片方の耳に、外のどこかで鳥の鳴く声が聞こえた気がして、達哉は重い目蓋をゆっくりと上げる。
冬の割には薄手のカーテンを難なく通過して、部屋にはとっくに陽光が忍び込んでいたようだ。
もう朝かな。
起こしてしまわないように、口に出さずに達哉は呟いた‥‥‥つもりだったのだが、
「‥‥‥」
まるで聞こえた言葉に答えでもするかのように、菜月は何だかわからない寝言をむにゃむにゃと呟いた。
だが、すぐにそれが止んでしまうと、反対側の耳に入る音は、一糸纏わぬ身体を覆い被せるように預け、達哉の耳元に頭だけ転がり落ちるように頬を寄せて眠っている、菜月の寝息だけに戻る。
どちらかが身動ぎをする度に、菜月の前髪の幾筋かが達哉の顔をくすぐる。
穏やかで規則的な菜月の息遣いに、切なげに乱れた息遣いが重なって聴こえる気がする。
ふたりを包んだ布団の中に‥‥‥まだ繋いだままの両手のひらや、達哉の上で静かに上下動を繰り返す身体に圧し潰されて窮屈そうな乳房や、夢中で打ちつけ合った腰のあたりにも、昨夜の余韻がまだじっとりと滲んでいるのがわかる。
気づいてしまうとそんなことばかりが気になりだして、今すぐにでも、昨夜の続きを始めたい気分になる。
達哉がそんな不埒なことを考えているとは知らない‥‥‥すっかり安心しきっている寝息の音に少しの罪悪感を覚えつつも、取り敢えず達哉は、目の前にある菜月の首元に、軽く息を吹きかけてみる。
「んっ」
寝息の音に微かな声が混ざるが、眠っているせいか、反応は少し鈍い。
まだ目を覚ます気配はなさそうだ。
調子に乗って、鎖骨の窪みに舌先を這わせてみる。
「ふ‥‥‥っ」
何かを我慢するように眉間に皺を寄せて、菜月は背筋を逸らす。
撓わなバストが身体の重圧から解放され、束の間、本来の姿を取り戻す。
達哉の身体を跨ぐように、菜月の両膝が布団に落ちる。
その脚の間では、とっくに隆起を始めていた達哉の分身が、先程から菜月の下腹部を頻りに突いていて‥‥‥背筋など逸らすものだから、知ってか知らずか、まるで菜月の方が達哉の先端にアンダーヘアを押しつけるような格好になる。
「‥‥‥んっ」
小さく息を吐いて、菜月は再び、ゆっくりと達哉に身体を預けてくる。
僅かに汗ばんだ双丘が、達哉の胸の上でマシュマロのように柔らかく形を変える。
次はどうしようか。考えを巡らせる達哉の鼻先に、
「たーつーやー?」
いつからか目を覚ましていたらしい菜月の、羞恥で真っ赤に染まった顔があって、
「知らないと思って人のこと玩具にしてー。油断も隙もないんだから、もう」
拗ねたような声と視線が、達哉の顔に突き刺さる。
「今の今まで油断しっ放しだったくせに」
「しょうがないでしょ? 私寝てたんだから‥‥‥って達哉、いつから起きてたの?」
「まだ何分かしか経ってないと思うけど」
達哉から見える範囲には時計がないから、正確な時刻まではわからなかった。
「そんなに? うわあ‥‥‥」
「え? なんで? 俺が先に起きたら不味かったのか?」
「不味いよー。だって、寝顔見られたりしてたらさー」
菜月の顔がさっきよりも赤い。
変なこと気にするんだな、と達哉は思う。
それに。
「寝顔は見てないよ」
「本当?」
「ほら、菜月の顔、俺の肩より上っていうか、俺の頭のすぐ脇に行ってたから。こっちの」
「え。ええと、こう?」
顔を合わせるために少し反らしていた背を戻して、達哉の顔の脇にある空間へ、菜月は頭を落としてみる。
それは概ね、達哉が目覚めた時のふたりの体勢であり、
「そうそう。そこから俺の顔見える?」
「真下向いてるから無理」
「で、俺も真上向いてたから無理。な?」
それは要するに、昨夜、ふたりが力尽きて布団に沈んだ時の体勢そのまま、であるのだった。
「んー。そうかも知れないけど」
「それに、寝顔見たことくらい、今までに何度か」
「‥‥‥え」
今年の春先、菜月は遠くの大学に進学した。
実家からではとても通えない菜月が、大学の近くでひとり暮らしを始めたのはその頃で‥‥‥互いに忙しいからそう頻繁ではないものの、この部屋に達哉が泊まるのは今日が初めてではない。
「あれ。言わなかったっけ?」
