文乃にしては珍しい、遅い目覚めを咎める者もないまま、太陽はもう中天に届こうとしていた。
窓越しのやわらかな日差しに起こされて、ゆっくりと文乃は目を覚ます。窓の外には雲ひとつない青空。いい天気、とはまさに、こういう天気のことを言うのだろう。
誰も自分を見ていないことを確認すると、文乃は欠伸を噛み殺しながら大きく伸びをする。ぼやけた頭の中へ雲ひとつない青空が染み透るように、文乃の身体と意識が目を覚ましていくのを感じる。
‥‥‥こんなによく眠れたのはいつ以来かしら?
自分に訊ねてみる。しかしその答えは、文乃の中から失われて久しかった。思い出したくもないような、ろくでもない夜ばかりを幾つも幾つも越えてきた、そんな記憶しか心の中に残っていなかったからだろう。
襖を開けるとそこは居間だ。卓袱台の上に二枚置かれたメモに、文乃はすぐに気づく。
『堀口さんのお産に立ち会うことになりました。多分今夜は帰れないと思います。文乃ちゃん、お夕飯よろしくお願いします。雨音』
『町まで行ってきます。夕方には戻れると思います。夕飯は作れなかったら俺がやるから文乃ちゃんは無理しなくていいよ。正士』
二枚のメモは、正士の不在と雨音の不在を告げていた。なるほど、寝坊した文乃を咎める者などいないわけだ。今この家には文乃しかいないのだから。
「そう」
やがて、ぽつりとそれだけ言うと、文乃は手に取ったメモを卓袱台に戻した。
「芳野さんが先に出ていったみたいね」
呟きながら、今度は欠伸を噛み殺す。
その分析は正しい筈だったが、だから何がどうなる、というものでもなかった。
取り敢えず薬缶を台所の火にかけて、文乃はぺたんと卓袱台の前に座り込んだ。
これからどうしようかと考える。
時間的には昼食だ。でも、自分ひとりのために何か料理をする気にもなれない。昼食の用意はいいから、芳野さんに頼まれた正士くんの夕食の用意を。でも、髪はまだ寝起きでくしゃくしゃのままだし、大体格好が寝間着のままだ。何かするならまず着替えないと。だけど、着替えるといっても、着てきた制服は洗われてしまって、今軒先に干してあるし。
いやそんなことではなくて。
これから、どうしようかと、考える。
‥‥‥今は、堂島に家を壊された雨音と、自分の家に自分で火を放った文乃が、正士の家に居候していた。
みんな、焼いてしまおうと思う。
あの男の家。
私に買って与えたもの。
本当はこの自分も焼いてしまいたいけど、生きていくと決めたのも自分だから‥‥‥とにかく、燃やしてしまえるすべてのものを、できるだけ、ひとつ残らず。
あの晩文乃がそれを告げた時、ここに居合わせた正士、雨音、宗介の中に、賛成した者はひとりもいなかった。
すべて焼いてしまうことはないじゃないかと、宗介は諭すように文乃に言った。
人格に問題があったことは疑うべくもないが、それでも八車斎臥が名の知れた画家であることは揺るがない事実だ。人は霞を喰って生きているわけではない、今から先も自分が生きていくことを考えれば、せめて少しでも先立つものを貯えるくらいの考えはあってもいい、だからそのために、家や、斎臥が遺した絵は、焼き払わずに利用する方法を考えてもいいんじゃないか、と。
それは、ごくまっとうな良識と常識に根ざした、普通の大人の意見だった。誰がどう考えても宗介の言うことの方が正しい。文乃自身すらそう考えていた。しかし、それがわかっていても、文乃は首を縦には振らなかった。口に出してそう言いこそしなかったが、あんな男も、あんな男の遺したものに生かされる自分自身も、文乃には到底赦せなかったのだ。
気持ちはわかるのだろう、遂には宗介も説得を諦めた。気が済んだらこの家においで、着の身着のままでいいから、と言ったのも宗介だ。そして言われた通り、教科書の類を詰めた鞄と煤で汚れた制服の他には本当に何もない、まさに文字通り「着の身着のまま」の文乃が、次の晩から正式に、戎田家の居候に加わることになる。それが昨夜のことだった。
