窓から監督生室に吹き込む風が、ちょっと冷たくなってきた頃のこと。
「もうすっかり秋ですねえ」
「本当ね。この間まではあんなに暑かったのに」
向かい合わせに座った瑛里華と白が、窓の外を眺めながら、のんびり緑茶を啜っていた。
ふたりの他には誰もいない。
「ああ、平和ね‥‥‥いつもこのくらい静かだったらいいんだけど」
しみじみと瑛里華が呟く。
「でも、先輩はすぐに退屈になっちゃうんじゃ」
悪戯めかして白が訊ねる。
「そんな、寮長じゃあるまいし」
答えながら‥‥‥本当はそうかも知れない、とも少しだけ思う。
「そういえば、明日から連休でしょ?」
今日の放課後。つまり今、校内が静かであることの理由は、基本的にはそれである。
もしかしたらもう、校内に残っているのが瑛里華と白のふたりだけ、なのかも知れない。
「白はどうするの?」
「ええと、十月は例大祭がありますからその準備ですとか、ローレルリングのお仕事ですとか」
例大祭は神社でローレルリングは教会だ。
八百万にも程があった。
「それじゃ平日と変わらないじゃない」
瑛里華は苦笑して、
「って、『れいたいさい』って何するの?」
それから、ふと首を傾げた。
「あれ、ご存知ありませんか?」
向き直った白が反対向きに首を傾げる。
「例大祭というのは、珠津島神社のいちばん大きなお祭りです。内容としては、新米ですとか、その年の収穫を神様に捧げて、食べていただきましょう、という‥‥‥他の神社でいうところの神嘗祭ですね」
「『かんなめさい』?」
『例大祭』以上に聞き慣れない単語が出てきた。
「神様が嘗めるお祭り、って書きます。種を蒔く時期には五穀豊穣、つまり『豊作になりますように』っていうお祈りをするじゃないですか」
「ふむふむ」
「秋のお祭りはその結果報告で、お祈りを聞いていただいた結果、こんなに作物ができたんですよ、ということで、その年の最初の収穫を最初に神様にお供えしましょう、っていう感謝のお祭りです。そうだ、十一月に『勤労感謝の日』っていう祝日がありますよね」
「そうね」
「あれは元々、天皇陛下がその新しい作物を食べる、新嘗祭というお祭りの日です」
今度は『にいなめさい』。‥‥‥どうやら只人は、なかなか新米にありつけないものであるらしい。
「でもそれ、凶作だったらやらないの?」
「どうでしょう‥‥‥もしかしたら昔はそういうこともあったのかも知れませんが、わたしが知っている限りでは、例大祭が執り行われなかった年はないかと」
「そうなんだ。なるほど」
興味深そうに頷いているが、それは、この国に住まう普通の高校生が、普通に抱く種類の疑問ではない。
「‥‥‥本当に、外に出てなかったんですね」
そう考えると少し気の毒な気もしてくる。
「まあね。そのお祭りだって、私、ちゃんとは知らないんじゃないかなって思うし」
確か、ずっとずっと小さい頃に、それらしい催しを目にしたことはある。
多分こういうものだろう、という想像もある。
だが‥‥‥それは結局、それだけのことだ。
「賑やかで楽しいですよ」
‥‥‥悲しいことばかりに思いを致すのはやめよう。
白はそう心に決めていた。
閉じ込められていた過去は取り返せないが、これから補えることだってたくさんある筈だった。
白の心配を他所に、
「でも神社って、あのすごい石段の上でしょ? 正直、気は進まないわね」
そう言って、意地悪そうに唇を歪めてみせる。
興味がないのではない。
むしろ、興味があるからこそ、白からもっと多くの情報を引き出そうという構えなのだろう。
「ふふっ」
わかっているから、白もくすりと笑う。
「そうですね。まず、わたしと兄さまは奉納舞があります。時間があったら観ていただけると嬉しいです」
「奉納舞っていうと、踊るんだ?」
「はい。踊ります」
だが多分、征一郎と白の奉納舞は、瑛里華が想像した『踊る』とはまったく別の何かであるだろう。
そう思うと少しおかしい。
「でも、東儀の家って別に神主やってるわけじゃないんでしょう? なんで征一郎さんと白が踊るの?」
「今は神主さんが別にいますけど、昔は東儀家で神職もやっていたそうですよ。ですから、その頃の名残といいますか、役割分担からの流れといいますか」
「何でも東儀家なのね、この島」