「きき聞いてない聞いてない聞いてないよっ!」
「こら、耳元で暴れるな」
「あ。ごめん達哉」
そう言われて急にしおらしくなった菜月の無防備な肩口が、また達哉の目の前に見えている。
どっちつかずのままでしばらく放っておかれた達哉の分身が、また鎌首をもたげ始めた。
「っていうか達哉、さっきから当たってるんだけど」
菜月がぼそっと呟く。
「菜月がいやらしいから」
「やだ、変なこと言わないでよ。さっきからずっと、何かしてるの全部達哉じゃない」
「夜からずっと、こんなに胸押しつけてるくせに?」
「あ‥‥‥だってそれは‥‥‥だから、寝ちゃってて」
慌てて半身を持ち上げる。
だから‥‥‥もう明るくなっている部屋の中で、今まで見えていなかった胸が露わになる。
「って、わっわっ! 達哉手っ! 手がっ!」
今度は両腕で隠そうとするが、まだ繋いだままだった手は、達哉にしっかり握られていた。隠しようがない。
「菜月。いい?」
ストレートに訊く。
「えっと、その」
また顔を真っ赤にして俯いた、その次の瞬間。
「しっ、シャワー浴びてからねっ!」
すぐには収まりのつかない達哉を放り出して、
「え、あ‥‥‥」
繋いだ手を振り解き、布団を飛び出した菜月は、そのまま一目散に浴室へ駆け込んでしまった。
水音は達哉の耳にも届いている。
ワンルームマンションだ。達哉たちがいた部屋と菜月が今いるユニットバスの間には、脱衣所を兼ねたごく短い廊下と、薄いドア一枚しかない。
ドアの向こうで暖かな雨に打たれているのであろう菜月の姿を思い浮かべ、一緒に入っちゃえ、などと、達哉はまた不埒なことを思いついた‥‥‥が。
「おーい、菜月ー」
ドアの外から声を掛けてはみるものの、
「だって汗とか、なんかもうベタベタなんだもん。いくら達哉にいいって言われても‥‥‥ねえ、すぐ上がるから、入って来ちゃダメだよー?」
いきなり見透かしたような言葉が戻ってくる。
「‥‥‥はい」
最早、頷くしかない。
不意に。
「あの‥‥‥さ、やっぱり達哉も、女の子と一緒にお風呂入ったりとか、したい?」
いやに真剣な声が、ドアの向こうの部屋に響いた。
「まあ、そりゃ。できれば。うん」
「そっか。あ、でも、開けないでね?」
「いや、それはもうわかったから。菜月が嫌だって言うのに無理矢理押し入ったりはしないよ、俺だって」
「ん。‥‥‥でもやっぱり、お風呂とかトイレとか、そういうのは私、ちょっとダメで」
「そうなのか? でも、もっと恥ずかしいこと一杯」
「なんでそういうこと言うかなもう」
達哉のすぐ前で、じゃばじゃばと一際派手な水音。
もしかしたら、達哉の身代わりにさせられたドアが、今頃向こうでお湯攻撃に晒されているのかも知れない。
「そうじゃなくって。だって達哉、お風呂入ったら身体とか洗うでしょ」
「まあ、そりゃそうだな」
「私もそう。お風呂はさ、綺麗になるところで、あんまり綺麗じゃない人が来るところだ、って思うから」
「うん」
昨夜からついさっきまで、ずっと身体を重ねたままでいたことを思い出す。
確かにふたりとも汗やら何やらでドロドロで、綺麗な状態だとはお世辞にも言えなかっただろう。
「それに私、ほら、お風呂で脇剃ったり、その‥‥‥下の方とか、お手入れしたり」
「‥‥‥うん」
不意に、水音が止まった。
「好きだからね、好きな人にはそういうの全部見られてもいい、って言う人の気持ちもわかるよ。だけど私は、好きな人に、綺麗じゃないのを綺麗にするところまで‥‥‥だからその、あんまり綺麗じゃないところまで、そんなの全部は見せられないし、見られたくない、って思う」
多分このドアは、菜月に残された最後の『秘密』を守るドアだ。だから今、その向こうで菜月が何をしているのか、それは達哉にはわからない。
「いつか、そういう日も来るのかも知れない。達哉とだったら、私、平気になっちゃうのかも知れない。けど今は平気じゃないの‥‥‥だから本当、ごめんね、達哉」
でも。
『何をしているのか』はわからなくても、その何かを『何のためにしているのか』は達哉にもわかる。
互いが好きだからといって、何もかも全部を暴き立て、白日の下に晒してしまえばよいというものではない。
