THE TIME TO BLUE.  


  

 表の日差しとは裏腹の寒々しい中央連絡港。
 中にいるのは、三人ほどの黒服と、その中央に女性がひとり。さらに後ろ、出入口近辺で見張りに立ったふたりの黒服。
 女性は背中で両手を縛られている。縄の先を握っているのはすぐ後ろの黒服。忌々しげに彼女‥‥‥カレンが睨むが、サングラスの奥にどういう表情の変化があったか、カレンにはわからない。
 そんなことすら苛立たしくて、舌打ちをひとつ。
 かつかつかつ。冷たい靴音だけが辺りに響く。
 とにかく、このまま送還されるのは拙い、とカレンはずっと考えていた。
 月に着いたところで、昨日までのように厳重な黒服の監視下に置かれたままになることは目に見えている。いつフィーナが月に着くのかはわからないし、武官としての力添えどころか、その時に自分が自由の身である可能性すら限りなく低い。
 だが、だからといって、今からここを抜け出すこともできない。
 後ろ手に縛られたままでも、こんな黒服五人くらいなら倒せはするかも知れない。しかし中央連絡港の人の出入りはすべてチェックされている。これが密航であるならともかく、カレンは今、月王国による正式な手続きの上で連行されているのだ。出入国に纏わるシステムすべてを騙すことなど不可能に決まっている。不可能であるように、カレン自身が厳しく取り締まってきたのだから。
 埒もないことをぐるぐると考えるうちに、カレンを月へ送り返す船のハッチが目の前に迫った。
 地獄の淵を覗き込むような目で、無機質なハッチの奥を見つめる。
 すぐ後ろの黒服が手に持つ縄を引いた。
 早く乗れと言いたいのだろう。
 ‥‥‥万事休す、か。
 薄い唇から、小さな溜め息が零れた。



 それは、カレンと三人の黒服が、ハッチの中に足を踏み入れた途端のこと。
「何をぼーっとしている」
 言葉に続いて何度かの打撃音が響き、三人の黒服がその場に頽れた時、何が起きたのかわからないカレンは、ただひとり、そこに呆然と立ち尽くしていた。
 長きに渡って駐在武官を勤め上げてきた武人らしくもない、まったくの素人のように無警戒な、本当に、ただの棒立ちだった。
「え?」
 続いて、両手を縛る縄が解かれる。
「本当に大丈夫」
 訝しげな少女の声は、何もない空間から聞こえてくる。
「お前は‥‥‥リース!」
 ようやく話が繋がった次の刹那、カレンは抜刀の構えをとった。
 本物の刀が手元にありさえすれば、声だけのリースを今度こそ切り伏せていたかも知れない‥‥‥が、構えをとって初めて、自分が丸腰だったことを思い出す。
「はは。情けないな」
 本気で刀を振るっても取り逃がすのだ。
 何もなしでは勝負にならない。
 自分で呆れるくらい、今のカレンは無力だった。
「いいから」
 他人の心情などにはお構いなしのリースは、カレンの手に小さな箱状の何かを握らせた。
「このスイッチを押せば姿が消える。もう一回押すと元に戻る。ずっと使いっ放しでも半年はエネルギーが保つ筈。後でワタシに返すまで好きに使っていい。それで、この後カレンは、出口に立っている黒服に紛れて脱出して、姿を消したまま博物館へ行く」
「博物館?」
「今ここで、詳しく説明している時間はない。大体のことはサヤカに話した。大使館に落ちていた剣もサヤカに預けてある。受け取って」
「さ‥‥‥さやかを巻き込」
「うるさい」
 憤りのあまり大声を上げそうになる口が塞がれる。
「もうとっくにみんな巻き込まれてる。いちばん危ないのはサヤカじゃなくて、朝霧の家にいる人たち。ワタシが守ってあげたいけど、ワタシはこれからカレンの振りして月へ行くから、ワタシには無理」
 そのまま。
 ハッチの中から透明な足に蹴り落とされ、無様に床に尻餅をついたカレンの目の前で。
 カレンを乗せて飛び立つ筈の往還船のハッチが、ゆっくりと閉じていった。



 確かに、あのまま月へ送還されては拙かった。
 だが、いざこうして放り出されてみても、やはりカレンはそれを喜ぶ気になれずにいる。
 今はまだ騙し果せたことになっている。先程飛び立った往還船にカレンが乗っていないことを知る者はまだいない。しかしそれも、長くてもあと七時間のことだ。
 あの船が月に着けば、乗っている筈のカレンが実は乗っていないことが確実に発覚する。途中で下船などできないのだから、月に着陸してから逃亡したか、地球を離陸する前に逃亡したか、可能性はどちらかしかない。‥‥‥そういえば、リースに倒された黒服も船に乗ったままになっている筈だった。彼らの証言があれば、地球を離陸する前に何者かに襲撃されていたこともすぐにわかってしまう。
 いずれであれ。
 国王陛下の命に背いて役職を解任され、佩刀を許される特権も失い、そう遠くない未来には、月王国から追われる身となる。
 何の役にも立たないのみならず、傍らにいるだけで周囲に迷惑を振り撒いてしまう存在。
 逆臣。
 国賊。
 カレン個人にとって、あるいは武門に名立たるクラヴィウス家にとって、「駐在武官の次」の肩書きとして、それらの響きはあまりにも不名誉に過ぎた。
 かつて感じたことがないほどの喪失感がカレンの精気を根こそぎ奪い去っていく。
 今、姿を晦ませたこの状態のまま、カレンという存在そのものさえ、遠いどこかへ晦ませてしまいたくなる。
 自責の念だけで悶死してしまえそうな気にすらなる。
『今ここで、詳しく説明している時間はない。大体のことはサヤカに話した。大使館に落ちていた剣もサヤカに預けてある。受け取って』
 こんなカレンに、リースは確かにそう言った。
「どの面を提げて‥‥‥っ」
 吐き捨てるように呟いて、慌てて自分の口を塞いで。
 今、灼けた石畳に膝を突き、唇を噛みしめて、声を殺して泣いているカレンに気づく者はない。姿を消しているせいで太陽にまで見捨てられた彼女がそこにいることを示すものは、石畳に落ちる涙の雫だけ‥‥‥だがそれすらも、存在の痕跡が残るのはほんの束の間のことで、零れ落ちた側から見る影もなく蒸発し、目が痛くなりそうに青く高い、真夏の空へと還ってしまう。
 そうして。
 誰もいない筈の空間に、暫くの間、嗚咽の声だけが静かに聞こえ続けていた。



