彼の母の娘I[26651004]  


  

「本当に、これでよろしかったのですか」
 訊ねたカレンの背中の向こう、閉じられた気密隔壁のあたりから、微かな空気音が聞こえた。
「よくないとしても、今更戻れはしません。仕方のないことを言わないで頂戴」
「申しわけありません」
 訊ねられたフィーナは少し苛立ったような声でそう答えただけで、カレンのようには、振り返ることをしない。
 じきにふたりが席に着いて、その往還船は地球を飛び立つだろう。
 搭乗者の数が予定よりもひとり少ないが、既に隔壁が閉じている以上、残るひとりの到着を待つことは最早ない。‥‥‥確かにそれは、『仕方のないこと』には違いなかった。
 月人、ミア・クレメンティス。
 フィーナと共に育ち、フィーナが最も信頼を寄せたメイドは、フィーナのもとを離れ、これからは地球で暮らす月人となる。



「代わりのメイドを探さなければなりませんね」
「不要です」
 気遣わしげなカレンの言葉をフィーナは言下に切って捨てる。
「ミアの代わりなどどこにもいません。誰にも、ミアの代わりなど」
「しかし、お側でお仕えするのがミアかどうかはさて置き、そういった役目の者が必要なことに変わりはないでしょう」
「私には、お付きのメイドはミアだけで充分です」
「ですから」
「だから、ミアさえよければ、これからもミアには、時々は私の側にいて欲しいと思っているわ」
 カレンは自分の耳を疑った。
 そうでないなら‥‥‥何やら気が違ったようにしか聞こえない言葉が、よりによってフィーナの声で、カレンの耳に届いたような気がしたからだ。
「‥‥‥あの、フィーナ様?」
 一旦はフィーナ様と共に月へ戻る決意を固めたミアを、半ば無理矢理、ミアの愛する達哉の側に置いてきたのは誰か。
 他ならぬフィーナ様ご自身であったのに。
「きっと、おかしなことを言っている、と思っているのでしょう?」
 フィーナは笑った。
「いえ、そのような」
 カレンの困惑を見通したようなその眼差しは、フィーナらしい聡明さを些かも損なってはいなかったが、
「よいのです。本当に、おかしなことを考えているのかも知れませんよ? 今の私は」
 何か楽しい悪戯を思いついた少女のようなその笑顔は、カレンの記憶に間違いがないなら、初めて目にする表情だった。



「カレン」
「はっ」
「ミアはこれから、どこに住むことになるのかしら」
「それは」
 朝霧家に、と言いたい気持ちはあるものの、本当にそれでよいのかどうか、測りかねている様子のカレン。
「私は、朝霧家で達哉やさやか、麻衣と共に暮らすのがよいと思います。でもそれでは、月人は月人居住区に、という地球側との取り決めはどうなってしまうのかしら? それに、だからといってミアを居住区に入れれば、共に達哉がいることによって、やはり取り決めが危うくなってしまうわ」
 妙に楽しそうに、とんでもない混ぜ返し方をするフィーナ。
「し、しかし今回の場合は‥‥‥いえそれよりも、それを仰るのがフィーナ様、というのは」
「それで、ミアはこれからも朝霧家のお世話になれるよう、カレンには取り計らって欲しいの。まずはそこから崩していきましょう」
「崩‥‥‥す、とは」



 僅かな間ではあるが、地球で暮らしたフィーナが知り得た多くのことの中には、こういったこともあった。
 フィーナやミアが『月人である』という理由によっては、満弦ヶ崎の人々や学院のクラスメイトは誰も、何も困ってはいなかった。
 ‥‥‥姫、という立場のことでは少し窮屈な思いをさせてしまったかも知れないが、それでも、混ざってしまえばどちらも同じ人間。言葉が通じ、想いを伝え合うことができるのだから、一緒にいて困る理由がないことくらい、本当は当たり前のことでしかない。
 そのことを身をもって確認できたことが、フィーナ自身にとっては、この留学でいちばんの収穫といえた。