菜月が達哉のことを好きでいるために、菜月が達哉のことを好きでいようとする限り、どうしても必要な『秘密』というものもきっとあるのだ。
多分このドアは、達哉にそのことを教えている。
「ごめん、押し掛けたりして」
我儘な欲求に任せて、部屋の布団からこんなところまで追いかけてきた自分の間抜けさ加減が何だか滑稽で、菜月にわからないように、達哉は少し笑った。
菜月はこんなに‥‥‥俺に、気持ちをくれてるのにな。
「お、怒ってないよね、達哉?」
菜月の声が急にか細くなる。
「そんなことで怒らないって。それに、菜月はそういう風に俺のこと想ってくれてるんだって、今はわかるから」
慌てて上がらなくてもいいよ。
ドアの向こうに声を掛けて、達哉は部屋に戻った。
「ん。ありがと、達哉」
背中の向こうから、再び、水音が聞こえ始める。
「お待たせ。上がったよ、達哉」
浴室に続く短い廊下の角から、バスタオルを一枚纏っただけの菜月が姿を現わした。
「そっか。それじゃ俺もシャワー浴びて来るよ」
「え? そ、そう?」
すぐにも抱きつかれるとでも思っていたのか、返す言葉にはどこか意外そうなニュアンスが込められている。
「汗とかでぐしゃぐしゃなの、菜月だけじゃないからさ」
「なら、ええと‥‥‥はい、タオル」
ところどころに染みのついたシーツを腰に巻いて歩く達哉に、菜月は別のバスタオルを放り投げる。
「すぐ洗っちゃうから、シーツは廊下に落としといて」
「ありがと。‥‥‥覗くなよ?」
「まさか。達哉じゃあるまいし」
呆れたように肩を竦めた菜月の脇を達哉が通り過ぎた。
今度は菜月がドアの外側にいて、向こう側に暖かな雨が降る音を聞いている。
ひとり暮らしの自分の部屋で、いつもシャワーを使っているのは自分だった。なのに、こうして浴室の外側にいて、誰かがシャワーを浴びる音に耳を澄ましていると、他の誰かの‥‥‥例えば、ひとり暮らしの達哉の部屋に、菜月の方が訪ねてきて迎え入れられたような、少し不思議な気分になる。
それに、この廊下はエアコンが動いている部屋とは区切られていて、バスタオル一枚でずっと佇んでいるのには少し無理がある。
さっき達哉、こんな寒いところに立ってたんだ。
「‥‥‥達哉ー」
名前を呼んでみると、
「そんなところにいるのか? 部屋に戻ってないと」
どこかぼやけたような達哉の声が答えた。
「達哉だって、さっきいたでしょ?」
「まあそうだけど」
「あのね。さっき、私がシャワー浴びてた時のこと」
「‥‥‥うん。ごめん」
「あ、違う違う! そうじゃなくって‥‥‥そっか」
慌てて菜月は、身振り手振りも交えて大袈裟に否定しようとするが、そうして何かをアピールする相手である筈の達哉には、菜月の姿は見えていない。
「そうじゃなくってね」
音が聞こえたわけでも、仕草が見えたわけでもない。それでも‥‥‥何か大事なことを告げるために、菜月が深呼吸をするのが達哉にもわかった。
「本当は私、このドアの鍵、掛けてなかった」
「え?」
すとん、と廊下に腰を落とした。
「あの、でも、見て欲しくないって言ったことは本当なんだよ? それは本当だけど‥‥‥でも、本当にそういうつもりだったら、さっき達哉、いつでもお風呂に入って来れたの。ほら、起きた時に中途半端にしちゃったし、それで入って来られちゃっても、今日はしょうがないかも、ってちょっとは思ったり」
「なんだ、そうだったのか。知らなかった」
少し驚いたような声でそう呟く達哉は、本当に、そのことには気づいていなかった。
別にそれは菜月のためなどではなくて、単に『鍵は掛かっている筈だ』という先入観があったから、でしかないのかも知れない。
だが理由はさておき、先程の達哉がドアに触れることすらしなかったのは事実だ。
「ん。でも、達哉はそういうの、知らないままでいてくれた。ここから私に声掛けて、私にいきなり『ダメ』って言われても、私が思ってることをずーっと聞いてるだけにしてくれた。ちょっと弄れば開いてるってすぐわかるのに、鍵のことなんて調べようともしないで」
