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 夏休みの店内は閑散としている。 
 昼時のフロアはほとんど貸し切りに近い状態だった。 
 雲ひとつない、抜けるような真夏の青空を横切る鳥を見つめて、 
「‥‥‥一羽、だけ」 
 千歳は不意にそんなことを言った。 
 
 
  
 しばらく窓の外を眺めていた千歳の脇に、ことん、と何かが置かれた。 
「今日は外ばっかりですね」 
 振り返ると、いつものウェイターが笑っている。 
 胸の名札は『店長 芦原洋一』。 
「すみません」 
「いや、別に謝らなくても」 
 少し困ったように言いながら、 
「あ」 
 カフェオレのカップの代わりに、近頃はほとんど千歳専用のような扱いになっていた角砂糖の壜を、左手のトレイに下げてしまう。 
「あの、すみません、お砂糖を」 
「お代はいいですから、取り敢えず、そのまま飲んでみてくださいませんか、お客様」 
「え?」 
 怪訝そうに少し眉をひそめつつも、千歳はそのままのカフェオレを口に運んでみた。 
「‥‥‥あ」 
 恐らく、驚いたのだろう。 
「おいしい、です」 
 続く言葉がお世辞でないのは、ぱっと花が咲くように笑った表情からもわかった。 
 最初から甘いカフェオレ。普段は角砂糖六個の千歳でも、このカップに角砂糖を加える必要は感じない。 
「実はそれ、角砂糖ふたつしか使ってないんですよ」 
 ところが、店長はそんなことを言う。 
「え? ふたつ?」 
 言われて千歳はカップの中に視線を落とす。 
 もう一度、中身を口に含んでみる。 
 ‥‥‥どう考えても、角砂糖ふたつの甘さではない。 
「うちのメンバーにも超のつく甘党がいまして。どうやってるのか本人以外誰にもわからないのが不思議でしょうがないんですが‥‥‥とにかく、他のメンバーと同じ材料を使ってる筈なのに、何作っても何だか異常に甘い」 
 店内を見回してみる。 
 たまたま閑古鳥の喧しい日に当たってでもいるのか、未だに千歳以外は全員スタッフだ。 
 その中に‥‥‥コーヒーカウンターに、これも見慣れたふたりのウェイトレスの姿がある。 
 何やら呆れた様子で肩を竦めたポニーテールのウェイトレスは、いつもコーヒーカウンターを主のように取り仕切っている。 
 彼女のカフェオレは角砂糖六つだ。 
 ‥‥‥ということは。 
 その傍らで、千歳の視線に気づいて小さく手を振った、両脇に髪を流したあの活発そうなウェイトレスが『超のつく甘党』なのだろうか。 
「そう。『地獄の甘々ウェイトレス』の異名を持つ当店スタッフ、川中島里美です」 
 先回りして洋一が答える。 
「ちょっと店長ー、変な肩書き付けるのやめてくださいよー。プロレスラーか何かみたいじゃないですかー」 
 聞こえるように言っているのだから当たり前だが、コーヒーカウンターから里美が抗議の声を上げる。 
「ちなみに隣は『コーヒー砦の悪魔将軍』、羽根井優希」 
「‥‥‥何言ったか憶えてなさいね、よーいち」 
 対して優希は静かなものだが、ぱきぱきと指の関節を鳴らす仕草が恐ろしい。 
「ふふっ」 
 おかしそうに千歳は笑って。 
 
 
  
 それから。 
 さっき窓から見た、一羽だけで外を飛んでいた鳥のことを思い出して、千歳は小さな溜め息を吐いた。 
 大空高くを自由に飛び回る喜びも、それを一緒に分かち合える人がいてこそだ、と思う。 
 誰からも顧みられないが故の、結果としての自由。 
 ‥‥‥この店のこんな空気が好きだ。 
 今のように千歳が笑える場所は他のどこにもない。 
 取り敢えず、ここにいて、こんな風にウェイターさんやウェイトレスさんと話をしている間だけは‥‥‥雲ひとつない青空の直中に一羽だけ放り出されたような寂しさを、どうにか紛らわせることもできた。 
 でも。 
 千歳はあの鳥で、この店は宿り木に過ぎない‥‥‥ような気もする。居心地はいいし、だからこうして入り浸ってもいるが、本当の居場所とは違う、ような。 
 
 
  
「今日は本当に外ばっかりですね。『ワールド』にはログオンしなくていいんですか?」 
「え‥‥‥?」 
 洋一にそう言われて、千歳は思い出したようにディスプレイに目を戻す。 
 まだ何のアプリケーションも立ち上げられていない、アイコンが幾つか並んでいるだけのデスクトップ画面。 
「あ、すみません」 
「いえ。気にしなくてもいいですよ。『バイナリィ・ポット』はカフェですし、全員が全員、パソコン弄ってなきゃいけない決まりなんてないですからね」 
「でも‥‥‥私がここにいなければ、このマシンは他の人に使ってもらえた筈、だったり」 
「使いたい人がどこにいるっていうんですか」 
 くるりと周囲を見回すが、確かに、店内は未だ閑古鳥が大合唱の最中だ。 
「甘党仲間がいてくれて嬉しいと、当店が誇る『地獄の甘々ウェイトレス』も言っていることですし」 
「店長まだ言ってるー」 
 遠くで誰かが何かぼやいている。 
「ごゆっくりどうぞ」 
 新しいカフェオレのカップを置いて、洋一は千歳に背中を向けた。 
 ゆっくりとカップを持ち上げ、口をつける。 
 今度もやはり、最初から甘いカフェオレだった。 
 
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