たかだか二年くらい離れていただけでも、勝手知ったる駅のホームから故郷の風景を眺めれば『懐かしい』と思うものらしい。そんなことはないだろうと高を括っていたのに、実際にそれを目の当たりにして、心の中では少し驚いていた、くらいには。
腕時計をちらりと見て、それから、駅舎の壁に掛けられた大きなアナログ時計を見る。あと何分で午後一時なのかに関する主張には少し食い違いがあったが、どちらにしろ、まだ約束の午後一時をまわっていないことだけは確かなようだ。
「どうせ名雪が時間ぴったりに着いてるワケはない、か」
小さく呟く言葉のかたちに白い吐息が零れて消える。
泊まりがけの予定で出てきたにしては小さな鞄を担ぎ直すと、内部的な事情は微塵も表に出さず、降り立ったプラットホームから改札へ続く階段へ向かう。時々吹き込んでくる風の意外な冷たさに顔を顰め、ふと思い立って途中の自動販売機で温かい缶コーヒーを一本買い、そのまま懐炉代わりにポケットに突っ込んだ。
それは、高校を卒業してから二度目の一月のこと。
できることなら一生戻りたくなかったあたしを、故郷は白い雪化粧で迎えた。
さてそれは、案の定なのか、意外にもなのか。
「お、久しぶりだな。元気だったか?」
待ち合わせのベンチから腰を上げて、手を振りながら歩み寄ってくるのは相沢くんひとりだった。
「お久しぶりね、って名雪は? 来てくれるって聞いてたと思ったんだけど」
「ああ‥‥‥悪い。起こしたんだけどいつもの調子でさ。今頃ばたばたこっちへ向かってると思うけど」
家のある方へ相沢くんが目をやる。つられてそっちを見るけど、別に水瀬家の屋根が見えるわけではない。
今でも相沢くんは水瀬家居候の身分だった筈だ。‥‥‥今までよりもこの先の方が水瀬家にいる時間は長くなるだろうし、そう遠からず肩書きも「居候」ではなくなる可能性が非常に高い、と踏んでいる。
「呆れた。まだそんななの?」
「まだそんなどころか、前よりも大分磨きがかかってる」
何度か見たことがある名雪の部屋は、あたしが知っているあの頃でさえ、目覚まし時計で武装した要塞のようだった。アレでもかなり凄いと思ったのに「大分磨きがかかっている」となれば、きっとあの時計もまた凄い勢いで増えていたりするのだろう。
そう、ドアを開けた途端に喧しく溢れ出す目覚まし時計の大合唱。心底げんなりした様子の相沢くんが、床一面を埋め尽くした時計のどこを歩いて名雪を起こしに行けばいいのかと思案に暮れている。そして名雪は、気が触れそうなその音の洪水の真ん中で、まるでこの世の幸福を独り占めしたような安らかな寝顔でくーくーと眠っているのだ。想像を巡らせる。
たまたま駅舎の中から聞こえてきた発車を知らせる電子音まで目覚まし時計の音みたいに思えてきて、図らずもあたしは吹き出してしまった。
「追っつけここに来るだろ? そうすると、ひとことめは多分『起こしてくれないなんてひどいよ祐一』だ。五百円くらいだったら賭けてもいい」
「遠慮しとくわ。それは賭けじゃないもの」
不意に相沢くんが笑う。
「変わってないな」
「そうかしら?」
「安心した」
「‥‥‥そうかしら?」
そこまで話したところで、ぱたぱたと走る音が聞こえてきた。だんだん近づいてくる顔を見て、やはりさっきの賭けは賭けではなかった、とあたしたちは確信する。
「起こしてくれないなんてひどいよ祐一」
ここまで走ってきたとは思えない、はっきりとした口調で名雪は言った。息も切らしていないのは流石だけど。
「‥‥‥なあ」
「‥‥‥ねえ」
あたしと相沢くんは顔を見合わせておもむろに呟いた。
ふたり分の笑い声とひとり分の困惑の呻きが続いた。
故郷の駅に降り立つまでもなく、わかっていたことは幾つかある。
栞は迎えに来ない。迎えに来ないどころか、今はもうこの世のどこにもいなかった。とうとう栞は卒業できなかったからだ。お姉ちゃんと一緒の高校からも。長い間入院していたあの病室からも。
そして多分、北川くんも来ない。来てくれたとしても、今更どんな顔をして会えばいいのかわからなかったから、待ち合わせのベンチに相沢くんしかいなかったのを見て、本当は、心の中では少しほっとしていた。