ほんの小さな衣擦れの音は‥‥‥タオルの裾で菜月が目元を拭った音は、雨に打たれる達哉の耳には入らない。
「あんな、お預けされたみたいになっちゃってるのに、それでも私のこと想ってくれるのなんて‥‥‥我侭言ってるのは私なのに、『慌てて上がらなくていい』なんて‥‥‥私が綺麗になるまで待っててくれるのなんて、そんな人、世界中に達哉しかいないって思った」
だから達哉。私も、達哉のこと、ちゃんと待ってるね。
立ち上がった菜月はそう言い置いて、床の上に達哉が落としたシーツを掴み、廊下を後にする。
「上がったよ」
達哉が部屋に戻ってくると、
「お帰り。あ、お布団、ベランダに干しちゃったよ?」
布団があった辺りはすっかり片づけられていた。
「‥‥‥そっか」
どこか残念そうな達哉の顔を見やって、菜月はくすくすと笑みを零す。
「さっき達哉が持ってったシーツと、ついでに、布団のとこに散らかってた達哉の服も洗濯機に入れちゃった。ほら、洗濯乾燥機だから、そのうち乾くと思う」
「うん」
達哉がシャワーを浴びている間にやっていたことを指折り数えて、
「それと今、床のお掃除もちょっとした。エアコンの温度も、起きた時よりは少し高め。シャワーも浴びられたし‥‥‥達哉も、帰ってきたし」
「うん」
そうして指折り数えながら、だんだんと朱に染まっていく顔を少し伏せて。
「だからこれで、多分、もうないって思う」
「何が?」
「汚れたままじゃ達哉に見せられないから、急いで綺麗にしなきゃ、って思うとこ」
一枚だけ、菜月の素肌の上に巻かれていたバスタオルが、床の上にはらりと落ちる。
「待たせてごめんね、達哉。‥‥‥続き、いいよ」
そこに立ったままでいる菜月の身体をそっと抱いて、達哉は耳元に顔を寄せた。
「ずっとお預けなのかと思った」
吐息と一緒に、言葉が耳朶を撫でる。
「そんな、こと‥‥‥しないよ」
唇が耳朶から滑り降りた。
目覚めた時にそうしたように、目の前にある菜月の首元に軽く息を吹きかけ、鎖骨の窪みに舌先を這わせる。
「綺麗になるの、んっ、達哉の、ためなんだから」
何かを我慢するように眉間に皺を寄せて、菜月は小さく身を捩る。
「あ‥‥‥達哉っ、くすぐったい、首ばっかり」
「他のところがいい?」
「そ、そういうわけじゃ‥‥‥っ」
両手のひらで背中を撫で回しながら、だんだんと、抱きしめる力を強くしていく。
ふたりの隙間を埋めるように菜月の乳房が撓み、遂には、向かい合わせの身体と身体がぴったりと合わさった。
「やっと捕まえた」
首筋に埋めたままだった顔を上げて、達哉は菜月の顔を覗き込んだ。
「ん‥‥‥私も、捕まえた」
達哉を引き寄せるように、菜月も両手を達哉の背中に回した。それから、目を閉じて、何かを期待するように少し顎を上げた菜月の、
「ふあっ! たっ達哉、そこ違っ」
さっきとは反対側の首筋を‥‥‥多分、菜月の期待とは違うところを、達哉の唇と舌が這い回り始める。
「でも感じてる。相変わらず首弱いな、菜月」
むずがる子供のように菜月が首を横に振る。だが、そんな本人の気持ちをあっさり裏切って、達哉の胸板に押しつけられたふたつの蕾は固さを増していく。
「それとも、違う? 別のとこがいい?」
「そんなこと‥‥‥そんなこと」
「どこがいい?」
瑞々しい張りのある皮膚を伝い、神経の枝先をそっと揺らしながら、問いかける達哉の言葉は菜月の耳まで駆け上がった。
「く‥‥‥」
開きかけた口を引き結ぶ。
「このまま、首がいい?」
優しい毒が染み込むように、なおも訊ねる達哉の声が菜月の素肌に溶けた。
「馬鹿っ、達哉の、意地悪、っ」
「次はどこ、菜月?」
達哉が訊いているのか、自分の心臓が達哉の声で訊いているのか、菜月にはだんだんわからなくなって、
「く‥‥‥ちびる‥‥‥」
まるでうわごとのように、
「キス、キスして、達哉‥‥‥」
今、いちばん達哉を欲しがっている場所はどこか、とうとう告白させられてしまう。
再び達哉が顔を上げた。
菜月はまだ固く目を閉じたままだった。上気した肌にはさらに朱が差し、じっとりと汗ばみ始めている。
「綺麗だよ、菜月」
達哉の唇が菜月のそれと重なる。待ち焦がれた感覚が、菜月の身体をあっという間に歓喜で満たした。
