「年末年始? んなもん同じよ同じ」
あちこちの卓上を忙しく拭いて回りながら、極めてぞんざいに、レイチェルは答えて寄越す。
「いやレイ姉さん、同じって」
「この辺の飲んだくれ共は一年通して暇してるんだからさ。ウチは日付はあんまり見てないの」
客に対して酷い言い様ではあるが、レイチェルが言うと意外に角が立たない。
こういうのも『人徳』というのだろうか。
エレノアはそんなことを思う。
「‥‥‥となると、姫さまも?」
だがそれはそれとして、レティシア姫の護衛を仰せつかったエレノアには別の悩みがある。
「いやまあレティは、こっちの一存で捕まえっ放しってわけにはいかないでしょ。仮にもお姫様なんだから」
ある日突然りんご亭に飛び込んできたレティシアが、給仕兼看板娘兼歌姫のポジションを確立して久しい。まさかこんなに長い間逗留し続けることになるとはレティ自身も思ってはいなかったようだが、ともかくも、レティは今もってりんご亭の給仕兼看板娘兼歌姫である。
とはいえ‥‥‥この辺りの庶民は王宮に用などないから誰も気づいていないだけで、正真正銘、レティシアはシンフォニアの王女殿下なのだ。
「それがですね」
何やら小難しい顔で、エレノアは大きく息を吐いた。
「年始の一般参賀がありますから、元日、王家の皆様は揃って王城のバルコニーにお出になります」
市民が入る城内の庭園とバルコニーは離れていて、誰でもはっきり顔がわかるほど近寄れるわけではない。だが一応、直接顔を合わせるからには、一抹の不安は残る。
「めんどくさいことすんのね」
「そこはいいですから」
さりげなく話の軌道を修正しつつ、
「もしかしたら、この一般参賀で、りんご亭の歌姫が姫さまであることに気づく者が現れるかも知れません」
「なら影武者でも立てたら? その挨拶にはレティの偽物を立たせておけば」
「いや、しかし、市井の一居酒屋の都合のために、王家が民にそのような嘘をつくなど」
「あのさ‥‥‥まあ、レティがウチにいたいかどうかとは全然別の話だけど」
一応、周囲を見回して、見える範囲にレティがいないことを確認してから、レイチェルはそう言った。
「ウチの都合のことだけ言えばさ、別にレティがいつ王宮に戻ってたって、ウチは困んないのよ?」
そう、レティシアが転がり込んだのだ。
りんご亭が引き入れたのではない。
王侯貴族嫌いを公言するレイチェルのりんご亭が、王家のワガママを聞いてやっている、のである。さらにその上、王家の催事が思うに任せないことの犯人役まで押しつけられるのでは踏んだり蹴ったりだ。
「『市井の一居酒屋』の都合なんか、この話とは全然関係ないってことでしょ? 悪いけど、その言い回し、止めてもらえる?」
見るからに機嫌を損ねたその表情に、エレノアは自らの失言を自覚した。
「‥‥‥はい。ごめんなさい、レイ姉さん」
本当に申し訳なさそうに、がっくりと項垂れる。
「ああいやいや、そんなに凹まなくても。ね?」
その様子に、今度はレイチェルが少し慌てる。
ただひとつのことを度外視してよいのであれば、『正解』を導き出すのはとても簡単だ。
一般参賀とやらの前にレティシアが王城に戻れば、少なくとも表向きは、すべてが丸く収まるだろう。
「だから、エルが悩んでるのは、レティがまだ帰るって言わないから、ってことでしょ? もう帰るって決まってるんだったら、実はお姫様でしたーってバレたところで問題とかはないんだし」
「はい。今のところ、帰るつもりはないようですし」
「ウチの飲んだくれ共も喜んでくれてるからさ、ウチとしては、いつまでいてもらってもいいんだ。本人がそのつもりなら、さ。でも‥‥‥ねえ」
「‥‥‥ですねえ」
問題はその『ただひとつ』。
レティシア本人の気持ちだ。
「ああ、いっそエルがお姫様役で参加したら?」
冗談めかしてレイチェルは言い、
「ぇえええぇぇえぇええぇええええええっ!」
「っていうのは冗談として」
「ほっ‥‥‥」
真に受けたエレノアは狼狽えるが、実はそれは、案としては成り立たない。
今、市井の人々の間で『レティシア姫』と『りんご亭のレティ』が結びつかないのは、『レティシア姫』について詳しく知る者、『りんご亭のレティ』の育ちを記憶に留めている者、どちらもが市中にいないからだ。
対してエレノアは、珍しい庶民上がりの王宮騎士。
しかも女性。
ひょっとしたら本人はそうした自覚が希薄なのかも知れないが、よくも悪くもエレノアは有名人だ。
バルコニーに立ったお姫様が『レティシア姫でない』ことに気づく者は少ないかも知れないが、それが『エレノアである』ことは早晩知れてしまうだろう。
種類は違えど、騒ぎになるには違いなかった。
「いいアイデアってないモンねえ」
疲れた声でレイチェルが呟いた。
「‥‥‥まあ、本当はひとつ、あるにはあるんですが」
エレノアは困った声で呟く。
「へ? 何かあるの?」
「すること自体は簡単です。一般参賀で不特定多数の市民に顔を見られるのが不味いんですから、そもそも姫さまが一般参賀に出席しなければいいんです」
「そりゃそうね。まあ、休めれば、でしょうけど」
「はい。あんなものでも公式な行事ですから、欠席の事由をどうするか」
「んー‥‥‥あ」
急に、レイチェルがぱんと両手を合わせた。
「ねえ、今まで言ったことをさ、あのスチャラカ王に直接言ってみたらどう?」
「す‥‥‥すちゃらか、ってそんな」
「長逗留を許してる方だって、こんなことで逗留先が知れたら困るのは一緒だろうし、欠席の理由でっち上げるのに協力してくれるんじゃないの?」
口は悪いが、言っていることには一理ある。
「なるほど。わかりました、相談してみます」
大きく頷いて、エレノアはほっと息を吐いた。
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