wish the same. (the mother's daughter III) 


  

「ごちそうさま。おいしかったわー」
「本当? よかった。今日のメインはちょっと実験的だったから」
「そうそう。例のデスマーチがリビングにまで」
「お・に・い・ちゃ・ん?」
「‥‥‥何でもありません」
 達哉と麻衣と、ほとんど奇跡に近い早さで帰宅したさやか。極めて常識的な夕食時にしては珍しく、朝霧家の三人は揃って食卓を囲んでいた。
 ‥‥‥そういえば。
 この食卓は、一時は今の三人よりもさらにふたり多い、五人のための食卓だったことを、さやかはふと思う。
 あとのふたりは時によって違った。
 例えば、数年前には月王国からホームステイで来ていたフィーナ姫とお付きのミアであったし、さらに前には、この家の最初の主である、朝霧千春と琴子の夫妻。
 それに、数年前‥‥‥フィーナが来た頃には付属のカテリナ学院にいた達哉も麻衣も、今では満弦ヶ崎大に通う大学生。立場が変わっていないのはさやかだけだ。
「でも姉さん、今日は何かあったの?」
「ええ。まあ、思っていたよりも早く仕事が片づいたってことも、もちろんあるんだけど」
 特に達哉は、本人の志望で月学部へ進学。これまでのほぼ二年間で優秀な成績を維持し続け‥‥‥この家はまた、こんな相談をする必要に迫られるまでになった。
「誰に似たのかしらね」
 感慨深げに、さやかはぽつりと呟く。
 フィーナ姫。千春。さやか自身。
 達哉のことに限っていえば、思い当たる節がありすぎて、どれが原因だったやら見当もつかない。
「ん? お姉ちゃん、何か言った?」
「ううん。何でもないわ‥‥‥それで、達哉くん」



 そして。
「留学のことは、どうするつもりでいるの?」
 突然さやかが発したそのひとことだけで、穏やかな団欒の空気は消し飛んでしまった。



「り、留学? って誰が? ‥‥‥達哉くん、ってお兄ちゃんが? どこに? え? まさか」
 真顔で訊き返す麻衣は、どうやらまだ知らなかったらしい。思いつくままに口から零れる言葉が、頭の中の混乱ぶりを物語っている。
 そんな麻衣と、ばつが悪そうに明後日を向き、唇を噛んでいる達哉の態度を見比べて、
「‥‥‥そう。達哉くん、まだ麻衣ちゃんには話してなかったのね? 月への留学の話が来てること」
 達哉だけが知っていた真相にさやかは気づいた。
「それは‥‥‥いや、だけど、それは」
 何か言おうとする達哉の声が萎む。
「酷いよ、そんな大事なこと‥‥‥お姉ちゃんには話して‥‥‥わたしは‥‥‥わたしだけ」
 悲しそうに俯いた麻衣の肩が、小刻みに震えていた。
「麻衣ちゃん‥‥‥」
「お兄ちゃんの馬鹿っ!」
 あっという間に遠ざかる麻衣の足音が、何かの終わりを告げているようで‥‥‥そこに竦んでしまったまま、まだ、そこから一歩も動くことができずに。
 踵を返した背中を、達哉は呆然と見つめるしかない。






