Spiral Lovers[ver.1.11]  


  

 誰もいない真夜中の公園から、さっき抜け出した自分の家よりももっと遠いところへ。
 幾つも幾つも角を曲がるうち、小さな影ひとつくらい造作もなく飲み込んでしまうような、あの山のような大きな影はだんだん近くに見えてくる。
 雑草を踏み分けながら、朽ちかけたトタンの壁に空いた穴を潜り抜けると、すぐにその建物の足元に出る。青白い月の光に輪郭だけがぼうっと浮かび上がる。壁と空の境目を象った光は、見上げるだけで首が痛くなるくらい遠い。
 あれは、今いる地面から、どれくらい離れているのだろう。首を傾げる。答えはわからない。
 建物の正面にまわる。鍵が開いたままの玄関の扉をそっと開く。自分ひとりがどうにか通れるくらいの隙間から、その建物へと忍び込む。
 壁の上の方にいくつか取りつけられた窓から光は淡く射していて、床を踏んだ足の形に切り抜かれていく埃をぼんやりと映し出す。無闇に広い床から天井に目をやれば、夜の空よりも暗い屋根から大きな槍が降るように、錆びた柱が床に向かって何本も何本も伸びている。うっすらと赤茶けたその柱に恐る恐る触れてみると、人差し指の先に赤く色が残った。まるで今にも、がりがりと物凄い音をたてながら崩れ落ちていきそうな古びた柱の林の中で、ただそこに立っている、それだけのことさえも、恐い、と感じることもある。
 それでも歯を食い縛って、その部屋のずっと奥へ、いちばん高くから月明かりの差し込む場所へ、足音を気にしながら、そっと、そっと歩いていく。
 目指したものは、天窓から差し込む光をまっすぐに浴びながら、夜よりも暗いこの世界の中ではいちばん明るい光の中にある。見上げるだけでひっくり返りそうになるほどの高さまで、それは続いていく。
 どんなに目を凝らしても果てが見えないそれを、大人たちが螺旋階段と呼ぶことさえも知らないまま、俺はそれをじっと見つめている。
 そして。
 子供が掴むことなんて全然考えていないその高い手摺りを必死になって自分の手で掴み、錆びた手摺りの色で両手を真っ赤にしながら、その長い階段を、



 ‥‥‥突然がばっと身を起こした俺は、身を起こしてから、ここがあの階段でないことに気づく。
 見回してみればわかる。どう見ても自分の部屋だ。
 ぼんやりしたままの頭を窓に向ける。どう見ても自分の部屋の窓だ。
 カーテンの隙間から差し込む弱々しい光は、あれは月明かりだろう。まだ真夜中だ。
 今まで何を見ていたのかを思い出すと、何だかとても首が痺れているような気がしてくる。ふと気になって目の前に並べた両手は、別に真っ赤でもないし、あの錆びた鉄の匂いが染みついているわけでもなかった。
「うー‥‥‥」
 呻き声を洩らしながら見当で適当にごそごそ動かしていた左手が、冷たい金属の感触に行き当たる。手に取った目覚まし時計の文字盤は二時くらいを指している。
「ちっ」
 思わず舌打ちが漏れる。真夜中もいいところだ。
 一旦目が冴えるとダメで、しばらくは眠れそうにない。こういう、寝よう寝ようと思っている時に無理に目蓋を閉じようとすると嫌なことばかり思い出して余計眠れなくなる。‥‥‥来年の春には大学卒業だってのにこんな時期まで就職先が決まってないとか、こういう時に思い当たる節がやたらあるのも腹立たしい。
 気がつくと俺は、机を見つめている。
 あの引き出しのいちばん奥には、だからまだ存在しない筈のものが、もう随分前から隠してある。こんなに長い間、隠したままにしておくつもりじゃなかったのに。
 あかりのことを思うと‥‥‥恐らくはそれさえも笑って赦そうとするだろうあかりのことを思うと、届かない自分がひどく小さく思えて、苛立ちに任せて自分の胸から心臓を掻き出してしまいたくなったりする。
 ‥‥‥ひとりだけで滅入ってもしょうがない。