その糸を引き千切ったのは明らかに自分だったから、より気まずいのがあたしの方だったのは間違いない。ただ、それは程度の差でしかなくて、不用意に千切れてしまった糸の片方ずつを握って立ち尽くすしかなかった気まずさはあたしも北川くんも同じの筈だった。ここに来られない北川くんの気持ちはよくわかっているつもりだ。
「それで、北川くんなんだけどね」
だから、歩きながら突然そんな話を始める名雪の声に、あたしは一瞬ひくっと身を固くする。
「どうしたの香里?」
その瞬間、相沢くんのあたしを見る目が少し細くなったような気がした。前からそうだが相沢くんは、普段は軽そうにしているくせに時々やけに鋭いことがある。
「ううん、何でもないわ」
名雪はともかく、もしかしたら相沢くんは誤魔化せないかも、と思う。その時相沢くんは、口に出しては何も言わなかったけど。
「ん。でね、北川くんなんだけど、今日は何だか都合悪いんだって。明日はちゃんと出るって言ってたから、明日になったら会えると思うよ」
「そう?」
会えても、会わないんじゃないかな。
思ったが言わなかった。
「何かあったのか?」
相沢くんが小さな声で訊く。
「別に?」
何食わぬ顔をしてあたしは答える。
そのやりとりは名雪の耳には入っていなかった。そういう鈍いところも相変わらずかも知れない、とも思う。
「まあ、北川くんはしょうがないわ。明日は会えるんでしょ? それでいいじゃない」
会いたいからそう言ったのではなかった。
「それで香里、この後はどうするんだ?」
相沢くんが違う話を持ち出して、北川くんの話はそれであっさりと打ち切られる。
別に、の何が「別に」どうだったのか、相沢くんにはきちんとわかっていたのかも知れない。
「ん。取り敢えず、久しぶりだから最初に栞のとこね。後は、夕飯までに家に着けって母さんたちには言われてるけど、その他の予定とかは別にないわ」
「そしたら、栞ちゃんのとこ、私たちも一緒に行きたいんだけど、いいかな?」
「もちろんよ。そうしてくれた方があたしも嬉しいわ。多分、栞も嬉しいだろうし」
やたら豪勢な夕食もその後の長い長いお茶の時間もとうとう終わってしまい、あたしは居間から自分の部屋だった部屋に戻った。
ひとりになるのが嫌だった。二年もずっとひとりでいるくせに、この家の中でひとりになるのはとにかく嫌だった。せめて栞がここにいてくれれば。北川くんとあんなことになってさえいなければ。今更どうにもならないそんなことをふとした弾みに後悔してしまいそうで、だから、できるならずっと、これからもずっと帰りたくなかった。この家に。この街に。
今、ひとりにしないでと父や母に泣きついたなら、多分そうしていてくれるだろう。昔からあたしは、そう思ってはいても実際にそうしたことはない。我儘でものわかりの悪い振る舞いをして見せればどこかで少しは解消できたのかも知れないもやもやとしたいろんなものを自分ひとりでただ抱えることに慣れ過ぎたまま、成人式を翌日に控えた自分を乱暴にベッドへ投げ出した。
居間に吊ってあった振袖は綺麗だった。
それを見つめる母さんたちは嬉しそうだった。
頭の中で、それを着ようと四苦八苦する明日の自分を、何だか醒めた瞳でもうひとりのあたしが眺めている。
晴れなければいい。天気予報が伝えたような半端な雨じゃなく、晴れ着なんて着れないくらい、あっという間に台無しになってしまうくらい物凄い雨でも降ればいい。
そのまま何もかも雨に溶けてしまえばいい。成人式の式場になる市民会館も、この家も、栞のお墓も、父さんも母さんも相沢くんも名雪も北川くんも。あたしさえも。
誰も知らないだけで‥‥‥いや、本当はみんな知っているのかも知れないけど、今までも、そういう自分は常に心のどこかにいた。
あの時、何となく寄り添いかけた北川くんとあたしを、頼りなくふたりを結ぶあの糸を勢い任せに引き千切ってしまったのも、そういう自分だった。
ほら。
どうしても、そんなことを考えてしまうから。
「だから嫌だったのよ」