悠夏の神社も堂島に焼かれていたが、焼かれたのが神社だけだったのは幸運だった。もっとも、家も一緒に焼けてしまえば、雨音や文乃のように自分も正士の家に居候できたのに、とでも思ったか、その時の悠夏はかなり複雑な面持ちではあったのだが‥‥‥ともあれ、悠夏は残った家でひとり暮らしながら、町の病院に入院したままの辻夫の様子を見舞いに行く毎日だ。その辻夫もじきに退院できると聞いている。神社の再建も大変だろうが、とにかく人さえ残っていれば後のことは何とかなるものだよ、と宗介は言う。
明日菜と藍は相変わらずだ。このふたりがいちばん、表向きは何も変わっていないように見える。実際は明日菜も藍も大変な目に遭っているのだが‥‥‥ともすれば、それが何でもないことだったようにすら思えてしまうくらい、そこに家庭があるということは人を安心させるものなのかと、自分自身に家庭らしい家庭が一度もあった例のない文乃はそんなことも考える。
何の奇蹟がどのように作用したものか、安曇学園の存続も決まっていた。それも、今までとこれからが何も変わっていないように見えること、のうちのひとつだ。英理子が堂島一派に何をされたかを文乃は知っているだけに、その笑顔を微妙に翳らせる何かの存在は痛々しくもあったが、それでも英理子が学校の存続を喜んでいることは疑うべくもない。
結局、学校は続いていく。だから文乃も生徒であり続け、瀬能英理子の教え子であり続ける。
そして、その後、は。
‥‥‥物思いに耽る文乃に、台所で火にかけられたままの薬缶が、お湯は沸いたと繰り返し告げていた。それが口から湯気を吹くようになって随分経った頃、我に返った文乃はようやく薬缶の火を止めに行き、ふと思い立って冷蔵庫を開ける。
文乃の予想に反して、覗き込んだ冷蔵庫にはほとんど何も入ってはいなかった。昨夜雨音が作った夕食は何だっただろうと考えた。確か、鍋物のようなものだった。もしかしたら中にあったものを全部放り込んでしまったのだろうか。
昨夜言っていた通りなら、宗介は確かあと数日は帰って来ない筈だ。
メモの通りなら、雨音も今夜は帰って来ない筈だ。
家事にかかる費用のために用意された蝦蟇口を台所の引き出しから取り出す。普通そういう買い物に幾らかかるものなのかは文乃にはわからなかったが、その文乃が見ても、これくらい入っていれば取り敢えず心配はないだろうと思うくらいの現金は入っていた。
ふたり分だけ用意すればいいということは‥‥‥少なくとも今晩はこの家に正士とふたりっきりだ、ということはあまり考えないようにして、微かに熱を持った頬を冷ますように首を振りながら、文乃は蝦蟇口を握り締めた。蝦蟇口の中で、お札がくしゃっと潰れる音がした。
それは突然、松倉商店へやってきた。
「いらっ‥‥‥しゃ」
そこまで言ったところで、凍ったように明日菜は止まってしまう。
「やっぱり、おかしいかしら?」
少し恥ずかしそうに文乃は言った。
「いえ、そんなことは。ただちょっと珍しかったから」
「そう。‥‥‥あの」
「はい?」
「教えて欲しいことがあるんだけど、その」
店の軒先で黙ったまま何か逡巡しているらしい文乃を不思議そうに見つめていた明日菜が、不意に、くすりと笑みをこぼした。
「やっぱり、おかしかったかしら?」
「ごめんなさい。そうじゃなくて、何だか‥‥‥違う人みたい、ってちょっと思っちゃって」
「‥‥‥そう」
憮然と横を向く仕種が、文乃にしては珍しく、あまり様になっていなかった。
「それで、教えて欲しいことって何ですか?」
「芳野さんが普段、ここでどんなものを買っているか」
「へ?」
「芳野さんは今晩はいないのよ。だから私が夕食を作らないといけないの。でも私、そういう料理とか、そのための買い物とか、やったことがないから」
「えーと‥‥‥」
明日菜は考え込む。
確か宗介とふたり暮らしの間は当番制だった筈だから、正士は料理ができる、ということを明日菜は知っている‥‥‥しかし、仮にも女の子に向かって、男の子にお料理をやってもらったら、とも言えなかった。
何より、文乃は自分で何とかするつもりで来たのだろう。格好ももしかしたらその決意の顕れかも知れない。そんな文乃に「お兄さんに作ってもらったらどうですか?」では、答えとしてはあんまりだ、と明日菜は思う。
