「‥‥‥失礼します」
襖を少し開けてみる。
明かりが灯っていれば広々とした和室である筈のその部屋は‥‥‥今夜もまた、宵闇よりもどす黒い何かを満々と湛えて、訪れる者を一様に、頑なに拒絶する構えだ。幾ら目を凝らそうと、背後から差し込む僅かな星明かりくらいでは、足先、確かに指で触れている畳の模様すら浮かび上がりはしない。
常人よりも夜目が利くという話が本当なのかどうかを疑いたくなる。
「伽耶様」
暗い部屋の中に声を掛けるが、返答どころか、物音ひとつ戻ってはこない。
「伽耶様?」
その言葉は、本当に声になって、唇を離れたのかどうかを‥‥‥不安のせいなのか、どうしても、まずは自分を疑いたくなってしまう。
「いらっしゃいませんか」
俯いたまま、踵を返そうとして、
『何だ』
振り返った頃になってようやく、別の誰かの声が届いた。
『こんな遅くにこんなところをうろついて、獲って喰われでもしたらどうするつもりか』
声には、そこに立つ少女を嘲笑う響きがある。
例えばそれは、追い詰められた兎の無力を嘲笑う虎のような。
「でも、夜には少し強くなりました」
しかし兎は毅然と‥‥‥なるべく毅然と胸を張って、闇の只中からこちらを窺っているのであろう虎と対峙する。
『ふん』
つまらなそうに鼻で笑う気配。
『夜更かしが得意になっただけであろう。夜目の利かない人間風情、その時分なら誰しもそんなものだ。‥‥‥そんなつまらん話を聞かせに、こんな時分にわざわざ来たのか?』
「いえ。今晩は、ご報告に」
虎は黙したままだ。
言葉で促す代わりか、ぱちりと扇子が音をたてる。
ふ、とひとつ息を吐いて。
「瑛里華先輩の、眷属に‥‥‥なりました」
言いたいことの概ね半分を、虎に向かって兎は告げた。
『何?』
のそり、と。
恐らくは‥‥‥闇のどこかで、虎がその身を起こした。
『あ奴が言い出したのか』
「いえ。恐らく、わたしが眷属になったことも、瑛里華先輩はまだご存知でないと思います」
『はっ! ‥‥‥くくっ、そうであろうな。誰に向かってであれ、あの出来損ないが自分から「眷族にしたい」などとは言わんだろうよ。あれであたしを欺いたつもりになっているとすれば滑稽も甚だしいが、まあ、それは』
湛えられた闇が、禍々しい含み笑いに波立つ。
『貴様とは関わりのない話であった筈だな、東儀のチビ』
ぱちり。再び、扇子が音をたてた。
『貴様の両親も兄も、貴様をしきたりの外へ出すためとあらば、己が身を差し出すことさえ厭わなんだ。知らぬわけでもなかろうに、当の貴様が自ら、あ奴らのたっての願いを無下にするとは‥‥‥胸は痛まぬか? 今更悔いても遅いのだぞ! くははははっ!』
「それでも、それが東儀のしきたりですから。わたしひとりだけが逃げ出すわけにも参りません」
東儀の者の悉くを戯れに弄び、打ち捨ててきたあなたが、とは、
『では出来損ないの気持ちはどうなる? 貴様の身勝手で眷属が押し掛けてきて、それで屋敷から出られるようになったとしても、あれは素直に喜びはすまい』
「瑛里華先輩の気持ちは瑛里華先輩のものです。ですからそれは、わたしと瑛里華先輩の問題です。伽耶様とは関わりのないこと」
今まで散々、瑛里華先輩の気持ちを踏みにじってきたあなたが、とは‥‥‥終に、兎は口にしなかった。
『どうだ。殊勝なことだと思わんか』
次に呼びかける声は、兎の頭上を掠めて飛んだ。
『のう‥‥‥出来損ない?』
「出来損ないで結構です」