呟く声は、誰にも届きはしなかった。
真っ暗な空から、どこにこんなに水を隠していたのかと不思議になるような大雨が降る。普段の服よりずっとひらひらした部分の多い黒の和服は、裾も袖も、もう随分と水を含んでしまっている。
この雨が、きっと自分の涙なんだろう。泣いてしまうわけにはいかなかった自分の代わりに、空が泣いてくれているんだ。ただひとり斎場の外に立ち尽くしたまま、あまり役に立っていない傘の下から昼だか夜だかよくわからない空を見上げて、テレビの向こうを眺めるように、淡々とそんなことを思う。
取り乱してしまうことができたらどんなに楽だろう。みっともなく泣き叫びながら、あの棺の上に泣き崩れることがあたしにできたら。
栞のために泣くことさえも我慢してしまえる自分という人間は、何だか、とても冷たい人間だったような気がしてくる。そのうち、人間、なのかどうかも疑わしくなる。もしかして、あたしのこの手首を切ったら、流れ出る血の色がみんなと違うんじゃないか、とさえ思う。あるいは初めから、血などというものは流れていないのかも知れない。手首を押さえると確かに脈打っているように感じるそれも、ひょっとしたら心臓の位置には代わりに時計が仕込まれていて、その秒針の動きに合わせてオイルか何かが巡っているだけかも知れない。
試してみたい。血の代わりに流れるオイルが見たい。心臓の代わりに仕込まれた時計を手にとってみたい。‥‥‥そこまで考えて、ふるふると頭を振る。
深く息を吸うと、あたしを捕らえかけた熱病のような何かが、頭のどこかから幾分か外へ抜けていく。
そのまま、吸った息を吐く。長い溜め息のように。
「あのさ、美坂」
雨音に声が混じった。
「何?」
振り返ると北川くんは、多分、そのハンカチを差し出している。自分で使いたくて取り出したのか、あたしに使って欲しいのかわからない微妙な位置は、傘の外に出すとハンカチが雨に濡れてしまうから、だろうと思う。
北川くんは優しい。
「その‥‥‥俺、何て言っていいかわかんないけど」
もしかしたら人間でないあたしにも北川くんは優しい。
「こんな時くらい、泣いても、いいと思う」
今、ここでなら。
あたしは泣いてもいいのかも知れない。
「俺に見られたくない、とかなら、背中とか、そういうのでもいいから」
泣いてもいい場所があたしにはあるのかも知れない。
栞にはなかった場所が。
栞には、なかった、場所、が。
「美坂。俺、俺さ」
言いづらそうに呟いた北川くんの。
さっきあたしを捕らえかけた熱病のような何かの、
北川くんの頬に向かって。
まだ消えずに残っていた残滓のような何かが、
あたしの右手はいきなり。
不意に脹れ上がって鎌首をもたげるのを、
振り上げた位置から。
押し止めることは、あたし自身にも、できなかった。
「‥‥‥っ!」
確かにその時、右手を飛ばしながら、何かを叫んだ筈だった。なのに、後になって思い出そうとしても、憶えているのは喉の奥がじりじりと痛む感覚だけだった。
片頬を赤く腫らした北川くんの顔が、不意に、かたちがわからなくなるほど滲んで見えた。
持っていた傘やハンドバッグをその場に放り出したことにすら気づかないまま、どこへ向かうでもなく、ただ闇雲に走った。もともと走ることには全然向かない和装の喪服は濡れた分だけ余計に腕や足に纏わりついて、とても「走っている」などと言えたものではない速さだった筈だけど、だから同じように走っていれば多分すぐに追いつけた筈の北川くんは‥‥‥心のどこかでは確かにあたしが待っていた北川くんは、少なくともあたしの記憶が白く濁った暗闇に呑まれてしまうまでの間には、あたしに追いつきはしなかった。
確か、その次に目を覚ました時も、いつの間にかあたしはこうして自分の部屋にいて、今と同じようにぼーっと窓の外を眺めていた筈だった。
それから北川くんは何度か電話を掛けてきたり、名雪や相沢くん経由で様子を伺おうとしたようだったけど、あたしはその悉くを無視し続けた。
他県の大学に進学が決まっていたあたしはそのうち、誰にも何も告げずに、逃げるように街から消えた。