「あ、ありが‥‥‥」
達哉の声に答えようと小さく開かれた唇の隙間に、達哉の舌が差し込まれる。
舌先が舌先に触れる。
「あ‥‥‥は‥‥‥」
続きの声が言葉になる前に、菜月の舌は達哉のそれに絡めとられた。そのまま、舌を舐り回し、頬の裏を味わい、口腔を思う様蹂躙していく。
唇の端、僅かな隙間から、苦しげな呼気と一緒に透明な雫が幾つか零れ、頬を伝って床のタオルに落ちた。
「は、っ‥‥‥う‥‥‥」
最早、その音は声ですらない。
やがて。
「‥‥‥っ! ふ‥‥‥」
長い長いキスが終わると同時に、菜月の膝が砕けた。
緩められた腕の隙間から抜け落ちた身体は、さっき落としたバスタオルの上にふらふらとへたり込んでしまう。
「うわ。大丈夫か?」
慌てて達哉もそこに腰を降ろし、菜月の半身を横抱きに抱える。
「ん、大丈夫‥‥‥あは。キスだけなのに、ちょっとイッちゃったかも」
何やら嬉しそうにはにかみながらそんなことを言って、菜月が達哉の顔を見上げた。
「わ、っ」
途端、菜月の背中、腰のあたりを何かが小突く。
無理に身を捩ってそこに視線を落とすと、達哉が腰に巻いたバスタオルの下で何かが大きく屹立している。
「こんなになっちゃうんだ」
「でも別に、初めて見るわけじゃないだろ?」
今度は達哉が、照れくさそうに視線を逸らした。
「そうだけど、でも何度も見たわけじゃないし。ほら、いつも部屋暗くしたりとかするし、今日みたいな昼間にばっかり、こんなことしてるわけじゃないし‥‥‥大体、見せられる方だって恥ずかしいし」
菜月は菜月で、だんだん声が小さくなっていくが、それでも、ぶつぶつと繰言を述べ続けて。
「でも達哉、これ脱がしてもいい?」
訊ねたくせに、答える声を待つことなく、
「え? ‥‥‥あ、菜月、こら」
達哉の腰に巻かれたバスタオルを引っ張り落とした。
「ひあっ! びっくりしたっ!」
鼻先に達哉の剛直が突きつけられる。
時折蠢くそれを、不思議そうに菜月は見つめて、
「達哉はじっとしててね。今度は私がするから」
達哉の上で身体の向きを変え、うつ伏せになった上半身を膝の間に沈める。
「もう、我慢しなくていいよ」
鼻先にあるものに語りかけるように呟きながら、剛直の先に、触れるだけの軽いくちづけをひとつ‥‥‥それだけのことで、ひくり、と腰が跳ねた。
「うあっ」
達哉の意志に拠らず、喉の奥から呻き声が漏れる。
「気持ちいいの?」
指先で幹に触れながら、熱っぽく潤んだ菜月の瞳が、上目遣いに達哉の瞳を覗き込む。
「‥‥‥う、ああ」
「ふふ。今日は素直なんだ」
固く反り返った幹の至るところに、ついばむような小さなくちづけの雨を降らせる。
右手の指が緩い輪になって幹を上下する。
左手の指はその下の脆弱な膨らみをやわやわと弄ぶ。
「っ‥‥‥うあ‥‥‥なつき‥‥‥」
湿った舌先が幹を下からなぞり上げると、そのまま離れていく舌を追うように達哉の分身が跳ね上がる。
「もっとよくしてあげるね」
戻ってきた菜月の舌先は、亀頭を舐め回し、竿の表裏を這い回る。そして。
「ううっ」
達哉の舌が散々嬲ったその空間へ、今度は達哉の分身が導き入れられた。ちゅぱっ、ちゅぱっ。出入りの度にいやらしい水音が部屋の中に響く。
もう一度、菜月の視線が達哉の顔を捉えた。
だが、目を閉じている達哉には、じっと見られていることがわからない。
「んふっ」
不明瞭な菜月の声が笑った。
決して上手くはない菜月の愛撫は、それでも、達哉の身体と心の芯にあるものを昂ぶらせていく。
我知らず、達哉は菜月の頭を両手で捕まえていた。抜けてしまいそうなくらい浅くから、喉の奥に当たるほど深くまで、本能の赴くままに往復を繰り返す。
「ん、ふっ‥‥‥ちゅっ‥‥‥じゅるっ‥‥‥」
菜月は懸命に、その唇の奥で暴れ回るものに舌を絡め、唇を窄める。されるままになりながら、それでも‥‥‥まるでそれを逃すまいとするかのように。
「あ‥‥‥っ、あ、出る」
とうとう、音を上げたような情けない声が呟く。
「ん。いひよ。らひて」
