「え‥‥‥ちょ、ちょっとさやか、ペースが」
「ん? 何が?」
呑み仲間としても付き合いの長いカレンが思わずそう声を掛けたくなるくらい、今日のさやかは初手から飛ばしていた。
「いえ、ちょっといつもよりペースが速いんじゃないかと」
「そうかしら?」
ごくり。
「大体いつも」
ごくごく。
「こんなもんじゃ」
大振りなジョッキになみなみと注がれた黄金色の液体が、言葉が途切れる度、目に見えて減っていく。
「ないかと思うけろ」
「えええ‥‥‥」
そして早くも語尾が怪しい。
「あ! そーだ乾杯しましょー乾杯! 後でもするけど今もしましょー!」
「それすらせずにとっとと一杯呑みきっちゃったのは誰かしら」
さやかの勢いに釣られて、慌てて口をつけただけのカレンのジョッキに関しては、まだ内容量に目立った変動はない。
「お待たせしました。枝豆と、それから今日のお通しです」
一方で、さやかのジョッキは既に中の液体をほとんど喪っているのだが‥‥‥なんと、今来たウェイトレスがそれぞれの前に置いた小鉢が『今日のお通し』であった。つまり今夜のさやかは、お通しが運ばれて来る前に一杯空けてしまったことになる。
こんなさやかは今まで見たことがない。
‥‥‥こういう行儀の悪い呑み方をするひとではなかった筈なのだけれど。
「えへへー。かんぱーい」
僅かに眉を顰めたカレンの手元に置かれたジョッキに、ほぼ空っぽのジョッキがかちんと触れた。
▽
およそ一時間後。
「ほらしっかりしてさやか。もう少しで家だから」
「ふに‥‥‥あーい‥‥‥」
返事のような、譫言のような。
「まったく、何をやっているのかしら」
眠気のせいで足腰立たないらしいさやかの様子は、カレンの肩を借りているというより、カレンにのし掛かろうと迫っている、と言った方が表現が正確であるかも知れない。
‥‥‥ああいう行儀の悪い呑み方をするひとではなかった筈なのだけれど。
相方が急にこんなことだったからか、呑んではいたがいまひとつ酔いきれずにいる頭の中を、再び、そんな疑問が巡る。
あの居酒屋の中では何も言わなかったが、何か余程嫌なことでもあったのだろうか。
「さやか、何かあったの?」
聞いてはいないだろうと思いつつも、声を掛けずにはいられなかった。
「何もないわよー。あるのはこれからー」
返答を聞く限り、何かあったようには思われない感じがするのだが‥‥‥そもそもきちんと訊いて答えているものかどうかが定かでないのだから、返答の確かさについてなど考える意味もない、と思って掛かるべきところだろう。
「ふむ‥‥‥」
ぴりりりり。ぴりりりり。
不意に、背中の後ろで携帯の呼び出し音が聞こえた。
すぐに途切れた電子音に続いて、
「はいはーい、さやかお姉ちゃんでっす。‥‥‥ん。そうそう、大体そんな感じでー」
意外にしっかりした口調のさやかが、電話の向こうの誰かに向かって何事か話している。
「ちょーっと予定より遅いかもだけどー、この調子ならもうすぐ着くわねー」
‥‥‥眠気のせいで足腰立たないひとの発する声にしては妙にはっきりしたものであるように、その時、カレンには感じられた。
「ん。大丈夫ー。じゃあ引き続きお願いねー。はーい」
「あの、さやか?」
だが不審げなカレンの言葉は顧みられることなく、
「ふにー」
ぴ、と終話の音が鳴った途端、炬燵の中で溶けかけた猫のような、あの気怠げな声のさやかに戻ってしまう。
「んふふー、カレンだー」
カレンの背中にしなだれ掛かったさやかが、その背を頬で撫で回す。
「酔っ払いみたいなこと言ってないで‥‥‥って」
『みたい』ではない。
完全無欠の酔っ払いであった。
「ねーえ、カレンー」
「何?」
「流石にー、このくらいやっておけばー、酔っ払いに見えるかしらー?」
完全無欠の酔っ払い。
‥‥‥だった、筈、であった。
何かが起きている。
多分、自分だけが知らない何かが。
「お邪魔しま」
精神的に身構えつつ、勝手知ったる朝霧家の玄関を開けると、
「ほら来た! カレンさんお誕生日おめでとーっ!」
「おめでとうございますー!」
カレンとさやかを迎えたのは、時刻を鑑みれば場違いに騒々しい、数々のクラッカーと拍手の音。
「す?」
何が起きているのかさっぱりわからない。