「まあ、雨音お姉さんはお野菜とかお肉とか、普通に満遍なく買ってると思いますけど‥‥‥でもそんなことより、献立は考えてるんですよね? それに要るものを買って行けばいいんじゃないですか?」
「え? ‥‥‥ああ、そうね」
それを失念していたなんて明日菜にはとても言えないと文乃は思った。しかし、今の文乃を眺めていれば、それを失念していたくらいのことは明日菜でなくても一目で諒解しただろう。
それは突然、穂村神社へやってきた。
「‥‥‥どうしたのそんな格好して? もしかして文乃もそんなことするの?」
そんなに急いで石段を駆け上がる必要があるような用事なのかと訝しみはするものの、それにしては文乃の格好が妙なので‥‥‥肩で息をつく目の前の文乃について、どちらにポイントを置いて考えたものか、正直なところ、悠夏はこの時迷っていた。
「教えて欲しいことがあるんだけど」
努めて普段通りを装いながら、いつも通りのつまらなそうな口調で文乃は切り出す。
「何?」
「その、正士くんの好物、とか」
「はああ?」
大体いつも通りの文乃の口調だった割に、いきなり呟く言葉があまりにも尋常な文乃とかけ離れていたから、思わず悠夏は頓狂な声をあげた。
「だってそんなこと、正士に直接聞いたら? 一緒に住んでるんでしょ?」
「今日は町に用があるとかで、今はいないわ」
「じゃあ、雨音に聞いてみるとか」
「堀口さんのお産に立ち会うとかで、今日は多分、帰って来れないそうよ」
「‥‥‥えっ」
やはりあの一件で用心するようになったのだろう。堂島はもういないが、それでも宗介は、長く家を空ける時には辻夫にひとこと言い置くようになっていた。しかし、今はまだ辻夫は入院したままだから、今回の伝言の相手は辻夫でなく悠夏だった。
だから、悠夏は知っていた。仕事の都合で今日東京へ発った宗介は、あと数日は家へ戻らない。
ということは。
「じゃあ、今晩はふたりっきり?」
文乃は口に出して答えはしなかった。が、僅かに視線を逸らす仕種は、悠夏に答えを告げていた。
「ま、いいわ。無理矢理押しかけて行きたいところだけど、今日のところは譲っとく」
「?」
「あのね」
小さく首を捻る文乃の、心臓のあたりを指差す。
「私も雨音も、誰も正士のこと諦めてなんかないのよ? 今私が言ってること、ちゃんとわかってる?」
大袈裟に溜め息をついてみせる仕種。
「本当は私だって我慢なんか全然したくないけど、そろそろお父さんも退院して来るし、正直、他所に泊まり込みでそんな嫌がらせする暇もちょっとないと思うし。だから、正士の好きなものなんていっぱい知ってるけど教えてあげない。それくらいで勘弁してあげる‥‥‥ああ、嫌いなものだったら何でも聞いて」
文乃が望んでいたものとは微妙に異なるが、それ以外の情報は、どうやら悠夏からは得られそうになかった。
それは突然、道端の藍を追い越していった。
「あれ、雨音お姉ちゃん? ‥‥‥おーいっ! 雨音お姉ーちゃーんっ!」
雨音と勘違いした藍はそんなことを大声で言いながらぶんぶんと手を振った。
しかし、首を傾げつつも一拍遅れて振り返ったのが実は雨音でなく文乃だったと知ると、大きな目をさらに大きく見開いて、呆然とその場に立ち尽くす。
「あら、松倉さん? ちょうどいいところで会ったわ‥‥‥松倉さん?」
ぎこちない動作できこきことバックしながら文乃は藍に声をかける。反応はない。
「あ、ああ‥‥‥って、ねえ、文乃ちゃんもそういう格好好きなの? あ! せっかくだから写真撮ってあげよっか? 今だったらカメラ持ってるし」
意識が帰って来るなりまくしたてる藍を、
「結構よ。そんなことより」
すげなくあしらう文乃。あからさまに不満そうな藍を後目に、文乃は言葉を続ける。
「教えて欲しいことがあるんだけど」
「何?」
「えっと、それは」
そんな風に言い淀む文乃を、今まで藍は見たことがなかった。
「うーん。文乃ちゃん、なんか女の子っぽくなった?」