 いつものようにそのドアをノックをしようと思ったが、今は姿を消していることを思い出し、胸の高さまで上げた手を止める。
 上げている筈のその手が自分の目にも見えていないことにまた驚く。どうもこの感覚には簡単に慣れられそうにもない。
 それはともかく。
 カレンはまず周囲を見回し、それからもう一度、何故か半開きのままにされているドアを見た。
 少し考える。
 ‥‥‥リースは先程、大体のことはサヤカに話した、と言っていた。
 駐在武官の職を解任されたこと。
 今日、月へ強制送還される筈であること。
 しかしカレンは今日、これから、ここへ自分の剣を取りに来るであろうこと。
 恐らくさやかは、その辺りまでは知っている。
 だから多分、普段はきちんと閉じられている筈のドアが少し開いたままになっているのは、ノックはいいからそのまま入ってきなさい、というさやかの気遣いと考えていいのだろう。
 ノックの音。ドアノブが開く音。‥‥‥まったく音をたてず、誰かがここへ入ったことを館員の誰にも悟られずに、人目に触れてはならない人間が館長室に入るためには、最初からこうなっている他にない。
 ありがとう、さやか。
 誰にも聞こえないように感謝の言葉を述べて。
 別れの挨拶を済ませるべく、開いたドアの隙間から館長室に滑り込む。



 館長室の中で、相変わらずさやかは何やら楽しそうに机に向かっていた。
 さやかがそうしているだけで、この館長室だけは普段と何も変わらないように思える。
 違うとすれば。
「暗い?」
 見回してみると、何故か窓のカーテンがすべて閉じられていた。今は昼間、いつもならカーテンは開けてある筈の時間帯だ。
「カレン? カレン、来たのね?」
 机から顔を上げたさやかが、姿を消している筈のカレンが立つ場所をじっと見ている。
「な、何故」
「姿を消してる時に喋っちゃダメよ」
「あ‥‥‥」
 思っただけのつもりだったことだが、口に出してしまっていたらしい。見えない顔で赤面する間にも、席を立ったさやかが重いドアを閉じ、鍵を掛けて戻ってくる。
「もう大丈夫よ、カレン」
「ええ」
 姿を見せた途端、さやかはカレンに抱きついた。
「あなたが無事で本当によかった」
「あ、さやか」
「よしよし」
 カレンの頭をさやかが撫でる。
 何故だか、妙に安心する。
 ここに自分がいるということを、さやかによって許されている、ような気がしてしまう。
 ‥‥‥ずっと許されたままでいたい気持ちを抑えて。
「それよりさやか。リースからは何を」
 さやかがどこまで知っているかを確かめねばならない。
 まだ手遅れでないなら、この先に踏み込み過ぎないよう、注意を促さねばならない。
 カレンは強引に話を戻した。
「それなんだけど‥‥‥」



 リースがさやかに説明した話は、要約するとこういうことになる。
 昨日、フィーナと達哉はセフィリアの探していた遺跡を見つけた。ふたりは今、その遺跡の中に籠もっている。遺跡の機能を起動しないと出入口が外からは見えないので、そこにいれば取り敢えずは安全らしい。
 ここでいう遺跡とは、物見の丘公園の塔のこと。
 その正体は、地球と月の間で物資や人間を受け渡すための施設。だから、元来の使い方を月と地球の両方が守っている限り、それは兵器などではない。
 だが、地球の遺跡と月の遺跡、両方を連携して動かさないと、打ち上げた荷物が上手く受け止められない。月と地球で起きた戦争の折にはその性質が悪用された。受け止める機能を持った施設でなく、市街地に向けて荷物を打ち出すことによる攻撃を双方が行い、結果、両方の星に文明が後退するほどの爪痕を残す。
 だから、そういう風に使えば、それは兵器でもある。
 悪用すれば兵器にもなることを承知の上で、フィーナは遺跡を今後の交流に役立てようとしている。
 そのため、遺跡を破壊するために近づいたリースと口論になり、
「言い負かされたって言ってたわ、リースちゃん。すごく悔しそうだった」
 そう言うさやかはとても嬉しそうだった。
 きっとその時も、嫌というほど目一杯、リースの頭を撫でたのだろう。
 ‥‥‥遺跡を使うためには、地球と月の遺跡を同時に起動しなければならない。月の遺跡を動かすため、カレンを送還する船を使ってリースは月へ向かった。
「それで今日、リースは私を」
「そういうことね。ついでにあの女を逃がしてくる、本当は嫌だけど、ですって」
「それはこっちの台詞よ」
「でも、リースちゃんのおかげで、月に戻されないで済んだのは事実でしょう?」
「う‥‥‥」
 月の遺跡を起動するのは明日の正午。
 同時に地球でも遺跡を起動すれば、カプセルに入る程度の物資なら、すぐにでもやりとりができるようになる。
「でも、遺跡を起動してどうするつもりなの? 送りたい荷物など別にないのでは」
 首を傾げるカレンに向かって、
「きっと、最初のお荷物は達哉くんよ」
 とんでもないことを簡単そうに口にする。
「な‥‥‥っ」
「フィーナ様はすぐにでも、セフィリア様が探していたものの正体について国王陛下に報告したい筈よ。でもそのためには月へ戻らなければならない。何も抵抗しさえしなければ、フィーナ様ひとりなら空港から往還船で月へ戻れるでしょう。でも達哉くんはそうはいかないわ。どんな危害を加えられるかわからないし、そうでなくても、達哉くんはきっと往還船には乗せてもらえないもの」
「いえ、それなら、これを使って往還船に潜り込めば」
 ポケットから出した小さな装置。
 これを使えば誰でも姿を隠すことができる。
「そんな姑息なやりかたをフィーナ様が許す筈ないじゃない。ふたり一緒に正面から乗り込む。それができないならひとりで帰る。どちらかしかないと思うの。そしてフィーナ様は、ひとりで帰ることを選ばないわ。だとすれば、自分で思いつくか達哉くんが先に言い出すかはわからないけど、少なくとも達哉くんだけは遺跡を使って月へ移動することになる。他に方法がないもの」
 確かに、カレンのよく知るフィーナは、そういうものの考え方をする姫君であった。