口にした言葉はとても聞き取れたものではなかったが、言葉の意味を代わりに伝えるように、幹に巻かれた右手の指がきつく狭まった。ただそれだけで、無理に絞り上げるような刺激がさらに達哉を苛む。
「うわ、菜月、菜月‥‥‥!」
「ん‥‥‥んくっ」
どくん。
喉の奥へと打ち込まれた杭の先から、夥しい劣情の奔流が吐き出された。最後の一滴が杭から絞り出されるまで、こくこく喉を鳴らしながら、菜月はそれを飲み下す。
まだ達哉にしっかりと頭を押さえられている以上、菜月としてはそうする他に選択肢がない。が‥‥‥苦しげではあるが、嫌がる様子もなかったことが、未だに目を瞑ったまま、夢心地に浸っている達哉にはわからない。
「‥‥‥あ、ご、ごめん菜月っ」
ようやく気づいた達哉は慌てて手を離すが、
「ん‥‥‥だ、大丈夫」
気づくのが遅かった。
「達哉のここ、ちょっとボディソープの味がした」
そんなことを言って、菜月は優しげに微笑んでみせる。
口の中にはもう何もない。僅かに一筋、つっと唇の合わせ目で糸を引いた、粘つく白い滴がどうやら最後だ。
「ごめん」
「気にしないで。達哉だったら、嫌じゃないから」
「菜月、ありがと、いつも」
「ん。‥‥‥やっ、あ」
返事を待たずに、達哉は菜月の唇を奪う。
「ちょっと達哉、今、達哉の飲んだばっかり」
慌てて顔を離した菜月が気遣うように言うが、
「菜月が嫌じゃないっていうなら、俺だって嫌じゃない」
それでも達哉は、菜月の唇を求めていった。
床に敷かれた二枚のバスタオルの上に、解けようもないほどに絡まり合ったふたりの裸身がうねっている。
「んっ。達哉‥‥‥そんなとこ」
「嫌?」
「そんな、こと、ないけど」
相手の身体を自分の中へ押し込もうとでもするかのように‥‥‥きつく抱き合ったまま、互いの肌を全身でまさぐり続ける。
「あ‥‥‥また、首‥‥‥ダメ、変になる、から」
「いいよ、菜月。もっと感じて。変になって」
「そんな、だって‥‥‥んっ! ふあっ!」
切れ切れの声を上げて、菜月が首をのけぞらせた。
遠くなった首筋の代わりに、隙を見せた乳房に顔を埋め、乳首を甘噛みする。
乳房に押しつけるように、菜月の腕が達哉の頭を抱え込んだ。すると今度は、舌先で乳首を転がしながら、空いた手を太股の間に滑り込ませる。
そこは既に充分な蜜を湛え、指先が触れれば触れただけ、いやらしく響く水音で応えようとする。
「ふ‥‥‥あっ! んっ、あっ、達哉、達哉あっ」
意識を押し流そうとする快楽の波の直中から、菜月の上ずった嬌声が必死で達哉を呼んでいる。
達哉は達哉で限界が近い。これ以上は膨張できないくらいにいきり立った分身は、腕の中で身悶える菜月の痴態を見ているだけで暴発してしまいそうだ。
「菜月。いい?」
再び、ストレートに訊く。
「いいよ、達哉。来て」
ふたり分の汗や唾液。
達哉の精液。
自らの裡から滴り落ちる愛液。
一旦は達哉の目に触れることを拒んだ筈の、ありとあらゆる穢れに濡れた肢体はそのままに、
「私も、達哉のこと、待ってた」
むしろ嬉しそうに笑いながら‥‥‥自分のいちばん恥ずかしい場所を指で押し開き、達哉の目に晒してみせた。
内側の襞を掻き分け、ぬめる蜜を溢れ返らせながら。
「‥‥‥んあっ! 達哉が、達哉が、っ」
菜月の身体の真ん中に、菜月の上から伸し掛かった達哉の分身が、ゆっくりと沈められていく。
その感覚だけで消し飛びかける意識を押し留めながら、より深くまで達哉を迎え入れるように、菜月は僅かに腰を浮かせた。
そのせいか、思っていたよりも早く、達哉の根元が菜月の根元に合わさった。
「入った‥‥‥っ‥‥‥」
「うん。全部、入ったよ、菜月」
圧倒的な一体感は、痺れるような快感を伴って、ふたりの身体中の感覚を攫っていった。
そうしてひとつになったまま、ぎゅっと抱きしめ合い、唇を重ねているだけでも、内側から押し寄せる波の果てへ辿り着いてしまえそうな気分になる。
だが。
「あ‥‥‥達哉、動い‥‥‥」
罪深い獣の身体は貪欲だった。
「菜月、キツいよ‥‥‥くっ」
今以上の快楽を求め、達哉が動き始めた。捕らえたまま虜にしようと迫る肉壁の包囲から力ずくで抜け出すと、あちこちを擦り上げる感覚を楽しむように、突き入れては引き抜き、また角度を変えて繰り返し突き入れる。