 気晴らしに、コンビニにでも行ってくるか。
 布団から出るのが辛い季節がもう来ている。気合を入れて掛け布団をばっと上げ、俺は椅子にかかっていた半纏を手に取った。パジャマ替わりのスウェットのポケットに財布と鍵だけ捻じ込んで、相変わらず誰もいない家の中をそれでも音を立てないように歩く。
 ばたん。
 玄関を閉める扉の音がやけに大きかったような気がして、思わずあたりを見回してしまった。別に誰かが起き出した様子もない。気を取り直して玄関口を後にする。
 寒い寒いとは思っていたが、外に出て吐いた息の白さに改めて驚く。
 見上げると、雲ひとつない空に、幾つもの星と、真っ白い月が浮かんでいた。



 近くのコンビニといっても、真面目に道を歩いたら距離は結構ある。が、公園の真ん中を横切っていけば、ほとんど三分の一くらいの距離に減る。
 というわけで、いつものように真っ暗い公園に踏み込む、と‥‥‥何か不思議なものを見るような目で、何故か、あかりが俺のいる方を見つめていた。
「浩之ちゃん? ‥‥‥浩之ちゃんも眠れないの?」
 言いながら小走りに駆け寄ってくる。
「ああ。まあ、な」
「そうなんだ。‥‥‥別に今夜のことなんて何にも約束とかしてないのにね。こういうことってあるんだ」
 そりゃ、二十何年も近所に住んでりゃこういうことの一度や二度はあるだろう。
「えっと、二度目じゃないか?」
「‥‥‥ああ。そうだね、確か」
「でもあの時は別にここで会ったわけじゃなかったな」
「私はここで浩之ちゃん見つけたんだもん。一緒‥‥‥くしゅんっ」
 くしゃみなんかしている。本当に大丈夫なんだろうか。
「寒いんじゃないのか?」
「大丈夫だよ。一枚着てきたし」
 パジャマの上から羽織ったカーディガンの袖がひらひら揺れた。ボタンを留めてないカーディガンの隙間には、パジャマにプリントされたファンシーな熊が‥‥‥ってこいつ、彼氏ができても結局このまんまだったんだな、そういえば。
「相変わらず熊だな」
「可愛いでしょ」
「そんな柄のパジャマ見たことなかったと思うけど」
「この間、買っちゃった」
 いかにも嬉しそうにあかりが微笑む。
「あかりにオトコのひとりもできれば、その熊はいなくなるかと思ってたんだが」
「浩之ちゃん、くま嫌い?」
 あかりが急に上目づかいの不安そうな顔をするから、俺は苦笑いするしかなかった。‥‥‥あかりを熊好きにした俺の責任、なんていうことには別にこだわりはないけど、あかりを熊好きにした俺が結局そのオトコだったんじゃもう、今更そんなこと言ったってしょうがない。
「あのな。恐る恐る聞くなよそういうことを。俺、ダメだなんて言ってないだろ?」
「うん。だから、浩之ちゃんが大丈夫なら、くまはいなくならなくても大丈夫なんだよ」
 自信を取り戻したのか、にこにこしながらあかりは目の前でくるっと回ってみせる。ふわり‥‥‥カーディガンの裾と袖、肩の線よりも大分下のところで簡単にひとつに纏めただけのあかりの髪が、それぞれに大きさの違う円を綺麗に描いた。
「可愛いと思うんだけどな、くま」
 何というか‥‥‥どうでもいいんだが、俺が「熊」って言うのと、あかりが「くま」って言うのの間には、微妙だが決定的なニュアンスの違いがあるような気がする。気がついたのは、確か、高校生くらいの時だったか。
「どうしたの?」
「いや何でもない。ちょっと思い出して」
「何を?」
 あかりが首を傾げる。
「いや、大したことじゃないんだけど」
「ふうん‥‥‥そうだ。ねえ、今から行ってみない?」
「どこへ?」
「あの時の場所。えっと今度は、あの時私は行けなかった場所。ほら、今夜も月が綺麗だから」
 頭の中に浮かびあがる景色は、月の大きな夜。影だけでできたような、夜よりも暗い建物のシルエット。
 それじゃまるで、さっきまで見てた夢の続きだけど。