「大体、こんなところね」
 話が終わったらしい。
 一息ついたさやかが緑茶の湯呑みに手を伸ばす。
「そう‥‥‥」
 何か愕然としたような顔のカレンは、湯呑みを持ったまま、先程から小揺るぎもしない。
 明らかに手遅れだったからだ。
 今更、踏み込むも踏み込まないもない。既にこれだけ事情に通じているようでは、さやかはもう引き返せない。
 何も知らずにいれば関係ないまま過ごしていけたかも知れないさやかに、よくもこれだけぺらぺらと‥‥‥頭の中でだけ、カレンはリースに呪詛の言葉を吐いた。
「ねえ、カレン。私ね」
 何かを言いあぐねている様子を察して、さやかが先に口を開く。
「達哉くんに聞かれたことがあるの。『月と地球が戦争になったらどうする?』って」
「達哉さんから?」
「ええ。ちょうどその時、フィーナ様がカレンに遺跡の調査を止められて、それでも続けるつもりのフィーナ様とどう接したらいいのか、自分を見失っちゃった頃のことだったのね」
 何も言えないカレンに、さやかは笑いかける。
「私は答えたわ。その時じゃなくても、そう聞かれたらいつも同じことを答えると思うけど」
 大切なものを守るわ、誰を裏切ることになっても。
「多分、今がその時なのよ。だから、誰を裏切ることになろうと、私は私の大切なもののために、私にできるすべてのことをする‥‥‥そのためだから、たかが地球の、しかも他人の家族のために、『月を裏切れ』なんてことを、駐在武官様を相手に平気で言ったりもする」
 まったく、平気そうな顔ではなかった。
 今にも泣き出しそうな目元を僅かに眇めて、さやかはカレンを見つめる。
「さやか‥‥‥私はもう」
「このくらいの争いには勝てる、と示しておかなければ後が辛くなるわ。ここでフィーナ様が敗れては、月と地球の距離は本当に今までよりも遠ざかってしまう。そのために‥‥‥全力で戦って、それでも敗れたのなら仕方がないけど、フィーナ様が悔いなく全力で戦いに向かえない状況にだけはしてはいけない、と私は思うの」
 今、フィーナにとっていちばんの厄介ごとは、朝霧家と鷹見沢家の人々、そしてミアとカレンが、自分の剣が届く場所にいないことだ。
 彼女の父である王がそこまで卑劣なことを手ずから行うとは考えにくい。だが、黒服を差し向けてきたのは実際に王だったのだから、今は無制限に信頼してよい相手ではない、という覚悟もあって然るべきだろう。
 また、王がそれをせずとも、手柄に逸った貴族の誰かがそれを聞きつけて、同じような服を着た自分の部下にミアや朝霧家の人たちを誘拐させたらどうだ? 結果として娘が手元に戻るのであれば、汚れ仕事を買って出た臣下を王も無碍にはするまい。
「もしもそんなことがあっても、それでも節を曲げずに貫いてくれるなら言うことはないけど‥‥‥正面から堂々と挑まれた戦いならともかく、そういう姑息なことをする相手と戦った経験は、多分、フィーナ様にはあまりないのでしょう?」
 平常時ならともかく、今の腑抜けたカレンの頭ではまるで追いつけていなかった先の先にまで、さやかの推測は及んでいた。
 ‥‥‥もしかしたら、さやかは本当は、文官よりも武官に向いた人材だったのではないか。
 場違いな感想がカレンの脳裏に浮かんだ。
「カレンに危険な方の仕事を押しつけるのは本当に申し訳ないと思うわ。でも、敢えて言うけど、今は逆ではダメよ。駐在武官を辞めさせられたカレンが大使館やその周りに残っていても何もできない。私が今、慌てて家に戻っても、本当に戦闘が起きていたなら、そこで私にできることも何もない。だからカレン」
 この刀で、私たちの家を守って。
 机の脇に置いていたカレンの刀を、さやかは、カレンに差し出した。