「ごめんなさい達哉くん。流石に、麻衣ちゃんにも話していないとは思わなかったから」
 ふたり分のお茶を淹れ直した湯呑みを置いて、さやかが食卓に戻る。
「いや。わかっちゃっても仕方のないことだし、話してなかったのも本当だし‥‥‥それよりも、姉さんにも話してなかった筈なのに、なんで」
 さっきからずっと椅子に座ったままの達哉は、さやかに訝しげな視線を向ける。
「大学を通して『少し考えさせてください』って返事が来てから音沙汰がないけど、いつまでも保留のままだと受け入れ準備に支障が出るかも知れないから、家族との相談はどこまで進んでいて、結論はどっちになりそうなのか、よければ様子を教えて欲しい、って」
 そんな達哉に、さやかは柔らかな笑顔で応じた。
「昼間、カレンに訊かれたのよ。今の麻衣ちゃんもそうだったみたいだけど、私も寝耳に水だったから、いきなり訊かれた時は驚いちゃって」
「‥‥‥そっか。ごめん」
 月王国側で留学の窓口を担当するのも大使館である。さやかとカレンの関係を考えれば、それは確かに、至極当たり前の話の流れといえた。
「私のことはいいわ。でも‥‥‥達哉くん、麻衣ちゃんにまで黙っていたのはどうして? 他の誰かはともかく、あなたがそのことをいちばん最初に相談するべき人は麻衣ちゃんでしょう?」
 尋ねながら、さやかには既に察しがついている。
「そうなんだけど‥‥‥俺、その話は断ろうと思ってて。だから、麻衣にとっては今まで通りだし、俺と麻衣のこともずっと同じだから、だから、言わなくても」
 達哉がそう言うであろうことも。
「そんな風にすらすら答えが出てくるのに、返事はまだ『少し考えさせてください』のままなのね」
 そう言う気持ちの裏に隠した、違う気持ちのことも。
「どちらであれ、決めるのは私ではないわ。だから、本当にそうしたいって心から思っているなら、私から言うことは何もないけど、でも達哉くん、本当は」
 とても‥‥‥頷きたくなさそうに。
 ごく小さく、達哉は首を縦に振った。



「悩んでるの、わかるわ。達哉くんも多分、いつ帰ってこられるかわからないような、そういう風に話を持ち掛けられているのね?」
 実感をもって達哉の悩みを受け止めることができるのは、今は確かに、さやかだけかも知れない。
「そうだった。いつからいつまでってのは、来てから様子を見て決める、って」
 頷いたさやかに促されるようにして、達哉は話の続きを口にする。
「留学しても学年とかは一緒になるから、もしそれが二年続いたら、向こうで大学を出て、それで満弦ヶ崎の大学も卒業したことになるってことも考えておいて欲しいって。場合によっては、そのまま月側のどこかの企業に一旦就職するようなことも、一応、可能性としては」
 最初にそれを聞かされた時は達哉も面食らったが、よく考えてみれば、そう不思議でもないのかも知れない。
 なにしろ、それは留学である。
 フィーナのような短期のホームステイではない。
「やっぱり、私の時と大体同じね。本当は私も、もっと長く月にいることになる筈だったらしいんだけど」
 お茶を口に含んでから、さやかは言葉を続けた。
「地球に月博物館を設立する話が持ち上がって、私はそのために引き戻されたようなものだったから」
 どうやら、実際に就職する前から、さやかは博物館の中核スタッフとしての活躍を嘱望されていたらしい。それが後には館長代理にまでなったのだから、さやかの適性を見抜いた誰かの慧眼も大したものだ。
「私にとっては願ったり叶ったりで、意に沿わないことなんてほとんどないわ。でもね、こうなるように、私が全部を自分で決めていたわけではないの。戻るって決まった時は‥‥‥本当はちょっと、悲しかったと思う」
「そうなんだ」
 表立って口にすることはあまりないが、さやかが再び月へ行きたがっていることは達哉も麻衣も知っている。もしかしたらそれは、そうして引き戻されたことに何か心残りを感じているから、なのかも知れない。
「だけど」
 少し改まった様子で、さやかは湯呑みを食卓に置く。
「今から考えたら‥‥‥その時に戻れたから、この『朝霧家の家族』っていう居場所に、私は間に合ったのよ」
 置いた湯呑みをそっと回す。
 いつもはさやかに向いている模様が、達哉の目に映る。
「ものの見かたはひとつきりじゃないわ。自分の目に見えることだけが世界のすべてじゃない。例えば、達哉くんと、千春さんのこともそう」
「‥‥‥親父の話は」
 遮るように何か言いかけた達哉の言葉を、
「いいえ。聞いて欲しいの。今だから、こんな状況だからこそ、千春さんと琴子さんの想いを、達哉くんにはちゃんとわかって欲しい」
 さやかにしては珍しく、さらに遮るようにして、
「‥‥‥聞いた後でもまだ千春さんのことが好きになれないなら、もう、その他に私から言うべきことは何もないわ。それくらい大切な話」
 決然と、言葉を続けた。



