RISE ON GREEN WINGS.  


  

「すとらいき?」
 九月二十五日、月曜日。
 その夜遅く、帰宅したさやかから聞いた言葉を、達哉はそのまま呟いた。
「って、どんな病気だっけ? あれ?」
「違うってお兄ちゃん。病気じゃなくて、相手が言うこと聞いてくれるまでお仕事しません、ってことの方だよ」
 補足しながら、麻衣も少し呆れたような顔をしている。
「あ、そうか。ストライキってあのストのストライキか。‥‥‥スト?」
 ようやく合点はいったらしいが、やっていることは単なる鸚鵡返しであり、先刻と特に変わらない。
「ええ。ストライキ。月の王様はね、出番が少なかったから、って拗ねてるんですって」
「いや、拗ねてるってそんな。っていうか大体、その出番って一体何の」
「さあ? でも本当に、先週の金曜日に『もう仕事しない』って言ったまま、自分の部屋に立て籠もったままなの、ってカレンが」
 そんな理由でストライキを起こす王様が凄いのか、そんな理由で王様がストライキを起こしても機能不全に陥らない月王国が凄いのか‥‥‥達哉はそんなことを思い、
「あ」
 その次に、あることに気づく。
 事情はともかく、月王国が機能不全に陥っていないとしたら、それは不在の王に代わって公務に携わる者がいるからだ。そして当然、国王代理の重責を真っ先に押しつけられる者はといえば。
「そうね。今のところはフィーナ様もカレンも、この事態の収拾に掛かりっきりだそうよ」
 口には出さなかった達哉の危惧を、さやかは肯定した。
「よ‥‥‥よかったねお兄ちゃん、なんか、ええと、気楽そうなお仕事で。あは、あはは」
 本当はまるで心にもないことを言いながら、力なく笑う麻衣の頭にぽんぽんと手をやって、それから達哉は、覚束ない足取りで二階の部屋へと戻る。



 その年の夏、達哉とフィーナは、月と地球の関係に重大な影響をもたらすであろう事件の当事者となった。
 物見の丘公園に存在が確認された『遺跡』は、ごく近い将来に月と地球の距離を劇的に縮める筈である。だがそれは、いかに近いとはいえ、あくまでも将来の話だ。月と地球は今はまだ、例えば携帯電話のような気軽さで、いつでも好きな時に好きな相手と連絡がとれるというほどには近くない。技術の上でも、また、ひとの心の問題という側面においても。
 その上、学院の夏休みが明けた頃には、フィーナは月へ戻ってしまっていた。いくら将来を約束し合った間柄とはいえども、こう離れていては何も企みようもないし、仮に何か企んだところで、ふたりを隔てる三十八万キロの虚空はそう簡単に乗り越えられるものでもない。
 それ故に‥‥‥現実には『誕生日だ、という情報』以上の意味はないのだが、ともかくも事実として、九月二十九日はフィーナの誕生日であった。
「だからってなあ」
 ベッドに転がって、達哉は窓から月を見上げた。
 今週の金曜はフィーナの誕生日だ。そういう機会、あるいは口実に託けて、どうにかフィーナに会いたい、と思ってはいる。
 だがどうやら、現実はそれほど甘くはないらしい。
 例えばふたりともが、最初にいきなり『火急の場合を除き、連絡の手段は手紙以外にないとお考えください』と釘を刺されていた。大使館には月の王宮とのホットラインも設置されてはいるが、別にそれは達哉とフィーナの語らいのために用意されたものではない、と。
『ええ。達哉さんのお気持ちはわかります。そう‥‥‥最低でも年に一度くらいはお会いになれるように、こちらでも努力はしてみますが』
 中央連絡港へフィーナを見送りに行った時に、申し訳なさそうにそう言って、カレンは達哉に頭を下げた。
 差し当たっては、そんな風に訪れる苦難をすべて乗り越えていくことが‥‥‥そうして、後に続く誰かのために、自らの足跡で道を作っていくことが、フィーナと達哉が最初に為すべきことなのだろう、と今はわかる。
 そう、同じように月と地球の距離を越えて、ふたりの次に、そしてその次に結ばれるカップルが、ふたりと同じ苦しみを味わわなくても済むように。
「『僕の前に道はない。僕の後に道ができる。』だっけ」
 いつだったか、そんな言葉が国語の教科書に書いてあったのを思い出した。
 ふたりならどんな苦難でも乗り越えられると、少なくとも達哉は信じている。だから、達哉とフィーナの前には確かに道はないが、それすらも、いずれ乗り越えられる苦難のひとつでしかないと本気で信じていられる。
 だが、離れ離れのままで過ごす時間がこの先何年続くかもわからないままで‥‥‥達哉とフィーナは『ふたり』だ、といえるのだろうか?
 そんなことも達哉は思う。
 そう思いたくはなくても。






