「さあ」
振り返ったミアは、涙でくしゃくしゃの顔のまま、笑いながら何かを言ったが、
「帰りましょう、皆さん」
その言葉は、発進してゆく往還船の遠い轟音と、残る三人の耳の奥で延々と木霊を繰り返す‥‥‥恐らくは全員同じの、たったひとつの言葉に掻き消され、音として耳に届いたことに三人が気づく前に、再び静まり返ろうとする出発ロビーの空気へと溶けていってしまう。
「達哉さん?」
「‥‥‥ミ」
「み?」
ミアは笑っている。
「ミアは」
今はまだ、ミアを抱きしめてはいけないような気がして、そうする代わりに両肩に置いた達哉の手に、華奢なミアの肩を握り潰してしまいそうなくらいの力が篭るが、
「ミアは‥‥‥っ」
それでも。
肩の痛みを訴えるでなく。
今でも時折零れる涙を払うでもなく。
ミアはただ、静かに笑っている。
今、生涯の主と定めたフィーナと離れ、ミアは地球にひとり残った。
そうすることをミア自身が選びとったのではない。一度はフィーナと共に月へ戻ると決意したミアを、半ばは無理矢理、フィーナが地球へ置き去りにしたようなものであった。
それが誰の本意であろうと、また誰にとって不本意であろうと、ともかくも今はそれが結果である。出てしまった結果が今更変えられるわけではないのだから、こうなったら達哉は最早、地球人代表の威信にかけても、月人代表のミアと一緒に末永くしあわせになる他はない。
もちろん、達哉の方にしてみれば、それはまったく望むところであるだろう。
だが。
だが、ミアは。
達哉に寄せる想いに自ら幕を引いてまで、一度はフィーナと共に月へ戻ると決意したミア、は。
『ミアは、これでよかったのか?』
不思議そうに首を傾げるミアに、誰もが聞きたいそのことを、しかし、誰もが聞けずにいる。
窒息した魚のように口をぱくぱくさせるだけの達哉たちを前にして。
「わたし、さっき」
嬉しいことを話すように、ミアが話し始める。
「姫さまにお願いされちゃいました」
ミア、これまで、私の世話を見てくれて、本当にありがとう。
あなたは、ここに残りなさい。
「だけどミア、帰るってミアが決めたんだろう? それを‥‥‥そりゃ、残ってくれて俺は嬉しいけど、それとこれとじゃ」
いちばん訊きたかった、だがいちばん訊きたくなかったそのことを、とうとう、達哉は訊いた。
「はい。ですからわたしも、もしもあれが命令だったなら、姫さまをお諌めしてでも一緒に戻ったと思います」
その答えは極めて明瞭で、
「え?」
だが同時に、意味するところはさっぱりわからなかった。
「怒ったわたしは本当は恐いと、先日のことで、きっと姫さまにはわかっていただけていると思いますから、そうなっていたら多分、達哉さんとは」
「‥‥‥はあ」
恐らくはミアを除く全員が、『怒ったわたしは本当は恐い』の部分について否定的な見解を持っていた筈ではあったが、それも、誰も口にはしなかった。
「でも、姫さまがわたしにくださったあの言葉は、お願い、だったんです。命令じゃなくて」
思い出したように手の甲で涙を拭いながら、
「それでわたし、わかっちゃったと思うんです。ああ、姫さまにはもうメイドは必要ないんだ、だからお願いなんだ、って」
とても嬉しいことを話すように、ミアは言った。
「‥‥‥ああ、なるほど。そういうことなのね」
何か得心がいったのか、さやかがぽんと両手を合わせた。
「‥‥‥あ、そっか! それでお願いかー。ん、それはミアちゃん、そのお願いは聞くしかないよね」
何か得心がいったのか、次いで麻衣がうんうんと大袈裟に首を振った。
「はい! ですから‥‥‥ですからもう、姫さまのそのお願いは是非とも聞いて差し上げなくては、とわたしも思いました。それで、わたしが決心したこととはちょっと違いましたが、無理は言わずに、ここに残ることにしたんです」
まだわかっていない達哉を他所に、残る三人だけが頷き交わしている。
「いや、っていうかそれ、俺には全然」
「あらあら」
ミアに目配せをしてから、さやかが人差し指を立ててみせた。
「フィーナ様はね、達哉くん。ミアちゃんに、達哉くんのところに残りなさい、とだけ言ったわけじゃないの」
