風景  


  

「意外と、事件って起こらないんですのね‥‥‥あ、ありがとう」
 蘭丸が差し出した湯呑みを受け取りながら、滋乃はそう呟いて首を捻った。
「もっとこう、ひっきりなしに何か起きているようなのを想像してましたのに」
「普段は大体こんなものですよ」
「でもこちらは、天下の名探偵、御神楽時人様の事務所なのでしょう?」
「それはそうですけど、別に先生が事件起こしてるわけじゃないですし。それに」
 熱そうなお茶を啜りながら蘭丸は笑った。
「警察や探偵が暇を持て余すのは、僕はいいことだと思いますよ?」



 ‥‥‥久御山滋乃が助手としてこの事務所に迎えられ、「逸島邸連続殺人事件」、所謂「幽鬼郎」事件が解決してから一週間ほど経った。
 その間滋乃が何をしていたかというと、実は、何もしていない。
 巴はカフェー「山茶花」の女給と兼業、千鶴も日本画の勉強と、それぞれに本業といえるものがあって、毎日事務所に入り浸ってもいられない。そこで、差し当たって滋乃に要求された役どころはといえば、受付嬢の当番ローテーションに加わることだった。探偵事務所からしてみればそれも立派な業務なのだが、探偵の仕事は事件を解決することだと思っている滋乃に言わせれば、それは何もしていないのと同義に過ぎない。
 そして。‥‥‥滋乃は入所してから知ったのだが、御神楽探偵事務所は、警察が音を上げるような難事件の解決で令名を馳せた名探偵・御神楽時人が所長、だった。
 探偵に頼りたい客の方に「こんな普通の捜査は引き受けてくれないのではないか」という妙な遠慮や「有名な探偵だから調査費用が高そうだ」という勝手な先入観があるらしく、浮気調査だの家出した子供の捜索だのといった普通の依頼はほとんど入って来なくなっていた。というわけで、この一週間、滋乃が受付嬢として相手をするべきお客様でさえ、結局ひとりも事務所にはいらっしゃらなかったのだ。
 まるで入所の手土産のように難事件を持ってきた滋乃は、御神楽探偵事務所の寧日を知る前に、事件解決へ奔走する日々を知ってしまっていた。この一週間、働いている気がしないのも無理はなかったかも知れない。
『まったく、事件解決に協力して仕事が減るんではたまりませんよ本当に。いっそこの事務所ごと、警察の方で雇ってもらえませんかねえ』
 いつだったか、時人がぼやいていたのを思い出した。意外に極楽蜻蛉なところのある時人がそんなことを呟きながら頭を抱えるくらいだから、令名も善し悪し、ということなのだろう。
 ただし、この問題には別の見方もあったようだ。
『そんなこと言って先生、この間旦那さんの素行調査を依頼しに来た人を追い返しちゃったじゃないですか。警察からの依頼で極秘の捜査に参加してて手が離せないんですぅ〜とか何とか言っちゃって、結局昆虫大百科眺めてただけのくせに』
『そうですよ。普通のお仕事もとっていただかないと、また家賃が払えなかったら美和さんにご迷惑ですよ?』
 とは、それぞれ巴と千鶴の言い分だった。蛇に睨まれた蛙のように頭を抱えたまましおしおと小さくなる時人の仕種に、奥で蘭丸が吹き出していた。
 目の前の風景にどう参加しようか。あの時の滋乃は、頬杖を突いた姿勢のまま、ただずっとそれを眺めていた。
 事件の間は必死だったから気にならなかったが、平和な日々に身を浸すと、ここには自分がいなかった風景がもともとあって、自分は後からそこに割り込んだ異邦人なのだ、という思いが強くなる。



「久御山くん、お茶が冷めますよ」
「え?」
 遠くを見つめていた滋乃の意識が不意に現実へ引き戻される。
 注がれたお茶よりも、ずっと熱い湯呑みを持っていた手のひらの方が熱を持っていたことに、今頃になって滋乃は気づいた。
「‥‥‥あら‥‥‥あっ‥‥‥あちちっ」
 慌てて耳たぶに手をやる。
「暇そうですね」
「ええ。って、時人様? いつからここに?」
 いつの間にか、目の前に時人の顔がある。
「まあ、さっきからですが。それより久御山くん、何か悩んでいるのではありませんか?」
「いえ、そんなことはありませんわよ」
 微笑んでみせる。
「そうですか。それならいいんですが」
 ソファに座り直した時人は煙草に火をつける。
 滋乃が少し、顔を顰める。
「あ、煙草は嫌いでしたっけ?」
 点いたばかりの火を揉み消そうとする。
「いえ、構いませんわ‥‥‥あの」
「何です?」
「私にばかり、そんなに気を使っていただかなくても構いませんわ。私も所員ですから」
「でも本当は、あまり好きではないでしょう?」
「そうでもありませんわよ」
「そうですか? では」
 時人は、揉み消す寸前で手を止めた煙草を再び口に銜えてみせる。