「‥‥‥ふう」
 九月二十六日、火曜日。
 玉座の脇息に両手で凭れて、フィーナは何度目かの溜め息を吐いた。無駄な飾り気のない大きな玉座は、そんなフィーナの姿をいつもより小さく見せる。
「姫さま、大丈夫ですか?」
 お茶を淹れながら気遣わしげな視線を向けるミアに、
「ええ、大丈夫よ。数は多いけれど、私はお話を伺っているだけだもの」
 フィーナはそう言って微笑みかけるが、謁見に訪れる者は引きも切らない。昨日までがそうだったように、分刻みのスケジュールに振り回される日々はまだまだ続きそうだ。
 今のフィーナはあくまでも国王の代理人であり、国王その人ではない。立場上、国王としての裁可を勝手に下すわけにはいかないから、彼女の主な仕事は、国王に代わって謁見者の話を聞くこと、そして裁可を繰り延べにすることに限られる。そういう意味では気楽なものだ。
 ただし、繰り延べは所詮繰り延べでしかない。
 未決のまま放り出された案件が玉座の横に山積みになっているが、当然、それをいつまでも、ただ積んでおくわけにもいかない。仮に、然るべき刻限までにライオネス王が現職に復帰しないような事態でも起きれば、その山をすべて片づけるのも結局フィーナの仕事になってしまうだろうし、そうでなくても、国王ひとりで捌ききれないとなれば、この山のうち何割かが王命によってフィーナに任される可能性もある。
 つまり、いずれであれ‥‥‥今の時点でこんなことでは、今度の金曜にフィーナが王宮を離れるのは難しそうな雲行きであった。
「父様はまだですか?」
 もうひとり、傍らに立つカレンにフィーナは訊ねて‥‥‥それから、どこか詰問するような口調になってしまった自分の声に眉を顰め、
「申し訳ありません」
 それでもカレンは謝ってくれるから、何か申し訳ないことをしてしまったような気持ちに胸を痛める。
「ごめんなさい、カレン。あなたのせいではないのに」
「いえ。お気になさらず」
 未熟な女王は、自らが未熟であることを心得ていた。
 それはとてもよい資質だとカレンは思う。
「率直に申しまして、謁見を求める者の数がいつにも増して多いのは、恐らく陛下よりは姫の方が与し易いと考える者が多いからです」
 だからカレンは、未熟な女王に厳しいことも言う。
 自らが未熟であることを心得ている彼女の女王陛下は、ここで甘やかされることを望まないと思うからだ。
「薄々、そんな風にも思ってはいたのだけれど。やはりそういうものかしら」
「残念ながら。しかし今はともかく、ここをどう乗りきるかで、いずれ女王となった姫を彼らが見る目は変えられるでしょう。正念場です、フィーナ様」
 彼女の女王陛下は、これくらいのことで挫けはしない。
 いくらカレンがそう信じていても‥‥‥眼前の状況がこんな風では、つい考えてしまいたくなることもある。
「そういえば、今度の金曜はフィーナ様の」
 誕生日だからといって、彼女の女王陛下に贈り物など渡したところでどうなるものでもない。
 そんなことよりも、できるなら一度、せめて一目だけでも、女王陛下を彼と引き合わせることができたなら。
「ええ。憶えているわ。でも、残念だけれど、今はもっと優先順位の高いことが目の前にあるのだから。カレンも仕方のないことを言わないで頂戴」
 何かを振り切るようにフィーナはそう言って、紅茶のカップを受け皿に戻す。
 ‥‥‥姿勢を正した国王代理の前に、次の謁見希望者が連れられてきた。






