the sundial.  


  

 始発便が無事着陸して、空港の外に踏み出した途端。
 海岸線を歩きながら、時折、抜けるような青い空を見上げる都度。
 ホテルの足元に広がるビーチを目にした瞬間。
「うそだろ‥‥‥これ本当に日本か‥‥‥」
「うわあ、本当にまだ夏だ‥‥‥」
 何度も何度も、旅行者たちは事あるごとに同じ言葉を繰り返す。



「今だから言うけどさ」
 まるで真夏のようなビーチを呆然と眺めながら、達哉が呟く。
「当たり券の引き換えとプランの相談で旅行代理店行ったろ。説明聞きながら、あの代理店の人はもしかしたら嘘言ってるんじゃないかって思ってた」
「嘘、って?」
「だって十月だぞ。満弦ヶ崎なんかもう紅葉してるんだぞ? 泳げるわけないって思うだろ普通」
 それはも無理からぬことなのかも知れなかった。
「だからあの福引の賞品っていうのも、季節外れで人気ないから余ってたんじゃないかとか‥‥‥要するに、泳げないんじゃないかって思ってた」
 確かにやや季節外れではあるのか、まだ十時も回っていないビーチには、真夏であればどこの砂浜もそうなるような、砂が見えなくなるほどの人出もない。
「でも」
「でも?」
 論より証拠。
 ふたりが立っているその場所から見渡す限り、目につく人影はほとんどが水着姿だ。
 それに、『混雑している』という程ではないにせよ、想像していたよりはずっと人も多い。
 彼らは本当に海水浴をしているのか、それとも、その全員が結託して達哉と麻衣のふたりを騙しているのか‥‥‥そんなことは疑うまでもない。
「夏、だな」
「ん。そうだね‥‥‥本当は、わたしもちょっとは思ったよ。泳げますよって言われても、それ実際はどうなんだろ、って」
「麻衣もか」
「まあそれでも、代理店の人までは疑わなかったけど。わたしたちに嘘ついてもしょうがないしね」
「それはそうなんだけどな」
 満弦ヶ崎からあまり離れたことのない彼らが、眼前の光景を俄かには受け入れ難いのも無理はない。
 暦の上ではもう十月だというのに、今すぐ行けばまだ海水浴シーズンに滑り込みで間に合うという、沖縄という場所が特別すぎるのだ。



「さ、お兄ちゃん。ホテルにチェックインして、部屋で着替えて、すぐ降りて来ようよ!」
 ひとしきり呆然とし終えたところで、麻衣が達哉のシャツの裾を引いた。
「そうだな」
 ボストンバッグを担ぎ直して、背後に聳える立派なホテルのロビーへ向かう。




 思い起こせば、あれはまだ九月だったある日の夕方。
『だから、商店街の福引が!』
 携帯電話の向こうで、慌てた様子の麻衣が何事か捲し立てていた声が、まだ達哉の耳の奥に残っている。