もうひとつの声の主が兎の背後に立っている。
「‥‥‥え?」
振り返った兎の瞳を、背後の虎が覗き込む。
闇の中からこちらを覗いていたのと同じ、赤い眼。
「ど、どうして、瑛里華先輩がここに」
強いて、何かが違うとすれば。
『これで、眷属を作らぬ言い訳に苦心する必要もなくなったわけだ。なあ?』
未だ闇の中にある瞳に滲むものは、恐らくは、愉悦。
「私も兄さんも、多分征一郎さんも、きっとこの血の呪いからは逃れられない。でもあなたは自由に生きていける、だからそのことに、私たちは希望を託すしかなかったのに‥‥‥冗談じゃないわよ白! どうして、どうしてそんな簡単に自分のこと諦めちゃえるのよ!」
すぐ目の前にある瞳からぼろぼろと零れる雫は、
「そんな勝手なことして、自分を犠牲にすれば私が喜ぶとでも? 征一郎さんが喜んでくれるとでも思うの? そんな筈ないじゃない! 白だって、白にだって、わかってない筈ないじゃないっ! なんでそうなのよ!」
どうやら、深い‥‥‥深い悲しみでできているようだった。
言いたいことの残り半分を告げるために。
‥‥‥もしかしたら、悲嘆に暮れる若い虎から目を逸らすために。
「ですから伽耶様」
兎は振り返り、再び、深淵を見つめた。
「もう、瑛里華先輩を、自由にしてあげてください」
『構わんよ。眷属を作りさえすれば、他に望むことなどないからの。好きに生きるがいい‥‥‥ただし、貴様が本当に眷属ならば、だがな』
にやり。闇の中の虎が、頬の片方を吊り上げる。
『ふふ。いや、座興としてはまあ愉快だった。駄賃にひとつ教えてやるが、チビ、貴様は眷属ではない』
「へ?」
『出来損ないの目を盗んで、何滴舐めたか知らんがな‥‥‥眷属になったなどとぬかしておるが、どうやら貴様、あたしの顔が見えておらんな? 確かに、一口に眷属といっても出来不出来は様々。とはいえ、このくらいの闇が見通せぬ眷属なぞ、今まで見てきた中にはひとりもおらなんだわ』
「え、でも、わたし、瑛里華先輩の手首から」
『飲んだ、というのが嘘でないなら、足りんのだろうよ』
確かに、カッターナイフで手首につけたごく浅い傷口は、人智を超えた治癒能力によってあっという間に塞がってしまった。そこから血が滴っていた時間はごく僅かだし、口にした血の量も、実際には精々、親指の先くらいのものであろう。
『人の身を作り替えて眷属と成すからには、ま、あたしの片手のひらに軽く一杯、それくらいは飲ませておきたいところだな』
「そ、んな」
初めて、兎が揺らいだ。
「白っ! よかった、それじゃあなたはまだ人間なのね!」
心の底から嬉しそうな声を絞り出しながら、その場に膝を屈しそうになる華奢な身体を、背後の虎が抱き竦める。
「でもそれでは、瑛里華先輩は」
「私のことなんかいいのよ。眷属作って、人間から血を吸って得られる自由なんて、人間の自由じゃないわ。願い下げ」
次には、自嘲気味に呟く声を遮るように、
「ですから! そんな風にして、わたしひとりだけがしきたりから逃げ出すことで得られる自由だって、東儀に生まれた者に相応しい自由ではないんです! 大体、わたしが自分を犠牲にしても誰も喜ばないと瑛里華先輩は今仰いました、では一体誰が、瑛里華先輩が自分を犠牲にすることを誰が喜ぶって言うんですか! わたしですか? 兄さまですか! 伊織先輩、支倉先輩、伽耶様だって‥‥‥そんなこと誰も、誰ひとり望んでなんかないのにっ!」
かつてない勢いで‥‥‥兎が、吠えた。
