「経歴には特に書いてありませんけど、履歴書が書けるくらいですから読み書きと計算は大丈夫ですよね? それだったらもう‥‥‥来てくれたので採用は間違いない、と思ってもらって構わないんですが」
名探偵の仰ることとはとても思えない大雑把さでそんなことを言いながら先生は髪を掻き回していました。
「一応ですね、えー、桧垣くんですか。桧垣くんにお願いしようと思っている仕事の内容は、この事務所の事務と経理、それから、何か依頼があれば調査です。何事もなければ毎日は来られなくても構いませんから、日本画の勉強もどうぞ続けてください。ああ、僕に勤まっていたくらいですから、事務も経理もきっと何とかなるでしょう。安心していいですよ」
「‥‥‥はあ」
何だか、だんだん不安になってきました。
何でしょうこの大雑把さは。
「それとこちらはランドルフ丸山くん。長いので蘭丸くんと呼んでいます。事務は彼もやりますから、一緒に頑張ってください」
先生の後ろに隠れるように立っていた綺麗な金髪の男の子が顔を出しました。
「らっ‥‥‥蘭丸です。よろしくお願いします」
「えっと、こちらこそ。桧垣千鶴です」
どこかぎこちなく、私たちは握手をしました。
「さて、挨拶も一通り済んだところで」
「ひ‥‥‥一通り、ですか?」
「そうですけど?」
「他の所員の方はどちらにいらっしゃるんですか?」
「いや、ここにいるので全部ですが」
「えっと、御神楽探偵事務所、ですよねえ?」
「ええ。間違いありませんよ」
そこで、先生はふっと笑いました。
「帝都に名立たるあの御神楽探偵事務所が、まさかこんな零細事務所だったとは予想外、ですか?」
「うっ‥‥‥はい。すみません」
「はっはっはっ、正直でいいですねえ」
‥‥‥なんて大雑把なんだろう。
それが、当代きっての名探偵と噂される御神楽時人先生、そしてその事務所を見ての、私の第一印象でした。
「それで先程の話の続きなんですが。何か不安なようですし、僕ももう少し掴んでおきたいので、ひとつ簡単な試験をしましょう。あ、これは落第させるための試験ではないですから、別に不合格だからお断りする、とかいうことはありません。心配しなくていいですよ。僕は所長室で準備をします。蘭丸くんと桧垣くんはこの部屋で待っていてください。後でひとりずつ呼びますから」
「え? 先生、僕もですか?」
蘭丸くんが聞き返しました。
「ええ。まあ、ついでですから」
「はあ‥‥‥」
言うだけ言うと、隣の部屋へ続くドアが閉まりました。
「僕を試してどうするんでしょう?」
蘭丸くんが首を捻っています。
心底、不思議そうです。
‥‥‥やがて、
「では、ええと、先に蘭丸くんにしましょうか。こちらへ入ってきてください」
扉の向こうから顔だけ出した先生に呼ばれて蘭丸くんが所長室へ消えてしまい、今度こそ、私はひとり取り残されてしまったのでした。
「お待たせしました。では桧垣くん、入ってください」
もう一度扉が開いて先生が顔を出すまで、暇を持て余していた私は近くにあった新聞を読んでいました。
「あれ? 蘭丸くんはまだ中にいるんですか?」
「彼には別の扉から廊下に出てもらいました」
言いながら、先生は私を所長室に招き入れました。
「‥‥‥」
所長室というか、予備の事務所のような部屋でした。大体、事務所の方にも先生の机があるんですから、もしかしたらこの部屋は普段ほとんど使われていないのかも知れません。
そして、部屋の真ん中に設えられた応接机の上には、何かの裏紙と鉛筆が置いてありました。
「そこに掛けてください」
言われるままにソファに腰を降ろすと、先生が、応接机に林檎をひとつ置きました。
「先に説明をしましょう。桧垣くんは、この林檎に触れてはいけません。それと、質問は一回までです。いいですか? それでは桧垣くん、この林檎の裏側の絵を描いてみてください」
え? ‥‥‥裏側?
