「‥‥‥それ、って」
何か信じられないものでも見つめるように、傍らの孝平が白の手元を覗き込んだ。
「墨汁入れとくだけの道具じゃなかったのか」
「あれ、見たことありませんか? こうして、墨を」
小さな手の中に、消しゴムくらいの大きさの、何か真っ黒い塊がひとつ。
「そうやって硯で磨ってるとこは初めて見る。大体その、墨を見るのも初めてかも知れない」
そこに置かれているものは、裏面いっぱいに大きな夕陽の写真が使われた絵葉書が一枚と、筆が何本か、メモ用紙が何枚か、それから、妙にごつごつした、何かの岩をかち割ってそのまま中だけ綺麗に磨いたような、小さめの硯がひとつ。
いつだったか、孝平が学校の授業で使った憶えのある四角い硯とは、それは形からしてまったく違うものに見えた。
「それにしても、随分ゆったり準備してるんだな」
硯のいちばん奥、『池』と呼ぶらしい窪みに溜められた水は、今はまだ、ほとんど真水と変わらない。
「あ。もう少し急いだ方がいいでしょうか」
池に向かってなだらかに傾斜する硯の丘で墨を磨る手を休め、白はちょっと悲しそうな顔をした。
「ああ、いやいや。旅先なんだし、別にこれから急いで何かすることがあるわけじゃないんだから、慌てることなんか全然ないって。‥‥‥ただ」
「ただ?」
「これじゃ俺、何も手伝えることがないなあ、とは‥‥‥お茶淹れようか。この手の旅館特有の薄ーいお茶でよければ、だけど」
「あ、はい。お願いします」
卓袱台を離れた孝平の背中を見送って、白は硯に目を戻す。
池の水が、ほんの僅かずつ、削れた墨に淡く染まっていく。
筆先を池に浸して、メモ用紙にさらさらと何か書き付けてみる。
「墨汁なら、硯に流したらすぐに書けちゃいますし、それは便利だなってわたしも思いますけど」
どうやら思ったような濃さにはなっていないようで、また筆を墨に持ち替える。
「うん」
「でも、磨った墨で書いた字は、墨汁の字とは見え方が違うんですよ。それに」
そんなことを何度か繰り返しながら、白は言葉を続けた。
「ええと‥‥‥上手く言えないんですが、この墨で手紙を書きたい大切な人のこと、その人に伝えたいことを想いながら、硯で墨を磨る時間のことが、わたしは好きだと思うんです」
「ああ、その気持ちは何となくわかるな」
今、白が胸の中で温めている想いに費やした時間と比べれば、硯の中に墨汁を流し込むのに必要な時間は、その何十分の一、何百分の一くらいのものだ。
だが、想いを温める間もなく準備が整ってしまい、あとは『さあ早く書け』と急かすばかりの墨汁と違って、白の想いが自然に温まるのを、墨はずっと待っていてくれる。
それも恐らく、東儀の家で暮らしていた間に白が学んだ、大切なことのうちのひとつなのだろう。
「それで、前から思ってたんだけど、白ちゃん」
まるで何かのついでのように‥‥‥孝平が重い口を開いた。
「はい」
何か空気が違うのを感じたのか、白は僅かに居住まいを正す。
「あのさ。確か、今までにも何度か出してたと思うけど」
出した、と話には聞いていたが、白が手紙を書いているところに孝平が居合わせたのは初めてだった。
「東儀先輩、ちゃんと読んでくれてるのかな、手紙」
懸命に墨を磨る白の姿を見つめていると、どうしても、そのことが気になってしまう。
「‥‥‥さあ。本当は、よくわかりません」
何しろ白は、しきたりに背いて東儀家を追放された身だ。
これから白が書こうとしている手紙の届け先は、白を追放した張本人である東儀征一郎。
立場を考えれば、届いた端から読まずに捨てられていたとしても文句は言えまい。
「でも、わたしと兄さまは、お互いのことが嫌いで離れたわけではありませんし、兄さまのことを大切に想っている、わたしの気持ちが変わったわけでもありません」
だが、
「こういう時にはいつも考えるんです。わたしや、兄さまや、もちろん支倉先輩も‥‥‥伝えることや受け止めることを、あの時、誰かひとりでも諦めていたら、今のわたしたちはないんじゃないかって」
やや心配顔の孝平に向かって、
「ですから、今は直接お会いできなくて残念ですが、でも、これから先もずっと、わたしから伝えることを諦めてしまいたくはないんです」
白は静かに微笑みかける。
「そっか。ん、そうだな」
答えて、孝平は白の頭をくしゃりと撫でた。
「それに、この硯。後で気づいてわたしも驚いたんですが、実は、これは兄さまが実家でずっと使っていたものでした。でも、この硯箱は確かにわたしのもので、わたしが間違えて持ち出したとか、そういうことではない筈なんです」
くすぐったそうに目を細めながら‥‥‥愛おしいものに触れるように、酷く歪な硯の縁を、白は細い人差し指でそっとなぞる。
「へ?」
「前にわたしが使っていた硯は、きっと今は兄さまが使っているんだと思います」
硯箱の中で、硯だけがすり替えられていた、ということだろうか。
‥‥‥考えてみれば、墨は使ううちに削れてなくなってしまうもののようだし、筆だって恐らくは消耗品だ。白が初めて旅先に持ち出してきた硯箱には、その他には硯しか入っていない。
消耗品を交換してもあまり意味はないから、仮に孝平が征一郎の立場だったとして、この中の何かを自分のものと取り替えるとしたら、やっぱり硯を選ぶだろうとは孝平も思う。
「ああ、そういうことか」
すり替えることができたのなら‥‥‥手紙も寄越すな、と言いたいのであれば、硯を、あるいは道具全部を硯箱ごと、ただ取り上げてしまう方が話は早い。
それをわざわざ、自分の硯と取り替えるような面倒なことをしたのは何故かといえば。
「そりゃ、その硯は白ちゃんが使ってくれ、って意味に決まってるもんな」
「はい。ですから、兄さまに書く手紙は、この硯で墨を磨って書くことに決めているんです」
「なるほど」
頭の中でもやもやしていた懸念が、単なる取り越し苦労だったことを孝平は理解した。
要するに、征一郎の方がそうして伝えられることを望んでいるのだ。
手紙に託した白の気持ちが伝わってない筈はなかった。
「そろそろ、いいようです。‥‥‥でも」
適当に試し書きしたメモ用紙を眺めて、白はふっと表情を曇らせる。
「何度も夕陽の話ばかり書いて送って、今度もまた夕陽のことを書いたりしたら、兄さまは呆れてしまうのではないかと思うと、少し」
「いや、そのまま、思った通りのことでいいんじゃないか? 書きたいのは白ちゃんなんだから、東儀先輩が聞きたいこととか気にするんじゃなくて、白ちゃんが伝えたいことを書くのが大事だと思うよ。それに」
もう一度、孝平は白の頭を撫でた。
「東儀先輩が本当にそんなこと思ってるなら、そのうちあっちからも手紙が来るさ。夕陽はもうわかったから、今度は何か別のこと書いて寄越せ、とか。だから、そういうのはリクエストが来てから考えよう」
「あ‥‥‥はい。それもそうですね」
右手に筆を持ち直し、正面に絵葉書を据える。
「では、書きます」
「ん。頑張って」
そんな風にして‥‥‥山と山を繋ぐように架けられた橋と、その向こうへ落ちていく夕陽くらいしか見所のない、鄙びた田舎町の夜は穏やかに更けていった。
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