「商店街の福引き、まではわかった」
『福引の商品が、一等が沖縄旅行のチケットとホテルがペアで!』
「それもチラシに書いてあるな」
 たまたま帰宅が早かった達哉は、古新聞入れから数日前の朝刊を引っ張り出し、一緒に畳まれていたチラシの中から、問題の福引について書かれたものを探し当てていた。
 窓から差し込む夕日がスポットライトのように照らし出すチラシの真ん中には、確かに、一等は二泊三日の沖縄旅行にペアでご招待、と書かれている。
「で、沖縄がどうしたんだって?」
『何を落ち着いてるのお兄ちゃん! 沖縄だってば! おーきーなーわー!』
 電話の向こうから届く話は、もう支離滅裂としか言いようがなかった。
「だから沖縄はわかったって。福引なんだから、当たってもいないのに大騒ぎしたってしょうがな」
『だからっ!』
 達哉の声に被せるように。
『だからさっき当てちゃったんだってば! わたし! 沖縄! 一等!』
「誰が?」
『わたしが!』
「‥‥‥何を?」
『一等! 沖縄! ああもう、なんでわかんないかなあ』
「何だ、一等当てたのか。それならそうと最初から」
 いちばん大事な、しかし実はここまで一度も言っていなかった事実について、
「って何いいいいいいいい!?」
 初めて言及されたのはこの時である。
『さっきお魚と野菜買ったんだけどね、最終日だから福引の券一枚おまけしてくれて、それで三回分回したら、ティッシュと、ティッシュと、それから、お、おおお、沖縄が』
「わかった、わかったから、まず落ち着こう麻衣」
 心なしか、達哉の声も浮わついていた。
「大丈夫か? そのまま普通に帰ってこれるか? それとも、ひとりで帰ってこれないようなら今から迎えに」
『いや別にわたし怪我したわけじゃないし‥‥‥あ、でも、それなら迎えに来てくれる? ついでだから、もうちょっとお買い物を』
「商店街だな? すぐ行くから、それまでは日陰の涼しいところに座って、あとは水分の補給をだな」
『ちょ、お兄ちゃん?』
 浮わつきすぎたせいか‥‥‥途中のどこかから、会話は急病人と家族のそれに変わってしまっていた。



「ああいう福引って、一等って本当に入ってるんだな。当たってる人見たことないから、本当は入ってないか、入ってても最初に抜かれちゃってるんじゃないかと思ってたけど」
 ややあって、商店街で麻衣と合流した達哉は、感慨深げにそんなことを呟いた。
「うわ、お兄ちゃんそれ酷い‥‥‥っていうか、本当に当たっちゃったんだから、そんなことないんだって」
 ひらひらと振って見せる、それが恐らく、一等の目録が入った封筒なのだろう。
「でもそれ本当に一等なのか?」
 だが、達哉の不審にも相応の理由はあった。
 その封筒が、その辺のボールペンで書いたような適当な走り書きで『一等』と記された、その辺に幾らでもありそうな普通の茶封筒なのだ。
「普通こう、何ていうか、なんか水引とかいっぱいついてるゴージャスな熨斗袋とかあるだろ? ああいうのに入ってるんじゃないのか? 一等っていったら」
 ところが、
「うん。入ってたよ?」
「へ?」
 あっさり頷いて、鞄の中をごそごそ漁り始める。
「あ、これこれ。ほら。これが渡された熨斗で、その中身がこっちの封筒」
 やがて鞄から取り出されたのは、筆で『一等』と書かれた立派な熨斗袋だった。
「いや‥‥‥あるんなら、そっちで持ち歩けばいいんじゃないの?」
「だって持ちにくいし、こんな目立つもの持ってたら強盗に狙われるかも知れないし」
「それが心配だったら、その茶封筒だって鞄にしまっといた方が‥‥‥」
「お兄ちゃんには見せびらかさないと意味ないし」
 熨斗袋はそそくさと鞄にしまい直す麻衣だが、それでも、茶封筒の方を手放すつもりはないらしい。
「手で持ってたら失くすかも知れないだろ。いいから一緒に鞄に入れとけ」
「‥‥‥はーい」
 ようやく茶封筒も鞄の中にしまい込まれた。
 達哉の口から安堵の溜め息が零れる。



