玩弄の石  


  

「‥‥‥心構え、と言われても」
 藪から棒にそう言われても何を話せばよいのかよくわからなくて、声の主は少し首を傾げた。
「はい。よろしくお願いします」
 もうひとりの声の主は、その正面で頭を下げた。
 そうした様子は、それぞれ互いの目には視えているのだが‥‥‥仮に余人が同じ部屋に居合わせていたとしても、その仕草を目にすることは叶わなかったであろう。
 まだ寒い春先の真夜中。
 千堂家の最奥に近いその和室には、明かりのひとつすら灯されてはいない。
 ふたりの他にそこにあったものは、人世に在るには冥すぎる宵闇と、底冷えのするような静謐のみだ。
「それは、主がどういった人物であるかによっても大分違うことだと思うから、主が違う貴女の参考になるかはわからないけれど」
 だから、言いながら桐葉が肩から払った長い髪がさらりと流れていく様も、
「それで構いません」
 頷いた白の瞳に湛えられた覚悟の光も、余人の瞳に映ることはないであろう。



「でも本当に、眷属に心構えも何もないのだけれど」
 桐葉は肩を竦めた。
「ない‥‥‥んですか?」
「だって、こちらのすることが気に入らなければ、主は命令するもの。眷属の側がそのことについてどう思っていたとしても。結局、あまり意味はないのよ」
「ああ、はい」
 まだ眷族と化して日の浅い白も、『命令』がどういうものであるのか、幾つかは人伝に聞いている。
「例えば、眷属の記憶を消して放り出して、思い出させて、記憶を消して。そんなことをぐるぐると」
 そのことも耳にしてはいた。
 桐葉の主、千堂伽耶とは、つまるところ暴君だ。
「‥‥‥そういえば、他にも」
 裾を畳に擦りながら、立ち上がった桐葉は一旦向こうの闇に消え、
「伽耶、私にこんなものを寄越したことがあってね」
 程なく戻ってきた桐葉は、何かを白に手渡した。
 部屋の中に何かひとつでも明かりがあれば、それが何であるのか、もっとよく確認することもできただろう。だが今、この部屋に光源は何もなかった。
 触った感じから推測するに、人差し指の先ほどの大きさの‥‥‥綺麗に整えられた断面からして、恐らくそれは宝石の類だろう。しかしそれは石だけで、例えば金属製の台座やらは何もついていないように思われる。
 つまり、指輪でも首飾りでもなく、ただ単に、宝石。
「これは?」
「確か、ええと、藍玉とか水宝玉とか、何かそういう名前の石だったと思うのだけれど」
 それ自体にはあまり興味もなさそうに桐葉は続けた。
「らん‥‥‥ぎょく?」
 『すいほうぎょく』の方は恐らく、水に宝に玉、とでも書くのだろう。だが『らんぎょく』の字面は、咄嗟には想像できなかった。
「漢字でいうと、藍色の藍に玉、だったかしら。つまり青い宝石」



 和名を藍玉、あるいは水宝玉という石がある。
 宝飾店なら『アクアマリン』の札がついているものがそれに該当する。水のように透き通る青い石だ。



「それをね」
「ええ」
「さっき泉に投げ込んだから、貴様行って探して来い、と命令されたことがあったの。そのことを思い出したから持って来てみたのだけれど」
「え」
 『記憶を消して放り出して、思い出させて、記憶を消して』のことを聞いた時ほどではなかったが、しかし今度も、あまりのことに白は絶句した。
 せめて赤いとか黒いとかならまだ話はわかるが‥‥‥水のように透き通る青い色の石を水の中に投げ込んで、『探して来い』とは酷い話だった。
「で、実際に泉に沈んでいた石がそれよ。‥‥‥まさか本当に持って来おるとは思わなかった、愉快だからそれは褒美にくれてやろう、ですって」
 さして嬉しくもなさそうに桐葉は続けた。
「まあそれでも、実際にそれが沈んでいたから、最終的には見つけることもできたわ。本当に最悪なのは『泉に投げ込んだ』という言葉が嘘だった場合ね」
「いえ、でも流石にそれは」
「それでも命令は命令だけれど」
 本当は存在しないものを探すことを強要されたしても、彼女たちが眷族であるからには従わざるを得ない。
「まあ、あんな伽耶にも一応良心はあった、ということになるのかしらね」
 良心とは一体何なのだろう。
 そんなことをぼんやりと思う。
 いやそれよりも。
「わかるかしら。要するに、主は退屈なのよ」
 伽耶様はともかく、瑛里華先輩が‥‥‥白にとっての主が、退屈凌ぎにそうした理不尽な命令で眷族を弄ぶようになる、とは白は考えていなかった。
 考えたくもなかった。



「まあ、あまり役に立たない話だったと思うけれど」
 言いながら、す、と立ち上がった桐葉は、
「ああ。‥‥‥そうね、その石、貴女にあげるわ」
 何でもない思いつきをそのまま口にするように、事もなげにそう告げた。
「え、いいんですか?」
「ええ。あまり縁起のいい石でもないしね」
 相変わらずの暗闇の中でも、意地悪そうに片頬を上げる桐葉の顔が、白にははっきりと視えていた。

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