映り込んだ空の青や、絶え間なく舞い落ちる桜の花びらや、岸の一方を駆け回る子供たちの声や、もう一方から穏やかに響き続けるフルートの音色や。
弓張川はさらさらと穏やかな足音をたてて、水面に浮かんだ様々なものを、その先にある満弦ヶ崎の入り江へと運んでいく。
土手の草叢に座ってフルートを吹く麻衣の横で、むにゃむにゃと何か呟きながら菜月が寝返りを打った。
‥‥‥笑ったせいで息遣いが乱れてしまわないように。
余所見のせいで運指が乱れてしまわないように。
アルファ波、アルファ波。
心の中でだけ、麻衣は何度か呟く。
不意に。
「あれ? 一緒にいるの、朝霧君じゃないんだ?」
背中の向こう、土手の上から予期せぬ声が届いた。
続けてききっと自転車のブレーキ音。
「あー、いいから続けて続けて。ね?」
振り返ろうとした麻衣を言葉で制して、寝転んだ菜月の反対側に、まずは黒い楽器ケースがどさっと着地。
「よっ、と」
次いで、その声の主、翠が腰を降ろす。
舌先に触れた綿飴のように、長く長く伸ばした最後の音は、穏やかな四月の陽気にすうっと溶けた。
「ふう。‥‥‥急に遠山先輩が来るから、何だかちょっと緊張しちゃいました」
フルートから口を離して、苦笑混じりに麻衣が言う。
「いやー、今のが噂のアルファ波かー。この遠山さんとしたことが、思わず寝ちゃいそうだったよ。想像以上だね」
小さく手を叩きながら、翠はそんなことを言う。
「噂のって、誰から聞いたんですかそんなこと?」
「え? 朝霧君。休みの日は妹が土手で楽器の練習するのに付き合ってる、ってよく言ってるよ?」
それは確かに、内緒にしないといけないようなことではないが、
「だから、土手走ってたら麻衣っぽいフルートの音がしたから、聞いてる話の通りなら、一緒にいるのは朝霧君なのかな、って思ったんだけど」
でも、そういう風に誰かに勘繰られるのは、何というか、少しくすぐったい感じもする。
「お兄ちゃんは、今日はバイトなんです。それで」
答えながら、後ろに回した手の甲で、麻衣は何度か背中を摩った。
「バイトって‥‥‥でも、だってバイト先ってコレの家でしょ? 朝霧君がバイトしてて、コレは?」
しあわせそうな寝息を立てる菜月の身体をぞんざいに指差しながら、翠はさらに尋ねる。
「コレ、って‥‥‥はい、いつもの土曜はそうなんですけど、今日は特別に菜月ちゃんだけオフってことになって。その代わりで、お兄ちゃんはこんな時間からお店に入ってるんですけど」
麻衣はそう言うが、あの菜月が自分で自分の仕事を休みにして、しかもその間川原で寝ているだけ、などという行動を選ぶようには、翠には思えなかった。
だから恐らく、菜月がそうしたかったのではない、のだろう。例えば昨夜あたり、ちょっと体調を崩しかけて、それが理由で休まざるを得なくなっただとか。
「だから今日は、こっちもお兄ちゃんの代わりで、菜月ちゃんがわたしの練習に」
もしもそうだとしたら。
見ていないからわからないが、朝霧君は多分その時、ふたつ返事で菜月の代役を買って出たのだろう。
そして麻衣もまた、『とっておきのアルファ波』で、菜月の休息に一役買っている。
見事なコンビネーションというべきであった。
「ふーん、そうなんだ」
麻衣の言葉には頷いてみせたものの。
何となくでも事情を察してしまうと、呟いた自分の声が、何だか‥‥‥心の中のいろいろが顔に出てしまう前に、翠は視線を菜月から離して、すぐ脇に置いた楽器ケースに落とす。
「そういえば遠山先輩、それ先輩のクラのケースですよね? メンテ終わったんですか?」
「あ? ああ、うん。そうそう」
不意を衝かれて驚いた自分を誤魔化すように、ぽんぽん、と黒いケースを叩く。
「だから今日は、楽器屋さんの帰りだったんだけど」
麻衣のフルートのケースよりも二回りは大きいそれの中には、大きくいえば五つのパーツに分解された楽器が収まっていて、組み立てると翠愛用のクラリネットができあがる。中学入学、吹奏楽部入部と同時に両親へのおねだり攻撃を始め、一年の長きに渡る苦闘の果てにようやく買ってもらった楽器で、だからもう、かれこれ四年以上の付き合いだ。
だが、個人で楽器を持つことにも善し悪しはある。
例えば、壊れたり調子が悪くなったりしたら顧問にそう言って渡せば楽器屋が引き取りにきてくれる麻衣の場合と違って、翠はこうして自分で楽器屋へ持ち込んでメンテナンスを依頼し、それが終わったら自分で引き取りに行って、自分で費用を支払わなければならない。