 だからフィーナは思う。
「混ざってしまえばよいのです」
 一体何を恐れて、人間は同じ人間を狭い居住区に閉じ込めようとしているのだろう、と。
「月でも地球でも、ミアと達哉のように」
 共に過ごす機会が増えれば、例えばミアと達哉のような、相互理解と共存の素晴らしい体現者だって増えていくに違いないのに。
「これから月では、なるべく早く居住区の隔離を取り止めて、地球人が月のどこに住んでも構わないようにしましょう」
 少し遠くを見ていた瞳が、その真ん中にカレンを捉えた。
「いえ、お言葉ですがフィーナ様、それでは」
「だからといって勝手に人が月と地球を行き来できるわけではないわ。出入りの管理を変えない限り、今までよりも大きな問題など起こり得ません」
 正論であった。
 宇宙を泳いで渡ることが人間にできない以上、入国を許可してもよいと判断された異邦人しか存在しないことに変わりはない。
「しかし」
「地球の人と月の人が、混ざりあって共に暮らしていくことに不快感を持たない人を増やしましょう。それは交流を進める上で、心強い味方になってくれる筈です。まずは月で。悪い結果が出ないようなら、それを地球にも働きかけて。本当は月人も地球人も同じ人間だと気づいてくれる人をどんどん増やしながら、それを後押しするように、もっと多くの地域と交換留学を実施したり、満弦ヶ崎のように博物館を置いたり。そのうちに」



 そのうちに、すべての人間の頭の中から、そんな壁なんてみんな消し去ってみせるわ。
 フィーナが口にしたその言葉が‥‥‥一字一句、響く音のひとかけに至るまで、幸福な闘争の日々の中で何度も何度も耳にしたあの口癖とまったく同じであったことに気づいて、思わずカレンは目を瞬かせる。



「だから、そう遠くない未来に、ミアは地球と月とを好きな時に行き来できるようになるわ。いえ、なるのではなく、私がそうします」
 今、私の傍らにいるのは、誰だ?
 この出鱈目な、夢のようとすら評し難い絵空事を、まるで明日にも容易く実現してしまいそうに語る、このお方は一体誰だ?
「ミアはもう達哉の伴侶だから、もちろん達哉との都合が第一だけれど、これからは友人として、時々会って一緒においしいお茶を頂くくらい、達哉もきっと笑って許してくれるわ」
 本当にフィーナ様か?
「ほら。今ここに‥‥‥私の側にミアがいないことなんて、たったそれだけの、とても小さなことでしかないのよ」
 ‥‥‥本当に、セフィリア様ではない、のか?



「しかし、やはりそれでは、お付きの者が要らないことの理由には」
 試みに、カレンは儚い反撃を試みて、
「朝霧家の誰にお付きの者がいましたか。さやかにですか?」
 案の定、鮮やかに封じられてしまった自分の不甲斐なさに唇を歪める。
「達哉はミアをメイドとして迎え入れたのではないわ。ミアのことだから、普段の過ごし方は私と一緒だった頃と変わらないかも知れないけれど、達哉とミアはあくまでも、お互いの伴侶であり、対等なパートナーよ。それに、私よりも年若い麻衣でさえ、自分のことは自分できちんとしていました。遠く離れたとはいえ私は今も朝霧家の一員、いつまでもメイドがいなければ着替えもできないような情けない有様では、次にお会いした時に皆から笑われてしまいます」
 だが、そんな風に唇を歪めたりするから、
「ところでカレン‥‥‥私は何か、おかしなことを言っているかしら?」
 なおも挑発的に言葉を投げかけるフィーナの、燃え立つように強く輝く瞳の鏡に映るカレンの顔は、恐らく誰がそこを覗き込んでも、『不敵な笑みを浮かべていたように見えた』と言うに違いなかった。



 彼の母の娘を乗せて、往還船が飛び立つ。
 ‥‥‥この船が、今度はミアどころか『ちょっと遊びに来ただけ』の朝霧や鷹見沢の面々までもを引き連れて舞い上がり、女王となったフィーナを交えて、月のどこかでお茶を飲みながら楽しげに笑い合っている。
 カレンの瞳は既に、その遠くない未来をはっきりと見据えていた。

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