こんこん、と控えめな音が耳に届いて、
「あら?」
さやかは、参考書に向けていた顔を上げた。
『フィーナです。さやか、まだ起きているかしら?』
ノックの音と同じように、抑えた感じで発された声が、扉の向こうに立つ者の正体を知らせている。
「あれ、フィーナさんだ」
傍らで麻衣が小首を傾げる。
「大丈夫ですよ。どうぞ」
その言葉を待って、ドアは静かに引き開けられる。
「ごめんなさい。こんな遅くに」
申し訳なさそうに身を縮こまらせつつ、フィーナはさやかの部屋に足を踏み入れた。
「いえいえ」
ぱたぱたと手を振りながら、さやかはフィーナに笑いかけ‥‥‥そうして笑ってもらえるだけで何もかも赦されたような気になってしまうところが、穂積さやかという女性の不思議なところだ、とフィーナは思う。
無論、それで赦された気になっているだけでは、問題は何も解決しないのであるが。
「麻衣もここにいたのね」
「ちょっと宿題がわかんなくて」
えへへ、と笑って頭を掻く麻衣。
「そう。‥‥‥でもそれでは」
フィーナは腕組みをして、何か考え込む仕草。
「それでフィーナ様、何かありましたか?」
「いえ。何か、という程のことではないのだけれど」
今度は、何やら切なげに眉根を寄せて、言いにくそうにそれだけを呟いて‥‥‥時計の上ではほんの何秒かの、だが、長い沈黙が舞い降りる。
「ミアちゃんのことですか?」
いきなり、さやかが核心に触れた。
「‥‥‥え」
フィーナが目を見張る。
それは、明らかに、図星を指されたひとの顔だった。
「すごい‥‥‥どうしてわかったの、お姉ちゃん?」
「簡単な消去法よ」
ふふっ、とさやかが笑う。
「流石ね、さやか」
「いえいえ。それで、お話というのは?」
「ええ。ちょっとミアが見当たらなくて」
「あれ、部屋にいなかったんですか?」
頷いたフィーナを見て、再び麻衣が小首を傾げる。
「そういえば、麻衣ちゃんが来た時の他には、外でノックの音もしなかったわね、確か」
「誰かが外に出て行ったような気配もなかったし、家の中にはいると思うわ‥‥‥それで、幾つか心当たりにも当たったのだけれど、見当たらなくて」
そこで急に、ぽん、と麻衣が手を叩くが、
「ああ、だったらきっと、お兄もごっ」
続けて何か言いかけた麻衣の口を突然塞ぎ、
「あ、あら大変、参考書が足りないわ麻衣ちゃん! 急いで取りに行かなきゃ」
「え、ちょっ、さやか? 麻衣?」
どう贔屓目に見ても建前としか思えない理由をわざわざ口にしながら、その麻衣を引きずるように、さやかは自室から退散していった。
「くっ苦しいよお姉ちゃんっ」
「ごめんなさい。でも麻衣ちゃん、達哉くんの部屋にいる、って言おうとしたでしょ?」
「え、違うの? だってその他に考えようが」
玄関口にいちばん近いのはフィーナの部屋だ。こんな真夜中にミアがメイドとして働いているわけではないから、誰かが出掛けたことに最初に気づくのもフィーナ、ということになる。そのフィーナが『誰かが外に出て行ったような気配もなかった』と言っているのだから、ミアはこの家の中にいるのだろう。
「ええ。それも‥‥‥」
また先日、達哉がフィーナの着替え中に部屋に入ってしまった事件を契機に、朝霧家には『ノックする時は自分の名前を告げる』ローカルルールが設定されていて‥‥‥ノックの音にもミアの声にも心当たりがないとなれば、考えられる可能性はみっつしかない。
ひとつ。ミアは屋根裏部屋にいる。
ふたつ。ミアは共有スペースのどこかにいる。
これらが不正解であることは概ね確認済みだ。
「ん。わたしも、簡単な消去法だと思うんだけどな」
三度、麻衣が小首を傾げる。
そんな簡単なことがわからないフィーナではない。少なくとも、麻衣はそのようには考えていない。
「頭でわかっている通りに、心が何でも理解しているというものではないわ。達哉くんに‥‥‥自分でない誰かに惹かれていくミアちゃんを見つめるフィーナ様の気持ちは、きっと、私たちが想っているより複雑なのよ」
そう言って、さやかは麻衣の頭をそっと撫でた。
やや間を置いて。
『内緒話はまだ終わらないのかしら?』
扉の中からフィーナが訊ねた。
「あ、いえ。大体終わってはいるんですが」
「ちょっとお姉ちゃん、それじゃ参考書は嘘でしたって言っちゃってるようなものじゃ」
『もう‥‥‥』
世にも間抜けな返答というべきであった。
「あの子は、夜中にこそこそ男性の部屋に忍び込むようなふしだらな子ではないから」
呆れ顔のフィーナが廊下に顔を出し、
「そこは違う、と思っていたのだけれど」
やがて、三人の視線は、ひとつのドアに集中する。
「でもフィーナ様。そこにいるからといって、別にその、そういうことをしていると決まったわけでは」
「その部屋にいると決まったわけでもないでしょう」
「それは決まってると思いますけど」
「‥‥‥そうかしら」
意を決して、フィーナはそのドアに歩み寄る。
果たして。
「フィーナです。達哉、そこにミアはいないかしら?」
『え? いないけど、ミアがどうかしたの?』
確かに、達哉の部屋には達哉しかいなかったし、
「ほら、ご覧なさい」
「ご覧なさいって、それじゃミアちゃん一体どこに?」
「それは‥‥‥ええと」
それ故にこそ、事態はより混迷の度合いを深めていくのだった。
▽
「この間から、空いた時間で書斎の整理とお掃除も始めていたのですが」
結論からいうと。
「床に積み上げられた月の文献が、読んでみるとどれも興味深くて」
その晩、ミアは確かに朝霧家の中にずっといて、しかし、達哉の部屋にはいなかった。
「流石に、書斎にいるとは考えもしなかったわ」
だからフィーナは、さやかの部屋に来る前に、書斎の確認をしていない。
「わからなかったのも無理ないわね」
「まあ、そうだね。誰かの部屋と違って、書斎でノックする必要は別にないし」
少なくとも今は、書斎を自室として使っている者はこの家の中にいないのだから、ノックに纏わるローカルルールとも関係はない。達哉の言う通りだ。
「はい。‥‥‥あの、何だかお騒がせしてしまったようで、申し訳ありませんでした、皆さん」
「でもミア、書斎のような部屋にあまり立ち入っては」
何か苦言を呈しようとしたフィーナに向かって、
「構いませんよ、フィーナ様。ついでに整理もしてくれるなら、私たちは大歓迎です」
いつものように、さやかは人差し指を立ててみせる。
「でもミアちゃん、本がおもしろいのもわかるけど、あまり無理をしてはダメよ? 明日もあるんだから」
「はい。気をつけます」
「では、これでおしまい、ということで」
ぱん、とさやかが手を叩いて、その晩の小さな騒動はお開きとなった。
‥‥‥ところで、
「それで達哉さん、先程読んだ文献の話なんですが」
「あ、うん。‥‥‥じゃあ、後で部屋来る?」
ミアと達哉にだけは、そんな内緒話から始まる『続き』もあったようだが、それはまた別の物語である。
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