もうそこへ戻るつもりはなかった。
それなのに。
ひとりぼっちのまま一年経ち、二年経ち、やがて、晴れ着を買ったから成人式の時くらいは帰っておいでと電話口で母さんに泣かれたあたしは止むなく帰郷を決意し、またこうして窓から暗い空を眺めている。結局、利発でものわかりのいい長女は、どこまでも利発でものわかりがいい長女だった、ということなんだろう。
そういえば、今その窓から見える風景は、前の時とよく似ていた。違うのは、前の時の雲は雨を降らせた後の雲で、今見えている雲はこれから雨を降らせる雲だ、ということだろうか。さっき居間で見たテレビの天気予報が明日は雨だと告げていたのは、雲を見る限りではどうやら本当のことらしい。
夜更けを過ぎる頃、眠りに落ちそうな意識のどこかが、階下でただ一度、遠慮がちに鳴って消えた電話の呼び出し音を聞いた。‥‥‥何を思って誰が掛けてきた電話なのか。確かめなくても何となくわかったような気がして、だからあたしはベッドから動くことができなかった。
夜明け頃から降りだした雨は、晴れ着を相手に悪戦苦闘する間にも勢いを増していたようだ。
いつまで泣いているのかしらと思う。
どうせ泣き止まないのなら、いっそこのまま街ごと流れてしまわないかしら。そうなれば面倒な成人式も消えてなくなるし、あたしと着物を見せびらかして歩くのに付き合わされることもないし、この後北川くんとばったり会って気まずい思いをすることもないし。朝早く起こされたせいか、何割か寝惚けたままの頭のどこかが、割と本気でそんなことを考えていたりもする。
着付が済んでもすぐに成人式ではない。両親が車で方々へ引っ張り回し、今やひとり娘になってしまった長女の晴れ姿を披露する儀式が延々と執り行われている。実は喜んでいるのは両親だけだが、一応主役として担がれている立場のあたしが仏頂面というわけにもいかず、努めてにこやかに笑顔を作りながら、やっぱり今すぐ街ごと流れてしまわないかしら、と心の中でだけ呟いた。
雨がまた強くなった。そろそろ傘では凌げなくなりそうな勢いに、父さんが大袈裟に顔を顰める。
そのうち、あたしを見せびらかすツアーがようやく終わったらしい。終点である市民会館前の広場には人はあまりいなかったが、代わりに、そこかしこの屋根の下に、同じような晴れ着やスーツ姿の面々がごそごそと身を寄せあっている。今日の成人式に参加する面々だ。
みんな集まっているでしょうから、ゆっくりしてらっしゃい。母さんはそう言って車からあたしを送り出した。
ドアから建物まで、慣れない草履で走り寄る。
「香里ー! こっちこっちー!」
会館の入口にほど近い駐輪場の屋根の下で、凄い勢いで手を振っているのは、明るい色の見慣れないスーツを身に纏った名雪だ。
「凄いねー。本当にお着物なんだー。綺麗だねー」
名雪は言いながら、腰のあたりに結ばれた帯からタオルで雨粒を落としてくれた。
「雨が降ってるのに着物なんてロクなもんじゃないわよ。名雪みたいにスーツ着て出る方がよかったんだけど」
それが本音だった。親の前では言えないけど。
「でもしょうがないよ。香里、ずっとお家に帰ってなかったでしょ? お母さんきっとすごく嬉しいんだよ。それに香里のお家は、高いお着物買っても、着てくれる人はひとりじゃないから。あたしは妹とかいなかったけど、そういう気持ちはちょっとわかる気がするよ」
着てくれる人はひとりじゃないから。考えようによっては物凄いことを名雪はしれっと言ってのける。が、親孝行のつもりで帰ってきたあたしにも、そういう気持ちのことはわかっていた。来年これを着る筈だった栞が今はもうこの世にいないとしても、それでも敢えて、ふたりのために高価な晴れ着を買ってしまう気持ちのことは。
だからこそ、外はこんなに大雨なのに、あたしはこんな格好でここに立っているのだ。
「そうね」
それだけ答えながら、自分の腕から伸びる長い長い袖を見つめる。淡い桜色の振袖。
「そういえば、相沢くんは一緒じゃないの?」
ふと思い出して名雪に訊いてみた。
「ん。いるよ、ここには。北川くんと一緒だよ」