「あの時? あの時ってお前、もしかして」
「うん。前の時に行ったところ」
 ‥‥‥そういうことってあるんだな、と思う。口に出したらさっきのあかりみたいだから何も言わなかったが。
「お前あの時は行きたがらなかっただろ?」
 別に俺が行きたくないわけじゃないんだが、一応、抵抗はしてみる。
「それにお前、こんな遅くにあんなとこほっつき歩いて、明日仕事は大丈夫なのか?」
 四年制の大学は卒業するのに四年かかるから俺や雅史はまだ学生だが、同時に短大生になったあかりはもう卒業していて、今年は保母になってから二年目だ。大学の四年なんて授業はないに等しいから俺は別にいいけど、あかりが寝坊するのはまずいだろう。それは、抵抗というよりも、常識とかそっちの話のような気がした。
「うーん、わかんない、かな。でも多分、今夜は大丈夫だよ。浩之ちゃんがいるから」
 笑いながらあかりが答える。
「だから、今度はちゃんと、私をあそこまで連れてって」
 いろいろと抵抗してみた結果、あかりはもう本当に行く気でいることが判明した。
「しょうがねえなあ。泣き出しても面倒見ねえからな」
「ふふっ」
「‥‥‥どうしてそこであかりが笑う?」
「何でもないよ。さ、行こう?」
 あかりが俺の手をとって歩こうとする。
 何気なく、そのあかりの左手を見つめる。
「えっと‥‥‥私の手、何かついてる?」
 気になっているのは、何かがついていることじゃなくて、何もついていないことなんだけど。
 ‥‥‥まだ俺は、躊躇っている。
「どうしたの浩之ちゃん?」
「ちょっと待て」
 言ったのはいいが、本当は別に、今日渡そうと決められたわけじゃなかった。
「え? どうしたの?」
「いいから。すぐ戻ってくるから、悪いけどちょっとここで待っててくれ」
 家に飛び込み、ばたばたと自分の部屋まで駆け上がった俺は、机の引き出しのいちばん奥から紙袋をひとつ取り出す。何度も中身を確認して、それを鞄に‥‥‥しまおうかどうしようかでまた随分考え込んだ後、結局それを持って行くことにして、鞄を担いでまた外へ。
「悪い。待たせた。じゃあ行くか」
「どうしたの、その鞄?」
「気にするな。ほれ、行くぞ」
 鞄を担いでない方の手を、俺はあかりに差し出す。



 ‥‥‥最初から、あかりにそれを見せたいと思ってたわけじゃない。
 あの時は、寝つけなくて家を抜け出したあかりが公園にいた時に、たまたま走っていく俺を見つけて、勝手に追っかけて来てたらしい。そりゃ追っかけて来てるだなんて全然知らなかったあかりが、俺が階段登ろうと思ったら突然後ろで泣きだすんだから驚きもする。
 だから、最初からそういうつもりだったわけじゃなかったけど、でもせっかくだから、あの階段の上をあかりにも見せてやろうと俺はその時思った。
 けど、大概のことでは首を横に振らないあかりが初めて、その奥へ踏み込むことを拒んだ。そこから先へは絶対に行こうとしなかった。
 しょうがないからその晩は階段を昇ることは諦めて、泣き止んだあかりと一緒に帰った。‥‥‥そうか。
「また何か思い出したの?」
 突然、あかりが俺に声をかける。
「え? ああ。『しょうがねえなあ』が口癖になってるって、前にあかり、俺に言ったろ」
「うん」
「俺、あの時初めて『しょうがねえなあ』ってあかりに言ったんだと思う。もう、口癖になっちゃって何年経つのかよくわかんないけど」
「あ、そうかも知れない。公園でかくれんぼしたの、それより後だよね?」
「そうだな」
「懐かしいね‥‥‥」
 ‥‥‥いろいろ喋りながら、あかりに合わせてゆっくり歩いているつもりだったのに、それでも、思っていたより随分早く、俺たちはあの建物の前に立っていた。
 小学生だったあの頃、家からここまでの道程はもっとずっと遠かったような憶えがある。
「多分俺たち、今、同じこと考えてるな」