 鬱々と。
「さやか」
 刀の鞘に伸びかけたカレンの弱々しい手が、躊躇うように、空中で震えた。
「何?」
「恐らく、今度ばかりはフィーナ様は敗れる。あらゆる状況がそれを示している。その後で肩入れしていた事実が明るみに出れば、職を追われるだけでは済まないかも知れない。さやかにはわかっている筈よ」
 国王である父の命に背いて遺跡の調査を続けたフィーナの立場は弱い。
 手段はともかく、達哉のやろうとしていることも密航。
 味方といえば、以前からその行動が問題視されていた密航者と、解任され、月へ強制送還される途中で逃げ出した元駐在武官。
 フィーナ付きのメイドがひとり。
 後は全部、何の権限も能力もない、地球の民間人。
 どう考えても不利。
 そんな簡単なことにさやかが気づいていないとは思えなかった。
「だから今ここで、私を捕らえて大使館に突き出しなさい。その上で、朝霧や鷹見沢の人たちには手を出さないよう約束させる。それがいちば」
 言い終えられなかった。
「あなたがいちばんに諦めてどうするの! しっかりしなさいカレン!」
「‥‥‥っ!」
 今までに一度も見たことがなかった‥‥‥本当に、本気で怒った顔のさやかが、カレンの頬を叩いたからだ。
「忘れないでカレン。この剣をあなたが持っていることの本当の意味を。背中を守ってくれるあなたのことを信じているから、いつだってフィーナ様は、他のいろんなことに気を取られずに、正面の敵とだけ集中して戦うことができるのよ。ここであなたが挫けてしまったら、それから誰がフィーナ様の背中を守るというの?」
 ぽろぽろと涙を零しながら、さやかは尚もカレンを睨み据える。
 正直、叩かれた頬はさほど痛くはない。
 だが、そうまでしてカレンを立ち直らせようとするさやかの心に触れた今は、その頬でない別のどこか、恐らくはさやかも同じように痛がっている何かが、堪え難い激痛に哭き喚いていた。
「私たちが今を踏み留まれなくて、そのせいで今回のことがダメになっても、それでもフィーナ様の理想が次には実現できる、って本当に思う? 為政者に失敗は許されないわ。だから、これがダメならフィーナ様に次なんてきっとない。そして、それでそのまま、月と地球の交流は終わりになってしまうかも知れないの。道を示すのが為政者の仕事でも、信じた為政者が示した道を歩くのは私たちの仕事なのよ? だから、これはフィーナ様と達哉くんがふたりだけで頑張れば済む戦いじゃない、私やカレンが自分の未来を掴み取る戦いでもあるって、カレンにだってわかってる筈でしょう?」
 力なく、ふわふわと浮いたままの手のひらに、半ば無理矢理、刀が載せられる。
 すぐにもそこから転がり落ちそうで、だが、転がり落ちずにそこにある、カレンの愛刀。
「大丈夫。私たちはまだ、誰も負けてはいない」
 その重たい、しかしよく馴染んだ手応えに触れた瞬間に、多分、カレンは何かを忘れた。
 それは恐らく、無力感や、敗北感や、そういったものが綯い交ぜになった、圧倒的な諦めの感情だ。
「だから、負けてもいないのにそんな弱気な逃げ口上なんて、カレンの口から聞きたくありません」
 もう一度。
 今度は自分の力で、手のひらの上でふらふら揺れる鞘を握り締める。
 忘れてしまった感情の代わりに‥‥‥吹き散らした霧の向こうに真夏の空が蘇るように、たった今まで心を占領していた大きな空白を見る間に灼き切ってゆく、蒼く輝く炎にも似た、もうひとつの想いの手応え。
 私は戦える。
 この刀で、私の力で、今でもまだ、守れるものがある。
「何も迷うことはないわ。大丈夫。だから戦って、カレン」
 月人として、スフィア王国の臣下としてでなく、
「あなたの信じたもののために、あなたの敵と戦って」
 セフィリア様が切り開き、フィーナ様が踏み出そうとする、月と地球の目指すべき未来を守るひとりとして。
 そうだ。
 道を示すに相応しい王を時に臣下が選びとるように、臣下にも、王が示したその道を共に歩むに相応しい力を持つ、と示さねばならないことがある。
 まさに今がその時だ。
 だから今は、ぐずぐずと泣き伏している場合ではない。
 ミアがひとりで支えていられるうちに辿り着けねば、すべてが水泡に帰してしまう。
 ぱん。‥‥‥両手で自分の頬を張って。
 それから、カーテンが開いていれば大使館が見える筈の窓に向けて、カレンは恭しく膝を突く。
「私の一命に代えても、朝霧、鷹見沢の両家を守ってご覧に入れます」
 ですから、フィーナ様も達哉さんも、どうか後顧の憂いなく、存分に国王陛下と対決なさいませ。
 ‥‥‥ご武運を。
「カレン・クラヴィウス、参ります」
 ようやく常の鋭さを取り戻したカレンを、
「行ってらっしゃい。気をつけて」
 まるで家族を家から学院へ送り出すように手を振って、さやかは館長室から送り出す。






 達哉とフィーナが残した書き置きを読んだだけで、ミアは自分がすべきことを諒解した。
 早速、隣の鷹見沢家に赴き、全員が非常用ブザーを持ち、何かあったら即座に鳴らすよう、また朝霧家の近辺で何か起きたらすぐに警察を呼ぶように言付けをする。
 教会の扉を蜂の巣にして破った狼藉者がいるとは既に聞いていたが、そういった騒ぎが揉み消せるのは、月人居住区の中で起きた騒ぎだからだ。
 居住区の外には地球なりの社会、地球なりの法執行機関がある。同じように朝霧家の玄関を蜂の巣にするような手段をおいそれと使ってくるとは考えづらい。
 お茶に混ぜた薬で、何も告げずに麻衣には眠ってもらった。黒服たちが朝霧家の家族構成や人間関係に精通しているとしたら、今いちばん危害を加えられる可能性が高いのは麻衣に違いない、と判断したからだ。だがその麻衣に細かい事情をすべて理解してもらう余裕はもうないし、何も知らずに襲撃を受けて取り乱されてもフォローしきれない。
 ミアにしても喜んでやっていることではないが、それ以上に麻衣の方が、こんな仕打ちに納得もいかないであろう。だが攫われてしまってからではすべてが手遅れだ。ここを乗り切れば償いに使える時間もある筈‥‥‥今はとにかく、無理にでもそう思っておくしかない。
 その麻衣は取り敢えず屋根裏部屋のミアのベッドに寝かせてあるが、天窓から侵入される可能性を考えると不安は残る。念のため、麻衣の居場所については再度検討すべきであることを頭の片隅にメモしておく。
 それから、夜を徹しての大掃除に取り掛かった。
 とはいっても大掃除とは名ばかりで、それは実際には、掃除に託けてこれまでミアが準備してきた数多の仕掛けに、仕上げの一仕事を加えていく作業である。それらの仕掛けはすぐにも作動する状態で置いておかれたものではないが、例えば吊るされた紐の先に台所用品を括って天井へ戻したり、廊下の両脇に設えられたフック同士を繋ぐように糸を渡したりするだけで、簡単なトラップへと早変わりする。
 ‥‥‥本当に、何の護衛も自衛の手段もない無防備な状態のままで、かつて戦争をしたこともある地球へ一国の姫君が降り立つ筈はないし、唯一の姫付きメイドであるミアがただのメイドである筈もないのであった。
 それも一通り済んだところで、小物入れの引き出しから青いリングを取り出す。
 普段着ている服の左腕に通された赤いリングと対の意匠を持つそれは、ある理由から、普段は身につけていないものだ。
「これは‥‥‥使わないで済むといいんですが」
 困ったように呟いて。
 青いリングの中に細い右腕を通す。それは二の腕の辺りでくるりと一回転し、それからは左の赤いリングと同じように、その場に‥‥‥服に固定されるでも何かに吊るされるでもなく、ただ、その場に浮かんでいる。
 認証システムにより、装着者は第一使用者と確認されました。起動処理を正常終了しました。遠隔打突兵装は基底待機を開始します。
 どこかで機械音声が囁く音を、あまり聞きたくなさそうにミアは聞いた。