「自分で持ってるっていうのも、何か起きちゃうとちょっと面倒なトコはあるよねー」
口ぶりは何やら恨めしげだが、その割にはどこか嬉しそうに翠は笑う。
「でも、いいですよ、やっぱり。自分の楽器があるのって」
「んー。でもさ、学院卒業したらもう楽器止めちゃうとかだったら、買うのもどうかって思うじゃない? 安いものじゃないんだし、何年使って元が取れるっていうものともちょっと違うし。誰にでも『買っちゃえ』っては言えないよね、どうしたって」
部活動としての吹奏楽部の部員、それもパートリーダーやそれに準じる者にとっては共通の悩みどころだ。
「そうなんですよねー‥‥‥でも、わたしも二年ですし、自分で持つこともそろそろちょっとは考えてないと、これから入ってくる子がみんな持ってなかったら楽器が足りなくなっちゃうかも、っていうのも」
「そこはウチのパートも頭痛いんだよねー」
わざとらしく難しい顔を作りながら、腕を組んだ翠はうんうんと頷いて。
「でもさ。遠山さんはね、麻衣だったら持っちゃってもいいかなーって思うんだ。この後どこに進学するとかさ、そっちで楽器やるかどうかはわかんなくても、麻衣の場合はもう他に使い道がある、っていうのが大きいよね」
「へ? 他に、って」
「ほれ」
使い道、と言われて首を傾げる麻衣の前で、もう一度、翠はそれを指差す‥‥‥そこに寝転んでいる菜月はまだ、この世の幸福を総取りしたような安らかな寝顔のままだ。
「ああ。アルファ波ですか?」
しばらく不思議そうな顔をしていた麻衣は、ようやく合点がいった様子で頷く。
「そうそう。しっかしよく寝てるよねー、すぐ横でこれだけ普通に喋ってるのにさー」
まだ目を覚ましそうな気配はない。
静かな呼吸に合わせて菜月の胸が上下する。‥‥‥そこに指先で触れてみたくなる男の子たちの気持ちも、今は少し、わからないでもない。
「それはもう、今日のアルファ波はとっておきですから。そうだ、先輩もやってみます?」
「へ? ‥‥‥アルファ波?」
「そうそう」
「んー」
思いっきり派手なメロディでも吹いて、麻衣のアルファ波を全部台無しにしてやろう。‥‥‥本当は、そんなことも思わないではなかったものの。
「でも、こんなところでこんな風に会うとか思ってなかったから、リードケース持って来てないよ、今」
そこまでは本当のことだったが、
「だからさ、一回家に帰らないと音出せないんだ」
それは嘘だった。
確かめるようにポケットの中に突っ込んだ指先に、楽器屋がおまけで付けてくれた数枚のリードが触れて、ちゃらり、と微かな抗議の声を上げる。
「ああ、なるほど。残念」
だが、今、ここで‥‥‥楽器なんか吹いたら、思っていることが全部、麻衣にはきっと伝わってしまう。
抗議の声を握り潰した指先は、何も掴まずにポケットから引き抜かれ、もう一度、楽器ケースに置かれた。
「でも楽しそうかも。わたしもちょっと研究してみようかな? ‥‥‥あ、でも、フルートみたいに音がやわらかくないから、もしかしたらクラだと難しいのかな」
「え、でも、この間の『目覚めよ』とか、いい感じだったじゃないですか」
「おー。そっかそっか、そのテがあったかー」
『目覚めよと呼ぶ声あり』。
かの有名なバッハの手になる曲だ。
それを吹奏楽団向けにアレンジしたものを、一月前の三月、ふたりを含めた吹奏楽部の面々は定期演奏会で演奏した。翠のクラリネットパートは部分的には主旋律担当でもあって‥‥‥言われてみれば確かに、あの旋律なら良質のアルファ波が醸し出せそうな感じもする。
だが、そういうことに、心当たりがあったとしても。
「あ。でもさ、『目覚めよ』ってタイトルの曲で寝かせようっていうのはどうかと思うよ?」
適当な思いつきで混ぜ返してお茶を濁す。
「あはは。なるほど、それもそうですね」
麻衣はまた、おかしそうに笑っている。
技術的な話についてだけいうのであれば、アルファ波、というジャンルには興味もあった。
だがそれでも。
多分わたしは、アルファ波には手を出さない、と。
あるいは、もしも始めるにしても、それはもっとずーっと未来の話だ、と。
翠はそう思う。
何故ならそれは、麻衣には確実にいて、もしかしたらもう菜月にもいるかも知れなくて、でも、今の自分には確実にいないもの、に心当たりがあるからだった。
つまり‥‥‥誰かのための音楽とは、その誰かが存在してこそ意味を持つものだ。
演奏する自分自身の他に聴衆がいない自分がアルファ波などを扱えるようになったとして、一体そこにどんな意味があるというのだろう?