「そう?」
 誰から聞いたのかはよく憶えてないが、中学に上がったくらいの時に聞いた話では、この建物は昔は何かの工場だったらしい。でも俺たちが小学生だった頃には既に廃墟だったわけだから、もう十年くらいはずっと、廃墟のままここにこうして建っていることになる。
「こんなに長い間放ったらかされてるのに、なんで取り壊されてないのかは不思議だよな。‥‥‥違うか?」
「当たり。‥‥‥うん。本当、そう思う。これ壊してマンションとかにしちゃおうとか、誰かひとりくらい考えそうなのに」
 本当に同じだ。顔を見合わせて俺たちは笑った。
 手を繋いだまま、俺たちはその建物の横にまわる。トタンの壁に空いた穴はあの時よりも大分拡がったように見える気がするが、でもそれは「小学生ならどうにか潜れる穴」が「小学生なら余裕で潜れる穴」になったってだけで、今の俺たちがここを通って中へ行けるほどの大穴じゃなかった。
「通れないね」
 残念そうにあかりは言う。
 だがしかし。
「いや、ここ通るのが昔のルートだったから来てみただけで、入口がここしかないわけじゃないから大丈夫だ」
「え、そうなの?」
「ああ。例えばあの正面の格子、あれ実はな、昔っから全然鍵なんてかかってないんだ」
「えええ? じゃあ浩之ちゃん、なんであの時わざわざ、こんな小さい穴から中に入ってたの?」
「その方が悪いことしてる気がするだろ」
「何それ‥‥‥もう、浩之ちゃんってば」
 あかりは、しょうがないなあ、という顔をする。
「しょうがないのはお前も一緒だ」
 本当にしょうがないとでも思っていたんだろう。言われた言葉にちょっと驚いたような顔でこっちを見たあかりの手を引いて、俺は正面に戻る。
 門の鉄格子は一見鍵がかかっているようだが実は全然そんなことはない。手で押すと手が汚れるから足で蹴る。格子はぎいいっと小さな悲鳴を上げて奥へ開いていった。
「本当だ」
「嘘だと思ってたのか?」
「そうじゃないけど」
「いいから行こうぜ」
「うん」
 工場の玄関に鍵がかかってないのはあかりも先刻承知だ。ドアノブがついているから今度は蹴って開けるわけにもいかない。
 鞄から手を離して俺はドアノブを捻る。
「‥‥‥お?」
 ドアノブは回ったが、思っていたよりも扉の動きが重たい。軋む音も昔より大きい。
 それを聞いてか、俺の手を握ったあかりの手にまで何故か力が入る。
 あかりも外見は随分大人びて‥‥‥いやまあ、成人式も済んだんだから実際本当に大人だが、とにかく、高校の時とかに比べればずっと大人っぽくなったと思う。だけど、どうも中身はあんまり変わってないようで、ちょっとしたことでも感情の浮き沈みが割と激しいところとか、その時ぱっと思ったことが思わず動きに直結しちまうところなんかは昔からずっと同じだ。
 ま、それくらい別に短所と言うほどでもないが。
 ‥‥‥こういう時は、俺がこの手を強く握り返しでもしてやれば、あかりは安心するのかも知れない。と、わかっていながらそうしない俺の意地の悪さも、それはそれで、相変わらず、なんだろうか。
「あいこだな」
「何が?」
「いや‥‥‥えっと、こんなに重くなかったと思うんだけどな、このドア」
 うっかり口に出してしまった言葉から無理矢理話を逸らしながら、俺は左手だけでドアを押し続けた。いろいろ考え事をしながらでも、本当にゆっくり、だが確実に、ドアは開いていく。
「前より錆びちゃったんじゃないかな」
「まあ、そんなところだろう」
 言っている間に通れるくらいの隙間ができた。
 そして。
「うわあ‥‥‥中も本当に同じなんだね‥‥‥」
 あかりが溜め息を漏らす。俺もずっと中には入っていなかったからちょっと驚いた。
 本当に同じだった。
 まず、暗い。ずっと上の方にある明かり採りの窓から月の光が差し込んで、それはかえって足元の暗さを際だたせる。
