道後温泉。
「どうご、おんせん‥‥‥ああ」
例によって例の如く、空いた手桶に幾つか放り込まれた小袋を桐葉は摘み上げ、
「確か松山ね。『日本書紀にも登場する、日本最古の温泉』といった触れ込みだったような記憶があるけれど」
一頻り呟いたところで小袋を手桶に戻し、次には、泡だらけの頭を正面の鏡に向け直す。
「ふふ。やっぱり詳しいね、紅瀬さん」
その脇で、同じように身体の泡を流している陽菜としては、普通に温泉話ができる友人の出現には取り敢えず大喜びなのであるが、
「でも、今日は私がこっちで入浴剤使うって、どうして紅瀬さんは知ってたの? ‥‥‥今日っていうか、今までにも何度か、そういうことってあったよね?」
それはそれとして、やはり不思議に思うこともある。
いつだったか、陽菜がこっそり白骨温泉の素を使っていたところに偶然居合わせて以来、深夜に大浴場で入浴剤を使っていると、そのうちに必ず桐葉が顔を出すようになった。
「もしかして紅瀬さん、毎日この時間帯にお風呂入りに来てたりする、とか?」
「いえ。お風呂は嫌いじゃないけれど、自分の部屋の湯船の方が気楽だし。基本的には、貴方が来ている時だけ」
事前に何か示し合わせているわけではない。
なのに、桐葉は必ず来るのだ。
「んー。でも昨夜もね、今くらいの時間にこっちのお風呂使ったんだ。入浴剤は持ってこなかったけど‥‥‥来なかったよね、紅瀬さん」
「そうね」
しかも、顔を出すのは、陽菜が何か入浴剤の類を持参している時だけである。
現に昨夜は来なかった。それも陽菜の言った通りだ。
「そういうの、どうして紅瀬さんにはわかるの?」
陽菜にしてみれば当然の疑問であろう。
「まあ、たまたま夜中、眠れなくて起きていただけ、ということもあるのだけれど‥‥‥」
ところが桐葉は、簡単に何か答えるでも、無視して髪を湯で洗い流し続けるでもなく、
「え‥‥‥やだ、なに? 私、何かついてる?」
「説明しないと不味いかしら」
泡だらけの手で顔やら二の腕やらの様子を確かめ始める陽菜をじっと見つめたまま、そんなことを呟く。
「難しいことなの?」
「簡単に言えば、『耳がいい』ということなのだけれど」
「み‥‥‥耳? それって、寮の廊下を歩いてるのが私かどうか、足音聴いたらわかる、っていうこと?」
「ええ。大した特技ではないけれど」
「‥‥‥大したことあると思うな、それは」
信じられない、といった面持ちの陽菜だが、実のところは本当にその言葉通りで。
自室の中から、桐葉は室外の音を聴いている。
陽菜が廊下を歩く音。
その手元で入浴剤がたてる幽かな音。
‥‥‥『吸血鬼の眷属』という桐葉の身の上からすれば、それくらいの芸はさして難しくもない。
だが、そういったことについてきちんと説明するとなれば、まずは『吸血鬼』の何たるかから明らかにする必要があるだろう。とはいっても、『吸血鬼』の存在に関する情報が軽々しく公にできる種類のものでない以上、結局はこのあたりで口を噤む他にない。
気軽に伝えて構わない範疇にある言葉の中からでは、『耳がいい』くらいが精々だ。
そういうことを、近頃桐葉は少しもどかしく思う。
「やはり、変かしら」
思案顔の桐葉を見やって、
「んー‥‥‥変、とかは思わないかな? 凄いなあ、とは思ったけど」
傍らの陽菜がそう言って笑うことが、陽菜なりの気遣いの表れなのか、それとも本気で思ったことを口に出しているだけなのかは、桐葉にはよくわからない。
わかるのは、そんな桐葉のことを、どうやら陽菜は嫌がってはいないらしい、ということだけだ。
「あ、そうだ。紅瀬さんも携帯買おうよ。そしたら、そんな頑張って物音聴いたりしなくても、ちゃんと連絡取り合えるし。それで、私が来たい時ばっかりじゃなくて、紅瀬さんがお風呂入りたい時とか、また夜中眠れない時とかでも、私のこと呼んでくれたら」
どのような経緯であれ、あるいはどのような素性の相手であれ、温泉話で盛り上がれる貴重な友人を得たことを、陽菜が嬉しがっているのは事実であって。
「そんなものを使わなくても、普通に、顔を合わせた時に相談すればいいと思うのだけれど」
「でも、誰にも内緒で入浴剤使ってるんだから。お姉ちゃんにも言ってないんだよ? 寮長さんだし」
それからも止めどなく話し続けるふたりが、どれくらいおしゃべりに夢中になっていたかといえば、
「内緒でいろいろ相談するのに便利なんだけどな、携帯」
「ああいう機械は苦手なのよ」
「そんなに難しくないよ。普通の使い方だったら、誰に訊いても教えてくれると思‥‥‥っ、くしゅん」
ふたりともが裸のまま、洗い場の腰掛けに長いこと腰を降ろしたままで、身体や髪を洗っている最中だったことも忘れていたくらい、なのであった。
「早く湯船へ行きましょう、悠木さん。このままここにいては風邪をひいてしまうわ」
「あ、あはは。そうだね」
苦笑いの顔をふたりして見合わせ、それからふたりは、手桶に張った湯で身体を流す作業の続きに意識を戻す。
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