 昨年の今頃、つまり二月くらいのことだろうか。
 長らく「行方不明」であった千春が、渡航した月の遺跡で事故に巻き込まれ、とうに亡くなっていたことが正式に確認された。
 千春は晩年、あの月へと渡っていたのだ。
 だがそのために、幼い達哉と麻衣を女手ひとつで育てなければならなくなった琴子は、無理が祟ってか病を患い、千春の帰還を待つことなく他界した。
 千春と琴子について、達哉や麻衣の知っていることは、これで概ね全部だ。
 育ての親の愛情を疑いたくなかった麻衣はさほどでもないが、達哉の方ははっきりと、家族を捨てた千春を拒絶しようとしていた。



「麻衣ちゃんはともかく‥‥‥今までの達哉くんは、こういうことを言ってもまだ素直に受け止められないかも知れないと思って、ふたりにはまだ伝えていなかったことがあるの。琴子さんが亡くなった本当の原因はね、過労とか、そういうことじゃないのよ」
 琴子は重い病気に罹っていた。
 それは千春が月へ旅立つよりも以前からのことで、つまり、千春が月へと旅立ったことが、琴子にとって直接の死因ではあり得ない。
「だって、研究者としてずっと方々を飛び回っていた千春さんは、元から留守がちだったもの。琴子さんにとっては、女手ひとつで達哉くんと麻衣ちゃんを育てるということ自体には、旅立つ以前とそう大きな差はなかった筈だと私は思うわ。達哉くんはどう?」
「え‥‥‥でも、例えば、収入とか」
「それは確かに、そういうことまで全部同じ、というわけにはいかないでしょうね。でも、千春さんには月学の文献として収蔵されるような著書もあったし、だから一応、不労所得も期待できたわ。ほら、そんなことでもなければ、病気の身で、しかも女手ひとつで、こんな立派な家を手放さずに維持するだなんて、それこそ無理よ」
「それは確かに、そうかも知れないけど」
 それくらいは、少し考えればわかるようなことではあるのだが‥‥‥故にこそ、頑なに千春を拒絶し続けるために、考えることすら捨てたがる達哉の闇は、余人の想像よりもなお冥く、深いともいえた。
「それで、母さんの病気っていうのは」
「ええ。後でお医者様から聞いたんだけど、最初は肝臓癌だったそうよ。発見された時にはもう転移も進んでいて、無理に摘出手術を受けたとしても、そんなに長くは寿命は延びなかっただろう、って。でも」
 これはあくまでも私の想像だけど。
 改めて、そんな風に前置きをしてから、
「多分ね、琴子さんは、千春さんに、病気のことは何も言っていなかったんだと思う」
 さやかはそう言った。



「え‥‥‥言わないって、どうして!」
 達哉の声は、ほとんど叫び声に近かった。
 そんな達哉の前で、さやかは悠然と、
「それはやっぱり」
 なるべく悠然と、お茶を啜ってみせる。
「千春さんに、月へ行く話が来ていたからだと思うわ」
 行ってしまえば、いつ戻れるかはわからない。
 現在の達哉でさえそうなのだし、そういう覚悟のもとで月へ渡った経験はさやかにもある。
「それから、これも想像だけど、千春さんはそのことに気づいていたと思う。琴子さんが何も言わなくても」
 それだけ病状が重ければ、普段通りに暮らすことにも人一倍の努力が要るだろう。その頃の達哉や麻衣は気づかなかったかも知れないが、千春がそこに気づかなかった筈はない、と思う。
 なにしろ、あの愛妻家の千春のことだ。他のことはわからないが、さやかの知る限り、千春はそういうことに鈍い男ではなかった。
「悩まなかった筈はないわ。ふたりとも、相手に悟られないように、いろんなことを考えたと思う。そうして悩んでいるところに私は間に合わなかったけど‥‥‥千春さんや琴子さんが、どんなことを想いながらその時を暮らしていたか。今なら、私にも少しわかる気がするの」
 結局、千春は月へと旅立った。その後の朝霧家については、麻衣や達哉もよく知る通りだ。
「でも、それはおかしいよ。だってそんな‥‥‥母さん、自分が死ぬかも知れないって時に、親父が月へ行っちゃうのを引き止めないなんて。それに親父だって、気づいてたなら‥‥‥せめて最期まで側にいたいって、絶対そう思う筈じゃないかって」
 食い下がりながら‥‥‥自分が食い下がってもいいことなのか、達哉にはよくわからない。
 達哉自身のことについてならば、それが正しいと確信をもって言えた。重い病気を患い、死の淵にいる最愛の麻衣を置いてまで、月へ行きたいだなんて考えられない。
 だが。
『ものの見かたはひとつきりじゃないわ』
 さやかが何を言いたかったのか‥‥‥どうしてもわかりたくなかったことが、少しずつ、達哉にはわかり始めてしまっていた。
 その真意が今、達哉の確信を揺さぶる。



