実は、
「自分で働くようになるまで知らなかったよ。誕生日休暇のことなんて」
文字通り『誕生日当日は休んでよい』という意味合いの『誕生日休暇』という制度が、王立博物館にも月王国大使館にも、随分と昔からあったのだった。
「姉さんはずっと前から働いてるのに」
不思議そうに首を傾げる達哉に、
「ええ。だって私、今までに一度もそれでお休みしたことはなかったもの。だから確か、あなたにも麻衣ちゃんにも言ったことはないと思うわ」
まるで何でもないことのように、さやかはしれっと答える。
「本当はね、私は明日も、お休みはしないつもりだったんだけれど‥‥‥一昨日だったかしら。仕事が滞ってもいいから、命令されたと思って、今度のお誕生日にはお仕事を休んで頂戴、って言われちゃって」
「命令、って」
二度目の留学から戻ったさやかは、元の役職、つまり王立博物館の地球における最高責任者である『館長代理』として業務に復帰した。
その『館長代理』に何か命令できる職権を持つ者はといえば、ただひとりをおいて他にない。つまり、
「フィーナが?」
おいそれと月から離れられないために地球在住者に全権を委任せざるを得ない、スフィア王国王女殿下にして真の『館長』たるフィーナ・ファム・アーシュライトその人であろう。
「ええ。‥‥‥もちろん熱心なのはよいことだけれど、館長代理のあなたがそんなことでは下の者が休暇をとりづらくなってしまうかも知れないわ。そういった風土があることは、そこで働く者にとって必ずしも幸福なこととは言えないのではないかしら」
わざとらしく顰めつらしい顔を作って、フィーナの口振りを真似てみせる。
あまりに有能で勤勉な部下を持った上司にも、それはそれで相応の悩みはあるものらしかったが‥‥‥でも本当は、そう言った時のフィーナは、きっと苦笑いでも浮かべていたのだろう。
「ぷっ」
達哉にはそれがわかるから、目の前にいるさやかの表情と脳裏のフィーナとのギャップに、つい吹き出してしまう。
「それでね、明日はお休みなのよ。だから」
「久しぶりに、思いっきり夜更かししても大丈夫?」
俄かに熱を帯びる視線を微妙に逸らしながら、冗談めかして達哉が誘う。
「ふふっ。どうしたのかしら? 顔が赤いわよ、達哉くん?」
そんな達哉をわざと子供扱いして、人差し指で頬などつついてみせるが、そう言うさやかも既に、ほんのりと顔を赤らめてしまっている。
「そうね。明日やることはもう決まっているけれど、少しくらいなら寝坊しても大丈夫かしら」
「そっか‥‥‥でも俺、そんなの全然知らなかったから、明日は普通に仕事」
「知ってるわ」
「って、うわっ」
達哉の首元を両腕で抱え込んだまま、さやかは仰向けに自分のベッドへ倒れた。引き倒された達哉の方が、まるでさやかをベッドに押し倒したような格好になってしまう。
「その話の続きは、明日起きてから。ね?」
その耳元に小さく囁く言葉が終わらないうちに、今度は達哉の唇が、さやかの唇を塞いでしまった。
普段なら、家族三人の中ではさやかの出発がいちばん早い。
だから、普段と同じ時刻に出掛けていく達哉と麻衣を見送るのは、さやかとしても何だか不思議な気分だった。
「あふ‥‥‥」
明けて三月六日。
小さな欠伸を玄関口に零して、ダイニングに戻ったさやかは、湯呑みのお茶に再び口をつける。
芸能人の誰それが交際するとかしないとか、テレビのワイドショー番組は朝から賑やかに他人の秘密を暴き立てているが、ぼーっと眺めているさやかの頭には、それらの情報はちっともインプットされていない。しばらくはそうしていたが、そのうち手元のリモコンでぱちぱちとチャンネルを変え始め、どこの局も似たり寄ったりだとわかると、結局テレビの電源を落としてしまう。
「何もしなくていいっていうのも、手持ち無沙汰なものね」
急に静かになったダイニングに、さやかの声だけがやけに響く。
先程までのテレビなどよりは余程熱心に、壁の時計をじっと見つめた。
昨日のうちに伝え聞いていた時刻にはまだ少し早い。
だが、
「行こうかしら」
湯呑みを空にして、さやかは立ち上がる。
それぞれを個別に見れば、ひとつひとつはごく普通の、見慣れた格好と、見慣れた人の姿ではある。
だが、それが直接組み合わさったものを目にしたことは、さしもの朝霧兄妹であっても、今までに一度もなかった。
だから。
「いらっしゃいませ」
‥‥‥その晩。
いつも賄いに集まる時刻よりも少し早く、まだ営業中の左門へと呼び出された朝霧兄妹は、
「へ?」
「お、おっ、おっ」
玄関をくぐった途端に想定外の事態に遭遇し、暫くは二の句も告げないまま、阿呆のように口をぱくぱくさせるばかりであった。