「んっ、あっ! ‥‥‥あ、そこはっ!」
突き入れながら、達哉の空いた手が、ふたりの重なった部分に添えられた。
「菜月、もっと」
そこに埋め込まれた小さな種を、抽迭に合わせて指先で摩り上げる。
「ダメっ! そこダメっ、ひあああっ!」
間断なく駆け巡る痺れに、達哉の下で菜月は大きく背を反らした。
「おかしく、おかしくっ、ああっ、あっダメえっ!」
口では『ダメ』と繰り返しながら、だが身体は、達哉に向かって秘所を突き出し、包皮に隠された種をより強く達哉の指に押し当てようとする。
「っ‥‥‥菜月、いいよっ‥‥‥」
完全に浮いてしまっている菜月の腰を両手で捕まえると‥‥‥それまではそこがいちばん奥だと思っていた、腰と腰がぴたりと触れる位置のさらに奥を目指すように、達哉は夢中で杭を打ち込み続ける。
そうするうちに、杭の先端はとうとう、行き止まりの壁を叩き始めた。
「ああっ! あた、当たって‥‥‥当たるっ!」
泣く声のような喘ぎ声で喉を嗄らしながら、菜月は下から達哉にしがみつき、達哉の腰を両足で抱え込む。
腰から手を放した達哉は、菜月の背中に腕を回した。唇から顎の下に、首筋に、うなじの脇に、鎖骨のあたりに、ふたつの膨らみに、手当たり次第に唇で触れ、歯を軽く立て、僅かな痕で菜月の肌を埋め尽くしていく。
珠のような汗の粒ごと押し潰されたふたつの膨らみに向けて、今にも破裂しそうなふたつの心音がでたらめに響き合う。
「あ、くっ、達哉、もう、達哉、ああっ」
ずぷっ。ずぷっ。ずぷっ。ずぷっ。
「菜月、菜月、菜月っ」
音と声はもう、発される周期の速さを競い始めていた。
「ダメ、もう、イッちゃうっ! 達哉、ひあっ、もうっ、もうっ、達哉っ」
声が上がる度に、菜月の中の隘路が達哉を締め上げた。
それでも達哉は止まらない。
「菜月、一緒に、一緒にっ、うああっ」
「イクっ、イッちゃうっ! あああ達哉、達哉、達哉あっ! は‥‥‥っ! んああああああっ!」
そして、僅かに早く絶頂に達した菜月の声が、達哉の心に填められた最後の箍を弾き飛ばした。
「うっ‥‥‥菜月、っ」
引き抜く間もなく、迸り出てしまった精液が、すべて菜月の中へと注ぎ込まれていく。
「うあああっ!」
強烈な快感が達哉の神経を灼く。分身が脈打ち、白濁が吐き出される都度、衝動に突き動かされるままに、奥へ、さらに奥へと、その白濁を押し込もうとする。
「はあ、はあ‥‥‥熱い‥‥‥達哉の‥‥‥」
根本まで達哉を包み込んだまま、菜月の膣がうねる。さっきは唇がそうだったように‥‥‥まるで、達哉の劣情を一滴残さず搾り取り、呑み込もうとするかのように。
やがて、吐き出すものが何もなくなり、糸の切れた人形のように折り重なってその場に頽れても、ふたりの身体の小刻みな震えはしばらく収まらなかった。
息も絶え絶えのふたりが呼吸を整えるには、さらに少しの時間が必要だった。
「今度は、達哉が上なんだね」
ようやく、菜月が口を開く。
掠れたような微かな声に満ちた穏やかで甘い充足感が、聞いている達哉にまで、幸福な気分を運んでくる。
「あ。そうか」
そういえば、まるで布団か何かのように、菜月の身体の上に達哉が覆い被さっていた。目覚めた時とはちょうど逆の体勢だ。‥‥‥そういえば今日は何だか、菜月に謝らないといけないことばかりしているような気もする。
「いいよ、そのままで」
だが、慌てて降りようとする動きを制するように、菜月の両手が達哉の頬に添えられた。
汗で額に貼りついた前髪を掻き分け、引き寄せたその額を自分の額に宛がう。
「まだ熱いね、達哉」
「菜月だって」
「あはは‥‥‥そうだ達哉、ね、ちょっとこっちに」
「ん?」
軽く持ち上げた達哉の頭を、今度は、自分の顔の脇に降ろしてみる。
「こんな風だったんだ、今朝」
一糸纏わぬ身体を覆い被せるように預け‥‥‥菜月の耳元に、頭だけ転がり落ちるように頬を寄せて。
「本当に顔見れないね」
「‥‥‥寝顔?」
「そうそう」
「拘るなあ。見えてないって、だから」
「恥ずかしいんだもん」
むくれたような菜月の声に、達哉が顔を上げる。