何やら、今日は誰に会ってもこんな反応ばかりだ。そろそろ文乃も慣れ始めている。
冷ややかに‥‥‥あくまでも、本人のつもりとしてはそういう感じで、藍を見下ろす。
「うえーん、文乃ちゃんがやっぱり文乃ちゃんだよー」
藍の嘘泣きにも動じない。
「教えて欲しいんだけど」
「何を?」
あっという間に泣き止む。文乃は蟀谷に手をやった。
「正士くんが『町へ行く』とだけ言った時、町のどこに用があるのか、がわかればいいんだけど」
「何も言ってなかったの? 町のどこへ行くとか」
「なかったわ。町へ行く、夕方には戻れると思う。それ以外は何も」
「それじゃちょっとわかんないなあ。あ、ひょっとして、町で知らない女の子と会ってたりして」
「えっ?」
藍はいたずらっぽく笑う。
「やだなあ、冗談だよ。真に受けちゃダメだよ」
しかし、確かなことが何ひとつないこの状況では、さしもの文乃であってさえ、真に受けないことは難しいのかも知れなかった。
途中で何度かバスと擦れ違った。少なくともそのうち一台は安曇村へ向かった筈だ。もしそれに正士くんが乗っていたとしたら、これから町へ向かったところで何の意味もないことになる。しかし、そうなってしまったのかどうかを確かめる方法はない。
こんな風に大慌てで町へ向かったからといって、大体、町のどこにいるのかわからない正士くんに会えるとは限らない。
よしんば町で会えたにしても、会えて、それでどうするのだろう? それにもしも、それこそ松倉さんが冗談めかして言ったように、例えば誰だかわからない他の女の子と仲よく手を繋いで歩いている正士くんなど見かけてしまった日には、その目の前で自分がどういう反応をするものかもわからない。
なのに。
どこでどうしてこうなったのか。
何故今、自分はこんなことになっているのか。
‥‥‥本当のことを言えば、そんなことはもう本人にもよくわかってはいない。
とにかく必死だった。車を使っても十分やそこらでは辿りきれない道の途上に文乃はいて、必死で自転車のペダルを踏み続ける。
雨音と共用の箪笥の中から無断で借りた黒いスカートと白いエプロンが、自分自身の巻き起こす風に煽られ、ばたばたと音をたててはためく。風を孕んで舞い上がる凧のように、長いスカートの裾が後ろに向かって靡く。もしかしたら、真後ろからこの自転車を見ると、割と恥ずかしいことになっているのかも知れない。だからといってスカートの裾を押さえる余裕も今の文乃にはない。
息が上がる。この服は自転車に向かない。近所に用足しに行く程度ならともかく、少なくとも自転車を全力で漕ぐことには向いていない。必死の形相の割には冷静な頭で淡々とそんなことを考えながらも、自転車は確実に、目指す町へと近づいていった。
向こうに駅舎と建設中の建物が見えてきた頃、安曇村へ向かう筈のバスがもう一台、文乃と擦れ違っていく。中に正士はいなかったように見えたが、隅々まで確認できたわけでもない。右手の甲で額の汗を拭い、ぎりっと歯を食い縛った文乃は‥‥‥急激な疲労が祟ったのか、とうとう小さく震え始めたその両足に、それでも、今まで以上の速さを要求することに決めた。
夕方、というほどでもないが、文乃が駅に着いた頃にはそろそろ日も傾きかけていた。
駅近辺に適当に停めた自転車に鍵をかけて、立ち上がろうとした文乃は急に膝を押さえてうずくまる。立って歩こうにも膝は情けなく笑うばかりで、一向に文乃の思い通りに動こうとはしない。
覚束ない足取りでよたよたと駅前の掲示板に寄りかかる。電車の時刻表が変わるとか、逃げ出した猫を探しているとか、硝子張りの掲示板の中に貼り出された雑多な情報の上に浮かんだ雲のように‥‥‥文乃は、その硝子の板に映り込んだ自分の姿を見つけた。前髪は完全に跳ね上がり、白いレースのついたカチューシャが頭の上で傾いている。何だか身を持ち崩した元メイドさんのようになってしまっただらしない格好は、エプロンを腰で纏める紐が緩んで、シルエットが身体に合っていないからだろうか。
文乃は左右をちらっと見やり、誰もいないことを確認すると、慌てて髪を直し、カチューシャを留め直す。
