ちょうど零時を回った頃には、以前であれば『ワールド』に潜っていた筈なのだが。
「なくなっちゃったからなあ、『ワールド』」
洋一はそんなことを呟く。
『そうですねえ』
洋一の机に置かれたノートPCの画面の中から、ミリィがどこか遠くを見つめている。
『あ、それでアキさん』
「こらこら。だからアキさんじゃないって、もう」
『うう。すみません、つい癖で』
この数日‥‥‥つまり、ミリィを構成するプログラムが、何日か前に崩壊した『ワールド』のサーバから『バイナリィ・ポット』へ移動してきて以来、こういった会話は何度か繰り返されてきた。
『でも、よ、洋‥‥‥一、さん』
だが今日は、
『アキさんって呼んじゃダメですか? やっぱり、呼び慣れてる名前の方がやりやすいというか』
今までにない続きがあった。
「んー‥‥‥俺とミリィしかいない時だったら別に構わないかな、とも思うんだけど」
『アキ』という名前は、洋一が自分で考え、『ワールド』では自分の名前としてずっと名乗ってきたものだ。
ミリィに『アキ』と呼ばれることには、洋一自身にはさして違和感はない。
『だけど?』
「『芦原洋一』って名前と『アキ』は全然関係ないからなあ。他に誰かいる時に『アキさん』とか言われても、他の人は『ミリィが俺を呼んでる』って思わないだろ。そんなことになったら、ちょっと困ったりする場面がありそうじゃないか?」
『うーん‥‥‥それはそうなんですよね』
現実の芦原洋一はネットカフェ『バイナリィ・ポット』の店長であり、ミリィもそのスタッフの一員として、そろそろPCやサーバの管理に関わり始めることになる。
例えばミリィと佳澄が洋一の話をするとして、それぞれが洋一を呼ぶ名前や、それが指す対象が一致しないことには不都合があるだろう。
『あ、でも、どうして「アキ」だったんですか?』
不意にミリィが首を傾げた。
『さっきアキさんが言ったんですよね。「アキ」の由来は「芦原洋一」とは関係ないって』
「そうだけど‥‥‥なんでだったっけな」
別の理由で洋一も首を捻る。
「思いつきだけだったような気がするんだよなあ。由来が何かあったとか、そういうことじゃなくて」
『ぇー』
ものすごいジト目が洋一を見つめているが、
「‥‥‥いや、そんながっかりされても」
本当のことなのだから仕方がない。
「大体みんな、ゲーム用のキャラの名前のことなんて、そんなに深くは考えてないと思うぞ」
アキもマサトもミキもありふれたカタカナ名前。
カーマインは色の名前。
ナツコとサトミに至っては本名そのままだ。深くどころか、まったく考えられていない可能性すらあった。
『はい。それはわかるんですが、でもそうすると』
ディスプレイの中のミリィが寂しそうな顔をする。
「どうした?」
『わたしの名前も、実はあまりちゃんと考えられたものではないんじゃないか、という疑惑が』
「‥‥‥あ」
そうかも知れない。
そうでもないのかも知れない。
『今更考えてもしょうがないことだ、っていうのは、わたしもわかってはいるんですが』
「『ワールド』の方がなくなっちゃってるんだからなあ」
いずれであれ、真相にアクセスする手段は、今はもうこの世のどこにもないが、
「あ。オヤジの名前だってちゃんと聞いたことなかった気がしてきた。最初から最後まで『オヤジ』だったけど、それって人の名前じゃないだろ、そもそも」
固有名詞ではないだろう。恐らく。
『ああ、そういえばそうですね‥‥‥って』
「ん?」
『考えているとかいないとかの前に、そもそも名前を設定する必要そのものが考慮されていなかった、っていうことになっちゃいますよね』
「‥‥‥まあ、そうなる、かも」
今のところ、『実はあまりちゃんと考えられたものではない』疑惑が優勢らしくはあるようだ。
「あ。でもそういえば、佳澄さんを『ミキ』って呼んだり、優希を『マサト』って呼んだりはしないよな」
何か思い出したような顔で、
「なんで俺だけ『アキ』のままなの?」
今度は洋一が質問した。
『だって‥‥‥アキさんは、私にとっては特別ですから』
恥ずかしそうに身を捩りながら、ミリィはそんな風に答えた。
「あー。そっか。うん」
何やら頬を赤くして、洋一も頬を掻く。
『‥‥‥こう、この辺で、キスとか、したいですね』
「そうだな‥‥‥」
だが、次にミリィが呟いたひとことは重い。
「で、次の策なんだが」
殊更明るい声で、洋一は言葉を続けた。
「幾つか出始めてるよな、女性型介護ロボットとか」
『ああ、ストロベリーフィールズ社のアレとかですか?』
「そうそう。それで、ああいうのに内蔵されてる制御用ロジックの代わりに、ミリィを載せられないかな?」
『‥‥‥あ! なるほど、それはいいアイデアです!』
ミリィが嬉しそうに笑う。
「とはいえ、ありゃ高いからなあ。今のところずっと赤字のバイナリィ・ポットであんなものが買えるほど利益を出すのは大変だぞ」
『うう‥‥‥で、でも、わたしも頑張りますよ!』
画面の向こうとこちら側とで、ふたりは楽しげに気勢を上げた。
|