「あ、お兄ちゃん、お帰り」
 物音を聞きつけて、キッチンから麻衣が顔を出した。
「ただいま‥‥‥って、あれ?」
 九月二十七日、水曜日。
 居間に入った達哉は、
「お、来たのか。いつからこっちにいるんだ?」
 リビングで麦茶を飲んでいるリースの姿を見つける。
「さっき着いた」
「そっか。やっぱり飯?」
 こくん、と頷く‥‥‥そんな簡単な理由で月と地球を行き来できるのだから、いい身分というか何というか。
「そっか。それじゃ早く、って姉さんは?」
「ん。今夜は遅くなりそうだから、ってさっき電話が来たよ。それと、戸締まりはきちんとね、って」
 言いながら麻衣は半分笑っている。
「正直、戸締まりは姉さんがいちばん怪しいんだけど」
 つられて達哉も笑ってしまう。
 いつもそうだ、ということではないが‥‥‥どこかで酒を飲んできた晩のさやかは、時々、玄関の鍵を掛け忘れることがある。
 酷いと扉自体を閉め忘れていたり、挙げ句そのまま上がり框に突っ伏して朝まで寝ていたりもする。
「んー。お酒飲んでても、わたしたちが起きてる間に帰ってきてくれればねー」
 どこに出しても恥ずかしくない自慢のお姉ちゃんではあるが、妙なところでそそっかしい点と、お酒で前後不覚になる点は、できれば何とかして欲しいものであった。



「えーっと、それでお兄ちゃん、明日もバイト?」
 どこか落ち着かない顔の麻衣が、急に話を変える。
「え? そうだけど」
「その、明後日、も?」
「うん。入ってる」
「そうなんだ‥‥‥」
「あれ? 何かあったっけ?」
「何かって、もしかしてお兄ちゃん、憶えてないの? 誕生日だよ。フィーナさんの」
「ああ。そのことか」
 達哉の顔が目に見えて曇る。
「知ってるよ、もちろん」
 だからどうしろっていうんだ。
「でも」
 こんなに離れて、連絡も取れないで、一体フィーナのために何をしてやれるっていうんだ。
 一緒に口から零れてしまいそうになる言葉を無理に呑み込み‥‥‥急に踵を返して、二階の部屋へと戻っていく達哉の背中を見送って。
「あ、ちょ、ちょっとお兄ちゃん! ごーはーんーっ!」
 何とはなしにそのまま見送ってしまった背中に向かって、おたまを振り回しながら大声を張り上げるが、
「もうすぐできるから、ちゃんと降りてきてねーっ!」
 あんな調子で、達哉はちゃんと聞いてくれただろうか。
 それで、夕食ができたら、みんな揃って‥‥‥ちゃんと笑って、食卓を囲めるだろうか。
 何だか、麻衣の胸まで苦しくなってしまう。
「いつまで忘れてるのかな、お兄ちゃん」
 ぽつりと呟いた麻衣の目の前では、
「別に」
 相変わらず澄ました顔のリースが、
「忘れてるなら、それに越したことはない」
 端然とそこに座したまま、冷たい麦茶を飲んでいる。






