second coming.[26660223]  


  

 昼でも夕方でもないような中途半端な時間帯をわざわざ狙ってきたというのに、それでも、左門の席はそれなりに埋まっていた。
 玄関口からきょろきょろと店内を見回し、
「おーっ、いたいた。よっ旦那」
 店内に達哉の姿を見つけるなり、翠は駆け寄って軽く背中を叩く。
「うわ‥‥‥って、こら。誰が旦那だ」
 困ったように達哉は笑うが、両手に皿を載せたままではそれ以上の反応もできない。
「ね。空いてる席、ある?」
「んー、それじゃそっちの壁んとこのテーブルな。もうちょっと手が離せないけど」
「はーい」
 示された席に着いて、頬杖をついた翠はにこにこと達哉の背中を眺めている。



「お待たせ」
 まだ頬杖をついていた翠の目の前に、紅茶とフルーツタルトが差し出された。
「お勤めご苦労」
「おう」
 正面の椅子に腰掛けた達哉に気づいて、翠は調子よく手を挙げてみせる。
「でも珍しいな、遠山が来るなんて。夏に何度か来ただけだろ、確か?」
「ん。まあ、今日のことは、今日じゃないとダメだから。ほい、これを朝霧君に」
「え?」
 翠の手が差し出すのは、リボンが掛けられた、赤い、小さな包みだ。
「これ、もしかして、バレンタインの?」
「ん。そんな感じの奴」
「いや、それは‥‥‥それに、だったら一日早いんじゃないか? 今日は十三日だろ?」
 確かにその日は二月十三日。
 達哉の言う通り、世間一般的には、チョコレートの日はその翌日であった。
「だって朝霧君は、どーせ明日は用があるでしょ? だから今日にしとかないと、明後日こっちにいるかどうかもわかんなかったし」
 そして、それもまた、翠の言う通りで。
 離れて暮らすようになってからもうじき一年が経つ‥‥‥恋人が住まう遠くの街へと、明日、達哉は出掛けていく。



「そうだな。だからやっぱり、こういうのは受け取れないよ。悪いけど」
 僅かに居住まいを正して、はっきりと翠に告げる達哉に、
「あははっ。そんな気にしなくても大丈夫だよ。菜月にはもう、今日渡すよって言ってあるし」
 何でもないことのようにそんな答えを返して、翠は屈託なく笑った。



「菜月に?」
「そうそう。昨夜電話したんだけどね、いきなりそういう風に切り出してみたら菜月すっかりカタくなっちゃって。それがもう、声の感じなんか今の朝霧君とそっくりで、いやー、昨夜くらい『テレビ電話が欲しいっ』て思ったことはなかったなあ」
 翠はまだ、おかしそうに笑っている。
「‥‥‥それで、菜月は何て?」
「ん。『渡しちゃダメ、って言っていい?』って、すっごい真面目に訊かれたよ‥‥‥そんな心配しなくたってさ、こんなチョコひとつくらいで旦那がどうこうなっちゃったりなんかしないのに。そうでしょ?」
「まあ、それはそうだけど」
「はー‥‥‥」
 笑い疲れたように、声と一緒に大きく息を吐いて。
「だからね。朝霧君のことは今でも好きだし、こんな風にチョコだって渡すけど、それはね、菜月から朝霧君を取り上げたいとか、別にそういうことじゃないよ。だから日付もズレてていいし、先に菜月に話しちゃったっていい」
 目尻に溜まった涙を払って。
「朝霧君にはちゃんと振られた。菜月と一緒でしあわせなのもずーっと知ってる。わたしが割り込もうとしても全然ダメだったこともね。だから、今はまだいないけど、朝霧君じゃない誰かのこと、これからちゃんと好きになれるよ。そうじゃなきゃって思う」



 わたしの、そういう気持ちのこと、菜月と朝霧君には知っていて欲しい。
 今のわたしのそういう気持ちに、行き場が欲しいだけなんだ。
 ‥‥‥さっきまでとは違う笑顔を見せて。
 それから、赤い包みを達哉の手のひらに載せた。



「だから明日、それは菜月とふたりで食べてね。そう思って、ちょっとおもしろいのにしてあるから」
「何だその『おもしろいの』って?」
「開けてからのお楽しみ」
 さらに違う笑顔を見せて、翠はフルーツタルトを頬張った。
「ふーん‥‥‥」
 試しにそれを蛍光灯に翳してみたが、達哉の目には、何も透けては見えなかった。
 ‥‥‥嫉妬のようなものも、あるいは、未練のような何かも。
「あ、マスターが呼んでるよ?」
 口から離したフォークの先が指した厨房の中で、左門が達哉を呼んでいた。
 どうやら休憩時間はそろそろ終わりのようだ。
「お、っと。それじゃこれは受け取っておくよ。わざわざありがとう、遠山」
「いえいえ。どういたしまして」
 厨房へ歩み去る達哉の背中にもう一度手を振ってから、フルーツタルトの続きに取り掛かった。






 ちなみに、渡された赤い包みに収められていた十四粒のチョコレートのうち、ひとつだけ本当にアーモンドだった当たりの粒以外は全部、芯のアーモンドの代わりにわさびが詰め込まれていた。
 涙目を擦りながら、運よく当たりを引き当てた達哉を恨めしげに睨みながら、やっぱり『渡しちゃダメ』ってちゃんと言っとくんだった、などと菜月がぼやいたのは、あくまでもわさびが効いたせいで、翠のことが嫌いだから、ではなかった。‥‥‥筈、である。

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