 その次のひとことは、
「それで麻衣、誰と行くんだ?」
 一等を引いた本人でない達哉にしてみれば、当然の問いかけであった‥‥‥筈、であるのだが、
「へ?」
 油の切れた機械のようなぎこちなさで、突然、麻衣はその場に立ち止まる。
「あれ? 麻衣?」
 そんな変なこと訊いたかな?
 立ち止った麻衣と同じように立ち止まって、振り向きながら、達哉は少し首を傾げた。
「おーい?」
 一昨年は達哉の受験。
 去年は麻衣の受験。
 付き合い始めの、どれだけ一緒にいても物足りない時期に、二度訪れた夏のほとんどを棒に振ってきたふたりにしてみれば、これは二年分の真夏を纏めて取り返せるかも知れないくらいのご褒美だ。
 本音を言えば、麻衣が一緒に沖縄へ行きたい相手は自分であって欲しいし、また恐らく、麻衣の方でもそう考えてくれている、と達哉も思う。
 が、本当にそうしたいかどうかはともかく、選択肢自体は達哉以外にも様々に存在する筈だ。例えば、菜月と行くとか。翠と行くとか。さやかと行くとか。
「誰と‥‥‥って」
 未だにここで『当然、俺だよな』などと豪語してしまえる類の厚かましさとは縁がない達哉は、当然ながら、もしくは残念ながら、それを麻衣に訊ねた。
 その謙虚は美徳だろうか。それとも。
「まさか、わたしにひとりで行けっていうの?」
「え?」
「そんなの、言わなくたって決まってるよ。お兄ちゃんしかいないよ。当たり前じゃない」
「いや当たり前っていうか‥‥‥だって、俺が当てたなら麻衣しかいないけど、当てたの麻衣だし、そこはほら、麻衣の考えってものが」
 対する麻衣は、
「わかった。そんなこと言うんだったら、もうお兄ちゃん連れてってあげない」
 残念ながら、の方に受け取ったのかも知れない。
「え、なんで」
「なんでじゃありません。わたしにはわたしの考えがあるんですー」
 そんなもの、問い質したところで『考え』など何もないに違いないが、
「あ、待って麻衣」
 ともかく、そのまますたすたと歩み去る麻衣を、達哉は慌てて追いかけた。



 夕食が済んだところで、福引きの話を切り出した。
「え、一等が当たったの? 凄いわね麻衣ちゃん!」
 さやかはまるで自分のことのように大喜びだが、
「うん‥‥‥」
 何故だか、当の麻衣はどこか浮かない顔をしていた。
「そのことで、何かあったのね?」
 さやかは気づかない振りをしていたが、何か居づらいムードになっていたようで、どことなく難しい顔の達哉はさっさと部屋に引き上げてしまっている。
「あのね。あの‥‥‥お姉ちゃん、一緒に沖縄行く?」
「そんな気を遣わなくても、達哉くんと行ってきたら?」
「ん‥‥‥そうだけど。そうなんだけど」
 少しの間、言葉が途切れた。
 ふたり分の湯呑みから緑茶が湯気をたてるだけの時間が過ぎる。
「さっきね。ケンカっていうか‥‥‥全然ケンカにもなってないようなことで、ちょっとだけ、気まずくなっちゃって。今思えばわたしがおかしいこと言ってたんだけど、でも、でもね」
「ええ」
「いっつも強引なのはちょっと違うし、困っちゃうけど、お兄ちゃんはもうちょっとくらい、彼氏として、彼女には強引だっていいと思うんだよ」
「ん」
「気を遣わなくたっていいって思ってるところに気を遣われちゃうと、なんか、わたしたちのこと、まだ赦してもらえてないみたいな気がして」
「‥‥‥ん」
「それがちょっと、辛くて」
 だんだん下向き加減になっていった麻衣の顔は、
「お兄ちゃんがいいのに、お兄ちゃんに『連れてってあげない』って言っちゃった‥‥‥言っちゃったのに、今更『やっぱり一緒に行こうよ』なんて」
 ダイニングテーブルの下、握った自分の両手そ視界の正面に捉えたところで止まる。
「それはきっと、達哉くんも困ってるわね」
 そこまで聞いてようやく、先程の達哉の態度に合点が行ったらしい。
「ん。そう、思う」
「だけど麻衣ちゃん、このまま放っておくと、麻衣ちゃんは多分、達哉くんに謝られちゃうわよ?」
 少し厳しい表情を作って、さやかは言葉を続ける。
「え?」
「達哉くんは優しいもの。そんなことがあったなら、最後にはきっと悪者になってくれるわ。でも麻衣ちゃんはそれでいいの?」
 はっと顔を上げた麻衣の瞳に、少し厳しい表情のさやかが映る。
「‥‥‥それはダメだよ、そんなの」
「だったら」
 さやかの右手が、階段を指差した。
「ん」
 弾かれたように麻衣が駆け出す。
 足音はとたとたと階段を上がっていき‥‥‥こんこんと小さく聞こえたノックの音に続いて、
『お、お兄ちゃん! わたしと一緒に沖縄へ行ってください!』
『まっ麻衣! 俺を沖‥‥‥あ、うん』
 家中に響くような大きな声がふたつ。
 麻衣ちゃんの勝ち、みたいね。‥‥‥湯呑みに口をつけながら、さやかはくすくすと笑った。