あまりのことについ棒立ちになってしまったカレンの背中を伝って、さやかの身体がずりずりと土間に滑り落ちた。
「‥‥‥いたたたた。うー」
腰をさすりながら、さやかはその場に立ち上がる。
どうやら尻餅をついたらしいが、それ以外のダメージがあるようには見えない。
例えば‥‥‥眠気のせいで足腰立たない酔っ払いの有様、のようにはとても見えない。
「ちょ、さやか」
「何かしら?」
「何かしらじゃなくて、一体これは何がどうなって」
「どうなって、っていうか」
すっと位置を変える。
カレンの代わりにさやかの視界に入るのは、上がり框に横並びの麻衣にミア、達哉、フィーナ、エステル。
「はい、せーのっ」
指揮者がタクトを振るように、さやかの両手が持ち上がり、
「おめでとー!」
「カレン様、おめでとうございます!」
「おめでとうございますカレンさん」
「おめでとう、カレン」
「お誕‥‥‥って、みっ皆さん、それ打ち合わせと全然!」
指揮者がいるにもかかわらず統一感のまるで感じられない、銘々勝手な祝辞が同時に発された。
続いて、ぱぱぱーんと、これまたてんでバラバラなクラッカーの音。
「ちょっとみんなー? ぷっ‥‥‥練習、したんじゃなかったのー?」
しかめつらしい顔を作ろうとして見事に失敗したさやかが、ひとこと毎に吹き出しながら苦言を呈す。
「仕方がないとは言いたくないけれど、昨日の今日では様にならないものね」
こちらも笑いながらフィーナが答える。
「ええと、あの‥‥‥それで結局これは」
困惑顔のカレンの方へ、再度、さやかが向き直る。
「というわけで、お誕生会の準備ができてるのよ」
「誰の?」
「カレンの」
「私の‥‥‥何ですって?」
「お誕生会」
「お、おた‥‥‥?」
「ほら上がりましょ、カレン。玄関先に立っててもケーキは迎えに来ないわ」
「ケーキ?」
▽
何本か立てられた蝋燭に小さな火が灯されている。
「それならそれで、普通に連れて来ればいいものを」
麻衣とミアが腕によりをかけて作ったという大きなホールケーキを前に、カレンは何やら渋い顔をしている。
「本当は私だって、こんなややこしい作戦立てたくなかったのよ」
さやかはさやかで少し困った顔だ。
「居酒屋さんに根回ししておくのだって大変だったのよ? ふたりとも『生』って注文するけど、でも片方はノンアルコールにしてください、だとか。届いたら届いたですぐ呑んじゃわないと、もしかしたら見た目で違いに気づかれちゃうかも知れなかったし」
「え、それじゃ」
「ええ。ほぼ素面」
先程のアレも、別に酔っ払ってそうなったのではなかったわけだ。
「『連れて来るところまでは私がやります』ってお姉ちゃん言うから、普通にちゃんと説得するのかと思ったよ。まさかそんなこと企んでたなんて」
意外そうに口を挟んだのは麻衣だ。
「それでカレンが素直に説得されてくれるなら、こんな作戦必要ないわ」
「う‥‥‥それはそうでしょうけど」
多分カレンは、こんなことになった今でさえ、普通のお呼ばれに応じようとは考えていないだろう。
そういうカレンをパーティ会場に引きずり込むにはそれなりの工夫が必要だった、ということだろうか。
「そうね。プライベートの時くらい、カレンはもう少し肩の力を抜いてもいいと私も思うのだけれど」
「フィーナ様までそのような‥‥‥」
「まあ、そういう難しい話はまたの機会にしましょう。プライベートなのですから」
にっと笑うことで、フィーナは反論を封じてみせた。
「ミア、明かりを」
「かしこまりました、フィーナ様」
居間の照明が落とされると、座卓の真ん中に鎮座したケーキに灯る明かりが輝きを増す。
自分のための誕生パーティがこんな風に催されたことなど、人生のどこを振り返っても一度としてなかった。
これはとても気恥ずかしくて‥‥‥これは、何だか、とても嬉しい。
自分の誕生日を心待ちにする子供の気持ちが、今になって初めて、少し理解できたような気がした。
「はいみんなー、今度はちゃんと揃って行くわよー。せーのっ」
はっぴばーすでーとぅーゆー。はっぴばーすでーとぅーゆー。
‥‥‥合唱の最後に、蝋燭の火がすべて一息で吹き消されると、玄関先の賑やかさに輪をかけたような歓声が上がった。
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