 規則的に並んでいる筈の柱は、光の当たらない部分には存在するのかどうかも疑わしいが、ないわけはないだろうと思えば思うほど、それ以外にもいろんな、それこそあってはならないようなものまで、実は一緒に潜んでいるような気がしてくる。
 柱に近寄ってみれば、剥き出しの鋼材は相変わらず赤茶けた錆びに被われていた。あかりが恐る恐る触れた指先に赤い痕が残る。
「あの時はここまでだったよな」
「うん。だって恐かったんだもん」
「今は恐くないのか?」
「恐いよ。本当は恐いけど、昔よりも‥‥‥何て言うのかな、もっと、ありそうなことの方が恐くなったと思う。例えばね、昔は奥の暗くて見えないところに何かお化けがいるんじゃないかとか、この柱は本当は歯で、この建物も本当は口で、そのまま私食べられちゃうんじゃないかって、そんな風に恐かったんだけど‥‥‥今はね、それも恐いけど、この屋根が崩れてきたらとか、壁がこっちに倒れてきたらとか、そっちの方が恐い、かな」
 また、あかりの手に力が入っている。さっきそうしてやらなかったことへの反省も込めて、今度はその不安そうに強張った手を強く、だけど強すぎないように、握り返してやる。
「あっ‥‥‥えへへ。浩之ちゃんが優しいから、今夜はきっと大丈夫だね」
 途端に、あかりに笑顔が戻る。
「そんな理由で大丈夫なことなんて所詮は多寡が知れてる気がするんだが」
「そんなことない。大丈夫だよ。だから、行こ?」
 そう言ってあかりが先を促す。
 これが‥‥‥昔はここで泣いてギブアップの、あの、あかりだ。あんまり変わってないなんてことはない。変わってないようでも、実はあかりはずっと強くなってた。素直にそう思う。
 そして、さっき「それ以外のあってはならないもの」についてなんて真面目に考えてたのは俺の方だ。これじゃどっちが子供っぽいんだか。
「泣くなよ?」
 自分ひとりにしかわからない、悔しさなのか気恥ずかしさなのかもよくわからない妙な気分を紛らわすように‥‥‥子供染みた憎まれ口を叩く俺に、あかりは微笑んでみせる。
 これまでの経験からいって、それは「しょうがないなあ」じゃなく、「大丈夫だよ」の微笑みだった。



 長い長い螺旋階段は建物のいちばん奥にある。大体これが何の工場だったのかも知らないくらいだから仕方ないと言ってしまえばそれまでだが、なんで屋上まで直接行けるような螺旋階段がこんなところにあるのか、それも未だにさっぱりわからない。
 ここだけ大きい天窓でもついているのか、工場は真っ暗でも、階段の足元だけは照明に不足はない。
 だがしかし。
「明るいのはいいんだけどな」
「昇るのは恐いよね。階段、乗ったら抜けちゃいそう」
 流石に不安はあるのか、階段を見上げたあかりが呟く。
「まあ、行けるとこまでは行ってみよう。取り敢えず俺が前を歩く。俺が乗って大丈夫なら大丈夫だろ」
「うん。でも、無理しないでね?」
「わかってる」
 右手はあかりの左手と繋いだままだ。左肩の鞄を背負い直し、手摺りをしっかり掴みながら慎重に歩を進める。
 手そのものが錆びたみたいに、あっという間に真っ赤になったこの手のひらが、昔は背伸びしないと届かないような高さの手摺りを必死で掴んでいた手のひらだ。
 そう考えると、俺も大きくなったもんだ。
 ぎしり。
 ぎしり。
 ぎしり。
 ぎしり。
 昔、ここを駆け上がってた頃は、そういえば壊れる心配なんて全然してなかったことを思い出す。
 ぎしり。
 ぎしり。
 ぎしり。
 ぎしり。
 必要以上に軋みながら、ボロボロの階段はそれでもどうにか俺たちの動きに耐えている。
 ぎしり。
 ぎしり。
 ぎしり。
 ぎしり。
 時々妙に踏んだ感じが怪しいのがあったりして、勢い、昇るスピードはどんどん遅くなっていった。
 ぎしり。
 ぎしり。
 ぎしり。
 ばきぃん!