「‥‥‥馬鹿ね。そんな変な気を使わなくてもいいのに」
本当は、いきなり顔を合わせずに済んで、ほっとした。
「私も本当はみんな一緒がいいなって思うんだけど」
名雪の顔が少し曇った。
「きっと香里は、いきなり会ってもどうしていいかわからないだろうから、って」
確かに、どうしていいかなんてわからないけどね。
言おうとして止めた。それ以上に名雪を不安がらせてもしょうがなかった。
雨のせいか、案内状に書かれた予定よりも大分早く、市民会館の玄関が開けられた。ぞろぞろと吸い込まれていく参加者の群れの中に相沢くんと北川くんの横顔を見つけたけど、追いかけることはしなかった。
予想通り式は退屈だったが、そんなことは別にどうでもいいことだった。
客席を眺めていたあたしは、五列ぐらい前の席に、相沢くんと北川くんが並んでいるのを見つける。
「あ。香里、祐一たちがあそこにいるよ」
ひそひそと囁きながら、ちょうど見ていたあたりを名雪が指で示した。
しばらくふたりは見つめていたが、相沢くんと北川くんが互いでない誰かと話しているような気配がない。
「相沢くんって友達少ないのかしら?」
「私たちだってふたりだけだよ」
「でも普通、もうちょっと何かあるものじゃない? みんな久しぶりなんだし」
「それは多分、香里が久しぶりなだけだよ。ひとりぼっちはお互いさまなのに」
「え?」
向き直ると。
名雪は何だか、ひどく寂しそうな目をしていた。
「あのね香里。私、あんまり香里のこと、可哀想とか、そういう風に特別にしたくないよ。辛いことも悲しいこともいっぱいあったってわかってるつもりだけど、でも、いつまでもひとりだけそんな遠いところに逃げちゃったままじゃ、私たちだってどうしていいかわかんないよ」
‥‥‥あの時、あたしは。
どうしていいかわからない自分を持て余して、どうにもならない苛立ちを側にいようとしてくれた北川くんに突然ぶつけて、挙げ句、葬儀の続きも北川くんのことも何もかも放り出してそこから逃げ出し、逃げ出した勢いのまま街からも消えた。
「そんな、ことないわよ。あたしは大丈夫だから」
これで一体何が大丈夫なのだろう。
「嘘。大丈夫ならそんな悲しそうに北川くんのこと見ないでよ。普通に、前みたいに北川くんとも一緒にいてよ」
「それは」
「どうして祐一が気を使わなきゃいけなかったの? どうして私は、香里とふたりだけで後ろの方にいるの?」
それは。‥‥‥言葉に詰まったあたしは、何かを堪えるように両手をきつく握った。
「私たちにだってわかってるからだよ。香里が本当は今でも北川くんのこと気になってて、でもあんなことになっちゃったから今更会うのも気まずい、って顔に書いてあるからだよ。ねえ、本当に大丈夫なら、どうして香里は今でもひとりぼっちなの? どうして北川くんまで、今でもひとりぼっちでいると思うの?」
「北川くんが? ひとり、ぼっち?」
不意に、五列ぐらい前の北川くんが振り返った。北川、と言った小さな声が、もしかしたら聞こえてしまったのだろうか。慌てて目を逸らしたあたしがどう見えたかは、目を逸らしたあたしにはわからなかった。
式典が終わってみれば、雨は相変わらずどころか、さらに勢いを増していた。‥‥‥あの日くらいの、嫌な雨。
会館の入口あたりに滞留した人がなかなか外へ流れていかない。
二階の出口の方が近かったあたしと名雪はそのまま上の階に出て、何となく通路の手摺りに凭れたまま、ごった返す入口周辺を見下ろしている。
そこでそうしていれば遠からず相沢くんと北川くんがふたりを見つけるだろう。そうなったら、あたしはその後、一体自分をどうするつもりだろう。他人事のような無責任さで、ぼんやりと近い未来を想像する。
「なんだ、こんなところにいたのか」
「あ。祐一」
後ろから声をかけられて名雪が呟いた。
「北川くんは?」
そんな風にして、次は北川くんがあたしを見つける。
美坂、なんて小さな声で呟いたきり、次の言葉が見つからなくて、北川くんは立ち竦んでいる。
あたしは振り返らない。
それから。
「外にいる」
‥‥‥外?