 浴室へ続く脱衣所の硝子扉に凭れて仮眠を取っていたミアの耳に、イタリアンズの騒ぐ声が届く。
 まず、屋内の様子が変わっていないことを確認する。
 次いで鷹見沢の家に電話を掛ける。受話器を取った左門は『こっちの心配はしなくていい』と言ってくれた。
 時計を見る。
 もうじき夕方。普段なら夕食の支度を始めている頃だ。
 意外なほど長い間、黒服たちは何も仕掛けてこなかったことになる。
「‥‥‥人材難、でしようか?」
 苦笑混じりに呟く。こんなことで人材難が露呈するのは好ましいことではないような気もしたが、今だけはその方がありがたい。
 脅威となり得る物体の存在を至近以内に感知しました。隔壁兵装は基底待機から励起へ移行します。‥‥‥左腕の『赤』が回る。
 玄関先で呼び鈴を鳴らす者がいる。
 恐らくはその人物に向かって、イタリアンズは喧しく吠え続けている。
 頼もしい仲間たちであった。
 ミアは目を閉じて、静かに深呼吸を繰り返す。
 姫さまは今頃月を目指していらっしゃる。
 カレンさまも確か今日、月へ戻られた筈だ。
 だから今、自分以外に、この種の荒事を収める心得のある者はいない。
 多分、味方はイタリアンズだけ。
 孤立無援は承知の上。
 それは仕方のないこと。
 この国の警察が辿り着くまで、この家が何も失わないだけでいい。
 大怪我はさせなくていい。
 殺してしまう必要もない。
 だが多分、無傷では済ませられない、と思う。
 申し訳ないけれど、それも、仕方のないこと。
 第一使用者による使用の意志が確認されました。遠隔打突兵装は基底待機から励起へ移行します。‥‥‥右腕の『青』が回る。
「ミア・クレメンティス、行きます」
 次に目蓋を上げた頃、ミアの心に迷いは一切なかった。



「はい。どちら様ですか?」
 玄関先に顔を出したミアは、黒服のサングラスよりも早く、鼻面に突き出された銃口に直面する。
「国王陛下直属の者だ。無駄な抵抗は控えよ」
 小動物を視界に捉えた猛禽の舌なめずりのような下品な笑みが、黒服の口元に貼りついていた。
「なるほど、陛下のお使いの方ですか。お疲れ様です。では、このような往来に拳銃を持ち出す一大事、陛下のご意向が記された親書はもちろんお持ちですね?」
 だが小動物は怯まなかった。
「な‥‥‥そ、それは、大使館に」
 ある筈がない。
「それでは、大使館より親書をお持ちください。失礼ですが、それをお見せいただくまでは、どちら様もお通しするわけには参りません」
 そんな後ろ暗い行動に月王家が関係していると証明する文書など存在してはならない。仮に存在したとしても、彼ら如きが馬鹿正直にそれを持ち出してよい筈もない。
「いい加減にしろメイド如きが。お前らは黙って言うことを聞いていればいいんだ」
 銃口が額に押し当てられた。
 今度は脅し。
 ‥‥‥本当に人材難なんでしょうか?
 心の中でだけ、ミアは繰り返す。
「強がっても無駄だ。足が震えているぞ。恐いか? 恐いのだろう?」
 客観的な事実。
「はい。流石に、わたしも銃は恐いです。あなたは恐くありませんが」
 相反するようだが矛盾もしない、ミアにとっての真実。
「もしも陛下が、わたしたち家臣がそのような恫喝に屈するとお思いなのでしたら、月へお戻りになられた際には是非、見くびられては心外です、とお伝えくださいませ」
 遠隔打突兵装は開放待機に移行します。‥‥‥元から模様の少ないリングだから、目を凝らしてよく見なければそうとはわからない。だが確かに、いつの間にか二の腕から手首まで降りていた右腕の『青』は今、凄まじい速さで回転を続けている。
「貴様メイドの分際で陛下を愚弄するかっ」
「ですから、あなたが陛下のお使いで、わたしがあなたに従う必要があることを示す正当な証拠をお出しください。大体、わたしは確かにメイドの分際ですが、そう仰るあなたは一体どちら様でしょうか?」
 激昂した黒服が引き金に指を掛けるよりも半拍速く。
「ごっ」
 唐突に、黒服が仰け反った。
 予備動作も何もなく、ただ腕を軽く振り上げただけ、のような掌打だった。少なくとも物陰で様子を伺う他の黒服にはそう見えていた。しかも、もしかしたらその掌打は、身長差の著しい黒服の顎までは届いてすらいなかったかも知れない。
 しかし現に、下から顎を撃ち抜かれた黒服は、玄関先から道路までノーバウンドで叩き返され、捨てられた糸繰り人形のように、衆目に無様を晒すのみだ。
「僭越ながら、お集まりの皆様に申し上げます。こちらは現在、地球におけるフィーナ様の、そして姫さまの大切なご家族の皆さまのご寝所です。仮にもスフィア王国第一王女にして次期女王たるフィーナ様の宸襟を騒がせ奉ること、何人なりとも罷りなりません」
 そこで一旦言葉を切って、すう、と大きく吸った息を、
「立ち去りなさい狼藉者っ!」
 次のひとことで一気に吐き出し、言うだけ言ったミアはばたんと扉を閉じる。
 これで鷹見沢家から通報が行けば、後は警察が到着するまでの勝負。緒戦はまずまずの勝利といえた。



