「ふ‥‥‥」
ひとつ息を吐くと、比較的小さめの湯船に張られたお湯が穏やかに波立った。
その湯船の中だけ、張られた湯の色が違う。
独特の、その場に似つかわしくない乳白色の正体が、空いた手桶に放り込まれた、封の切られた幾つかの小袋に記されている。
「‥‥‥はあ」
もう一度、陽菜は息を吐いて。
それから、湯船の壁に背を滑らせながら、口元が沈むくらい深く、その湯に身体を沈めた。
不意に、少し離れたところから、水音。
「え? う、嘘っ」
慌てて立ち上がった陽菜は、洗い場に別の女生徒の姿を見て取った。
長くまっすぐに伸びた黒髪を手桶の湯で流す背中。
「あれ? ‥‥‥もしかして、紅瀬さん?」
恐る恐る声を掛けるが、背中は何も答えない。
「ええと、紅瀬さん、だよね?」
「そう」
再度の誰何に、ようやく背中は小さな声を返す。
「あ。こ‥‥‥こんばんは」
誰だかわかって安心したせいなのか、それとも、わかった相手が日頃あまり接点のない桐葉だからなのか。
口を突いて出た間抜けな挨拶に自分で赤面してしまった顔を隠しでもするかのように、振り返った陽菜は、鼻先まで乳白色の湯に浸した。
「あら。ここだけ色が違うのね」
あまり興味がなさそうな顔で桐葉が呟く。
「え、うん。入浴剤。ほら、もう夜遅いでしょ? 今日は誰も来ないかと思って、入れちゃった、んだけど」
ここは寮の大浴場。
個別の部屋に湯船は備え付けられていない。
入浴剤を集めるのは陽菜の趣味のひとつだが、寮住まいでは集めた入浴剤を試してみる機会もそうはない。だからこうして‥‥‥入浴剤の小袋を幾つか適当に持ち出して、夜中にこっそり大浴場を訪れるのも、陽菜の密かな趣味のひとつなのだった。
今までは、誰にも見つからずにやってきたのだが。
「まさか紅瀬さんに見つかっちゃうとは。あはは」
「たまたまよ。今日は寝付けなかっただけ」
それも気にする風でもなく、桐葉はつまらなそうにぼそぼそと答えて寄越しながら、
「こちらに入ってもいいかしら」
「え? こっち? ああもちろんオッケーだけど」
陽菜の傍ら、白い湯の中に身体を滑り込ませる。
「ふ‥‥‥」
ひとつ息を吐くと、比較的小さめの湯船に張られたお湯が穏やかに波立った。
「‥‥‥はあ」
もう一度、桐葉は息を吐いて。
それから、湯船の壁に背を滑らせながら、口元が沈むくらい深く、その湯に身体を沈めた。
「ふふっ。私とおんなじ」
陽菜が笑う。
「‥‥‥誰でも同じじゃないかしら」
少し憮然とした顔で、桐葉はそんな風に混ぜ返す。
「白骨温泉」
唐突に、桐葉が呟いた。
「あれ、よく知ってるね。詳しいの?」
確かに、陽菜が持ってきたのは『白骨温泉の素』だ。
「そこに袋が捨ててあった」
袋の表面に書いてある言葉を読んだだけらしい。
「三日浸かれば三年風邪をひかない、と言うわね」
だが、そこまでは袋には書かれていない。
「やっぱり詳しいんだ」
「何となく、聞いたことがあっただけ」
ところで、桐葉の成績の偏りっぷりは有名だ。本当に興味がないことについては通り一遍のことすら知らない。
ということは。
「憶えてるってことは、紅瀬さんも温泉好きなんだ」
どことなく嬉しそうに陽菜は言う。
「‥‥‥む。そう考えたことはなかった」
今頃気づいたのか、難しい顔で桐葉は考え込む。
「そういえば、白骨温泉といえば露天風呂なんだけど」
「それは‥‥‥しょうがないね。寮だから」
何しろここは、男子も一緒に生活している寮の中だ。大浴場にはあまり大きな窓もない。
「それなら、次は月でも吊るしましょうか」
「月?」
「黄色い折り紙か何かを丸く切って、天井から」
「ぷっ」
聞こえた言葉そのものよりも、それを言ったのがあの紅瀬桐葉である、という事実がおかしくて、思わず陽菜は吹き出した。
「‥‥‥悪かったわね」
「ううん。いいと思うよ。だから、今度こっそりお風呂に来る時は、紅瀬さんのことも誘いたいな」
微かに頷く桐葉を見て、もう一度、陽菜は微笑む。
|