「本日の謁見希望者は以上です」
 九月二十八日、木曜日。
 カレンが告げると同時に、フィーナは大きく息を吐いて、その場に項垂れた。
「流石に、お疲れのご様子ですね」
「ええ‥‥‥本当は、これくらいで疲れていてはいけないと思うのだけれど」
「いえ。国王代理として、フィーナ様もよくお勤めでいらっしゃると思います」
 率直に、カレンは答える。
 お世辞で物を言う人間ではないから、多分、本当に思った通りのことを言っているだけ、なのだろう。
 フィーナはそう考える。
 ‥‥‥そう、
「お世辞は言わないけれど、嘘はつくのね、カレン」
「フィーナ様? 一体、何を」
 フィーナに対して意に沿わない嘘をつき続けなければならなかったカレンにとっては、それがせめてもの誠意だったのではないか。
 フィーナは、そう考える。
「最初に話を聞いた時から、大方察しはついていました。『ストライキ』などではないでしょう? 父様がお部屋から出ていらっしゃらないのは」



 大体、おかしなことばかりなのだ。
 『出番が少ない』という理由で、一国の王が国王職を投げ出してから一週間が経つ‥‥‥そもそもストライキとは、雇用主との条件闘争を優位に運ぶために労働者が目論むことだ。王制国家の頂点たる国王がストライキなど起こして、誰と条件闘争をしようというのか。
 もうひとつ。ストライキが条件闘争の一環であるからには、起こした方には当然、相手に認めさせたい条件が何かある筈なのだ。‥‥‥然るに、ライオネス王は何を言うでもなく、ただ単に閉じ籠もっているだけである。普通、そういう行動をストライキとは言わない。
 それに、連日あれだけの謁見希望者がやってきて、その全員が王の不在を報されている筈なのに、王宮外でそれを人々が取り沙汰するでも、自堕落な王を糾弾する声が届くでもなく、表向きは粛々と王国が運営されている風を装えている、のは何故なのか。



「最初から織り込み済みの事件だから、でしょう? この件に関わった私以外の全員‥‥‥全員とは言わないまでも、かなりの人数が、そのことを予め承知している」
「仮にそうだとして、それでは、フィーナ様は今後どうされますか?」
 質問に質問で返すカレン。
 答えになっていない答え方、ではあるが‥‥‥それが否定を意味する言葉でなかったことが、フィーナに事の真相を告げてしまっている。
「どうもこうもありません」
 呆れたような溜め息に続けて、
「もちろん、父様がお部屋から出ていらっしゃるまでは、このまま代理を続けます」
 躊躇いなく、フィーナはそう答える。
「そこまでご存知であるならば、今その玉座を投げ出したとしても、誰もフィーナ様を誹りはしないこともおわかりでしょう。それに、明日は」
 試すようなことを言うカレン。
「仕方のないことを言わないで頂戴」
 恐らくは自分の胸にも秘めているのであろう淡い何かごと‥‥‥カレンがその言葉に込めたものを握り潰してみせるフィーナ。
「申し訳ありません。出過ぎたことを」
「よいのです。では、明日もいつものように」
 玉座を離れ、自室へ引き上げていくフィーナの背中を見送りながら、もう一度、カレンは思う。
 ‥‥‥せめて。
 せめて一目だけでも、彼女の女王陛下を、彼と引き合わせることができたなら。






 そして九月二十九日、金曜日。
 せっかくのフィーナの誕生日だというのに、あまりにも何の変哲もないまま、ただ時だけが過ぎていき。
 いつものように達哉は学院に通い、それから左門のバイトに励み‥‥‥それとほぼ同じだけの間、フィーナは国王代理業と格闘して。
 本当に、ただそれだけに明け暮れてしまった。






「とうとう過ぎちゃったね、フィーナさんの誕生日」
 九月三十日、土曜日。
 達哉よりも恨めしそうな目つきで、さっきから麻衣が壁に貼られたカレンダーを睨んでいた。
「どうでもいい」
「むー。冷たいぞー、リースちゃーん」
「ワタシがここにいることに気づいてないなら鈍すぎ」
 我関せず、とばかりに言い捨てて、
「気づいてるのに何もしないなら、それはタツヤの勝手」
 リースはコップから麦茶をひとくち。
「でも、本当にそんなこと思ってるなら、わざわざ地球までご飯食べに来たりしなかったんじゃないのかな?」
「だって‥‥‥ご飯は地球の方がおいしい」
「それだけ?」
「フォークの使い方もちょっと思い出した」
「そっか。それじゃご飯はパスタにしよっか?」
 今はまだ、朝とも昼ともつかない半端な時間だ。
 これから作れば昼食だろう。
「悪くない」
「ん。じゃ、そうしようね」
 ぱたぱたと足音をたてて、麻衣がキッチンへ向かう。