「私も、達哉くんと同じようなことを思ったわ。だけど」
 達哉の頭をさやかがゆっくり撫でる。
「引き止めるのは簡単よ。千春さんは気づいていたし、千春さんは気づいてるって琴子さんも気づいていたなら、隠したままでいる意味はないもの。だから多分、琴子さんの口から病気のことを話していたなら、きっとそれだけで、千春さんは月へ行くのを止めてくれたわ。それなのに‥‥‥お互いがそこまでわかっているのに、いちばん大切なことを、琴子さんは最期まで言わなかった。それはどうしてかしら」
 それでも、千春に月へ行って欲しかったから。
 自分のために夢を諦める千春を見たくなかったから。
 だから琴子は、千春に見え透いた嘘をついた。
「そして、琴子さんがその大切なことをどうして言わないのか、それも千春さんにはわかっていた。だからきっと、千春さんも琴子さんには訊いていない。気持ちが伝わっていたからこそ、千春さんもそれを口には出さなかったのよ。例えば、身体は大丈夫なのか、自分が戻るまでこの家で待っていられるのか、そういうことを」
 そんな琴子の気持ちに対して、千春から返してあげられるものが‥‥‥自分が夢を諦めないこと、その他にないとわかっていたから。
 だから千春は、琴子の見え透いた嘘を、疑わずに受け容れることを選んだ。
「病気に罹った琴子さんと、まだ小さい達哉くんや麻衣ちゃんを置いて、千春さんがひとりで月へ向かうこと。それが正しいとか間違っているとか、私には簡単に決めつけられない。今はまだ、達哉くんは千春さんのことを嫌っているでしょう? それは、達哉くんの立場になって考えてみたら、きっと自然なことなんじゃないかって、そういう風には私にも思える。‥‥‥でもね、それでも、ひとつだけ、達哉くんと麻衣ちゃんには疑わないで欲しいことがあるわ」



 夫として。
 あるいは、父親として。
 千春の態度は無責任だと言われれば、確かにそれは、その通りではあるだろう。
 だが、千春は決して、自分ひとりだけの夢などのために、簡単に家族を捨ててしまえるような男ではない。
 そうではないのだ。
 琴子の最期の願いが、千春がそうしなければ叶えられない願いだったのだ。
 だから千春は月へと旅立つことを敢えて選んだ。
 遺される者たちに対して贖われるべき罪のすべてを、自分ひとりで背負うことすら厭わずに。



 さやかの声を聞きながら、
「千春さんたちが何かを間違えていたとしたら、それはきっと、相手のことを想う気持ちが純粋すぎたのね。もしも、もう少し‥‥‥あとほんの少しだけ、お互いに対して我侭に接することを、自分に赦してあげられたら」
 何かを考え込むような振りをして、俯いた達哉は固く目を瞑っている。
「でもね、最期の最期まで、ふたりはそういう強い絆で結ばれていたんだっていうこと。結果的にはそのせいで身動きがとれなくなっちゃったかも知れないけど、そのくらい、お互いを大切に想っていたっていうこと」
 真っ暗闇の視界の中で、麻衣が笑っていた。
「あなた方にだけは、そのことだけは疑って欲しくなかった。だから私はずっと、それをふたりに伝えたかったの」
 ‥‥‥琴子が、笑っていた。



 本当は、最初から、達哉にもわかっていたことだ。
 何故なら、自分を捨てて月へ向かった筈の千春に対して、愚痴だとか文句だとか、そういうことを最期まで何ひとつ言わなかったことを、達哉は知っているからだ。
 琴子が語る朝霧千春は、いつも活き活きとしていて、いかにも楽しそうに人生を歩むひとで‥‥‥そんな千春をとても愛おしく想っている琴子の気持ちまでもが自然に伝わってしまうような、あんなしあわせな話を聞かされた者の誰が、千春を想う琴子の気持ちを疑うだろう?
 そして、あれは全部、互いの気持ちが通じ合っていることに不安を抱く必要がないひとの言葉であり、笑顔だったということが、今は達哉にもよくわかる。
 何故なら、麻衣もあんな風に笑うからだ。
 麻衣の笑顔は、達哉が麻衣を大切に想っていること、それが麻衣にも伝わっていることを達哉に教えてくれる。
 そのことを疑う必要のない琴子でなければ、千春の名前を口にする度、あんなにしあわせな笑顔になるだなんて絶対にできない‥‥‥。



