「たっ、達哉さん、止めないと! 仁さんと決闘だなんて、もし菜月さんに何かあったら」
仁と菜月が路上で睨み合っているのを見ただけで、野次馬でしかないミアの方が、早くも泣き出してしまいそうな勢いだ。
「いやいや、心配には及ばないよミアちゃん。軽く遊んであげるだけだからね」
おろおろするばかりのミアに仁はそう声を掛けるが、目前の菜月から目を離そうとはしない。
「ちょうどいい。達哉君もそこで見ていたまえ。どうやら君と菜月はこれからも長い付き合いになるようだからね‥‥‥今から君に、正しい菜月のしつけ方を伝授しよう」
特に構えをとるでもなく、だらりと下がった仁の手には、ステンレスの丸盆が一枚。
一見いい加減な態度のようでありつつ、対峙してみると意外に隙がない。
「まあ、兄君様もいい度胸ですこと。‥‥‥ごめんねミアちゃん、すぐ済むから」
対して菜月は、得意のしゃもじを右手に携える。左手は空。
イタリア修行を経てさらに進化を遂げたその威力は、既に誰もが知るところであった。
「達哉、菜月の家の兄妹喧嘩はいつもこんなに殺伐としているの?」
さしものフィーナも不安そうな顔で傍らに立つ達哉の袖を引くが、
「いや‥‥‥うーん。どうなんだろ」
そう言われても、『隣の家』は『自分の家』ではない。幾ら幼馴染みといえども、『自分の家』ではない鷹見沢家の中のことまでは、達哉には観察のしようもないのだった。
外野が首を傾げる間にも、渦中のふたりの間で火花は静かに散り続け‥‥‥しかし、今はただ、火花が静かに散り続けるのみ。
一触即発。
この状況を表現するに、これほど相応しい言葉が他にあるだろうか。
時は白昼。
処は往来の只中、トラットリア左門の玄関前。
殺意の神像と化したふたりは、足早に訪れた初夏の日差しにじりじりと灼かれながらも、互いの挙動のみに神経を研ぎ澄ましていく。
そうするうちに‥‥‥待ちかねた様子で玄関の中から顔を出した左門が、突然、ふたりに声を掛けた。
「おい、まだ終わらんのか?」
最初の風は、その刹那に起きた。
▽
まず、その場に仁王立ちの菜月が、右手のしゃもじを投げた。
突風の素早さで左の首筋に迫るそれを、楯にした丸盆で仁は難なく弾く。
が、びりびりと腕を伝った衝撃に、詰め寄る足が僅かに怯む。
「‥‥‥妹ながら」
突き刺さり損ね、その場に落ちたしゃもじの縁に沿って、丸盆の面が凹んでいる。凄まじいばかりの威力であった。
そしてその間に。
一体どこから出してくるのか、菜月の右手の中にあるふたつめのしゃもじは、投擲の予備動作を既にほぼ終えている。
「それはもう見切った」
臆することなく、仁が再び加速。
右手の丸盆が唸りを上げ、今まさに、菜月めがけて振り下ろされんとする。
「こっちだって!」
菜月は大きくバックステップ。前へ靡いたスカートの裾を、丸盆の縁が掠めていった。
同時にしゃもじを投げる。今度はまっすぐに、仁の右目へと迫るそれを、
「甘いっ」
だが今度は、首を左へ倒すだけの小さな動作で、仁はそれを躱してみせる。
「次は後ろから左!」
言い当てる言葉の通り、背中の先で反転したしゃもじは再び仁の後頭部めがけて飛来。
しかし、仁が見切った通り、舞い戻ったしゃもじは仁の左の頬を掠めただけだ。
虚しく空気のみを裂いて飛び続け、地面、投げた菜月の足元に、さっき丸盆に残したような傷痕を刻む。
そして、それを躱すべく右へ頭を振った動きすら利用して、必殺の丸盆は振り上げられ、振り下ろされた。
「菜月っ!」
見守る達哉が思わず声をあげた。
その傍らで冷静に推移を見守っていたフィーナは、トラットリア左門の玄関口へちらりと視線を走らせる。