 しかし緒戦は緒戦でしかない。
 あるいはそれは、最初の黒服が間抜けだっただけ、でしかなかったのかも知れない。
 玄関から侵入した五名ほどの黒服のうち、いきなり居間まで引っ込んだミアを追わずに別の部屋の捜索を始めた二名は、巨大電話帳が飛来するトラップや超低空凧糸トラップ、台所用品が降り注ぐトラップ等の複合攻撃によって脱落。居間の窓から直接侵入しようと庭に入った二名は、実は繋がれていなかったイタリアンズの総攻撃に遭い、未だにその庭を突破できていない。
 当面、ミアにとっての難題は、居間に引き込んだ三名の処理、ということになる。
 後は彼らを別の部屋へ行かせなければいいのだが。
「これ以上の抵抗は罪を重くするだけだ」
 先頭の黒服が告げた。
「大人しく我々の指示に従え。朝霧麻衣嬢共々、悪いようにはしない」
 玄関先であしらった最初の黒服が如何に不真面目であったかを思わせる口調。
 最初の黒服が如何に実力の伴わない恫喝を行っていたかを思わせる威風。
 ‥‥‥いくらミアがロストテクノロジーの産物を使いこなせているとはいえ、このクラスの使い手を三名同時に相手にするのは分が悪い。また、壁を背にすることで背後からの攻撃を無視するのも考えのうちだったが、この状況ではミアの方が壁際へ追い込まれたのとさして変わらない。率直に言って、現状は不利であった。
「従えません」
 それでもミアは毅然と胸を張って、
「陛下の命でもか」
「わたし、ミア・クレメンティスがフィーナ様にお味方するのは、姫さまが王族だからとか、王族に与することでわたしが得をしたいからとか、そういうことではありません。姫さまが、姫さまだからです」
 ひとことずつを噛み締めるように、
「姫さまのなさりたいことの邪魔は誰にもさせたくありませんし、わたしも、邪魔したくありません」
 恭順の意志などないことを示す。
「それで、あの‥‥‥本当に、本当にお引き取り願えませんか? 先ほどの方はあれで済みましたが、今度は多分、そんな風には」
「是非もない。譲れないものは我らにもある」
「そうですか」
 初めて、ミアが構えをとった。
 やや軸を置いた右を心持ち前に。左は軽く引く。何かが動けば動いた方へ、即座に『青』を向けられる姿勢。
 先頭の黒服はナイフを抜く。特に構えはない。自然に立っているだけだが、それでいて隙はない。
 あとは、三人がどの順で、どのように掛かって来るか。ミアはその一点に意識を集中する‥‥‥が。
「えっ?」
 その黒服の後ろに控えたふたりは、ミアに掛かっては来なかった。
 慌てたせいで加減を忘れた最初の掌打が、居間を離れようと退がったふたりのうちの片方に突き込まれた。『青』のリングの能力で大幅に間合いを跳躍し、さらに幾重にも威力を増した掌底に突如脇腹を穿たれ、黒服のひとりが血の塊を吐いて悶絶する。さらに掌打。しかし今度は加減が過ぎたか、もう片方の黒服は苦痛に顔を顰めたのみで、そのまま居間から消えていった。
 この間に突き刺さる寸前にまで迫っていたナイフは、強引に間に合わせた左手首の『赤』が発する壁に阻まれた。歪められた空間と突き立てられたナイフの刃先が、ミアの目の前でぎりぎりと軋みを上げる。
 防いでは突き放し、を繰り返す間に、ようやくイタリアンズを振り払った二名が居間の窓を破って侵入しようと試みる。うち片方が横殴りに襲いかかる観葉植物の大きな鉢植えに撃墜されるが、残る一名は侵入に成功。
 再び二対一の劣勢。だが、ここに残ったふたりよりも、逃げたひとりが気にかかる‥‥‥唇を噛んだミアの耳を、黒服たちの耳を、異様な音量の警報音が劈いた。
 音に怯んだ黒服は、だが、ミアがその場所へ向かうことを許しはしない。
「しまった‥‥‥っ」
 多分、あからさまに『その奥にいる』とヒントを与えることを嫌い、敢えて格闘に持ち込みやすい居間に入ったのが失敗、なのだろう。
 裏を考えすぎてしまうのは、知識と技術に経験が伴わないアンバランスが裏目に出たせいだろうか。だがそんな実戦経験など普通のメイドには元来不要。ミアひとりを責めるのは酷というものだ。
 それに、今悔やんでも遅い。
 たったひとりで戦いながらでも麻衣の様子が確認できる袋小路、に他の心当たりがなくて、麻衣は今、水を抜いた浴槽の中へ移動させていた‥‥‥浴室の扉に仕掛けた警報装置が発するその音は、まるで朝霧家が敗北を嘆く声のように、ミアの耳を苛み続けた。



