先程起きていらっしゃいまして」
「起きていらっしゃいまして?」
確かにそれは、誰がどう見ても、さやかが部屋の脇机に置いていた目覚まし時計であるのだが。
「その時計をですね、冷蔵庫の中に」
ミアがまっすぐに右手を伸ばしてみせたのは、
「こう、ずぼっと」
「ずぼっと?」
それが、さやかが冷蔵庫に時計を突っ込んだ仕草、なのだろうか。‥‥‥ずぼっと。
「何を入れたのかと思って、私も冷蔵庫を開けてみたんですが、ちょうどその時、その時計が鳴り出してしまいまして」
「ふむふむ」
「それで、その‥‥‥音の止め方がわからなかったのと、大きな音に驚いてしまったのとで、あの‥‥‥」
「取り敢えず、冷蔵庫のドアをそのまま閉めちゃった、と」
ようやく見えてきた事態の全貌があまりにも馬鹿馬鹿しくて、呆れ顔で麻衣は溜め息をついた。
「お騒がせして申し訳ありませんでした‥‥‥」
真っ赤な顔を俯かせたミアが、蚊の鳴くような声で謝る。
「ううん、ミアちゃんが謝ることなんてないよ。変なことやってるのは全部お姉ちゃんで、ミアちゃんは被害者。そうでしょ?」
「それはそうなんですが」
「それより、一緒に朝ごはん作ろ、ミアちゃん!」
「‥‥‥はい!」
嬉しそうにミアが頷く。
「んー」
手の甲で頻りに目蓋を擦りながら、さやかがキッチンに姿を現わす。
先刻ほどではないが、普段のペースを考えれば、これでもいつもより大分早い。
「おはよう、お姉ちゃん」
「あ、おはよう麻衣ちゃん。ミアちゃんも」
「おはようございます」
「うーん‥‥‥」
何か探してでもいるのか、そわそわとあたりを見回す仕草。
「そうだお姉ちゃん、特濃緑茶作ってあるよ。こっちこっち」
冷蔵庫のすぐ脇から麻衣が手招きする。
「ああ、ありがとう」
どこか頼りない足取りで、誘われるままに歩いてきたさやかは、さりげなくその場を離れたミアと入れ替わるように、冷蔵庫の扉の前に立った。
「今出すからねー」
小さく扉を開けて。
中でかちゃりと音がして。
一気に目一杯まで扉を開け放ち、麻衣は飛び退るようにその場を離れる。
あっさりと罠に掛かったさやかを襲ったのは、ごく狭い空間の中で幾重にも反響を重ねた、目覚まし時計の咆哮であった。
一度立ち会えば流石に慣れるのか、さやかの横から手を伸ばした麻衣が時計を取り上げ、その音を止めた。
さやかはまだ、腰が抜けたようにその場にへたり込んで、両手で耳を塞いでいる。
「お姉ちゃん、なんでこんなの冷蔵庫に入れたの?」
「え? 私が?」
「ん。ミアちゃんが見てたんだって。今朝ね、自分で降りてきて、冷蔵庫にずぼっと」
「‥‥‥どうして?」
不思議そうに、さやかが首を傾げる。
「わ・た・し・が・聞・い・て・る・の。今の音、凄かったでしょ? 朝、まだミアちゃんしか起きてない時にこんな風になっちゃって、ミアちゃん可哀想だったんだからね?」
「え‥‥‥でも」
さやかはまだ釈然としないらしい。
だが、現在さやかの手の上にあるものは、どこからどう見ても、自分で買って部屋の脇机に置いた目覚まし時計だ。
「そういえば確かに今朝、この時計が見当たらなくて、少し探したんだけど‥‥‥どうしてこの時計がこんなところに」
「だーかーらー」
さやかがそうするように、麻衣はその指をぴっと立ててみせた。
「これは、誰の時計ですか?」
「私のです」
「お姉ちゃんが自分で持ってきたんじゃなかったら、この家の中に誰か泥棒がいるってこと?」
「う‥‥‥違うと思います‥‥‥」
「だったら。憶えてなくて納得いかないのもわかるけど、でも、ミアちゃんには言わなきゃいけないことがあるでしょう?」
立ち上がったさやかがミアに向き直り、
「‥‥‥ごめんなさい、ミアちゃん」
ぺこり、と頭を下げた。
「いっいえそんな、わたしは大丈夫ですからっ」
そんな態度に出られるとミアの方が取り乱してしまう。
「はい、それじゃこの話はおしまい。さ、お兄ちゃんとフィーナさん起こして、朝ごはんにしようよ」
そしてようやく、朝霧家のキッチンに、いつもの平穏な朝が到来した。
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