 玄関の自動ドアがゆっくりと左右にスライドして、
「夏だーっ!」
 真ん中にひとり分の隙間ができた途端、そこからビーチまで、水着の上にTシャツを着込んだ麻衣が飛び出していく。
「あ、こら、待て麻衣」
 タオルやら何やらの入ったビニールのバッグを提げて、後から達哉が追いかける。
「お兄ちゃーん! 早く早くーっ!」
 振り返った麻衣が手招き。
「子供みたいな奴だな」
 小さな声で呟きながら、しかし、自分もだんだん早足になっていくのも自覚している。
「本当に夏だよお兄ちゃん! 沖縄ってすごいんだね!」
「そうだな。俺もちょっと驚いた」
 やはり、何度目を擦ってみても、目の前にあるのは真夏のビーチだ。
「このくらいの時期だと、もう水は少し冷たい感じらしいって聞いたけど」
 肩や腕や足首をぐるぐる回しながら、麻衣は呟く。
「そうなのか?」
「でもわたしたち、六月とかでも水泳の授業あったでしょ? 雨降ってても泳いだり。ああいうのに比べたら、砂の上がこんなにあったかいだけでも」
「‥‥‥あれは何だったんだろうな、本当」
「あんな授業してたら、プールとか嫌いになっちゃいそうだよね」
 大学のカリキュラムに水泳はないから、ふたりとも大学生になっている今はそんな授業はないが、高校までは七月の下旬と八月一杯が夏休みだから、例年、水泳の授業は六月と九月に行われていた。
 梅雨の最中に屋外のプールで泳ぐ授業、というシチュエーションほど心が躍らないものはない。
「うわ」
 思い出した途端、場違いな寒気が達哉の背中をざらりと撫でて行った。
「ん? どうしたの、お兄ちゃん?」
「いや何でもない」
「そっか‥‥‥さてと、それじゃ」
 最後に首をぐるぐる回したところで、準備運動は終わったようだ。
「随分適当な準備運動だな。水が冷たいんだったら、もうちょっとちゃんと身体を動かしといた方がいいんじゃないか?」
「ううん、まだあるよ。ほらあっちに」
「え?」
 麻衣が指差したのは、海でなく、陸側の一隅だった。いかにもプレハブ然とした小屋が幾つか並んでいる。
「海の家?」
「パラソル借りて来ようよ。あと棒」
「‥‥‥棒?」
「往復走ればウォーミングアップ完了ってことで。行こうよ!」
 言った時には、麻衣はもう駆け出していた。