 『青』に撃たれた痛みに顔を顰めつつも、麻衣を担ぎ上げた黒服は玄関近くまで戻った。
 どうやら最初から薬で眠らされていたらしく、何の抵抗もされずに済んだのは幸運なことだ。
 後は取り敢えず、この娘を大使館まで運び込めば彼らの勝利で。
 唯一の敵だったあのメイドはまだ居間に釘づけの筈で。
 最早、彼らの勝ちは決まったようなもの‥‥‥なのに。
「制限も何もなく、ただ腕を揮えばよい状況にあれば、貴方たちの中に一対一でミアに敵う者はいません。持つことを許された装備をすべて自由に使えるのなら、いっそ命を絶つことの方が容易い筈です‥‥‥何故今、貴方は自分が生き永らえていると思うのですか」
 今、誰もいない玄関口から差し伸べられた、冷たいことの他には何ひとつ判然としない何かが、唐突に、黒服の首元に触れている。
「あの子は、できるなら誰にも傷ついて欲しくはないのです。それが貴方たちのような無法者であっても」
 たった今まで、目を凝らしても玄関越しの夕映えが眩しいだけだったそこに、人の輪郭が現れかけている。
「せっかく永らえた命、ここで散らせとは言いません。ですが麻衣さんは置いて行きなさい。私は」
 逆光を背負う誰かの影が長く長く伸び、その影までもが、黒服の足元にひたりと突きつけられる。
「自ら望んだことでないとはいえ、遍く月人の敬うべき至尊の冠に背いたこのカレン・クラヴィウスは、ミアのように優しくはありません」
 そして、ようやく確かな像を結んだ、そこに在ってはならない者の姿が湛えた冷冽極まる鬼気に‥‥‥ただひたすらに、黒服は圧倒される。



 倒れている黒服の頭を次々に蹴飛ばしながら、
「無事ですか、ミア!」
 先程の黒服のように麻衣を担ぎ上げたカレンが居間に入ってくる。
「カ‥‥‥な‥‥‥っ‥‥‥」
 そう呟きかけたきり、驚いたミアからは言葉の続きが出てこない。
 今日の往還船で月へ帰った筈の人が突然援軍として現れるなど、ミアにとってもまったく想像の範囲外だったのだから無理もない。
「麻衣さんは確保しました。さやかも無事で大使館にいます。他に、こちらに被害はありますか? ‥‥‥ミア?」
「はっ、はい! はい、特にありません。お隣は襲撃を受けていない筈ですし、それとこの家には多少ダメージがあるかと思いますが、ちょっと頑張ればすぐに元通りにできる程度です」
「貴女に怪我は?」
「大丈夫です、だっだだ大丈夫です!」
「そう。無事でよかった。‥‥‥それと、ごめんなさいミア。私につまらない迷いがあったばかりに、貴女に『青』まで抜かせてしまいました。そんなもの、きっと使いたくはなかったでしょう。本当にごめんなさい」
「そんな、ああっ顔を上げてくださいカレンさまっ!」
 さっきまで散々立派な口を利いていた筈が、今頃になっていつものように舌を噛み始めるミアと、そんなミアを見つめるカレン。
 居間に残った黒服ふたりなどまるで存在もしていないかのように、会話はその後もしばらく続いた。
「‥‥‥話はわかりました。では、後はこの侵入者を家から叩き出すだけ、ということですね」
 無造作にソファまで歩を進めたカレンが、眠ったままの麻衣を横たえる。
 ソファに駆け寄ったミアは麻衣の脈を確かめ、満面の笑みを浮かべてひとつ頷く。
 大丈夫。眠っているだけだ。



「よく‥‥‥よく持ち堪えてくれました、ミア」
 華奢な肩に手を置いて、ただひとことを紡ぎ出すだけで、視界が涙に霞みそうになる。
 カレンがひとりで間に合ったのではない。
 リースの力添えで危地を脱し、折れかけた気持ちをさやかに救われ、出遅れたカレンが駆けつけるまで、十人近い黒服を相手にミアが踏み止まっていてくれた。
 そのおかげで、カレンは今、いちばん確かめたかったことの答えを手にすることができた。
 ‥‥‥ああ、さやかの言った通りだった。
 さやかも。
 フィーナ様も。
 達哉さんも。
 ミアも。
 麻衣さんも。
 菜月さんも、左門さんも仁さんも。
 そして、この私も!
 本当に誰も、誰ひとり、敗れてなどいなかったのだ!



「以降、ミアはここで麻衣さんを守ることだけに集中してください。彼らを叩き出す役目は私が引き受けます。これだけの騒ぎ、この国の警察も黙ってばかりはいないでしょう。あと一息、気を引き締めて」
「了解しました、カレンさま」
「その『様』というのはもう‥‥‥それも後ですね。さて」
 向き直ったカレンの、凍てつくような言葉のすぐ下で、とうに沸点を上回った怒りと闘志が荒れ狂っていた。
「倒れた仲間を連れてお戻りなさい。今すぐに退けば、この国の警察が到着する前に全員で脱出できるでしょう。この無法の根拠が厚かましくも王命にあると言うからには、私の言葉の意味が当然わかりますね?」
 雷光の速さで鞘走った白刃の切っ先が黒服の眼前に止まる。その切っ先を払い、対決して本懐を遂げることを望む者は最早ない。
 ‥‥‥鳴り止んだ警報音と入れ替わるように、外からはパトカーのサイレンが聞こえてきた。