「わかってた」
「ん」
 いつの間にか、椅子に座ったままの達哉を、さやかが背後から抱き竦めている。
 胸の前に回された腕に、達哉の手のひらが触れる。
「でも、それでも、誰かの‥‥‥親父のせいにしなきゃ、母さんが死んだってことに納得なんかできなかった」
 低い呟きが漏れた。
「そうね」
「だから俺、嫌ってるのに‥‥‥今度のことも、嫌いな親父が勝手に出て行ったみたいに、俺も麻衣を置いて月へ行っちゃったら、それじゃ俺も親父と一緒じゃないかって思って‥‥‥だからそんな話、全部なかったことにしなきゃ、って」
「だけど、達哉くんが月を目指したのは」
 達哉の耳元に唇を寄せて、さやかは囁いた。
「千春さんの夢だったからでもあるんでしょう?」
 ある意味では、達哉の嫌いな千春が家族を捨ててまで打ち込んだ月学は、朝霧家の家庭を破壊した仇敵、とすらいえるかも知れない。なのに、カテリナ学院を卒業した達哉が自ら望んで満弦ヶ崎大の月学部へ進学してから、もうじき二年が過ぎようとしていた。
 嫌いな筈はなかった。
 本当は、最初から、達哉にもわかっていたことだ。
「‥‥‥ん」
 そうして、
「嫌いたくなんてなかった。本当は‥‥‥姉さん、俺」
 達哉が足元に築き上げてきた幻の城壁は、
「親父のこと嫌いでいるの、本当はすごく」
 僅かな涙の粒に容易く押し流されて、
「すごく‥‥‥苦しかったんだ‥‥‥」
 さやかの腕へ零れ落ちていった。



「千春さんのこと、達哉くんがそう思いたかった気持ちは、私と同じではないけど、間違いではないとも思うわ。でもね‥‥‥だから千春さんは無責任だとか、そういうことが少しでも心にあったなら、あんな風に麻衣ちゃんを苦しませては駄目よ。これは、千春さんがしたこととは別の、あなたと麻衣ちゃんの問題。わかるわね?」
 諭すようにさやかは言って、
「ん」
「さあ、行きなさい、達哉くん。何が結論になるとしても、お互い後悔のないように」
 達哉の椅子の背凭れを引く。
「‥‥‥ありがとう、姉さん」
 立ち上がって、まっすぐに階段へ向かう達哉は、後ろを振り返りはしなかったが、
「どういたしまして」
 背中の向こうで小さく手を振りながら、さやかが笑っていることは、達哉にはわかっていた。






