ちょうど零時を回ったくらいの頃合いだが、呑んだくれ通りのりんご亭は相変わらずの喧噪の中にあった。
「‥‥‥遅くなっちゃったなあ」
腕時計をブラウスの裾に隠して、難しい顔のラピスはぱたんと文献を閉じた。
「むーん」
狭い二人席だ。壁や柱に当たってしまわないように気をつけながら、右肩をぐるぐる回して凝りを解す。
「どしたのラピス? 難しい顔して」
通り掛かったレイチェルが声を掛けた。
「んー‥‥‥考えごと」
「どんな?」
「王権神授説についてとか」
『何故王様は偉いのか』という話の一環として、『王権は神から与えられたものである』とする説のことだが、
「お、おう、け? ‥‥‥ごめんもう一回」
普通のシンフォニア人はそもそも『王権神授説』という思想があること自体を知らない。
「建国から今までは、王制のままでも何にも問題なかったんだけどね」
試練の門が通過できないと王様になれない、っていう仕組みが破綻しちゃうのは決定的だからねえ‥‥‥呟く声の大半は、周囲の喧噪に掻き消され、レイチェルの耳には届かなかった。
「レイチェル、王様についてはどう思う?」
「王様? って、クリフのこと? ‥‥‥あ、クリフはもう違うのか」
「ああ、そっちの話じゃなくて」
一息吐いて、ラピスはホットミルクをひとくち。
「王様が国を治める、っていう仕組みそのもののこと。大体レイチェル、どうして『王様』がいるんだと思う?」
「そりゃ、お店に店長がいるのと同じことでしょう? うちの父さんがりんご亭の中のことに責任持つのと同じように、この国の有り様に責任を持つ、っていう仕事があるんだと思うわ」
「なるほど。そんな風に考えてるんだ」
商店を営むハワードの娘らしい、実に簡潔で理に適った説明だ。
「王様はね。貴族って連中が何してんだかはよくわかんないけど」
「んー。そうだなあ」
ラピスは少し考え込む仕草。
「りんご亭はこの一軒だけだけど、でもレイチェルが手伝ってるでしょ? この国は広いから、王様にだって、そうやって手伝ってくれる人が何人も必要なんだよ」
「あー‥‥‥なるほど。そういうことなんだ」
こちらも感心したように、レイチェルはぱんと手を合わせる。
「じゃ、その貴族の中から、誰か次の王様出したらいいんじゃないの?」
「それがねえ‥‥‥」
地球へ向けてクリフとレティシアが旅立ったのは少し前のことだ。
今は取り敢えず、先王のウォーゼルが玉座に戻っているが‥‥‥試練の門の通過資格が血統のみによって証明されるものである以上、それこそレティシアの弟か妹にあたる子供がこれから生まれでもしない限り、試練の門を通過できる人間が誰もいなくなってしまうことは間違いない。
そういう意味では、わざわざ甥のクリフを召し出して王位に就けようとしたくらいだったのだから、望み薄と考えておいた方がよさそうだ。
元から平和なシンフォニア王国のことだ。王家の内部がこんなことでも市民の暮らしは相変わらずだが、いずれはそうも言っていられないことになるだろう。
「王家のしきたりの方を変えないといけないから、言うほど簡単なことじゃないんだけど」
「難しそうな話ね」
「まあね‥‥‥」
具体的にはどうするのだろう、と考える。
最終地点は、艦長の生体コードの再登録だ。航行中に不測の事態が起きた場合に備えて、艦長代理を任用するシステムも用意されている。そういう仕組みを幾つか組み合わせて、別の人間の生体コードで艦長の情報を更新する、というのが実際の手法であるだろう。
現在の王がいなくても恐らく手続きは完了できると思われるが、オペレータとしてのラピスがいなければ手続き自体を開始できないわけで‥‥‥こうなるともう、どちらが王だかわからない。
「先天的な資質でしか王様が選べないんだから、『王権神授説』とか言ってた時代と変わらないよねえ」
「さっきの話?」
「ん。王様の権利は神様からの授かり物です、っていう考え方なんだけど」
偉いひとは生まれつき偉いんです。‥‥‥言いながら、レイチェルはこういうの嫌いだろうな、と思う。
「ああ、それはそうなんじゃないの?」
「へ?」
ところがレイチェルは、実にあっさりと肯定した。
「だって私、別に王様にも貴族にも生まれなかったじゃない? でも実際、クリフは王様の甥か何かに生まれついてる。どっちにしても、それは私やクリフが自分で選んだことじゃないけど、少なくとも私は、王様に生まれつかなくて残念、とかは全然思ってないしね」
「ふむふむ」
「ついでにいえば、クリフなんて吟遊詩人以外のナニモノでもなかったじゃない? 神様から王様の権利を授かりました、ってだけ聞いたら凄い話みたいだけど‥‥‥あんな奴でも勤まるんなら、ちゃんとした覚悟さえあれば王様なんて誰でもできる、ってことじゃないの?」
「あー」
政情不安定が一般の生活にこれほど影響を与えない国も珍しい、とラピスは思う。
「それはそれで、安定してるってことなのかな」
「そうなんじゃない?」
軽く答えて、レイチェルは席を立った。
「ラピスが悩んでるのがどんな難しいことだか正直よく知らないんだけど、でもさ、大体のことは一生懸命やってれば何とかなるわよ」
「‥‥‥うん。そうだね」
肩の荷が少し軽くなったような気がするのは、多分、錯覚か何かなのだろう。
ホットミルク持ってくるわね、と言い置いて、レイチェルはカウンターへ戻っていく。
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