 キッチンやリビングへ続く扉の脇。
 達哉は何となく壁に凭れて、聞くともなしに、ふたりの話を聞いている。
 ‥‥‥『鈍すぎ』、の方ではない。
 実情に近いのは『タツヤの勝手』の方であった。
 月と地球を渡る方法になど、心当たりは幾つもある。
 例えば、昔はリースがそうしていたように、姿を消せば往還船にも潜り込める。だが往還船は基本的に不定期便だし、片道だけで何時間も掛かってしまう。
 そして、近頃リースが勝手に常用しているらしい、往還船よりも圧倒的に簡単で便利な方法の存在を一ヶ月ばかり前に見出したのも、他ならぬ達哉とフィーナだ。
 そんな大切なことを忘れられる筈がなかった。
 ただ。



「多分、そうやって待っていても、フィーナ姫はタツヤのことを呼んだりはしない。今はふたりともが、誰かの合図を待っているような状態だからな」
 誰に言うともなくリースが呟いた。
「だがやはり、ふたりとも忘れているよ‥‥‥大体、この夏にあれだけのことを成し遂げたふたりには、一体誰がそんな合図を出してくれていたというのだ?」
 ‥‥‥違う。
「ふたりの絆は、誰かの顔色を窺いながら手に入れた絆などではなかった筈だろう。そうしなければ手に入れられなかったものが、そうしなくても護れるのか?」
 その声は明らかに、達哉に語りかけるものだった。
「気づいてたのか」
「私を誰だと思っている」
 壁から背中を引き剥がし、リビングへ入っていく。
 隣のソファに腰を下ろすと、緋色の瞳がじっと達哉を見つめた。
「リースもあれで心配している。食事がどうこうなどは下手な言い訳に過ぎない。まあ正直、それは私も嬉しいが」
 フィアッカだった。
「まあともかく、用があるなら早くするのだぞ。ふたりの我儘に付き合うために、また気まぐれで月へ戻ってしまうリースを引き止めるつもりまではないからな」
 唐突に‥‥‥すっと、瞳の緋色が引いていく。
「あれ、お兄ちゃん起きたの?」
「ああ。おはよう」
 リースの身体を置いてリビングを出て行ったフィアッカと入れ替わるように、キッチンからは麻衣が出てきた。