 その日の夜になって、麻衣が目を覚ましてから。
「なんか‥‥‥ええと、アクション映画、みたい?」
 取り敢えず揃って左門で夕食を済ませ、帰宅後に事情を聞きつつ置き手紙を読んだ麻衣は、
「ううん、それより‥‥‥お姫様と結婚するって、本当に、こういう事件が自分に起こるかも、ってことなんだね‥‥‥何だかちょっと、まだ現実味がないかも」
 実にしみじみと、そんなことを呟いた。
「本当に申し訳ありません麻衣さん!」
 その傍らでは、一服盛った張本人のミアが、さっきから平謝りに謝りまくっている。
「いいってミアちゃん、気にしないで。これじゃ、わたしが起きてたってお荷物が増えるだけだったよ、うん。自分でそう思うし」
「おっお荷物なんてそんなっ」
「っていうか、ミアちゃんって本当はそんなに強かったんだ。わたし全然知らなかったよ」
「あ‥‥‥すみません。その、それは、内緒にできればいちばんよいこと、でし、たので」
「はい。その話はそれくらいにしましょう」
 ぱんぱん、とさやかが手を叩く。
「調べてきたけど、二階は被害なし。でもミアちゃんが仕掛けたものは退かさないと危ないわね。それから一階だけど、明日一日頑張れば元通りになるでしょう。これくらいで済んでよかったわ。寝る部屋は大丈夫だし、しばらくは外に警察の人もいてくれるし」
「あの‥‥‥わたし、勝手にそんなことをして」
 さらに縮こまるミア。
「いいんだってミアちゃん。家族のためじゃない」
 最早泣き出す寸前のミアの手を麻衣が握る。
「そんなことより、わたしが狙われてた、ってことの方がショックかも。それってわたしが、人質にすればお兄ちゃんたちが言うこと聞きそうな人で、いちばん攫いやすい人ってことでしょ? それで、わたしひとりだけ何もできないで、本当にただ眠ってただけで。申しわけないっていうか、なんか、ちょっと悔しいっていうか」
「お気持ちはわかりますが、そう仰らないでください」
「でも、カレンさん‥‥‥」
「今はとにかく、ここにいる全員の気持ちがひとつであれば、それでよいと思うのです。そのためにできることが皆同じである必要はありません。ですから麻衣さんは、麻衣さんにできることを」
 諭すようにカレンが言う。
「‥‥‥そうですね。わかりました、それじゃわたしは取り敢えず、明日は家の掃除を頑張っちゃいます!」
「わっわたしもです! もう本当に頑張りますからっ!」
 普段から家事の多くを担当しているふたりがこの調子なら、荒らされた家の一階部分も、あっという間に元通りになりそうであった。



「さて。じゃあ後は、今晩からカレンがどこのお部屋で寝るか、だけど」
「え? いえ、私は自分の家に」
「馬鹿言わないの」
 カレンに向けて、さやかは人差し指を立ててみせる。
「フィーナ様が勝って戻らない限り、多分カレンはずっとお尋ね者のままよ? 捕まりに帰るようなものじゃない」
 大方カレンは、姿を消した状態のままで、どこかの軒先に野宿でもするつもりでいたのだろう。
 そんなことをさやかが許す筈もなかった。
「う‥‥‥いやしかし、だからといって、ずっとここにいては、さやかや麻衣さんにも迷惑が」
「はーい皆さーん、カレンが家にいたら迷惑だと思う人は手を挙げてくださーい」
 当然、誰も挙手なぞしないのであって。
 こういう丸め込み方はさやかの十八番である。
「いえ、さやか、これはそういう問題では」
「今日のところは達哉くんの部屋もフィーナ様の部屋も空いているし、私の部屋には客用のお布団も出してあるし、好きなところを使ってもらって構わないけど」
「それだったら、取り敢えずフィーナさんの部屋でいいんじゃないかな。女の人にいきなりお兄ちゃんの部屋、っていうのはちょっとアレだし」
「だから麻衣さん、そういう、あの」
「そうね。でも、その前にリースちゃんが帰って来ちゃうかも知れないわ」
「そうしたら、もうひとつ客用のお布団出して、わたしの部屋に敷いてもいいし。ね、カレンさん?」
「ね、って‥‥‥あの、皆さん?」
 カレンの危機意識は、徹底的に、無視され続ける。
 恐らくは、これから先もずっと。



 翌日、お昼前。
 リースが月の遺跡を動かすと言った時刻も近い。
「‥‥‥よし」
 刀の手入れを終えたカレンが、その刃を鞘に収めた。
「遺跡へ行くのね?」
「ええ。起動すれば出入口が見えるようになる、と聞いています。だとすれば、遺跡が起動したその瞬間から、フィーナ様と達哉さんは無防備のままで彼らの前に放り出されてしまう。お守りせねばなりません」
 本当の戦いは、月に着くまで始まりもしないのだ。
 こんなところでふたりを失敗させてはならない。
「わかったわ。でも気をつけて」
「ありがとう。それでは、私はこれで」
「こら。待ちなさいカレン」
「うわっ」
 行きかけたカレンの首筋をさやかが摘む。
「これで、じゃないでしょう。『行ってきます』は?」
「まだそんなことを」
「『行・っ・て・き・ま・す』、は?」
「‥‥‥い‥‥‥行って‥‥‥きます」
 気恥ずかしさに悶死しそうになりながら、真っ赤な顔のカレンが、蚊の鳴くような小さな声で呟いた。
「はい、行ってらっしゃい。‥‥‥もうカレンも家族なんだから、必ずまた、ここに帰ってくるのよ?」
 そう言って頭を撫でるさやかのみならず、
「行ってらっしゃいませ。ご武運を、カレンさま」
「行ってらっしゃい。あ、お兄ちゃんもよろしく」
 後片付けを中断し、そのためだけにわざわざ出てきたミアや麻衣にまで全力で見送られ、赤くなった顔が戻る暇もないまま、カレンはやや足早に朝霧家を後にして‥‥‥一度だけ、振り返る。
 あの家に。
 あの暖かいご家族のもとに、フィーナ様と達哉さんが戻られる日が来る。
 それが、おふたりが見事すべてを成し遂げての堂々たる凱旋帰還となることを願い、そうあるために、私にできるすべてのことをする。
 今はここにいないフィーナにでなく、朝霧家と、その手に握った刀と、目が痛くなりそうに青く高い、真夏の空に誓いを捧げた。
「カレン・クラヴィウス、参ります」
 そしてまた、カレンは走る。

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