空が溶けて流れ出したような土砂降りの大雨が降っている‥‥‥ことには、ずっと前から気づいていたけれど。
「ふえ‥‥‥」
裏口の戸を少し開けると、レジにいた時には気づかなかった雨音があっという間に耳を圧倒して、思わず、開けた戸をすぐに閉じてしまう。
「あ‥‥‥あははー」
あまりそうは見えないかも知れないが、今、佐祐理はとても困っていた。
「あれ倉田さん、帰らないの?」
佐祐理と一緒に昼番のシフトを終えたパートのおばさんは大きな傘を手にしている。
「ええ、ちょっと‥‥‥傘がなくて」
「あら困ったわね。なかったら帰れないでしょ? それだったら、そこの傘立ての傘、適当に借りちゃったら?」
「でも、どれがどなたの傘なのか」
「誰にもわかんないわよそんなのどーせ」
おばさんほどには適当になれない佐祐理は軽く両手を振るだけで、傘立てへ行こうとはしない。
小さく息を吐いて、おばさんは裏口の向こうに消える。
そうして、バックヤードには佐祐理だけが残った。
どこまでも続く滝のような土砂降りの中を舞は走る。
自分のさした傘と畳まれた佐祐理の傘とで両手は塞がっている。長く伸ばした後ろ髪の先が傘からはみ出ているらしい。少し重たくて気になるが、そこに伸ばせる手が今はない。
だから舞はもっと急ぐことに決めた。
地面で弾ける雨粒よりも高く水溜まりを蹴立てて。
脇目も振らずに。
‥‥‥脇目も、振らず、に。
「倉田さーん? まだいますー?」
夕番のレジに入っていたバイトの子が顔を出す。
「ふえ? はーい、いまーす」
「よかった。ええと‥‥‥あれ? い、妹さん? っていうか、ええっと」
そこで首を傾げられても、佐祐理も困ってしまうが。
「とにかく、なんか家族の方、が? まあいいや、誰か迎えに来てますよ」
「迎えに?」
佐祐理の顔がぱっと明るくなる。
「舞かな?」
「お店の方にいますから。今レジ前はお客さんいませんから、こっそり厨房通っちゃっていいですよっ」
そこには佐祐理しかいないのに、バイトの子は声を潜める。
「じゃあ、そうしちゃいますねっ」
腰をかがめて厨房の中を抜け、レジ脇の通用口を抜けると、そこはファーストフードのチェーン店だ。
「あ。佐祐理」
「来てくれたんだ、ま‥‥‥?」
顔を合わせるなり、きょとん、と佐祐理が目を丸くする。
「どうしたの舞?」
「傘、持って来た」
「そうじゃなくって、どうしてこんなに濡れちゃってるの?」
「途中で、片方、置いてきた」
「途中?」
窓の外、どこか遠くに舞は目を向ける。
「猫さんが、可哀想だったから」
「それなら、こっちの傘をさして来ればよかったのに」
佐祐理が舞の、塞がっている方の手を指差すが、
「これは、佐祐理の」
頑固というのか融通が利かないというのか、畳まれたままの傘を佐祐理に差し出す舞は、だから、見事に全身ずぶ濡れだった。
「‥‥‥そっか。じゃあ早く帰ろう、舞」
「ん」
店先で佐祐理は傘を広げる。
だが舞は、何故か、その外側にいようとする。
「舞、こっちに入ったら?」
「これは、佐祐理の」
「‥‥‥んー」
佐祐理は、少し考える仕種。
「そうだね。これは佐祐理のだから、佐祐理は舞を入れてあげてもいいんだよ。入って?」
「ん」
ようやく小さな傘の下に納まったふたりが、寄り添って歩き始める。
「舞、猫さんがいたのはどの辺?」
「途中の公園。今は、ベンチのところ」
「そしたらね、舞。今からその公園へ行って、猫さんがまだそこにいたら、猫さんも一緒に帰ろう? 傘があったら傘も持って帰ろうね」
佐祐理が笑う。嬉しそうに。
「うん。‥‥‥猫さんと一緒は、すごく、嫌いじゃない」
舞が笑う。しあわせそうに。
土砂降りの大雨の中にもうひとつ傘の花が咲いたのは、それから、もう少し経ってからのことだった。
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