夏休みの校舎は閑散としている。
昼時の部室はほとんど貸し切りに近い状態だった。
雲ひとつない、抜けるような真夏の青空を横切る鳥を見つめて、
「あー‥‥‥どっか遠くに行きたいなー」
麻衣は不意にそんなことを言った。
「もしもーし。誰か来てるー? 入るよー?」
ノックの音、引き戸が開く音に続いて、
「って、あれ? 何ひとりで黄昏てんの?」
背中の後ろから翠の声が聴こえてきた。
「あ、こんにちは遠山先輩」
のそりと振り返って麻衣が答える。
「今日はどうしたの? 自主練?」
「いえ。今日はちょっと、譜面取りに来ただけで」
「なんだ、わたしと一緒か。感心な後輩だなあって、誉めてつかわそうかと思ったのに」
「まあ、コンクール終わったばっかりですからね」
「今年もゴールド金賞だって? おめでとう」
「はい。でも支部大は遠いですね」
「そこは残念だけど、出られるだけマシかもよ? 満弦ヶ崎大、オケ部はあるけど吹奏楽部ないから‥‥‥毎年夏は一生懸命だったのに、大学行ったらいきなりコンクールなしっていうのも、何かちょっと寂しいな、って」
吹奏楽部の部員、という肩書きを持つほとんどすべての人々にとって、夏といえばコンクールである。大概はそこまで休みなしに猛練習を続け、それが終わるとようやく夏休みらしくなる、というパターンが多い。
そしてこの時にはまだ、吹奏楽部の面々が遅い夏休みに突入してから、まだ何日も経っていなかった。
「どう麻衣、最近家で練習してる?」
「ちょっとだけですけどね。それで、今ホルダーに入れてる譜面ばっかりじゃなくて、たまには違うのも適当にやってみようかな、って。今は急いでないですし」
「それでわざわざ譜面取りに来たんだ?」
「はい」
「そっかー。やっぱり麻衣は感心な後輩だー」
えらいえらい、と呟きながら、翠は麻衣の頭を撫でた。
「でも先輩は当然ですよね? 先輩なんですから」
意地悪そうな表情を作って、まるで当たり前のように、心にもないことを麻衣は答える。
「‥‥‥うう、誉めてくんないんだー」
半分笑いながら、翠は涙を拭う振りをする。
「えへへ、嘘です。ごめんなさい」
えらいえらい、と呟きながら、あっという間に意地悪を引っ込めた麻衣も翠の頭を撫でた。
「それで、なんで黄昏てたの?」
「え、そんなことないですよ? わたし、黄昏てるように見えました?」
麻衣は元気な風を装ってみるが、
「ん。今は違うけど、わたしが部室に入った時は、ね」
やはり、翠にはあっさり見抜かれてしまう。
「そうですか‥‥‥さっき、外見てたら鳥が飛んでて」
ひとつ息を吐いて、麻衣は話を続けた。
「あんな風に、どっか遠いところへ飛んで行っちゃえたらいいなー、って」
「‥‥‥あんまり上手くいってないんだ?」
頷きたくなさそうに、麻衣は小さく頷く。
「上手くいってない、って言うほどのことじゃない、って思うんです。例えば、商店街のおじさんたちの中に、時々妙によそよそしい感じの人がいたり‥‥‥ああ、やっぱりまだ、あんまりよくは思われてないのかな、とか。そういう、ひとつひとつは小っちゃいことなんですけど、気になっちゃう時は、ちょっとだけ、そういう風にも」
「そっか。辛いね、麻衣」
今、麻衣と達哉は、茨の道の途上にいる。
ずっと兄妹として育ってきたふたりが、これからは兄妹でない形で未来を分かち合うことにした。‥‥‥口でそう言うのは簡単だが、兄妹であった頃のことを皆がまだ憶えている。十年以上も掛けて積み上げてきたものが、一年くらいで覆せる筈もない。
それでも、周囲の雰囲気が変わっていくことについて、達哉や麻衣には『意外に早かった』印象があるという。
それもまた、彼らがそれまでの十年以上をいい加減に過ごしてこなかったことの証左といえた。彼ら自身の真剣さは、伝わるべき相手にはきちんと伝わっているのだ。
だが、それがわかるだけに、ほんの些細な違和感が、喉に刺さったままの小骨のように気に掛かってしまう。
「そんな時に、朝霧君は何してるの?」
「ずっと左門でバイトです。真剣なんだってとこを見せないとって、頑張ってるのも‥‥‥わたしと同じで、どっか焦ってる気持ちがあるんじゃないかなってことも、何となくは、わかってるんですけど」
多分達哉も、その胸のどこかを‥‥‥麻衣と同じどこかを痛めているのだろう、と麻衣は思う。
だが、麻衣がそう思うだけで、本当にそうかどうかを確かめられずにいるもどかしさが、切ない黄昏に麻衣を追い込んでいるのだった。
「情けないなあ朝霧君はもうっ」
両手を腰に当てて、翠は少し胸を反らす。
『遠山さんは怒ってるぞ』のポーズだ。
「そんなの、いちばん大事な人の気持ちを放ったらかして、バイトに逃げ込んでるだけじゃないの」
「そんな、そんなことないですよ。お兄ちゃんだって、みんなに認めてもらえるようにって必死で頑張って」
「でも! 鳥みたいにどっかへ‥‥‥誰もいない、苦しくないところへ飛んで行っちゃえたらなんて、朝霧君と麻衣はね、お互い、相手にだけは絶対そんなこと言わせちゃダメなの!」
思わずエキサイトしてしまうのも、翠が真剣にふたりを案じているから、なのだろう。
そうして頼もしい味方になってくれる人もたくさんいる。ふたりの苦しみは決して無駄ではなかった。
「‥‥‥よーし」
棚から持ち出した譜面を鞄に仕舞うと、やや目の据わった翠が肩をぐるぐる回した。
「帰ろう麻衣。今すぐにでも朝霧君とっ捕まえてギャフンと言わせてやらなきゃ。それで麻衣、コンクールも終わったんだし、ふたりでどーんと海でも行っちゃいなさい。バイトなんか休んじゃえ休んじゃえ」
「そ、そんな遠山先輩わわわっ」
「休んだ何日かで朝霧君が稼ぐくらいのバイト代なんかじゃ、ふたりの気持ちは買えないの! ほら行こう!」
まだ戸惑っている麻衣の腕をぐいぐい引っ張って、翠は部室を後にする。
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