いつも通り‥‥‥ではだんだんなくなりつつある、朝霧家・鷹見沢家合同の夕食時。
「暫くぶりにさやちゃんも来てるし、今日はワインでも開けるか」
そんなことを言いながら、食事中のテーブルの真ん中に、左門がどんと壜を置く。
「え、いいんですか?」
「ようやく仕事が一段落ついたんだろう? ほとんど家にも戻れなかったっていうじゃないか、そういう時くらい構わないだろう。三連休だしな」
続けて、ワイングラスをみっつ。
「あ、ボジョレー何とかっていうアレですか?」
言いながら、まずその壜を手に取ったのは麻衣だ。
「違うよ麻衣。今年のボジョレーはまだ解禁されてない筈だもん」
ちょっと得意げに菜月が胸を張る。
「おお、よく知ってるな菜月。それじゃ聞くが、今年のボジョレーはいつ解禁になる?」
「ええとね、十一月の」
「うむ」
「十一月の、うー‥‥‥達哉、パス」
要するに、それ以上のことは知らないのであった。
「え、俺もそれ詳しくないけど」
急に振られて達哉も慌てた様子で、どうやら本当に知らないらしい。
続けて麻衣が大袈裟に首を横に振り、
「え、私もワインは詳しくないけど」
さやかもパスで、
「そこで知ったかぶりをしないだけマシというものさ」
結局、回答権は仁のところに落ち着いたようだ。
「知らないわよ、飲みもしないお酒のことなんて」
真っ赤な顔の菜月がぶつぶつと呟く。
「それじゃ正解を。ボジョレー・ヌーヴォーは、十一月第三週の木曜に、全世界で一斉に解禁される。今年のカレンダーでいえば、十一月の、ええと十七日かな」
「おおお‥‥‥」
朝霧家一同が尊敬の眼差しで仁を見ている。
「と、これだけだったら話は簡単なんだが、ここに時差の問題が出てくる。所謂センシンコクの中では日本の解禁がいちばん早い。なんと、ボジョレー地方そのものが存在する生産国フランスよりも、八時間ばかり解禁が早いんだな。だから、解禁日にはワイン好きの物好きが日本に来る。時差の分だけ早く、今年のボジョレーを味わうために、ってね」
菜月ですら感心したような顔をしている。
「と知ってれば女にモテると思ったんだろうが、結果がこのザマじゃ世話はないわな」
そこに左門の、あまりにミもフタもない横槍が入り、
「とっほっほ‥‥‥」
仁はがっくり項垂れた。
「うちはフランス料理店じゃないが、とはいえ、ボジョレー・ヌーヴォーくらいメジャーなワインのこととなると、お客さんに聞かれる機会も多いだろう。丸暗記は無意味だが、飲めるようになったら、そういうことも少しずつ憶えていくといい」
「‥‥‥無意味ですか?」
「おもしろいもんでな。酒や料理のことは、少し話せばすぐ伝わるもんなのさ。そいつが好きで喋ってるのか、それとも、ただ知ってるっていうだけなのか。‥‥‥ワインの話を振ってくるのはまずワイン好きだ。そういう手合いに『知ってるだけ』ってとこを見透かされるくらいなら、いっそ『知らない』と素直に伝える方がいい。さっきの仁の話じゃないが、知ったかぶりも丸暗記も、結局、大事なところじゃ通用しないもんなんだ」
左門の言葉には不思議な重みがあった。
「そうよねえ」
傍らでさやかがうんうんと頷く。
「博物館の採用面接で何人も会ったんだけど、留学の経験がある子でもない限り、まず誰も、月麦のクッキーの味は知らないのね。大抵の子はそれが地球のどこで手に入るのかも知らない。でも結構高い確率で『食べたことがあります』って答えるわ。『知らない』って言ったら評価が落ちるかも、って思うみたい。で、頓珍漢なことを答えて、ちょっと気まずい空気になる」
何か思い出したことでもあったのだろうか。
そう言いながらフォークを置いて、さやかは首と右の腕をぐるぐる回した。
「そこで『知りません』ってだけ言われるのも、面接官としてはちょっと物足りないけど‥‥‥そうね、『ずっと食べてみたかったんです、どこに行ったら売ってるんですか?』って訊き返してくる子がいたら、それを理由に採用しちゃおう、って実は思ってるかな」
「え、そんな簡単な」
「でも菜月ちゃん、私たちの仕事にとっては大事なことなのよ? ちゃんとした好奇心を持ってる人なのかどうか、っていうことは」
ふっと笑って、人差し指を立ててみせる。
「博物館に来るのは月のことを知りたい人だもの。そこで働いて、月のことに詳しくなっていっても、来る人と同じように、『知りたい』って気持ちを自然に持ち続けられるかどうか。その気持ちを持たない人の作った博物館は、『知りたい』気持ちに答えてはくれないわ」
月王立博物館の館長。
いつもと同じような柔らかな物腰だが、普段はあまり目にすることのない『館長』の空気を纏っている‥‥‥ように、達哉と麻衣には視えていた。