今までもずっと、そして、これからもずっと。
相変わらずの穏やかさで、弓張川は目の前をさらさらと流れていく。そうして、水面に浮かんだ様々なものを、その先にある満弦ヶ崎の入り江へと。
‥‥‥胸の奥に重く淀んだ気持ちが運ばれてしまわないのは、そこに浮かべられないから、なのだろうか。
「あそこに飛び込んだら、綺麗になれるかな、わたし」
あまりに脈絡のない翠の呟きも、
「んー。わたしは、難しそうかも」
やけに真摯な麻衣の呟きも‥‥‥呟いた本人すらも気づかないうちに、川下へ流れていってしまう。
まるで、今になってようやく、互いが呟いた言葉の意味が耳に届きでもしたかのように、
「‥‥‥あれ?」
「‥‥‥はい?」
随分と間を置いてから、ふたりは思い出したように顔を見合わせた。
俄に凍ってしまった時間の中を、桜の花びらだけが、はらはらと舞い散り続ける。
眠っているのだから仕方がないが、そんな場の空気などまるでお構いなしに。
「ん‥‥‥」
伸びでもしようとしたのか、寝転がったままの菜月が突然その場で腕を伸ばす。
軽く握られた拳はぺちんと麻衣の膝を叩き、
「‥‥‥あ、ごめ、達哉」
寝惚けたような掠れ声が、
「あっれー? 今コレがうっかり『達哉』とか口走っちゃった気がするのは遠山さんの聞きそこまちがい?」
期せずして、
「いえ。『達哉』って言いました。コレが。確かに」
ふたりの間で凍っていた時間を溶かす。
「ほら麻衣、今こそ必殺アルファ波の出番よ! もう一度コレ寝かし付けて簀巻きにして川に放流するのよ! 大丈夫、秋には大きくなって海から還ってくるから!」
「らじゃー!」
経緯はともかく、結果的にはあっという間に意気投合した翠の指令で、麻衣は再びフルートを構えようとした。
「って‥‥‥あ、ちょっと、花びら」
が、そこに思わぬ横槍が入る。
「え」
いつからか、フルートの上に何枚か着地していた、桜の花びら。
「いやそんなのいいから早くアルファ波」
「でもこれ、すぐ取らないとくっついちゃったりとか」
「んー‥‥‥何よもう‥‥‥」
つい今し方、麻衣の膝を叩いた手で、菜月は眠そうに目蓋をさすった。
開きかけた目蓋の奥へ、四月の青空が流れ込んでいく。
「うわ麻衣早くっ」
「ダメです先輩間に合いませんっ」
「ん‥‥‥っ」
その腕を伸ばして、もう一度、菜月は背を反らす。
もう一度、軽く握られた拳が麻衣の膝を叩く。
そして。
「そっか、麻衣が練習ー‥‥‥ごめん麻衣、私、なんか寝ちゃってたみたいでー」
とうとう、菜月はその場に半身を起こす。
「って、あれー? 翠ー?」
半開きの目蓋をまだ手の甲で擦っている菜月に、
「あ。おはようございます菜月さん。お邪魔してまーす」
ほんの何秒か前まで簀巻きだ放流だと物騒なことを宣っていた翠が、調子よく笑って答えてみせたが、
「翠も練習?」
徐々にではあるが語尾がはっきりしてくる菜月とは対照的に、
「ううん。わたしは通り掛かっただけ」
そこで翠は何故かかくんと項垂れて、
「え‥‥‥なんで翠ががっくりしてるの?」
「ううん。ちょっと、逃がした荒巻鮭がでっかくなって戻ってきてくれる夢を見てただけ」
何だかよくわからないことをぼそぼそ喋り始め、
「そんなことより菜月っ!」
かと思えば、そこで突如がばっと顔を上げて菜月の方へと身を乗り出し、
「え? は、はい! ‥‥‥はい?」
面食らった菜月の顔に‥‥‥額が触れそうなくらい近くまで、膝立ちの翠が擦り寄っていく。
「『ごめん、達哉』ってどーゆーこと?」
「へ? 何が?」
「今言ったじゃない菜月が」
「何て?」
「だから、『ごめん、達哉』って」
「え? ‥‥‥いつ?」