「麻衣」
 こんこん、と部屋のドアを叩く。
「来ないで」
 それだけを言ったきり、部屋の中の麻衣は押し黙ってしまったらしい。
「ごめん、麻衣。さっきのことは」
 達哉は続けるが、反応は特にない。
「誰に言ったとか言わないとか、そういうことじゃなくて‥‥‥最初に麻衣に相談しなかったこと、悪かったって思ってる」
 その場に座り込んで、達哉はドアに背中を預ける。
「今更だけど聞いて欲しいんだ。月にさ、留学しないかって話が来てて。四月の始めくらいに月へ行って、いつまで行ってるかはまだわからない。今まで誰にも言わなかったのは、断ろうと思ってたから。断れば、この話をなかったことにすれば、麻衣とずっといっしょにいられるって思ってた。‥‥‥家族を捨てて自分だけ月へ行っちゃった親父みたいには俺はなれないし、なりたくないなって、さっきまではずっと、そういう風に」
「‥‥‥もしかして」
 唐突に届いた麻衣の声は、
「お兄ちゃん、お父さんのこと、まだ」
 今までに達哉が聞いたどんな声よりも悲しそうだった。
「今まで、姉さんとそのことを話してた。母さんが死んだ本当の原因とか、親父と母さんが、お互いのことをどう想ってたかってこと。そんなのさ、母さん見てれば誰でもわかることだったのに、わからないことにして、みんな親父のせいにして。だけど、いちばん大事なことを麻衣に隠して、それで麻衣を苦しませてる今の俺が、親父のことだけ無責任だなんて言えない、って叱られた。‥‥‥本当、その通りだ」
 背中越しに衣擦れの音が聞こえた。
 多分麻衣は、ドアの向こう側に、達哉と同じように凭れ掛かっている。
「留学のことは?」
 さっきよりもずっと近くから、麻衣の声が届いた。
「ん?」
「お姉ちゃんは、お兄ちゃんの留学のことには、何て言ってるの?」
「それは、まだ何も」
 『何が結論になるとしても、お互い後悔のないように』。そう言って、さやかは達哉をここへ送り出した。
 こんな頼りない俺たちを信じて、姉さんは全部任せてくれた‥‥‥もう一度、心の中でだけ、階下のさやかに感謝の言葉を呟く。
「何もって、だってお兄ちゃん、もっとずっと前から、お姉ちゃんには相談して」
「だから、誰にも言ってないんだ。姉さんが知ってたのは、仕事してる時にカレンさんから聞いたからだって」
「え? ‥‥‥そう、なの?」
「そう」
「ご、ごめん! それじゃわたし、さっき勘違いして」
 申し訳なさそうに麻衣が言う。
「それだって、俺がずっと何も言わなかったせいだ。麻衣が謝るようなことじゃないよ」
「でも、ごめんなさい‥‥‥いいよ。入って、お兄ちゃん」
「うわっ」
 急に扉が引き開けられて、達哉は背中から麻衣の部屋へ転がり込んだ。



「泣いてたんだな、麻衣」
 常夜灯だけのぼんやりとした明かりの下から達哉を見つめている麻衣の頬に、光の筋がうっすらと浮かび上がっている。
「当たり前だよ。いちばん好きな人に、自分だけ、いちばん大事なことを打ち明けてもらえてないってわかって、平気にしてるひとなんていないよ。‥‥‥わたし、まだ怒ってるんだからね? 本当だよ?」
 親父はどうだったんだろう。
 達哉はふと、そんなことを考える。
 母さんの病気のことは知っていて、でも最期まで打ち明けてもらえないままで‥‥‥それでも平気にしていたとしたら、なんて強いひとだったのだろう、と。
 でも、親父は親父で、麻衣は麻衣だ。
「‥‥‥うん。ごめん」
 しおらしく項垂れる達哉を前にして、麻衣はふっと相好を崩した。
「それでね。‥‥‥ひとりでここに戻ってきて、わたしも今まで、お兄ちゃんたちと同じこと考えてたよ。お父さんが月へ行くって決まった時、お母さんはどんな顔したんだろうって。それから、多分その時、お母さんが笑ってたみたいに‥‥‥わたし、ちゃんと笑って、お兄ちゃんを月へ送り出してあげられるかな、って」
「え‥‥‥麻衣?」
 意外な言葉に、思わず達哉が顔を上げると、
「決めてる通りにすぐ断っちゃっていれば、こんなことにはならなかったんだよね? そうじゃないのは迷ってるからだって、それくらい、わたしにだってわかるよ」
 部屋着の袖でしきりに目元を拭いながら、
「わたしのために月を諦めるって、そういう気持ちはすごく嬉しい。我侭だけど、できたらそのまま諦めて欲しいって、それでずーっとわたしと一緒にいて欲しいって、本当はね、本当はわたし、ちょっとだけ、そう思ってる」
 それでもぼろぼろと零れる涙をどうにもできないまま、
「だけどね。わたしたちにはその先がずっとあって、でも、お兄ちゃんが月へ行けるチャンスは今だけかも知れない、って思う。なのに、大好きな人がそれを目指して頑張ってるって知ってて、わたしがいるせいでその夢を諦めさせるなんて、本当にそんなことになったら、それからわたし、きっと自分で自分を赦せなくなっちゃう。一緒にいるのに一緒に笑えないの、一緒じゃないよりもきっと辛いよ。だから」
 右手の小指を差し出して、
「絶対ちゃんと帰ってくるってわたしと約束して。それで‥‥‥わたしに遠慮とかしないでいいから、月へ行って、お兄ちゃん」
 麻衣は、笑った。
「ねえ、その時のお母さん、今のわたしと同じ気持ちだったんじゃないかなあ? 月へ行くお父さんを見送る時、お母さん、笑ってたんじゃないかなあ?」
「‥‥‥そうだな。きっとそうだ」
 その時、琴子が笑っていただなんて、昨日までの達哉はきっと認めたがらなかっただろう。
「お兄ちゃん‥‥‥お兄ちゃん、わたし、笑えてる?」
「うん。笑ってくれてる。麻衣も、それに母さんも」
 だが今、差し出された小指に自分の小指をしっかりと絡めて、達哉は頷いた。
「だから約束だ、麻衣。ここに、麻衣のところに、俺は絶対帰ってくる。‥‥‥行ってくるよ、麻衣」
「ん。行ってらっしゃい、お兄ちゃん」