伝統的に、珠津島で行われる多くのことを取り仕切ってきた東儀家だ。もしかしたら他の場所では珍しいことなのかも知れないが、この島では普通なのだろう。
「他にも、盆踊りもありますし、出店もたくさん出ますし。りんご飴とか、食べたことないですか?」
「りんご飴?」
「こう、水飴みたいな飴が、りんごの周りにぐるっとついてるんです」
「なんか、綺麗そうね」
「はい。綺麗でおいしいです」
実ににこやかに、白が笑った。
「‥‥‥本当、外っていろいろあるのね」
知らないことばかりだ。
瑛里華は嘆息する。
「私って何も知らないんだな、って思うわ」
「それは‥‥‥そうなのかも知れませんが」
悲しいことばかりに思いを致すのはやめよう。
「これから知っていけばいいことじゃないですか」
「だけど、そのために」
とっとと眷属を作れ。
遅くとも、学院を卒業するまでには。
あのひとはそう言った。
「‥‥‥そんなことのために」
自嘲気味に唇を歪める。
「そんなこと、なんかじゃないです」
「『そんなこと』、よ」
「瑛里華先輩‥‥‥」
「だって白、りんご飴好きでしょ?」
「はい」
りんご飴は好きだった。
さヽきの金鍔も。
こうして誰かと飲む緑茶も。
瑛里華の好きな洋菓子だってなかなかのものだ。
「眷属って、味覚ないらしいわよ?」
瑛里華の言葉はまるで‥‥‥白の中にあるそんな思い出すら、根こそぎ葬り去らんとするかのようだ。
「私はそれで外の世界に留まれるかも知れない。だけど白、例えばあなたが私の眷属になったら、それからあなた、りんご飴の味なんかわかんなくなっちゃうのよ?」
「そうかも知れませんが」
それでも白は、毅然とえりかを見つめる。
「でも、わたしはもう知っています。りんご飴がおいしいことも、金鍔がおいしいことも」
「もう知ってるからそれで満足、っていうものでもないでしょう。ずっと食べなきゃ味なんか忘れるわ。それで忘れた後になっても『知っています』だけでいいの?」
「どうでしょう。なってみないとわかりません」
口ではそう言うが、本当は、少しだけわかる。
眷属の人生はきっと味気ない。
それはきっと、とても残念なことだろう。
「それに、そのことは、瑛里華先輩が世界を諦めることの理由にはならないと思います」
「私が何もしなければ、誰もそういう思いをしなくて済むのに?」
「それでも、です」
自嘲気味に歪められたままの唇を見つめる。
「わたしは、生まれてから今までに食べたお米の数を知りません。卵の数を気にしたこともありません。そのことを意識しているかどうかとは多分関係なく、生きることは、奪うことです」
このひとは、こんな風に笑わせてはいけないひとだ。
そう思うことに何か根拠があるわけではない。
だが、それでも、白はそう思う。
「瑛里華先輩にだけ、吸血鬼という存在にだけ、そうすることが赦されない、とはわたしは思いません」
「喰うものが『人生』であっても?」
『人間』を、ではない。
吸血鬼は『人生』を喰うのだ。
「先程も言いましたが、神嘗祭は神様に五穀を捧げるお祭り。新嘗祭は天子に五穀を捧げるお祭りです」
「そうみたいね」
「でも、本当は神様なんていないとわかっても、お祭りを望む人々はきっと、それからも神様に五穀を捧げ続けると思います」
「へ? ‥‥‥神様、いないのに?」
「多分、神様が本当にいるかどうか、なんて問題じゃないんです。本当に祈るべき相手は、今までに人間が奪ったすべての命、これから奪うすべての命だから」
何か食べなければ生きていけない、ということについてだけいえば、人間だろうが動物だろうが、あるいは吸血鬼であろうが何の違いもない。
食べる相手が変わるだけなのだ。
「ですから、瑛里華先輩は、食べた人生に祈りを」
驚いたような顔の瑛里華が白を見ていた。
‥‥‥歪められた唇のかたちは、いつの間にか、すっかり元に戻っていた。
「それは、神道の教え? それともキリスト教?」
「こんなことを教える神様はいません」
そう言って白は笑った。
だから‥‥‥さっきまでの自分がどんな風に笑っていたのか、ということを瑛里華は知った。
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