 パラソルを立てる。
 ビニールシートを敷いて、その上にビニールのバッグを放り出す。
 そこまではいい。
 ごく普通の、砂浜における設営作業だ。
「で、この棒だけど」
 無論、ただ単に『棒』、などという漠然とした道具を用意している海の家はない。
 今、達哉が手にしているそれの正体は不明。
 何だかわからないまま海の家の近くから拾ってきたが、まあ恐らくは廃材か何かなのだろう。
「何するんだこれ?」
「えっとね」
 受け取った麻衣はパラソルの日陰から出て、
「はい、これが今日の時計」
 少し離れた砂の上に棒を突き立て、
「‥‥‥はい?」
「ええと、こういう風に文字盤があるとして」
 棒の周囲にぐるっと輪を描いて、
「まだ太陽はいちばん上までは行ってないみたいだから、んーとね、多分この辺から午後」
 今、その文字盤上を指し示す影の少し右側に、ひとつだけ目盛りを描く。
「で、きっとこの辺で夕方」
 最初の目盛りからさらに右側へ、三分の一近く進んだところに、もうひとつ目盛り。
「いや、時計だったらもっとちゃんとしたのが」
 バッグに手を伸ばそうとする達哉に向かって、
「いいよお兄ちゃん、ちゃんとした時計なんて」
 麻衣は、そんなことを言った。
「せっかくわざわざ沖縄まで羽根を伸ばしに来たんだから、こういう時くらい、時計なんか適当でいいよ。ね?」
 ふたりの目の前にある、その棒と輪のことを指して、恐らくは『日時計』というのだろう。だが達哉は、日時計から正確な時刻を読み取る方法を知らない。そんなことは多分麻衣だって知らないだろう。
 『ここから午後』とか『ここから夕方』とか言いながら適当に描かれた目盛りが、狙った通りに機能するとも思えない。
 だが‥‥‥時計がどうであれ、日が暮れれば夕方で、日が沈んだら夜だ。
「なるほど」
 時計が正しくなかったとしても、空が間違わなければ問題はない。
 確かに、十月の沖縄は、そういう時計で構わない場所なのかも知れなかった。
「さ、今度こそ海へ行こうよ、お兄ちゃん」
 達哉に顔を近づけて麻衣が誘う。
「Tシャツ着たままか?」
「それは‥‥‥だって、ほら、ねえ?」
 今度は少し恥ずかしそうにはにかんで、左の指先でTシャツの裾を引き下ろす。
「知ってる人なんか誰もいないだろ。沖縄なんだから」
「お兄ちゃんは知ってるじゃない」
「あのな‥‥‥よし、わかった」
 日時計の輪の上にしゃがみ込んで、『ここから午後』と『ここから夕方』のちょうど真ん中あたりに、達哉はひとつ目盛りを書き足す。
「ここから夕方まで、麻衣はTシャツ禁止」
「ぇー?」
「ぇーじゃない。大体」
 そのあたりから、達哉の声は見る間にトーンダウンしていった。
「Tシャツなんかで隠さないといけないことなんて」
 どんどん小さくなっていく声と、思い出したように耳に届いた遠い波音と歓声のせいで、麻衣には、後半はほとんど聞き取れていない。
「‥‥‥聞こえなかったよ、お兄ちゃん?」
 伝わったのは、何となく、こんなことを言ってくれてるんじゃないかな、というニュアンスだけだ。
「聞こえるように言って欲しいな。お話次第によっては、Tシャツ禁止を検討するのも吝かではありません」
 だから麻衣は、悪戯めかしてそう言いながら、
「ぇー?」
「ぇーじゃありません。ほらほら、恥ずかしかったら内緒話でもいいから」
 ごく無防備に、まだしゃがんだままの達哉の口元に耳を寄せた。
「え、だから、それは」
「早くー」
 僅かに赤みが差した麻衣の片耳が間近にある。
 達哉は、
「ふ」
「ぅわひゃぁああぁあああぁあぁ!」
 耳の真ん中に軽く息を吹きかけ、それから、立ち竦んだ麻衣の脇をすり抜けて海へ向かう。
「って、あ! ちょっとこら待ちなさい! お兄ちゃんってばーっ!」
 慌てて麻衣が後を追う。
 そんな風にして‥‥‥ようやくふたりは、穏やかに打ち寄せる波に飛び込んでいった。