と、同時に。
「そのまま立っててね。締め直すから」
不意に背後に立った誰かによって、緩んでしまったエプロンの結び目がいきなり解かれた。
「‥‥‥っ!」
咄嗟のことに首だけ振り向くのが精一杯の文乃の前に立っていたのは、
「これでよし、と。できたよ‥‥‥どうしたの文乃ちゃん、こんなところまで来て」
こんなに必死で文乃が追いかけてきた、正士、だった。
「あ‥‥‥あっあっ‥‥‥」
結局何も言えないまま、向き直った文乃は力なく正士に寄りかかり、やがて、ずるずるとその場にへたり込んでしまう。
「大丈夫? ちょっと休む?」
「‥‥‥ええ‥‥‥ごめんなさい‥‥‥」
文乃が落ち着くまでに数分の時間を要した。正士はといえば、結局その間ずっと、自分の足元に縋りついた文乃をどうすることもできないまま、掲示板の目の前にただ立ち尽くしているしかなかった。
ようやく移動できるようになった文乃を、正士は近くのベンチに座らせる。
「で、どうしたの?」
「えっと、夕食の献立をどうしようかと思って。芳野さんに頼まれたから」
芳野さんに頼まれたから、のあたりをことさら強調するように文乃は言う。
「ああ。なんだ、無理しなくていいって書いといたのに」
「でも頼まれたから」
「そっか。じゃあ何を作ってくれるの?」
「何を作ったらいいかわからないから、聞きに来たの」
文乃はさっきからずっと俯いたままで、正士の顔を見ようとしない。
「もしかして、本当に献立聞きに来ただけ?」
「ん」
恥ずかしそうに頷く。
「そうなんだ。じゃあ、ついでだからこっちで夕食の買い物もして帰ろうか。ああ、それで、ここまではどうやって来たの?」
「自転車」
「じ‥‥‥」
信じられないものを見るように正士は文乃を見つめた。
「だって! 本当は松倉さんのお店で買い物なんて全部できるって思ってたけど、でも、でもいろいろあって!」
もう少しで泣き出してしまいそうな文乃の顔が‥‥‥今日になって初めて、まっすぐに正士を見つめていた。
「文乃ちゃんってさ、何ていうか、雰囲気変わったよね」
その頬に正士の指先が触れる。
「‥‥‥そうかしら?」
「うん。なんかわけのわからないこと沢山知ってるし、俺たちのこと避けてた感じもしたし、堂島が来ていろいろやってた頃はもっと近寄り難かった、っていうか。でも今はなんか‥‥‥ああ、女の子だなあ、って今は思う。おかしいかな?」
文乃が首を傾げる。
「みんな突然、今日になってそういうことを言い始めたんだけど、今まで私を何だと思っていたのかしら? それともやっぱり、格好が違うからかしら」
実際の話、それはあるかも知れない、と正士は思った‥‥‥制服姿でない文乃なんてきっと誰も見たことがなかったんじゃないか、という気もする。
「って、そういえば文乃ちゃん、どうしたのその格好は? それ雨音ちゃんがいつも着てる服だよね?」
「買い物に出ようと思ったんだけど、昨夜着てきた制服は煤だらけだったから、起きたらもう芳野さんに洗われてしまっていたの」
自分の服の袖口を他人の服のように物珍しげに摘みながら、文乃は言葉を続ける。
「借りた寝間着のままで買い物にも行けないし、箪笥を見たら、他の服はあんまりなかったけど、この服だけは何着か入っていたみたいだから、ちょっと借りたの」
‥‥‥なんでこんな服ばっかりそんなにいっぱいあるんだよ。何考えてんだ親父。正士は思わず頭を抱えた。
「私が変わったって、さっき正士くん言ったわよね‥‥‥本当に変わったとしたら、私、弱くなったんだと思う」
帰り道。今度は、自転車は正士が漕いでいる。その荷台に横に座った文乃が、正士の背中に抱きついていた。
走っても走っても、安曇村に近づいているような手応えがないのが辛い。自分が走ってこれなんだから、普段から特に鍛えているわけでもない女の子が安曇村から町まで自転車で走って来れば、そりゃあ確かに、膝が立たないくらいのことにはなるだろう。ようやく正士は、文乃のあの有様に合点がいったようだった。