「あの、それが試験の問題‥‥‥あ」
思わず、自分の口を押さえました。そんなわかりきったことで質問を使ってしまってはいけないと、口に出してから気づいたのでは遅すぎるのですけど。
「ええ。この林檎の裏側を絵に描いてください。これが試験の問題です。まあ、これは質問には数えないことにしますから安心してください」
「すみません。ありがとうございます」
胸を撫で下ろしたところで、私は鉛筆を手に取り、林檎を見つめました。先生は私の正面で、そんな私をにこにこしながら見ています。
裏側。裏側といえば、先生から見えている側が裏側。ということは、私はこの林檎に手を触れてはいけないのですから、私が先生の方へ動かないと絵には描けません。
‥‥‥本当に、それが「裏側」でいいのでしょうか? 私は迷いました。迷いましたが、ではどういう質問をすればいいのでしょうか。まさか、裏とはどこのことですか、とも聞けません。
「あの、質問ですが」
「はい」
「私が移動するのは構わないんでしょうか?」
「ええ。構いませんよ。あ、ここへ来ますか?」
「ええ」
「わかりました」
先生は立ち上がりました。代わりに私がそこへ腰掛けると、そこから見える林檎は、上側が半分だけ切り取られ、中身が見えています。私は紙を手に取りました。
蘭丸くんを連れて事務所に戻ると、二枚の紙を眺めながら、先生は何か考え込んでいました。
「はい。お疲れさまでした。では結果の発表です」
そう言って先生は、応接机に二枚の紙を並べ、ソファに座るように促しました。
「え‥‥‥」
「これは‥‥‥」
私と蘭丸くんは、両方の絵を見比べて絶句しました。
蘭丸くんの絵は、大きな円の上に小さい四角をひとつ重ねたような絵でした。絵、というよりは、丸と四角でできた記号のような。そして私の、上半分だけ切り取られた林檎を前から見た絵。
全然、描いているものが違う。
そういう風にしか見えないのです。
「流石に日本画の勉強をしているだけあって、絵の腕前は確かですね。しかしまあ、今回の試験では絵が上手かどうかを試しているわけではありませんので、それはそれとして‥‥‥では、問題について考えてみましょう」
机の隅に置いてあった林檎を真ん中に置いて、先生は話を続けます。
「桧垣くんにも蘭丸くんにもこういう風に見えるように、僕は林檎を机に置きました。さて桧垣くん、『林檎の裏側』とは、どこのことだと考えましたか?」
「私から見えない面です。つまり、表と裏しかないのですから、林檎が置かれた時に先生の方を向いていた面、のことです」
「はい。これですね」
先生が林檎をくるりと回すと、さっきの、上半分だけ切り取られた面がこちらを向きます。
少し驚いたような顔で、蘭丸くんが林檎を見つめました。
「質問するまで随分悩んでいたようですが、その時に考えていたことを話してみてください」
「あの、本当は、それが本当に『裏側』のことなのかどうか、自信はなかったんです。確かに私から見たらそれが裏側ですけど、例えば先生から見て裏側に当たるのは、もともと私の方に見えていた面ですから」
「ええ」
「ですけど、問題の中では、誰の、とは仰らなかったので、それは私のことだろうと考えました。それで、『私が移動するのは構わないんでしょうか』と質問をしました」
「そうでしたね。では、次に蘭丸くん」
次に先生は蘭丸くんに話を促しました。
「はい。あの‥‥‥本当に僕、何のことだか全然わからなかったんで、その‥‥‥誰から見たらどこが裏とか、そういうこと全然考えなくて、それでその、ぱっと聞いちゃったんです」
「何と聞きましたか?」
蘭丸くんは恥ずかしそうに俯いてしまいました。
「蘭丸くんがそこで何を聞いたか。この問題は、それが大切なんですよ」
「はい‥‥‥えっと‥‥‥『どれが裏ですか?』です」
「はい。どれが裏ですか、と蘭丸くんに聞かれたので、僕は、林檎をこうしました」
そこで先生は、林檎の‥‥‥左右でなく、上下をひっくり返したのです。
「あっ」
思わず、私は声を漏らしました。林檎の底に当たる部分は真ん中が四角く刳り貫かれていました。
もしこれが、蘭丸くんが描いたものだとしたら。
「桧垣くんにはわかったようですね」
「はい。正解したのは、私ではなく、蘭丸くんですね?」
「蘭丸くんは『何もわからないから』と言いましたが、わからないように問題を作ったのですから当たり前です。そして、探偵のためにわかりやすく事情が整理された事件、などというものは起こり得ません。つまり、今体験したように、どんな事件も最初は『何もわからない』んです。では、そんな事件を前にして、僕らが最初にするべきことは何なのか。桧垣くん、もうわかりますね?」
「はい。何がわかれば正解に辿り着けるのか、それを理解することです」
「その通りです。今回桧垣くんは、僕の意図する『林檎の裏側』がどれのことだかわからないまま‥‥‥そう、どこへ向かって走ればいいのかを確かめないまま、自分だけの推測に従って走ってしまいました。逆に蘭丸くんは、『何もわからない』という事実に素直であったために、走り始める前に到着すべき地点を確かめることができました。恥ずかしがることはありませんよ蘭丸くん。その質問こそ、正解への最短距離だったんですから」
狐に摘まれたような蘭丸くんに、先生はもう一度頷いてみせたのでした。
「さ、こんなところで試験はおしまいにして。桧垣くんはこの後は、時間はありますか?」
「はい? ええ、大丈夫ですけど」
「それではちょっとお茶の時間にしませんか? この間、この近くにカフェーができたんですよ。まあ一日目で何もしていないのにお祝いというのも何ですが、桧垣くんの入所祝いということで」
「え? 入所って、いいんですか?」
「何がですか?」
「えっと、今、試験に落ちたと思うんですけど」
「だから言っているじゃないですか、落とすための試験じゃありませんって。あなたは採用です。それとも、不採用の方がいいですか?」
「‥‥‥いえ、それは、採用していただけた方が」
「では決まりです。さ、行きますよ」
当たり前のように、先生は私の手を取りました。
こうして私は御神楽探偵事務所の助手になったのです。
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