「ちょっと相沢くん、外って」
思わず振り返ってしまったあたしは、現実と想像がちょっと違うくらいのことで何をこんなに取り乱しているのだろうと、やっぱり他人事のように思う。
「しばらくひとりにしてくれってさ。大雨だけどな」
「そんな悠長なことを」
振り返ったあたしに、相沢くんは男物の大きな傘を差し出す。多分、それは相沢くんが自分で使う傘だ。
「葬式の時のことだけど、あの日あったこと、まだ後悔してるのは香里ひとりじゃない。北川も顔出しづらいってさ。あの時すぐに答えが出てればこんなに苦しくなかったかも知れないってさっき言ってたけど」
「そんな、北川くんが後悔するようなことなんて」
「ひとつもないと思うなら、悪いのは香里だけだよな?」
「え‥‥‥っ」
「誰もそうは言ってくれなかっただろ、今まで。この際だから俺が言ってやる。お前が悪い、香里」
あたしが悪い。
「香里、取り敢えず今はそれでいいじゃねーか。細かいことは俺だって知らないけど、香里が悪いってことで」
あたしが悪いから。
取り敢えず今はあたしが悪いから、北川くんはあの雨が降る外のどこかに、たったひとりで。‥‥‥もういちど、相沢くんが押しつけるように差し出した傘を握って、あたしは入口ホールへ続く階段を駆け降りる。
「美坂‥‥‥」
北川くんはすぐに見つかった。式が始まる前にあたしと名雪が立っていた駐輪場のあたりだ。流石にこんな天気では自転車で来た人も少なかったらしくて、この屋根の下にだけはもう誰もいなかった。
「お邪魔だったかしら?」
「いや、いいけど」
傘を畳みながら、あたしは北川くんのすぐ後ろに立つ。横じゃなくて背中合わせに。腰のところに邪魔な帯がなければいいのにと思う。何だか、北川くんが遠い。
何も言えずに、あたしたちはただそのまま立っていた。
頭の上で屋根の波板に弾ける雨音だけが響いていた。
「なあ、美坂」
しばらく間を置いてから、北川くんは言った。
「何?」
「俺、本当は追いかけたかった。でも、追いかけていいのかどうか、あの時はわからなかった。後悔してた。どうして俺、追いかけなかったんだろう、って、ずっと」
何の前置きもなく、いきなり、あの日の話が始まる。
「そう‥‥‥相沢くんがね、さっきあたしに言ったのよ。香里が悪いって。だから、北川くんに謝りに来たの」
「いや、それは」
「あたしが悪いの。結局あたしは自分のことで手一杯で、なんか平気な振りはしてたけどそんなの全然振りだけで、振りだけだから簡単に壊れちゃって、そのせいで北川くんのことあんな風に振り回して」
「でも、あの時は、何ていうか」
「ん。栞があんなことになった後だからしょうがない、ってみんな思ってくれてる。だけど」
だけど、だからっていつまでも栞に寄りかかってちゃダメだって、相沢くんは言いたいんだと思う。
だから名雪は、可哀想とかそういう風に特別にしたくない、ってあたしに言ったんだと思う。
「本当はね、追いかけて来て欲しかった。捕まえていて欲しかった。ひっぱたいておいて、自分であんなにしておいて、おかしいこと言ってる、ってわかってる。でも走ってる時、あたしは北川くんのこと待ってたと思う」
「‥‥‥何だよそれ」
「本当、おかしいね。我儘で、馬鹿で、なんか、笑っちゃうよね。ごめんね北川くん。あたし」
「まったくだ」
不意に前に立った北川くんが。
「泣きそうな奴の言うことじゃないだろ、そういうのは」
あの時と同じようにハンカチを取り出した。
「同じようなこと繰り返してるけど、でもこれはやり直しとかじゃない。続きだけど、絶対、やり直しとかじゃないんだ。だから美坂、また俺のことひっぱたいて走ってもいい。でも今度は俺は追っかける。美坂が追っかけて欲しいかどうかとか気にするんじゃなくて、俺が追っかけたいから、今度こそ追っかけて、捕まえる」
「‥‥‥追いかけて、くれるの?」