「何にもしないで浮かんでるのって、気持ちいいね」
「そうだな‥‥‥」
 長い時間を掛けてあちこち泳いで回りながらの鬼ごっこはようやく終わったらしい。
 仰向けになったふたりはぷかぷか海に浮かんでいる。確かに、真夏というには少し水が冷たい気もしたが、これはこれで気持ちがいい。
「結局ずぶ濡れだなTシャツ。鬱陶しくないか?」
「優しいこと言ってTシャツ脱がそうったってそうはいきませーん」
「いやそうじゃなくて、本当に心配してるんだけど。泳ぎにくいとかそういうことじゃないなら、もう別に無理して脱がなくても」
 さっき達哉が何を言ったのか、麻衣はまだ訊き出せてはいない。
 だが、こうして波間にただ浮かんでいると、それ以外のことは‥‥‥例えばさっきの達哉の言葉とか、そんなことは別にどうでもいいことのように思えてしまう。
「お兄ちゃん」
 でも、あれはきっと、大切な言葉だ。
 どうでもいいことにしてしまいたくない。
 そういうことを大切にしたい気持ちまで、簡単に波に攫わせるわけにはいかなかった。
「えと‥‥‥達哉」
「ん?」
「もしよかったら、本当に聞かせて欲しいな。さっき言ってくれたこと」
 だから、麻衣は訊ねた。
「あんなこと何度も言えるか恥ずかしい」
 すぐ近くで水音。
「でも女の子は、何度だって言って欲しいんだよ?」
「うん‥‥‥気持ちは、わかるつもりだけど」
 水音と波音だけの何秒かが過ぎたところで、
「だったらさ、今から時計見に行こう」
「時計?」
 そう言って、麻衣はその場に身を起こす。
 水の深さは麻衣の膝より少し深いくらい。苦もなく立ち上がった麻衣は、達哉に向かって右手を差し伸べた。
「時計の針がまだ『Tシャツ禁止』の線を過ぎてなかったら、もうわたし、このことは聞かない」
「もう過ぎてたら?」
「さっきの言葉、もう一回聞かせて」



 果たして。
「うわー、これはまた」
 ふたりが時計に戻った時、日時計の針はちょうど『Tシャツ禁止』の真上。
 過ぎているともいないとも言い難い、それはそれは絶妙なタイミングだった。
「判定するの難しいね」
「そうだけど」
 ところが、
「いいだろもう。俺の負けで」
「え」
 達哉の足は、『Tシャツ禁止』の目盛りを砂で埋め、少し左側、つまり影の針よりも左側に目盛りを書き直す。
「いい加減な時計かも知れないけど、どんな時計だって針は戻らないようにできてるんだ。真上から左に針が行く可能性はないんだから、真上ってことは『もう過ぎてる』ってことだよ」
「お兄ちゃん‥‥‥」
「だから言うけど、さっきのは」
「ん」
 す、と息を吸って、
「Tシャツなんかで隠さないといけないことなんて何もない。どこから見たって俺の彼女は可愛いんだぞって、たまにはちゃんと自慢させてくれ、って言ったんだ」
 一息で言い切って、それから、大きく息を吐く。
「嬉しいけど、見る前からそれじゃ褒め過ぎだよ」
 これ以上ないくらい頬を赤らめながら、べったりと水着に貼りついたTシャツの裾に手を掛けて、
「‥‥‥麻衣?」
「わたしが勝手に言っただけなのに、時計の約束、お兄ちゃんは守ってくれたもん」
 いかにも脱ぎづらそうに、麻衣は脱いだそれをビニールシートの上に放り出す。
「わたしだって守るよ。『Tシャツ禁止』は過ぎてるから、わたしも、夕方までTシャツは着ない」
「そっか」
 もしかしたら、その姿を全身ちゃんと目にするのは本当に初めてだったかも知れない。
 そこに立っているのは、明るいピンク色のワンピースの水着、それだけを纏った麻衣だ。
「ちょっと、子供っぽい、かな?」
「そんなことない。可愛いよ麻衣」
「そっか‥‥‥ん。ありがと」
 少し恥ずかしそうに麻衣が笑った。
「さ、お兄ちゃん、もっと泳ごう!」
「よし、行くか」
 今度はふたり並んで、波打ち際へ駆けて行く。