「だから今!」
「‥‥‥誰が?」
やっぱり菜月は、まだ寝惚けているのかも知れない。
「だぁぁぁかぁぁぁぁらぁぁぁぁぁっ!」
そんな菜月の両肩を掴んで、翠はがっくんがっくんと揺さぶりを掛ける。
「寝惚けて手ぇ伸ばして誰かに当たって、うっかり出ちゃった第一声が『ごめん、達哉』っちゅーのは一体どーゆーコトなのかと訊いとるんじゃ! まさか菜月は既に朝霧君とそーゆー、手ぇ伸ばしたらすぐに当たっちゃうよーなトコロで一緒に寝ちゃったりとかするよーな嬉し恥ずかしラブラブ生活を」
「うわそんなに揺らさないでよ! 大体そーゆーってど」
遮るように言葉は発されたが‥‥‥ようやく意味を理解したのか、遅れてやってきた菜月の爆発が、口から出掛かった言葉の終わりを追い越した。
「い、いいいいやちょっとそれはそのっ! あのなな何でもないっていうかうわっあのいやえっとだからっ!」
耳まで真っ赤になった菜月が慌てた様子で別の何かを言おうとするが、正直なところ、日本語としてはまったく要領を得ない。
「はーい一旦休憩ー」
弁明が弁明になっていないことに焦りを募らせ、さらにわけがわからなくなっていく菜月から、麻衣は翠を引き剥がして、
「菜月ちゃんは深呼吸ねー。はい、すー」
まずは一度、大きく息を吸ってみせた。
「はー」
それに倣って、菜月も大きく息を吸い、吐く。
「すー」
「はー」
そんなことを何度か繰り返すうちに、菜月はどうにか平静を取り戻したようだ。
「いやー、流石は幼馴染みって感じ」
その鮮やかな手際に、翠は頻りに感心していた。
「で? さっきのはどーゆーコト?」
が、追及の手は緩めない。
「だだだから何でもないって! そんなの本当にただの勘違いっていうか、なんか、なんかちょっとそんな気がしただけ! 根拠ないけど!」
今度は一応、聞き取ることの可能な日本語で、菜月は疑惑を全否定した。
「本当かなあ? 怪しいなあ‥‥‥」
「でも、きっと本当ですよ先輩」
ひとつ息を吐いてから、横から麻衣が助け舟を出した。
「え、なんで?」
「もしも本当にお兄ちゃんと菜月ちゃんが付き合ってたとしたら、最初のうちは多分、どこに出しても菜月ちゃんはさっきみたいな感じなんじゃないかなー、って今ちょっと思ったんです。ここまで取り乱したところは、今までわたしも見たことなかったから、多分」
麻衣はそう告げる。
自分の胸に手を置いて。
誰かに‥‥‥何かを言って聞かせるように。
「おー、なるほど。確かにそれは一理あるかも」
今度は偉そうに腕を組んで翠が頷く。
「ちょっと翠! 麻衣も! そんなんで納得されたら、何かわたし、隠し事とか全然できない単純バカだって言われてるみたいなんですけど?」
「合ってるじゃない」
「間違って、ません、よね?」
「くうう‥‥‥っ」
菜月がついと横を向いたのは、酷い言われ様に腹を立てたからか。それとも、自分が発した言葉の中に、何か思い当たる節でもあったからか。
横を向いた菜月をからかいに掛かる翠の脇で、さっき菜月があんなに取り乱したこと、翠があんなに追求したがったことを、麻衣はふと思い返す。
そのことの理由なんて決まっている、と麻衣は思う。
朝霧達哉がこの世にひとりしかいない以上、傍らのふたりが心の奥底に秘めているであろう願いが一緒に叶うことは多分ない。‥‥‥それで。
もしも、お兄ちゃんが菜月ちゃんを選んだら。
もしも、お兄ちゃんが遠山先輩を選んだら。
それで、わたしは‥‥‥お兄ちゃんには、選ばれなかったと、わかってしまったら。
お昼前の穏やかな日差しにきらきら光る川面を眺めながら、ひとりで物思いに耽るうちに‥‥‥我知らず、麻衣の右手はフルートから離れ、いつものようにその髪を結んだ、リボンの片方に触れていた。