「どうしてひとりで待ってたと思ってるんだよ」
これで美坂だけあっちで別の彼氏とか作ってたら最悪だったけどな。呟いた北川くんの胸に飛び込んだ。
泣き方なんて、もうとっくに忘れてると思ってた。
それでも、雨足は相変わらずで。
屋根の波板がばたばたと音を立てるのも相変わらずで。
「テレビのドラマなんかだとさ、こういう時はいいタイミングで雨が上がるんだけどな。それで虹なんか出て」
「そうね」
「全然止まないよな」
「ドラマじゃないからよ、多分」
ドラマみたいで格好いいことは栞の憧れだった。
でもあたしは、こういう現実のことも好きだった。少し前のあたしは雨なんか嫌いだったけど。
ドラマみたいじゃなくてもいいと思う。
現実だって結構、捨てたものでもない。
「そろそろ戻るか。雨降ってるけど」
「戻る、って?」
「中。相沢と水瀬がまだ待ってるんじゃないか?」
北川くんは建物を指差した。
「ああ。でも、まだいるのかしら?」
「その傘、相沢のだろ。だから相沢は帰れない。それと、美坂の傘は別にあるんだろ? 今それを持ってる奴も、そのまま持っては帰れないだろうし」
「‥‥‥ええとね、半分はずれ」
「ん?」
「そういえばあたし、家から傘持って来なかったのよ。ここまでは車で送ってもらったから気づかなかった」
「それで、相沢の傘、か」
「ん」
「じゃあ仕方ないな」
おもむろに北川くんは自分の傘を開けて、あたしをその中に引っ張り込んだ。
「香里ー! こっちこっちー!」
例によって、名雪の腕の振りは凄い勢いだった。横で相沢くんが苦笑いを浮かべている。
「お帰り。大丈夫だった?」
「ん」
「よかった。そしたらもう一回、お帰り、だね」
名雪の顔がぱっと明るくなる。何だか、本当は当事者のあたしたちよりも、名雪の方が嬉しそうに見えた。
「もう一回?」
「あの雨の中を走って行っちゃった時からずっと、私たちは、香里がここに帰ってくるのを待ってたから」
「‥‥‥ごめん名雪。でも、もう大丈夫だから。今度は本当に、大丈夫だから」
「そうだね。本当によかったよ。だから、お帰りなさい」
「ん。ただいま」
抱きついてきた名雪の耳元に囁く。何だか今度はあたしがさっきの北川くんみたいだ、なんて思う。
「そしたら祐一、ちょっと寄り道しようよ。せっかくみんな揃ったんだし」
その状態から顔だけ振り返って相談を始める。
「香里はまたすぐ、あっちへ戻っちゃうでしょ?」
「こっちを出るのは明日のお昼くらいよ」
「え、そんなに早いの?」
実家にゆっくり長逗留することが不可能かといえば、実際はそうでもない。大学は長い冬休みの最中で、慌てて戻らないといけない用事も別にない。
ただ、だからといって予定を変えるつもりもなかった。
これで多分、あっちの部屋ですることもちょっと増えちゃったしね。そんなことも思う。
「寄り道するって、香里傘持ってなかったろ?」
相沢くんが首を傾げた。
「持ってないわよ。でも、あるから大丈夫」
「‥‥‥ああ、そっか。さっきもそうだったもんな。それで名雪、寄り道ってどこがいいんだ?」
わざわざ訊かなくてもわかりそうなことを訊く。
「ええと、んー、百花屋さんがいいな」
当然といえば当然な名雪の答えだった。どうせ行き先は決まっているのに少し思案したらしい間があったのは、一体百花屋を何と秤にかけていたのだろうか。
「‥‥‥まあ」
「‥‥‥なあ」
「‥‥‥ねえ」
あたしと北川くんと相沢くんは、三人で顔を見合わせておもむろに呟いた。こんなやりとりがつい最近もあったような気もしたし、随分久し振りのような気もした。
そして、いつまでも降り止まない雨の中へ、あたしたちは歩き始める。あの時みたいな雨が降る空の下を、今度はみんなで肩を並べて、ゆっくりと、ゆっくりと。
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