"song of a bird."/F  


  

 夏休みの教室棟は閑散としている。
 昼時の屋上はほとんど貸し切りに近い状態だった。
 雲ひとつない、抜けるような真夏の青空を横切る鳥を見つめて、
「鳩ね」
 桐葉は不意にそんなことを言った。



「鳩だろうな」
 同じように空を見上げて、孝平が呟いて。
 ‥‥‥暫くはそのまま沈黙が続いて。
「紅瀬は、鳩は好きか?」
「どちらでもないわ」
「そっか」
 何となく桐葉と一緒に行動するようになって少し経つが、そんな孝平でも、桐葉と話していると話の接ぎ穂に少し困ってしまう。
「動物生態学者のコンラート・ローレンツに『ソロモンの指輪』という著書があって」
「へ?」
 いつものように苦笑しかけたところに、
「狼は獰猛で残忍な生き物、鳩は温厚で平和的な生き物といわれているけれど、実際にはまるで逆ではないか、と書いているわ」
 予期せぬかたちで、桐葉の声が重なった。



「それじゃ、本当は鳩は獰猛な生き物で、狼は温厚で平和的、っていうことか?」
「狼が同じ群れの仲間同士で争う時、劣勢の狼が降伏の意思を示せば、優勢な狼はそこで攻撃を止める。狼同士はそうして相対的な序列を成し、それが定まれば無益な争いはしない。あとは、それぞれの役割を果たしながら、群れの仲間同士で助け合って行動する」
「え? 狼って、群れなんか作るのか?」
「狼が単独で行動するのは、餌が少なくて群れが作れない場合と、群れから追い出された場合だけ。普通の狼は群れの中で暮らすわ。『一匹狼』だなんて、見た目のイメージだけで語られているに過ぎないこと」
 冷たい瞳で孝平を見つめる桐葉の顔に、無知蒙昧、と大きく書いてあった。
「狼と同じように、鳩やノロ鹿同士の争いが起きるとするわね。そうすると、強い鳩は弱い鳩を殺してしまうまで攻撃を止めない。そればかりか、もう死んでしまった相手の亡骸を、なおも執拗に攻撃し続けようとする」
 力尽き、地面にくたりと横たわった亡骸を、がつがつとついばみ続ける鳩。
「‥‥‥うっわ」
 話通りの光景を想像してしまった孝平は、思わず苦虫を噛み潰したような顔をした。
「もっとも、自然の中で起きた争いの場合には、そうまで酷いことにはならないそうだけど」
「なんで?」
「弱い方は、どこまで逃げても構わないんだもの」
 桐葉の答えはとてもシンプルだった。
「強い方にしたって、争うことの目的自体が『殺すこと』ではないのだから、地の果てまで追い回す、というわけではないわ。‥‥‥それでは生態の観察にならないから、檻の中に鳩を入れて、そこから出られないようにした上で、鳩同士で争わせたらどうなるか観察したそうよ」
 上手く言えないが、それは何だか違うような気がする、と孝平は思った。
「そんなの、で、生態の観察っていえるのか?」
 まるで‥‥‥そう、その鳩たちが、互いに殺し合えと人間に強要されてでもいるかのような違和感を憶える。
「怪しくないとは言わないけど、一応の信憑性はあると思うわ。だって、同じように檻に入れられて、争うことを強要されたとしても、狼は仲間を殺しはしない」
 いちばん酷いことをするのは、いつだって人間だわ。
 胸の中の何かを吐き捨てるように、ごく小さな声で、桐葉は呟く。



「それにしても、妙に狼の肩を持つんだな、紅瀬は。鳩はどっちでもないって言ってたけど、狼は好きなのか?」
「‥‥‥『人間は好きか』って訊かれたら、貴方はどう答えるのかしら?」
「え?」
「そのことを貴方に訊いてみたくなって、今日はここに来てもらったのだけど」
 そうだった。
 昨夜、急に桐葉が言ってきたのだ。
 明日の昼頃、教室棟の屋上で待っている、と。
「うーん、いきなり『人間は好きか』とだけ訊かれても」
「よくわからない?」
「ああ。そうだな、今まで会ってきた奴の中だったら、いい奴の方が多かったのは確かだけど‥‥‥まあ、全員いい奴、ってわけでもなかったかな」
 どこか遠くを見つめるように、孝平は目を細めた。
「ずっと転校ばっかりだったし、そこに馴染んでる暇がなかったような場所もたくさんあったよ。そういう時には‥‥‥だから、人による、の、かな。そんな答え方でいいのか、俺にはよくわからないけど」
「そうね。まるで要領は得ないわ。でも、正直ね」
 意外なほど人好きのする笑顔で、桐葉はふっと笑う。
「それでは、この島の人たちは? 昔、このあたりに住んだこともあったのでしょう?」
「ああ、ここのことは好きだったよ。あんまり長い間はいられなかったけど、離れる時は悲しかったな」
 幼い悠木姉妹の様々な顔が頭に浮かぶ。
 一緒に遊んでいる時の笑顔。
 引っ越して行く時の泣きそうな顔。
「そう‥‥‥ところで」
 記憶の中のどの笑顔とも違う表情を見せて。
「実は今、私も少し困っているのだけど。『狼は好きなのか』なんて、私の方が訊かれるとは考えていなかったわ。話の順番を間違えたかしら」
「え、それって」
 言うほど困ってもいない様子で、目の前の桐葉はまだ、くすくす笑っている。
「‥‥‥紅瀬、だよな?」
 僅かな肩の動きに合わせて‥‥‥今までに一度だって見たことのなかった黄金色の瞳が、僅かに、揺れる。

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