「今までと比べると、今日は幾分少ないようね」
「そのようです」
 夕刻を待たずして行列が途切れた。
「姫さま、お茶をお持ちしました」
「ありがとう」
 ミアの入れてくれたお茶を飲みながら、フィーナはふうと息を吐く。
「あとは残務の整理だけれど‥‥‥」
 残務とは、一週間以上もの間、積みに積まれた未決案件の山だ。最早半端な量ではない。
 それに対して今のフィーナにできることがあるわけではないのだが、そうはいっても、これはいずれ処理されなければならない。
 ‥‥‥どうするつもりなのだろう、父様は。
「カレン、父様はまだ」
「はい。閉じ籠もっておいでです」
「今の状況でも、トレーニングにしては少し度が過ぎていると思うのだけれど‥‥‥他に意図があるのかしら」
 玉座に腰掛けたまま、フィーナは腕組みして考え込む。
「これは私見ですが、落とし処の問題かも知れません」
「落とし処?」
 カレンは少し声を潜めた。
「陛下は、事態がフィーナ様の手に余ってしまう時期を、現在のこの状況よりもかなり早いものと考えておられたのではないでしょうか」
 そうして、音を上げたフィーナのところにひょっこり現れた王が、瞬く間に事態を収拾していく。それに、その段階ではまだ、予め織り込まれた繰り延べの期限までにも充分な猶予がある。
 ‥‥‥筈、とでも言いたいのだろうか。
 本当にそうだとすれば酷い話だ。
「ところが、繰り延べにした案件の期限も差し迫っているというのに、フィーナ様は未だに玉座を死守しておられます。有り体に言えば、そのせいで陛下は、事態の収拾に乗り出す機会を失ってしまった」
 しかもこれでは、国王不在の月王国を支えるために今まで頑張ってきたフィーナの方が、まるで悪人扱いだ。
「いっ、いくら何でもそれは酷いですっ! それでは、ここまで頑張ってこられた姫さまが、あまりにも」
 フィーナには言えない気持ちをミアが代弁した。
「ミア。気持ちは嬉しいけれど、何もカレンが望んでそうしたことではないわ。だからそれくらいに、ね」
「姫さまっ!」
「それで、この事態を八方丸く収めるために」
 口の端に笑みを浮かべて、
「カレンは私に、ここから逃げ出せ、というのね?」
 突然、フィーナは話を変えた。
「二十九日は私の誕生日だからと、以前から何度か言ってはいたけれど‥‥‥あれは本当にけしかけていたのね」
「ご明察、恐れ入ります」
 最早カレンは否定しようとすらしない。
「仮にも王国の重鎮が、玉座を投げ出すことを国王代理に奨めるなんて。王国の将来が心配だわ」
 言いながら、フィーナは笑ってしまっている。
「でも、わかっているのだから出ていらして、と言ったところで父様は出ていらっしゃらないのでしょう。ここは父様の顔を立てるしかないようね」
「でも姫さま‥‥‥わたしは悔しいです‥‥‥」
「私もよ、ミア。でも今はそれでいいの」
 笑いながら、フィーナはハンカチで軽く目元を拭った。



「本当はね、カレン」
 暗い地下道を、ふたりは並んで歩いている。
「カレンがここへ達哉を連れてきてくれるのではないかと、少し期待したこともあったのだけれど」
「それは私も考えましたが、ひとつには、達哉さんがいらしたことによって執務が滞っては本末転倒かと」
「まあ。酷いことを言うのね、カレンは」
 涼しい顔のカレンの脇で、フィーナは頬を膨らませる。
「それに、そうして滞った方が、結果的には事態の収拾も早かったのではないかしら?」
「仰る通りですが‥‥‥もうひとつ。先日フィーナ様は、達哉さんと共に歩む未来を勝ち取られました。誰に言われるでも、誰に与えられるでもなく、それぞれの、ご自身の力をもって」
 僅かに居住まいを正す気配。
「そうして勝ち得たものを、今度は何も言わなくても他人が簡単に与えてくれると‥‥‥本当に、フィーナ様はそうお考えですか?」
「そうね。カレンの言う通りだと思うわ」
 一瞬の間を置いて、フィーナは頷いた。
「さあ、もうすぐ着きます、フィーナ様」
 唐突に視界が開けた。
 居住区域ではない、剥き出しの月面。
 そこに建っているのは。
「軌道重力トランスポーター‥‥‥」



 外はもう真夜中だ。
 見上げた月を指すように、青いオブジェが聳えている。
 その表面に光の模様が走り、壁面にぽっかりと四角い穴が開く‥‥‥まるで、達哉とリースがそこに着くのを待っていたかのように。
「なんでもう動いてるんだ?」
「知らない。多分、月で何かしているから」
 さして驚いた風でもなく、リースはとことこと四角い穴の中に踏み込んでいく。
『タツヤは射出区域へ。適当なカプセルで待っていて』
 スピーカ越しの遠い声が達哉の耳に届いた。