「『ちゃんとした好奇心』か。‥‥‥何というか、さやちゃんも苦労してるようだな」
今度は左門がうんうんと頷く。
「ところで、ワインの話って、他にもありませんか?」
今度はさやかが訊ねた。
「ふむ、そうだな」
グラスみっつに赤ワインを注いでそれぞれに渡し、壜を置いた左門が腕を組む。
「さっきから話に出てるボジョレー・ヌーヴォーだが、あれはちょうど今時分、九月から十月くらいに摘んだ葡萄を仕込んだものだ、と聞いたことがある」
「でも、そんなに早くできあがるんですか? ワインとかウイスキーってこう、何十年とか時間を掛けて、樽に詰めたのを寝かせて作るイメージが」
麻衣が疑問を口にした。
「そうだな。今摘んだ葡萄がワインになって店に並ぶのは、普通のワインなら早くても翌年の春くらいだろう。‥‥‥何をどうやっているのか、それほど詳しく知ってるわけでもないんだが、どうもボジョレー・ヌーヴォーは作り方がちょっと違うらしい。というのは、赤ワインのこの赤い色が、そういう作り方をしないと短時間では出ないらしいんだな」
あいつがいればもっと詳しい話が聞けるんだがな。
呟いて、左門は頭を掻いた。
「つまりだね。普通ワインは、収穫した葡萄を潰して、枝を取ったり何だりしてから酵母で発酵させるんだが、ボジョレー・ヌーヴォーの場合、摘んだ葡萄を皮ごと、いきなり密閉容器に入れる」
代わって話し始めたのは仁だ。
「二酸化炭素とか窒素なんかが充満した密閉容器の中に葡萄を置いておくと‥‥‥まあ、いろんな化学反応が起きて、果汁が自然と染み出してくる。最終的にはそれがボジョレー・ヌーヴォーになるわけで、そもそも製法の原理が最初から違うんだな」
「おおお‥‥‥」
再び、朝霧家一同から感嘆の声が漏れる。
「でも、それだけ作り方が違うと、もう『ワイン』じゃなくなっちゃうんじゃ?」
さやかが首を傾げるが、
「だけど、『葡萄の果汁を発酵させて作ったアルコール飲料』、っていう大元の定義からは離れてない。だから『ワイン』で問題ない、っていうことらしいよ」
「そういうものなのね」
恐らく、それは何度も訊ねられたことなのだろう。仁の回答は実に流暢だった。
「同じ茶葉を加工して緑茶も紅茶も烏龍茶も作るけど、『お茶』っていう定義からは外れてませんよね、っていうことなのかな?」
「葡萄がお酒になったらワインです、っていうルールしかないんだったら、まあ、そうなんだろうなあ」
麻衣と達哉が考え込む。
「まあ、『ワイン』っていうのは『作り方』につけられた名前じゃない、っていうことだな」
呟いて、左門はグラスからワインを口に含み、
「‥‥‥旨けりゃ何でもいいんだがな」
飲み下してから、そう言って笑った。
「そうだ。達哉君は、『天使の分け前』の話は知ってるかい?」
再び、仁が話し始める。
「え? ええと知りませんけど、それもワインの話なんですか?」
「うん。樽で熟成させる酒には共通の言葉だからね、当然ワインにも当て嵌まる。『樽で熟成させる』ということは、樽に詰めたままどこかに置いておく、という行動を指すんだけど」
「そうですね」
当たり前の話だ。
「木の樽っていうのは密閉容器じゃないから、熟成させている間に水分やアルコール分が蒸発する。作った時には樽に目一杯入っていたワインは、そのせいで、熟成を終えると少し減る。この減った部分のことを『天使の分け前』っていうんだ」
「なんか、ロマンティックな名前ですね」
「それがねえ‥‥‥天使は分け前を得る。だから、よりよい分け前のために、天使はよりよいワイン作りに手を貸そうとする。そういう協定が昔はあったんだけど、最近はその熟成を、ステンレスのタンクなんかでやるっていうところも結構あるそうだよ」
蒸発する水分やアルコールがステンレスを透過することはないだろう。
ということは。
「天使の分け前はなくなっちゃった、っていうこと?」
菜月が首を傾げた。
「樽も自然のものだから、ワインの質は葡萄の質と樽の質の相乗効果ともいえるね。すごい傑作ができる年もあれば、すごい失敗作になる年もある。で、すごい傑作になる可能性を捨ててでも、すごい失敗作にはならないように、不確定な要素をなるべく排除しようとする」
恐らく、そこに天使はいない。‥‥‥今、ワインを作る人には、天使との協定よりも大事なものがある、ということなのだろうか。
「何だか、少し寂しい話ね」
グラスのワインを飲み干して、さやかが息を吐いた。
「でも、お話はおもしろかったわ」
「‥‥‥と知ってれば女にモテると思ったんだろうが、結果がこのザマじゃ世話はないわな」
「親父殿‥‥‥」
苦い顔の仁を見やって、意地悪そうに左門が笑う。
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