「昨日の夕方、家を燃やしたわ。おじさまは簡単に私のことを信じてくれたけど、でも私、本当は家を燃やしてる間中ずっと、そこに飛び込もうかどうしようかで迷ってた。こんな自分なんか焼いてしまえばって、本当はずっと思ってた。だけど、家が全部灰になって、飛び込んでも死ねないようになるまで、とうとう私、あの火の中に飛び込むことはできなかった」
抱きついた文乃の腕に力が入る。
「出会わなければよかった。出会わなければずっと、ずっとあのままひとりで生きていけたのに、出会ってしまったばっかりに、私は私でなくなった。あの頃の私なら多分、あの火で自分を焼くことに躊躇いなど感じなかったのに、今はもう、そんな自分には戻れない」
「それって、よくないことなのかな?」
正士は呟く。
「文乃ちゃんがどう思ってるか知らないけど、俺たちは文乃ちゃんの力になりたいってみんな思ってるし‥‥‥そんなの文乃ちゃんだけじゃなくて、誰かに何かあればみんなでどうにかしたいなって、俺たちはずっとそういうのが普通だと思ってやってきたよ。誰も文乃ちゃんみたいに強くはなかったけど、でも今まで何とかやってきたし、これからも何とかやっていける。文乃ちゃんのことも支えていける。だから俺たちはさ、もっと文乃ちゃんに、俺たちを頼って欲しいんだ。弱くたっていいじゃない。誰かひとりが全部背負い込むことなんてないよ」
不意に正士の背中に顔を押しつけた文乃がそれきり何も言わなくなってしまったから‥‥‥小さく震える文乃の肩の動きに気づいてしまったから、正士もそれ以上は何も言わずに、ほんの少しだけ、走る速さを遅くした。
ようやく家に着いた頃にはすっかり日も暮れていた。家には明かりが点いていなかった。雨音はやはり、今日は帰って来られないのだろうか。
台所にふたり並んで立ち、買い物籠の中身を整理する。
「なんか俺たち、こうやってると新婚さんみたいだね」
その時の正士には、特に何か考えや企みがあったのではない。ただ単に、そう思ったからそう言っただけだ。が、何の脈絡もなしに突如そんなことを言われた文乃は、咄嗟にどうしていいかわからない。
文乃の手から零れた玉葱がごろんと流しに転がる音が、やけに大きく台所に響いた。同時に、文乃の寝室代わりに宛われた客間でも何やらがさがさと不審な音がしたが、不用意な発言に自分で赤面している正士には、そんな細かいことに注意を払う余裕はなかった。
図らずも、真っ赤になった顔を見合わせるふたり。
「‥‥‥えっと、文乃ちゃん、玉葱」
「え、ああ、そうね」
ぎこちなくそう言いながらふたりが同時に伸ばした手は、流しの中に転がった玉葱の上で不意に重なる。慌てて引っ込めた正士の赤い手がちょうど流しの縁に激突した。突然の痛みに顔を顰める。
「大丈夫?」
「あ、ああ。大丈夫。それより、支度しないと」
「そうね。でも、やっぱり今晩は私がやるから、正士くんはあっちで休んでいて」
「手伝わなくて大丈夫?」
「ええ」
「わかった。じゃあ俺、あっちでテレビ見てるから。でも何かあったら呼んで」
頷いた文乃を台所に置いて、正士は居間に戻る。
「出てきたら?」
居間からテレビの喋る声が聞こえてきたのを確認すると、文乃はおもむろにそう言った。
「いるのはわかってるのよ?」
文乃の背中の向こう、客間の中でごそごそと音がした。数秒で静まったその音に続いて、客間の襖が開き、悠夏と藍、一歩遅れて明日菜が姿を現わす。
「どうしてわかったの?」
「さっき音がしたから。それより穂村さん、邪魔はしないんじゃなかったの?」
「えっと、あの、だから私は止めたんですけど」
「でも明日菜だって、あのままだとお兄ちゃんは何食べることになるかわからないって心配してたでしょ?」
「それとこれとはちょっと違います。それに藍は覗きたかっただけでしょ?」
「そんなこと、もう何でもいいわ。後にしましょう」
額に手をやりながら文乃が呟く。
「それより私、これから夕食の支度しないといけないの。今晩は芳野さんもいないし‥‥‥あなたたち、勿論、手伝ってくれるのよね?」
三人は嬉しそうに頷いた。大体、文乃ひとりに任せっきりにできなくて様子を見に来た彼女たちなのだから、まさにそれは、望むところであったのだろう。