「私には操縦できませんが、教団の有識者が遠隔操縦を担当してくれるそうです」
 月側の射出区域では、手近なカプセルに潜り込むフィーナの姿をカレンが見つめている。
「それよりも‥‥‥少し気になっているのだけれど、これも密航というのではないかしら、カレン?」
「いえ。この施設を使った人の出入りも、現在は大使館で管理しています。リースのように勝手に使われては困りますが、私がここにいるのですから問題はありません」
「なるほど。わかったわ」
 そういうことなら、問題はなさそうであった。
『準備はお済みですか、フィーナ姫』
 カプセルの中に、教団の有識者、とやらの声が響く。
 意外に若い女性の声だ。
「ええ。よろしくお願いします‥‥‥ええと」
『申し遅れました。エステル・フリージアと申します』
 素っ気ない自己紹介。
「ありがとう。では改めて、よろしくお願いします、エステルさん」
『承りました。それではハッチを閉じてください。地球側の施設は起動済みのようですので、すぐに出発します』






 十月一日、日曜日。
 午前零時を僅かに回った頃、ふたつの大地から、ひとつずつの流星が放たれた。
 それは月と地球からちょうど十九万キロのところで擦れ違い、さらに十九万キロの距離を凄まじい速さで疾駆して、あっという間に、反対側の大地に辿り着く。



『誰?』
 地球に着地したカプセルの中に、さっきとは違う声が響いた。
「その声はリースね?」
『‥‥‥フィーナ? なんで』
「え? なんで、って‥‥‥だって」
『とにかく、コントロールルームに来て』
「ええ。わかったわ」
 ともかくも、カプセルを降りたフィーナは、青いオブジェの中へと向かっていく。
 果たして、そこにはリースがひとりで立っており、
『フィーナ!』
 正面、向かって左側の、少し小さな‥‥‥月側の施設と通信を行うためのディスプレイに、
「た、達哉? どうしてっ」
 つまり、月から地球に向けて送られてくる映像の中に、達哉の顔が映し出されているのだった。



「どうしてもこうしてもない」
 ふてくされたようにリースが言う。
「発射がほとんど同時だったし、操縦のこともあるから止められなかった。カプセルが途中でニアミスして、遠隔操縦してる方は気が気じゃなかった」
 口ぶりからして、操縦していたのがリースでなければ最悪の事態すらあり得た状況らしい。今更ながら、フィーナの背中を冷たい何かが滑り降りる。
「そ、それはごめんなさい、リース。‥‥‥それで、それで何故達哉が月に」
 どうしてもそのことが気に掛かるのか、フィーナはやや取り乱した様子だ。
「だから、タツヤはフィーナが地球に来るのを知らなくて、フィーナに会いに月へ行った。フィーナもタツヤが月に行くのを知らなくて、タツヤに会いに地球に来た。それが同時だったからぶつかりそうになった。それだけ」
 終わってしまえば何のことはない。
 極度の連絡不行き届きに端を発する、それは、人類史上最長距離の一大すれ違い活劇であった。



「そのディスプレイ越しなら話ができるから、次はどっちが移動するのか決めて。外で待ってる」
 それだけ言って、リースはコントロールルームを出て行こうとする。
「次、って?」
「せっかくふたりとも、自分で会いに行く気になれたのに、擦れ違ったまま通信だけして終わり?」
「‥‥‥ああ。そうね」
 頷いた頃には、リースは部屋から去っていた。
 フィーナがディスプレイに向き直る。
「ようやく会えたわ、達哉」
『ええと‥‥‥久し振りだな、フィーナ』
 ディスプレイの向こうで、達哉はばつが悪そうに頬を掻いている。
「そうね。お互い、月と地球を渡るようなことまでした割には、ちょっと距離が遠いけれど」
 どうにも笑えない話だ。
「それよりも達哉。今日のところは、地球へ戻ってきてくれないかしら」
『え。俺が?』
「ええ。そこにカレンがいるなら、話を聞いてもらえるといいのだけれど、私、王国から逃げてきたの。だから今は、月にはいられないわ」
 笑いながら、フィーナはとんでもないことを告げた。
『逃げ‥‥‥まあ、話は後だ。すぐにそっちへ行くよ』
「ええ。今度は待っているわ、達哉」
 小さく手を振って、ディスプレイから達哉が消えた。

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