「あれ、まだ『夕方』になってなかったんだね」
「時計がおかしいとしか言いようがないと思うけどな」
 その次にふたりが時計を見た時、赤い夕陽に照らされた棒の影は、それでも『夕方』の目盛りを越えてはいなかった。
 ふたりは顔を見合わせて苦笑する。
「まあいいや。パラソル畳んで返してくるから、麻衣はビニールシートな」
「おっけー」
 ビニールシートの上に延ばしてあったTシャツを水着の上から羽織り、
「あ、お兄ちゃん」
 バッグの中に詰め込んであったパーカーを達哉に投げ渡す。
「っと。さんきゅ」
 受け取ったパーカーに袖を通し、それから、畳んだパラソルを担いで海の家へ。
「あ」
 歩いて行きかけて、達哉は不意に振り返った。
「それ、どうする?」
「それ?」
「棒」
「‥‥‥ああ」
 そういえば‥‥‥何の道具とも誰かの所有物ともつかないが、何だかわからないその棒は、海の家の近くに転がっていたのを拾ってきたものだ。
「明日も使いたいけど、誰かの持ち物だったりしたら」
 残念そうに麻衣が呟く。
「パラソルと一緒に持って行って、海の家で聞いてくるよ。もし本当にただのゴミなら、このまま俺たちで持ってても問題ないだろうし」
「そうだね」
「じゃ、行って来る」
 砂から棒を引き抜いて、達哉は海の家へ向かった。
 ‥‥‥だからもう、ここに時計はない。
 残ったものは、砂の上の円。
 三か所の目盛り。
 目盛りを消した痕がひとつ。
「これが、今日、一日」
 時計の抜け殻。
「‥‥‥終わっちゃった、んだ」
 過ぎてゆく夏の日のどこか寂しい色彩が、麻衣の心にそっと影を落とす。
 Tシャツの裾を両手できゅっと握った。
 多分、今はまだ手のひらの中にあるしあわせを、砂に零してしまわないように。
「寂しいよ、達哉‥‥‥」
 震える声で名前を呼んで、麻衣は、時計の抜け殻の上に座り込んだ。



 ややあって。
「どうした麻衣?」
 パラソルと棒を持って海の家へ向かった達哉が、左手に棒だけ持って戻ってきた。
「ん‥‥‥何でもないよ」
「そっか」
 差し出された達哉の右手に、自分の小さな拳を寄り添わせる。
 しあわせの残滓を捉えた指を開いてしまわないように、達哉の手のひらに拳をそっと押し当て‥‥‥ふたつの手のひらでその残滓を包み込むように、全部の指を絡ませて、達哉の手のひらをきゅっと握る。
「達哉だ‥‥‥」
 手のひらから伝わってくる達哉の熱が、もしかしたら零れてしまったかも知れないささやかなしあわせの何倍も、何十倍も、新しいしあわせを産み出すのがわかる。
「ん。そうだな」
 理由もなく寂しい気持ちが吹き払われていく。
「よし!」
 勢いをつけて、麻衣はその場に立ち上がる。



「それで麻衣、この棒なんだけど」
「ああ、うん」
「結論としてはただのゴミで、別に必要なもんじゃないっていうから、明日もこれが時計だな」
「‥‥‥そっか。えへ、ちょっと嬉しいな」
 受け取った棒に、麻衣は何度か頬擦りをした。
「何ていうか、明日はもうちょっと頑張りたいね。流石に、本当に夕方になってるんだから『夕方』の線はクリアしないと」
「なら、後でネットとかで調べてみるか? 『日時計の作り方』なんて、いっぱいページあると思うけど」
「あ、でも、そういうのはいいよ。今日みたいに、自分で考えて、思ったところに目盛りを書いて。外れてもまあ、それはそれで‥‥‥なんて」
 時計が正しくなかったとしても、空が間違わなければ問題はない。
 実際、十月の沖縄は、そういう時計で構わない場所であるようだった。

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