「お席の方までご案内いたします。お客様は二名様でよろしいですか?」
「って、お姉ちゃん! なんで? なんでお姉ちゃんがウェイトレスなんかしてるの?」
ようやく我に返った麻衣が捲し立てるが、
「お席へどうぞ、麻衣ちゃん」
そんなご新規二名様に、ウェイトレスはやわらかく笑いかける。
「あ、はい‥‥‥お兄ちゃん?」
歩きながら、麻衣が達哉の袖を引っ張る。
「いや、こんなの、俺も全然知らなくて」
達哉はまだ、先程の放心状態に片足を突っ込んだままであるらしい。
窓際の席に通されたふたりの前にレモン水のグラスを置き、メニューを差し出し、
「お決まりになりましたらお呼びください」
綺麗に一礼して踵を返すその姿をぼーっと見つめて、
「‥‥‥綺麗だな」
我知らす、達哉はそんなことを呟いた。
「はいはいごちそーさまでしたー」
何か誤解したのか、あるいは敢えて誤解したかったのか、どこか意地悪そうな顔の麻衣が肩を竦める。
「いや、あの、惚気てるとかじゃなくて」
「ん?」
「姿勢とか、トレイ持ったままお辞儀とかさ、そんなの当たり前みたいだけど、本当は見た目ほど簡単じゃないんだ。初めて‥‥‥なのかどうかわからないけど、姉さん、そういうのがすごく綺麗だなって」
達哉の言葉に込められた経験の重みには、充分な説得力があった。
「ああ‥‥‥んー、よくわからないけど、すごーく大きい括りでいったら博物館も接客業だから、お姉ちゃんのお仕事にも通じるものが何かあるんじゃないかな。そりゃ、お盆持ったり、館長さんがお客さんにしょっちゅうお辞儀とかはしないかも知れないけど、偉い人にはたくさん会うんでしょ?」
「うん。確かに、そうかも知れないな」
メニューを開くのも忘れて、ふたりはさやかの姿ばかりを目で追う。
まったく危なげのないその仕事振りには感嘆するばかりだ。
「昨日だったかな」
「うわびっくりしたっ」
いつの間にか達哉の背後に立っていた仁が、そんなことをぼそりと呟く。
「お誕生日にプレゼントが欲しい、なんて突然言うから何かと思ったら、明日一日空いてるからウェイトレスをやってみたい、と。それで、基本的な動きのことだけ今朝のうちに少し確認して、後はもう、ずーっとあの通り」
「え? ちょっと、ずーっとあの通りって、まさか」
思わず麻衣が向き直る。
「そう。ランチの時間に開店してから今まで、大体ずーっとあの通り」
「うわやっぱり‥‥‥せっかくお休みだったっていうのに、お姉ちゃん全然休んでないよ‥‥‥」
その脳裏を過ぎった嫌な予感を、仁はあっさり肯定した。
「気分転換にもなるし、ってさやちゃんは言うんだけどね。正直、気分転換くらいであそこまで完璧にこなされちゃ、本職としてはたまらないものがあるよ」
「‥‥‥気分転換、ですか」
ものすごい人に見初められたものだ、と達哉は改めて思う。
「いやはや、とんでもないお嫁さんをもらってしまったものだね達哉くごっ」
余計なひとことを付け加えようとした仁が突然その場に崩れ落ち、
「ご注文はお決まりですか?」
一瞬前まで握っていたしゃもじをエプロンの下にたくし込みながら、仁の真後ろに現れたさやかが笑う。
「とはいっても、あなた方は注文しなくていいんだけれど」
反対側の手には丸盆、その上にはオレンジジュースのグラスがふたつ。
これだけのものを持ったまま、しゃもじで仁を沈めてみせたのだ。どうやら、菜月張りのしゃもじ兵法すら、この僅かな間に会得してしまったらしい。
「え? お姉ちゃん、注文しなくていい、っていうのは」
「今日はもうじき閉店でしょう? いつもと同じお食事があるそうだから、もう暫く待っていてね」
そう言い置いて、別の卓の接客へ戻っていくさやかの背中を、達哉は見つめている。
「お兄ちゃん、嬉しそう」
そんな達哉を見つめながら、麻衣は不安そうに呟いた。
「へ?」
「心配じゃないの? 結局、お姉ちゃん全然休んでないよ?」
「それは確かにそうなんだけど」
つられたように眉を顰めたのも一瞬のことで、
「でも、いいんじゃないかな。本人がすごく楽しそうだから」
達哉は笑った。まるで、自分が楽しいことをしているかのように。
「そっか。‥‥‥やっぱりわたし、お姉ちゃんのお婿さんになれるのって、お兄ちゃんだけだと思うな」
ふっと麻衣が相好を崩す。
「ま、麻衣、いきなり何を」
突然の攻撃に取り乱した様子の達哉の向こうでは、ちょうどさやかが最後の客を送り出したところだった。
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