正士が居間に引っ込んでから、既に一時間余りが経過していた。
文乃ちゃんしかいない割には台所が賑やかだな、とは、正士も時折思いはした。しかし、台所の人口が知らないうちに四倍になっている、などと考える筈もなかった。
それは別に、殊更正士が鈍いのではない。
事実が突飛なのである。
‥‥‥かくして。
「お待たせー」
「は?」
結局テレビに気を取られていた正士は、突如台所からぞろぞろと現れる文乃以外の三人に絶句することになる。
「あれ? なんで? っていうか、いつからここに?」
「ずーっと前から。ええもう、全部拝見させていただきましたよ、はい」
ごすん。乱暴な手つきで大皿を卓袱台に置く悠夏。
「どなたとどなたが新婚さんみたいですって?」
「うっ‥‥‥それは」
「お兄ちゃん顔赤ーい!」
「その酔っ払ったみたいな絡み方はよしなさい」
どうやら文乃は普段の冷静さを取り戻したらしい。
「せっかく作ったのに、早く食べないと冷めるわよ」
「はーい。じゃあお兄ちゃん、乾杯の音頭を」
ふと見ると、卓袱台が埋まるほど並べられた皿や鉢の隙間で、藍と明日菜のものらしい、栓が抜かれたサイダーの瓶がもう用意されている。
すると、今悠夏が手に持っている一升瓶と徳利ひとつとおちょこ三つは一体、誰と誰と誰の?
「‥‥‥ちょっと待て。いつから宴会になったんだ?」
「まあまあ。細かいことは言いっこなしで。新婚さんみたいなことだし」
「大概根に持つわね穂村さんも。悔しかったらそれくらい、あなたも正士くんに言わせてごらんなさいな」
呑む前から微妙にできあがっているふたりが視線で派手な火花を散らす。たまたま間に挟まれてしまった明日菜が苦笑するが、流石にそれは正士にも救いようがない。
「いいやもう。何だか知らないけど、乾杯っ!」
『かんぱーいっ!』
唱和する少女たちの声が綺麗に重なる。そんな何気ないことが妙におかしくて、ついさっきまで視殺戦を展開していた悠夏と文乃までもが笑いあっていた。
その晩遅く、家に戻った雨音は、玄関にやたらたくさんの靴が並んでいることに気づく。
「私も着るのーっ!」
家の中で、誰かがそんなことを言う大きな声が聞こえてきた。この声は、悠夏だろうか。
「どうしたの?」
言いながら居間の襖を開けると、ちょうどその時、悠夏がばさっと緋袴を畳に落としたところだった。
赤面しつつも、ちゃっかりと見るところは見ている正士。手で顔を被ってしまっている明日菜。明日菜のような引き攣り笑いを浮かべ、眉間に指をやる文乃。我関せずとばかり、部屋の片隅ですーすーと寝息を立てる藍。
もちろん、見ただけで雨音にわかるわけがない。メイドさんの衣装で文乃が正士を誑かした、と思っている悠夏が、自分もその格好で正士に迫るために、衆人環視の中で着替えに踏み切った、などということは。
「雨音ー、お帰りーっ!」
「いいから何か着なさい穂村さん」
「だから交換! 文乃ー、その服貸してよー。私の袴も貸したげるからー」
事情が呑み込めていない割に、雨音の行動は迅速だった。とうとう上まで脱いでしまった下着丸出しの悠夏に、箪笥から出してきた黒のワンピースを被せる。手際よく袖に腕を通させ、背中のボタンを留めていく。後は悠夏が自分でエプロンとカチューシャを身に纏えば、通算三人めのメイドさんができあがる。
「えへへ。可愛いねー。こんなカッコで迫られたら、そりゃ正士もイチコロだよねー」
満足そうに頷くと、悠夏はおちょこを並々と満たした日本酒をくいっと呷る。
ちょうどその時、悠夏が脱ぎ捨てた巫女さんの装束に文乃がちょっと手を伸ばしかけて止めた仕種を、酔っ払いのくせに目敏い悠夏は見逃してはいなかった。悠夏の唇が笑う形に吊り上がり‥‥‥。
極めて小規模な乱痴気騒ぎはその後も果てなく続いたが、村は相変わらずの静謐の中にある。
そうしてその晩も‥‥‥ごく一部はともかくとして、安曇村の夜は平和に更けていくのだった。
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