そうしてほんの一瞬だけ垣間見た左門は、フィーナと同じように‥‥‥まるで勝負の行く末を既に見届けた人のように、小さく息を吐いている。
「決まりね」
呟く間にも、丸盆は菜月の胴を薙ぎ払おうと迫っていく。
「うわっなっなっ菜月さんっ!」
直後に事実となる筈の想像から逃れるように、ミアは両手で顔を覆い、その場にしゃがみ込んでしまった。
だが。
「甘ぁぁぁいっ!」
本当に、一体どこから出してくるのか‥‥‥今の今まで持っていなかった筈のしゃもじを握った、神速の左腕が一閃。
丸盆が身体に届くよりも僅かに速く、右に重心を傾けていた仁の右頬を見事なカウンターで射貫いたしゃもじが、まるで平手打ちを一万倍もしたかのような凄まじい音を響かせた。
「ばっ!」
ものも言えずに吹き飛ばされていく仁を置いて、左腕を振り抜いた菜月の足元に丸盆が落ち、くわんくわんと音をたてながらその場を這いまわり、そして、ぱたんと倒れる。
‥‥‥勝敗は決した。
誰がどう贔屓目に見ても、この勝負は菜月の完勝であった。
▽
「終わったな。ほら仁、菜月も店に戻れ」
まったく、昼時で忙しいのに。‥‥‥ぶつぶつ何かを言いながら、まるで最初から何事も起きてなどいないかのように、左門は店内へ引っ込んでいく。
「はーい」
菜月も平然と普通の返事をして、握ったままだった左のしゃもじを片づけ、投げた二枚のしゃもじを拾い上げる。
「って、だだだ大丈夫ですか菜月さん?」
「ん。私はね」
駆け寄ってきたミアやフィーナには笑ってみせたが、
「そのことよりも‥‥‥今みたいなの、本当は、達哉には」
しかし次の瞬間には、仁の介抱に向かった達哉の背中を、不安そうに見つめてしまう。
「そうね。こんな激しい兄妹喧嘩に、しかも普通に勝ててしまう女性と一緒に暮らしていくのだから、達哉も何かはできた方がいいのかも知れない、とも思うわ」
「‥‥‥一緒に、暮らしてくれる、かな」
蚊の鳴くような小さな声に、
「それは心配ないわ。だって、菜月がしゃもじを投げないから、達哉が菜月を好きになったのではないでしょう?」
フィーナは笑ってそう答えた。
「さあ、仁さんの手当ては私たちに任せて、菜月は取り敢えずお店へ。また左門さんが呼びに来る前に、ね?」
「あの菜月さん、もしよろしければ、わたし、仁さんの代わりにお店に」
「あ、ミアちゃんそれ助かるよ! ‥‥‥ってフィーナ、ミアちゃん借りちゃっていい?」
「もちろん。こちらのことは大丈夫だから、しっかりね、ミア」
「ありがとうございます!」
「それじゃお願いしちゃおうかな。一緒に来て」
「はいっ」
ミアと連れ立って、菜月は店内へ戻っていった。
「いたたた‥‥‥ああ、もう大丈夫だ達哉君」
ややあって、ふらふらと仁が起き上がる。まだ赤いままの左の頬が痛々しい。
「ところで仁さん」
「何だい?」
「結局、この喧嘩の原因って何だったんですか?」
訊ねた達哉は、
「ああ。実は、親父殿が妹君にと買ってきたケーキを、僕がこっそり食べてしまったのが気に入らないらしくてね。どうやらとても楽しみにしていたらしいんだが」
「‥‥‥は?」
そんな理由であったことに呆れて二の句が告げない様子で、
「そんな理由であの喧嘩では‥‥‥もちろん喧嘩をしないのが第一だけれど、それはそれとして達哉、やはり何か身につけておいた方がよいのではないかしら? 私やミアに残された時間は短いけれど、私でよければ力になるわ。剣術なら少し手解きもできると思うし」
続けて発された、いかにも心配そうなフィーナの提案に、頷きながら、深い深い溜め息を吐いた。
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