「何も考えていない、と思いますか?」
 煙を吐きながら、時人はそんなことを言い出した。
「何がですの?」
「君を所員として迎えたことについて、です」
「‥‥‥どうして、そう思われるのですか?」
「もしも今、久御山くんが何か悩んでいるとしたら、まあ、そんなことだろうなと思ったものですから。幽鬼郎の件以来、結局何も起こっていないですし」
「悩んでいるように見えますの?」
「悩んでいるようにしか見えませんね」
 滋乃はがっくりと項垂れた。
「やっぱり、そう見えるんですのね‥‥‥私、嘘つきには向いていないみたいですわ」
 淹れ直したお茶を滋乃の前に出しながら、蘭丸は笑いを堪えるのに苦労していた。
 向いていないどころではない。何か思い悩んでいることくらい、蘭丸にすらお見通しだった。
「この際ですからお伺いしますが、時人様はどうして‥‥‥どうして、私を所員になさったんですの?」
「必要だからですよ」
「あの、ですから、どうして必要なんですの?」
「どうしてだと思います?」
「それがわかればこんなことで悩んだりしませんわ‥‥‥こう言っては何ですけれど、久御山子爵の娘が探偵事務所なんかに入って、凶悪事件の捜査に駆り出されて、例えば怪我のひとつもした日には、それこそその咎だけで事務所がお取り潰しになるかも知れない、くらいの危険があるかも知れません。実際には、私がここで働くことはお父様にもお話しましたから、そんな細かいことでいちいち何か仰ったりはしないでしょうけれど、でも」
 項垂れたまま、滋乃は話を続けた。
「それでいて、私を雇い入れたことによって時人様が得るものといえば、世間知らずの小娘ひとりでしょう? 正直、割りが合わないと思いますわ」
 時人と目を合わせたくなかった。次に顔を上げたら、時人が冷たい瞳で自分を見下ろしているのではないか。目が合ったらすぐにも「君は要りません」と言われてしまうのではないか。それが恐くて、滋乃は項垂れたまま顔を上げることができなかった。
「ふむ。そうですね‥‥‥」
 一瞬の沈黙。まるで苦痛に耐えてでもいるかのように、滋乃は固く目を瞑った。
「では最初に、久御山くんの言う『危険』について話しましょう。久御山くん以外に、僕の事務所では三名をお預かりしています。彼女たちにだってそれぞれの家族があるわけですし、久御山くんだから怪我をさせてはいけない‥‥‥逆に言えば、他の所員は危険に晒してもいい、ということはありません。それから、何かあった時に非難したがるのも久御山家だけではありません。怪我をしたのが誰であれ、世の中が許しはしないでしょう。また、それによって、同僚をそんな危険な目に遭わせるような職場には置いておけない、と久御山子爵は思い直すかも知れません。君でなくても」
 噛んで含めるように時人は話す。
「わかりますか? 結局のところ、久御山くんは、自分で思っているほど特別ではないのです」
 特別でない。そんなことを言われたのは初めてだった。思わず滋乃は顔を上げる。
「それでは尚更、私のようなものが助手になれる理由がわかりませんわ」
「あー‥‥‥最初は直感です。根拠は聞かないでください。久御山くんが入所したいと言ってきた時、君を見てすぐに僕は思いました。これで揃った、と」
「揃った、ですの?」
「そう思ったんです。ええと、人間には個性というものがあってですね。幽鬼郎の件を捜査していて思ったのですが、久御山くんとはつまり、押せないものを押せる人でした。同様に、鹿瀬くんは押せるものを強く押すことができる人、桧垣くんは押せないものを引っ張ることができる人です、というのは後づけの理由ですが。それから、鹿瀬くんが角度を変えようとする、久御山くんは敢えて角度を変えないでいようとする、どちらが有効かは桧垣くんが判断する、という分担もあるようでしたね」
「‥‥‥はあ」
「わかりますか? 要らない人はここにはいません。もう久御山くんには、久御山くんにしかできない役割がちゃんとあるんです」
 時人は、笑っていた。
 優しい微笑みだった。



 がちゃん。突然ドアが開いて、巴と千鶴が顔を出した。
「こんにちはー。先生、お仕事あった?」
「いえ。今日も何もなしですね」
 頭を掻きながら時人は答える。
「あら‥‥‥困りましたねえ」
 千鶴は心底困った顔をしている。
「今度ビラでも撒こうか? 御用聞きするとか」
「そうですね。何か考えた方がいいかも知れません」
「あ。ねえねえ、街頭にポスター貼るなんてどう? 警部に言って警察署の掲示板とかにも貼ってもらえれば」
「ああ、いいかも知れませんね。自分で作ればそんなにお金もかかりませんし、洋画家さんにも知り合いは沢山いますから、それくらいならどうにかなりますよ」
「ついでだから何か目を引きそうな‥‥‥そうだ、『調査は美女が致します』とか何とか適当に書いちゃってさ」
「それじゃ詐欺ですわよ」
「なぁぁんですってぇぇ?」
 瞬間的に沸騰する巴に、
「いーえぇ。何でもありませんことよ、おほほっ」
 口元に手を当て、明後日の方角を見つめながら、わざとらしく滋乃は言い返してみせる。
「そんなこと言ったって、お金ないのは本当なんだから。多少その、まあアレでも」
「何がアレですの?」
「うるさいわね。だったら、久御山さんも明日からちゃんと御用聞きしてよね?」
「でも、御用聞きする帝都の名探偵、なんて聞いたことありませんわよ?」
「食い詰めた帝都の名探偵、だって聞いたことないわよ」
 例によって塩を振られた蛞蝓のように小さくなる時人本人をよそに、滋乃と巴が睨み合う。
 ‥‥‥それが、この事務所でこれからずっと続いていく、新しい風景の始まる瞬間だったのだろう。

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