‥‥‥いきなり、だ。
「支倉くんなら、いいんだけどな」
制服の前をはだけて、瑛里華がにじり寄ってくる。
「いや、ちょっ、副会長?」
取り敢えず静止する動きを形だけ真似てみている孝平の脳裏に、『据え膳食わぬは男の恥』という謎ワードがちらついた。
構わず近寄ってくる瑛里華に触れかけた指先を引っ込めようとして、
「ほら。いいよ、支倉くん?」
引っ込めようとした手をつかまれ、逆に、瑛里華に引き寄せられる。
「死んでくれれば」
そして‥‥‥空いている方の瑛里華の手が、臓腑の中から外へ、孝平の腹を裂いて突き出されるのを見る。
「っ!」
声にならない声で何事か叫びながら、孝平はその場に身を起こした。
「って、え? あれ?」
だが、そこにいる筈の、もしかしたら自分を刺し殺した犯人かも知れない瑛里華が、そこにはいない。
「ふ、副会長?」
恐る恐る、自分の腹に触れてみる。
「って、さっき」
生温い、どす赤い血の感触が‥‥‥何故か、どこを探っても伝わってこない。
「あ、支倉先輩」
「‥‥‥へ?」
背後、何かがかさかさと擦れる音と共に。
「大丈夫ですよ」
孝平の記憶が確かなら‥‥‥聞こえている声は、瑛里華でなく、白のものだった。
「え、いや、あの‥‥‥今、瑛里華に、殺され」
「泥棒猫は私が退治しました。ほら」
「ほら?」
促されて、視線を泳がせた孝平の視界に、見覚えのある背中が横たわっている。
「‥‥‥まさか、副会長?」
「先輩のためだったら、私、何でもしちゃいます」
いつものように快活に、背後で白が答えを返す。
「だから先輩、死んでください」
そして、いつものように快活に‥‥‥首に掛かった麻縄がぎりぎりと引き絞られる。
「げほっ! ごほっ!」
麻縄に潰された孝平の喉が、酸素を求めて激しく喘ぐ。
「気がついたのね」
今度の声は桐葉のようだ。
「なん‥‥‥紅瀬‥‥‥さ」
「それじゃ、早速だけど」
どん。
‥‥‥衝撃と同時に、猛スピードで自分を置き去りにしていく世界の中で、
「死んでもらえるかしら」
校舎の屋上から転落している自分に気づいた頃には、
「私もすぐに追いかけるわ」
地面は、そこに描かれたふたつの不自然な血溜まりは、すぐ間近まで迫っている。
「あああああっ!」
がらんがらんと音をたてて教室に転がり込んだ孝平を、
「ふう‥‥‥やっと捕まえた」
何故か、メイド服姿の陽菜が見下ろしていた。
「って俺、今、屋上から」
「悪い夢でも見たんだよ、きっと」
いつもと同じ、人好きのする笑顔で、陽菜は孝平に微笑みかける。
「なあ、何か知ってるのか陽菜? さっきから俺、副会長とか、白とか、紅瀬さんとか」
救いを求めるように伸ばした孝平の指を、
「ん。わかってる。もう大丈夫だからね」
両手で包むようにそっと握って、
「ん、っ」
それから‥‥‥どこから取り出したのか、何か液体の入った壜の中身を口に含んで、
「陽菜?」
「ん?」
何かを口に含んだまま、だから唇を開けないままで、もう一度、陽菜は笑って。
「陽菜‥‥‥?」
「んふっ」
唐突なくちづけに続いて、
「っ、ふ、んくっ」
孝平の唇に差し入れられた舌を伝って、陽菜の口の中にある生温い何かが、孝平の口腔に流し込まれていく。
「‥‥‥ふー」
やがて、満面に笑みを湛えて、とても嬉しいことを話すように何かを呟く陽菜の顔が、
「死んじゃうけど、苦しくないよね、孝平くん?」
意識に掛かった霞の向こうへ溶け始める。
「あれ?」
最初のうちは。
「ええと‥‥‥あれ?」
目を開けた自分がどういう状況にいるのか、孝平にはよくわからなかった。
「あ、気がついた?」
五人目の声が聞こえる。
「って、かなでさん?」
「ん。‥‥‥いい夢見れた?」
「は?」
「ほら」
何もかも知っている風で、かなではそこに横たわった孝平の額に触れる。
「これ。さっきので十枚目」
「だから何が‥‥‥あ」
風紀シール。
相変わらず何だかよくわからない、えもいわれぬ模様の中に、
「学園、恋愛‥‥‥殺人事件?」
模様の一部と見紛うような凄い文字が、見ようによってはそのようにも見えることに孝平は気づいた。
「それで、どうだった? 学園恋愛殺人事件。またの名を痴情の縺れまくり大作戦」
「もう勘弁してください」
散々酷い目に遭い続けた孝平としては、そう返すのがやっとだ。
「反省した?」
「あの、何が反省だかわかりませんが、はい」
「‥‥‥むー。この期に及んでまだ『何だかわかりません』とか言ってるー」
そこで急に、かなでは機嫌悪そうに眉を曲げる。
「こーへーは、かなでお姉ちゃんのなんだから。そりゃちょっとくらいは大目に見るけど、あんまり目移りしちゃダメなんだよ?」
「え‥‥‥あ」
ここに至ってようやく、孝平は全容を把握する。
つまり‥‥‥先程かなでが孝平の額から剥がしたものが、多分かなでのやきもちか何かのせいで貼られた、通算十枚目の風紀シールだった、という顛末を。
「酷い夢でした」
「そんなに酷かったの?」
「四回殺されました」
そこで夢から覚めなかったとしたら、あと何回殺されたものやら想像もつかない有様であったが、
「そか。四回殺されちゃったなら、これで五回目ね」
しかも、かなでの口振りから察するに、
「もう勘弁してください本当に‥‥‥」
どうやら孝平はまだ、夢から覚めたわけではなかったらしい。
「どんな風に殺されたの?」
「どんな、って」
腹から腕が出た。
麻縄で首を絞められた。
屋上から突き落とされた。
何かの毒を呑まされた。
‥‥‥思い出したくもないことばかりが、孝平の脳裏に鮮明な像を結ぶ。
「そかそか。でも死んで」
「えええ‥‥‥」
逃げ出す気力もないらしい孝平の傍らに歩み寄って、
「五回目は、悩殺」
かなでの唇が、孝平の唇をそっと塞いだ。
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