「そうそう。考えてみてよお兄ちゃん、お願いだよ? ミアちゃんが断っちゃいけない命令じゃなくて、ミアちゃんが自分の考えで断ってもいいような言い方を、フィーナさんはわざわざ選んでるんだよ。それって‥‥‥ね、ミアちゃん?」
麻衣が引き継いだその話が、
「はい。とても恐れ多いことですが、わたしも、そういう意味だと思いました」
ミアのところへ戻ってくる。
「フィーナ様は、達哉さんや、朝霧家、鷹見沢家の方たちや‥‥‥僭越ですが、きっとわたしにも」
これからも、ずっとお友達でいて欲しい、って仰りたかったんだって。
そう、思ったんです。
これまでにもフィーナは、ミアに対して『お願い』という表現をしばしば使ってきた。
しかし、言う者と言われる者の立場が対等でなければ、『お願い』は真に『お願い』としては作用しない。
傅く者に対する傅かれる者の気遣いのようなもの。メイドであるミアに対するフィーナの表現は、フィーナがどんな想いを込めてその言葉を発しようとも、それ以上にはなり得なかった。
「そうか。それじゃ、フィーナのあの言葉は」
あなたは、ここに残りなさい。
‥‥‥これが、私からの、最後のお願い。
そうだ。
最後の『お願い』。
フィーナは確かに、ミアにそう言った。
だが違う。
遠く離れるからこそ。
フィーナとミアの間でこれまでずっと続いてきた、お姫さまとそのメイド、という関係が終わる、今、この時だからこそ。
敢えて『お願い』を口にしてもよい相手が自分にもいる、ということの証を。
そういう絆が、これからもずっと自分と共にある、という約束を。
その時、多分初めて、フィーナはそれをミアと共有したいと強く願ったのだ。
『お願い』が真に『お願い』として作用する相手を持ち得なかったフィーナにとって。
「あの言葉は‥‥‥最後なんかじゃなくて、本当は、いちばん最初のお願いなんだ」
呟いた達哉の言葉に。
ミアが、そして麻衣とさやかが、深く、深く頷く。
「だからお兄ちゃん。多分フィーナさんの方には、このままずっとミアちゃんと離れ離れでいる気なんか全然ないよ? せっかくできた初めての友達なんだもん。たまにはミアの淹れたお茶が飲みたいわ、ちょっと月まで遊びに来ないかしら? くらいのことはすぐに言い出すよ、きっと」
冗談めかして麻衣は言うが、
「そしたらもう、あのフィーナさんのことだもん。ミアちゃんに気兼ねなく月へ遊びに来てもらうために、邪魔な壁なんかぽんぽん蹴っ飛ばして、国交ぐらい簡単に正常化しちゃうかも知れないよ?」
それを冗談で済まさないことがフィーナになら可能な筈であると、この場の誰もが信じていた。
「まあ。それは大変。達哉くんとミアちゃんが仲よく暮らしているだけで、月と地球の友好関係がどんどん進展しちゃうのね。何だか私も、これからもっと忙しくなりそう」
今でさえ日々の業務に散々忙殺されているくせに、そんなことを言いながら、さやかは楽しそうに笑った。
「ですから達哉さん、それから麻衣さん、さやかさん。‥‥‥あの、こんなことになっちゃいましたけど、わたしは大丈夫です、といいますか、ええと、その」
今度こそ達哉は、もじもじと言い淀むミアの身体をきつく抱きしめる。
「他の誰かじゃない、ミアが決めたことだから、月へ帰るならちゃんと笑って見送ろうと思った。本当は引き止めたかったけど、それでも一回はちゃんと我慢したんだ‥‥‥そんな我慢なんか二回もしないからな。離さない。もう何があっても絶対に離さない! これからもずっと一緒だ、ミア!」
「はい! ずっと、ずっと一緒です、達哉さんっ!」
ミアの細い腕は、少しの躊躇いもなく、達哉の背中に回る。
「‥‥‥あーあーもう、人前で堂々と」
「‥‥‥今日のところは大目に見るけど、あれはお姉ちゃんもあんまり感心しないわね」
そのまま唇を重ねるふたりを置いて、麻衣とさやかはぼそぼそ言い合いながら出発ロビーを後にする。
そして。
「さあ、帰りましょう、達哉さん」
ふたりの唇が離れた頃になってようやく、
「ああ」
掻き消され、空気に溶けていってしまったミアの最初の言葉が、達哉の耳に届いた。
|