そのせいで左手から転がり落ちたフルートは、
「あ‥‥‥」
親指と人差し指でリボンを摘んだままだった右手を戻すよりも早く、とん、と微かな音をたてて、太股の上に着地する。
「って麻衣、楽器大丈夫?」
「はい! はい‥‥‥えっと」
慌てて持ち直した楽器に両手の指を添え、ひと通りキーを動かしてみた。幸い、落差も大したことはなかったし、落ちたのが柔らかい場所だったこともあってか、凹んだりおかしくなったりした箇所などは特にないようだ。
「ん。大丈夫みたいです」
「よかった。でも気をつけてよ? 麻衣のじゃないんだからさ、その楽器は」
責任感の強い麻衣に、その言葉は少し堪える。
「うっ‥‥‥すみません、気をつけます」
項垂れた麻衣の肩をぽんぽんと叩いて、
「よろしい。だからほら、もう遠山さんが許してくれたんだから、そんな暗い顔しないしない! ね?」
笑いながら、翠はその場に立ち上がる。
土手の上に設えられた道を三人並んで歩く。
翠が押す自転車の籠で、フルートのケースとクラリネットのケースが並んで揺れている。
「でもごめんね麻衣。練習に付き合ってる筈だったのに」
申し訳なさそうに菜月が言った。
「ああ、それはいいの。お兄ちゃんも大体そんなだし」
「え、そうなの?」
「ん。っていうか、だから誘ったんだよ? 練習だったの忘れるくらい、ゆっくり眠れたんだったら嬉しいな」
麻衣の顔には、むしろ作戦通り、と書いてあった。
「そっか。‥‥‥ありがと、麻衣」
「いえいえどういたしまして」
何故か、答えたのは翠だった。
「いや翠じゃなくて。っていうか、翠はなんで来たの?」
そういえば、ずっと寝ていた菜月は、翠が何故、いつから一緒にいたのかを知らなかった。
「わたしは通り掛かっただけだよ。でもさ、可愛い後輩が楽器の練習してるし、隣で誰かさんが涎垂らして熟睡してるし、見ちゃったら気になっちゃうじゃない?」
「よ‥‥‥よだ‥‥‥」
慌てて取り出したハンカチで口元を拭うが、涎がどうだとかいう形跡は特にないように思える。
「あれ? あれ?」
怪訝そうに眉を寄せて、何度も何度も口元にハンカチを当てる菜月に向かって、
「嘘だよーん」
翠は舌を出してみせた。
「みーどーりー‥‥‥」
いつの間にかしゃもじを握っている菜月。
「うわごめんなさいごめんなさいごめんなさいっ」
おかしそうに笑いながら、ハンドルから離した片手で自分の頭を守る翠。
これはこれで、いいコンビのようでもあった。
やがて、土手の上の道が、川を渡る橋と交差する場所に行き当たった。
「さて。遠山先輩は、お昼はどうするんですか?」
「んー」
まっすぐに帰るなら、麻衣たちとはここでお別れだ。
だがこの後は特に用事も予定もない。
しばらく思案した末に、
「そうだ、菜月ん家がいいな。朝霧君が働いてたりもするんでしょ? それっておもしろそうだし」
意外にもというか案の定というか、翠はそんなことを言い出す。
「え‥‥‥」
「あ、そうですね。そうしましょう。ほら菜月ちゃん」
「えええ‥‥‥」
明らかに気乗りしない様子の菜月を急かすように、翠と麻衣が少し足を速めた。
そうして‥‥‥夏の目覚めを前にした一時の微睡みのような、穏やかな春の陽気の中を、三人は歩いて行く。
あと一月も経たないうちに、夏の苛烈なる化身がひとりの少女の姿をとって、満弦ヶ崎、果ては全世界を叩き起こしにやって来ることを、今はまだ、誰も知らない。
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