確かに、原因の一部には自分の不注意もあったと、桐葉は後に回顧する。
小袋の中で粉が擦れる僅かな音にばかり意識を向けていたせいで、それよりも大きくてわかりやすい足音や心臓の音を聴き漏らしてしまっていた。
結果がこの不覚だ。
とはいえそれは、寮の自室の中から、閉め切られた扉の外を歩く誰かの足音や、手の中にある小袋の音を聴く、という行動についての話である。
常人の耳には、そのうちのどれひとつとして届きはするまい。しかし、吸血鬼の眷属である桐葉にとっては、それを聴き分けるのはさほど難しいことではなかった。
‥‥‥夜中、その音を桐葉の耳が捉えるのは、クラスメイトがこっそり大浴場へ向かう時だ。趣味のひとつが入浴剤集めだという彼女に付き合っていると、島を離れた記憶のない桐葉でも、日本中のいろいろな温泉に浸かった気分くらいにはなれる。
だから今夜も、ふと耳に触れたその音に釣られるように、桐葉はいそいそと支度を済ませ、努めてゆっくりと大浴場へ向かった。何故だか、まるで気が急いてしまってでもいるかのような自分自身の足取りを、少し不思議にさえに思いながら。
「うわ、本当にわかっちゃうんだ」
‥‥‥結果が、この不覚だ。
大浴場の赤い暖簾の向こうに彼女の姿はなく、
「ひなちゃんから聞いてはいたけど、本当に凄いんだね、きりきりの耳って」
代わりにそこに立ち、手のひらの上で入浴剤の小袋を弄んでいたのは、彼女の姉に当たる人物であった。
「ど‥‥‥っ」
どうして、とでも訊ねようとしたのか、開きかけた口を桐葉は噤む。
「いいからきりきり、取り敢えずお風呂入ろうよ」
急によそよそしい雰囲気になった桐葉に気を悪くするでもなく、いつものようににこやかに、かなではそう言って桐葉を誘う。
「あなた寮長なんでしょう? こんなことをして」
寮長である目の前の小さな上級生は、誰がどう考えても、この手の狼藉を戒める立場にある筈であった。
「その寮長がせっかくその気になってるんだから、便乗しといた方がおトクじゃないかなあ?」
ところがかなでは、むしろ率先してその狼藉を働きたがっている雰囲気だ。
「えっと、悠木さんはどうしたの?」
「わたしも悠木さんだけど?」
「‥‥‥それは、そうだけれど」
鼻白んだ様子の桐葉に、
「あはは。ん、ひなちゃんはね、確か今はしろちゃんと一緒にいると思うよ」
「それで、何故あなたが」
「んー。それがねー」
穏やかに、かなでは笑いかける。
「この間ちゃんと思い返してみたんだけど、きりきりくらいだったんだよね。今この寮に住んでる人の中で、ちゃんと喋ったことがなかったのって」
「それは、そうでしょうね」
どちらかといえば桐葉の方が避けていたのだから、それも当たり前のことではあった。
人間が人間を避けるのとは訳が違う。吸血鬼や眷族の身体能力を本気で行使すれば、完全に視界から消えてしまうことすら可能なのだから。
「それで、何とかチャンス作って、きりきりとゆっくりお話したいんだけどなー、ってひなちゃんに言ったら、このこと教えてくれたの」
散々自分を避けてきた相手に向かって、もう一度、かなでは手元の小袋をひらひらと振ってみせた。
‥‥‥草津温泉。
ところが。
「でもね。そうはいってもコレ、きりきりにとっては騙し討ちでしょ? それはわたしもわかってるし、ひなちゃんの楽しみを台無しにする気もないんだ」
そこまで言って、かなでは不意に手を引っ込める。
「引き返してもいいよ。そしたらわたし、こんな夜中にこっちのお風呂へはもう来ない。それで、次にきりきりがこの音を聴いたら、それはきっとひなちゃんだから、ひなちゃんには付き合ってあげて欲しいな」
その言葉は、
「あなたらしくない言い草、ではないのかしら」
付き合いの薄い桐葉でさえうっかりそう呟いてしまうくらいには、普段のかなでに不似合いで、
「やだなあ。わたしらしいのはどういうのかなんて、きりきりは知らないでしょ?」
「あ‥‥‥」
かなでの指摘は、桐葉がうっかり言葉を失ってしまうくらいには正鵠を射ていた。
「だからね」
もう一度、かなでは引いた手を差し出した。
「お話しようよ、きりきり。自分ひとりだけの思い込みで、好きとか嫌いとか決めちゃう前に」
暫し、思案の末に、
「そう‥‥‥そういえば、草津温泉は『日本三名泉』のひとつに数えられるのだそうだけれど」
桐葉はそっと、かなでの手をとった。
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