 その後、しばらく経ってから。
「何だかもう、あなた方を見ただけで、大体想像がついちゃったようにも思うんだけど」
 手を繋いで二階から降りてきたふたりの分と合わせて、さやかは三つの湯呑みを食卓に並べた。
「決まったなら、改めて聞かせてもらうわね。達哉くん、留学のことは、どうするつもりでいるの?」
「はーい。そのことなんですが」
 そこで質問に答えるべく手を挙げたのは麻衣であり、
「お兄ちゃんがわたしにすっごい酷いことをしたので、罰として、お兄ちゃんなんか月へ島流しです」
 しかも、自ら説明役を買って出た割に、内容は無茶苦茶としか言いようのないものであった。
「え‥‥‥って、え? そんな話だったか?」
「まあ。それじゃあやっぱり、達哉くんは島流しにされちゃうのね」
「いや島流しのとこは真に受けなくていいから。つーか『やっぱり』って何だ『やっぱり』って」
 忙しく突っ込みを入れる達哉を見遣って、麻衣とさやかがくすくす笑う。
「離れて暮らすの、本当はちょっと寂しいよ。でも、今すぐフィーナさんが女王様になって、国交もすぐに正常化とかにならない限り、月へ行くチャンスなんてきっと何度もないままだって思うもん。だから今回は、気持ちよく島流しにされてもらうのが、お互いに後悔しないためにはいちばんいいのかな、って」
「麻衣さーん? 気持ちよく島流しって、仰ることがものすごーく意味不明なんですけどー?」
「そうね。私もそう思うわ。‥‥‥では、協議の結果は全員賛成ということで、達哉くんは」
「島流しっ!」
 即答。
「わかりました。でも、カレンには明日そう伝えておくけど、それはあくまでも個人的なことだから。達哉くんもすぐに正式なお返事をしてね」
「‥‥‥いや、まさかとは思うけど姉さん、それって、伝えておくって一体どう」
「だから、うちの達哉くんを月へ島流しにします、って」
「ちーがーうーでーしょー」
「あはははっ」
 少なくとも今、この場のことに限っていえば、今度の留学はあくまでも『島流し』扱いであるらしい。
 ‥‥‥まあ、今日は仕方ないか。
 満更でもなさそうに、達哉は苦笑いを浮かべる。



 千春さん。見ててくれてますか?
 あの達哉くんが、これから月へ留学するんです。
 それから、琴子さん。
 麻衣ちゃんも達哉くんも、琴子さんと千春さんのこと、わかってくれました。そうそう、麻衣ちゃんったらもう、近頃は琴子さんにそっくりなんですよ?
 空いたままのふたつの椅子に本来座っている筈のふたりに向けて、心の中でだけ、さやかは呟く。



 ‥‥‥その空いた椅子に、今、千春と琴子が掛けていたら、おかしそうに笑い合う三人をどう思うだろう。
 さやかはふと、そんなことを考えた。
「笑ってくれるわよね、きっと」
「ん? お姉ちゃん、何か言った?」
「ううん。何でもないわ」
 実際にそこにいる麻衣にはそんな風に答えて、僅かに温み始めたお茶を啜る。
 穏やかな団欒の空気は、今晩はまだ暫く続きそうだ。

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