「白、っ」
「わたしが吸血鬼の僕となることを瑛里華先輩が悲しんでくださるように、瑛里華先輩がここにずっと閉じ込められたままでいることが、わたしだって悲しいんです‥‥‥ですから瑛里華先輩、わたしを先輩の眷属にしてください。そしてどうか、広い世界で自由に生きて」
「‥‥‥その気持ちだけで充分よ、白。ありがとう」
改めて、若い虎は、華奢な兎の身体をぎゅっと抱きしめる。
「それに、あなたは東儀の家に生まれついたけど、あなたが吸血鬼に生まれついたわけじゃないんだもの。無理して私たちに付き合う必要なんてないわ」
「でも、でもっ」
『眷属にしてやってはどうだ? そのチビはとうに覚悟を決めておる。東儀の者は大概優しうしてくれるがな、そうはいっても、ここまで言うてくれる者もそうはないぞ』
ぱちり。
三度、扇子が音をたてる。
「私は一生、未来永劫、絶っ対っにっ、眷属なんか作りません。そのせいで私がどうなろうと、抗うことが私の生きる意味です」
兎を庇うように進み出て、若い虎は毅然と胸を張った。まるで先刻の兎のように。
『ふん。とうとう口に出しおったか』
「はい」
『そうか。ならば死ね』
ぐしゃり。
「‥‥‥え?」
虎の胸から‥‥‥胸郭を中から突き破って、何か青い珠のようなものを握った、どす赤い血に塗れた右腕が伸びる。
「先輩っ!」
その腕が、ぽっかりと胸に空いた冥い穴へと這い戻ると、空いた穴を埋めようとでもするかのように溢れ出した鮮血は‥‥‥しかし、板張りの廊下にどくどくと流れ落ちるばかり。
『最期にひとつ試してくれよう。貴様を眷族にせぬために命を投げ出した出来損ないのために、その血を飲む覚悟があるか、チビ? 今すぐに眷属になるというなら、この出来損ないにも救いようはあろう』
寸分の躊躇もなく。
「承知いたしました。ですから、必ずお救いください、伽耶様」
その場に膝を折った虎の身体は、兎の膝の上に横たえられた。
「やめて‥‥‥白っ‥‥‥白‥‥‥やめて‥‥‥」
血の気が引いた、まるで蝋細工のような顔で、虎は小さく首を横に振るが、
「ん‥‥‥っ」
手のひらに掬い取った血を飲み下す兎を押し留めるだけの力は、その傷ついた身体のどこにも残っていない。
「馬鹿‥‥‥白の馬鹿‥‥‥白の‥‥‥」
やがては、うわごとのように何かを呟く微かな声すら、闇に紛れるように消えてしまった。
『ようやった。貴様の覚悟、確かに見届けたぞ、白』
再び、胸郭の中に直接腕を突っ込んで掻き回すような、耳障りな音が聞こえて、
「かっ伽耶様っ、瑛里華先輩は」
『これくらいで死にはせん』
胸に空いた穴が、今度は見る間に塞がってゆくのを兎は見る。
『そう、さっき貴様、その出来損ないの気持ちは、出来損ないと貴様の問題で、あたしは関係ない、などと吠えよったな』
「‥‥‥はい」
『それでは貴様、どれだけ恨まれるか知れんぞ』
「はい。そうだと思います」
口元を伝い落ちた赤い雫をハンカチで拭いながら、相変わらずの深遠を覗き込む兎の瞳に、
「ですが、それでも、瑛里華先輩にはお友達が必要です」
満更でもなさそうな笑みを浮かべる虎の姿が、今は、はっきりと視えている。
『そうか。‥‥‥間もなく貴様も眠りに落ちるだろう。目覚めるまでは中におるがいい。さ、早う、瑛里華を連れてこちらに入れ』
今までに一度も聞いたことのなかった優しげな声が、ふたりを招き入れた。
「はい」
横たわった虎の身体を横抱きに抱え上げて、兎は闇へと踏み込んでいく。
|