「私が見るのはいいんだけどね」
視界の中に戻ってきた達哉の顔に、菜月はぺろっと舌を出してみせた。
「酷いこと言ってますよこの人」
「だって、寝てる間にどうなってるかなんてわかんないじゃない。そういうの不安で。涎垂らしてたりとかさー」
何か心当たりでもあるのか‥‥‥とは訊ねないのが、せめてもの優しさ、とかいう奴なのかも知れない。
「あ‥‥‥ん」
唐突に、菜月が呻き声を上げた。
「何だ?」
「また溢れちゃった」
「え‥‥‥うん、本当だ」
そういえば菜月はまだ、達哉を中に呑み込んだままだ。
ゆっくりと萎んでいく分身と、その分身にぴったりと寄り添っていた襞の隙間を通って、精液と愛液の混じり合ったものがこぽこぽと零れ落ちる。
「そういえば、もうシャワーはいいの?」
「ん? んー‥‥‥本当はちょっと、気にはなるけど」
菜月の右手があたりをごそごそ探り回って、
「うん。今は、このままこうやってるのがいいかな」
見つけた達哉の左手を握る。
「そんなこと言っちゃっていいのか菜月? 本当に、もう離さないぞ?」
今度は達哉の右手が動いて、菜月の左手を捕まえる。
「それで、今度はこのままお風呂まで一緒について来ちゃったりとか?」
「ああ、そうそう」
「そーれはちょっと困っちゃうんですけどー」
さして困った様子でもなく、菜月はそう言って笑う。
「でも大体、お風呂まで一緒にって言われても、これじゃ私たちって立てないんじゃないのかな」
「まあ、難しいだろうけど」
「ん。‥‥‥ええと」
僅かな空白に続けて、
「ここも繋がったまま、とか?」
とんでもないことを何となく呟いて、
「うわ、何言っちゃってるんだろ私」
呟いてしまってから恥ずかしくなったらしい。途端に血が上った顔が赤く染まる。
「相変わらず迂闊だなあ菜月は」
「うう‥‥‥もう、そこは早く流そうよ。ね? ねっ」
「んー。どうしようかなあ」
わざとらしくそらっとぼける達哉。
「馬鹿ー、鬼ー、達哉の意地悪ー」
「散々な言われようですよ」
「ふーんだ‥‥‥あはは」
他愛ないことを言い合いながら、ふたりは笑った。
そうする間にも、ふたりの繋がったところからは、悦楽の残滓がまだ少しずつ流れ落ち続けている。
「このまま眠っちゃえたら、しあわせな感じなんだけど」
「風邪ひきそうじゃないか?」
まだ火照ったままの身体はさほど寒さを感じてはいない。だが、いくらエアコンが動いているとはいっても、裸のまま床に転がっているだけでは流石に不味いのだろう。
「でも私は布団あるし」
繋いだ手を菜月がぷらぷらと振る。
「え、俺は敷き布団だけ?」
「私の下はフローリングだよ? 敷いてるのバスタオル二枚だけだし」
床暖房などという気の利いた設備はこの部屋にはない。結局、上でも下でも大差はなさそうだ。
「お布団は干しちゃってて、服着ないとベランダに取り込みに行けないし、達哉の服もシーツも、乾燥終わるのはもうちょっと後だろうし‥‥‥って、よく考えてみたら私、実はすごく迂闊なことしちゃったのかな」
「もしかして、気づいてなかったのか」
「あは、ははは‥‥‥ごめん」
しかも今、ふたりを取り巻く状況は最悪であった。
「服が乾いたら、お薬買いに行こう。風邪薬」
それだというのに、明らかに的の外れた提案は、
「風邪ひくの前提で話してないか?」
「だって、達哉だけでいいよ、私。そのせいで風邪ひいても、今は、達哉とこうやって繋がってることの方が」
だが何故か‥‥‥優しい毒が染み込むように、達哉の耳に甘く響いた。
「しょうがないな」
満更でもなさそうに呟いて、菜月の横、頬が横顔に触れるくらい近くに、達哉は自分の頭を置く。
「菜月が風邪ひいたら、看病してもらえないからな」
菜月を包み込むように身体を預ける。
目を閉じると‥‥‥穏やかに鼓動を刻むふたつの心臓が『大丈夫よ』などと無責任なことを囁いているのが伝わってくるような気がする。
「ん‥‥‥そうだね」
菜月が目を閉じたのも、何故か、達哉にはわかった。
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