「きゃあああっ!」
 一段まるごと、踏んだ途端に外れて‥‥‥抜けた、のは俺が今足をかけた踏み板だったんだが、あかりの方が俺より驚いている。
 下の方でがらんがらんと派手な音がする。
 暗いから見てもわからないし、下を覗き込むのも恐かったから実際のところはよくわからないが、今いる高さは多分、学校の二階くらいなんじゃないかと思う。こんな高さから人が落ちたら無傷で済むとは思えない。
「これでもまだ、大丈夫か?」
「‥‥‥浩之ちゃんは?」
「俺は行けると思うけどな。もう残りの方が少ないし。ここまで上がって一枚、くらいなら多分大丈夫だと思う」
 実はそうは思っていなかった、というわけでもないんだけど、敢えて強気に出ることにはそれなりの理由や打算もあった。
 このままだとあかりより俺の方が子供みたいだ、という、あかりに聞かれたらそれこそ笑われちまいそうな意地も全然なかったとは多分言えないし、それにこの後のことを考えると‥‥‥本当はまだどうしようか決めかねているところだったけど、どっちにしろ、途中で引き返すよりもどうにか頑張っていちばん上まで行けた方がいいような気がしていたから。
「浩之ちゃんがそう言うなら大丈夫だね。じゃあ行こ?」
 ‥‥‥まったく、どっちが子供っぽいんだか。
 再び、ぎしりぎしりと音が鳴り始める。
 また十何段か上がったところで、
「ねえ、浩之ちゃん」
 あかりが声をかけてきた。
「本当はね、私、恐い。さっきの階段が落ちていった時、もう止めようって本当は思った」
「そういうことは早く言えよ。降りるか?」
「ううん。いいの。上まで行きたいの。‥‥‥浩之ちゃん憶えてる? 近道の、公園の金網。自分で登って越えられたのは高校生になってからで」
「そうだったな」
「あの金網のことみたいにね、この階段のこともずっと憶えてるの。私は入口で泣き出しちゃって、浩之ちゃんが私に見せたかったものが何だったのか結局わからなかった。そんなことにずーっとこだわってて、何だか子供みたいだけど‥‥‥でもね、いちばん上まで、私も行ってみたい。だから」
 何だか子供みたいだけど。
 あかりもそんなことを考えていたのか。
「そっか。じゃあ、とにかくもうすぐだから、行けるだけ行ってみよう」
「うん」
 ‥‥‥結論から言うと、幸いなことに抜けた踏み板は全部で一枚だった。つまり、あれから目的地まで、特に危険らしい危険はなかったということだ。
 帰路に不安が全然ないといえば嘘になるが、まあ、そんなことを辿り着いちゃってから考えてもしょうがない。
 とにかく俺たちは屋上に出た。
 足元に街並みを一望する、地面と空のちょうど間くらいの高さに俺たちはいて、雲ひとつない空と、地上から見上げるよりも大きな月。そうだ、あの時も俺はこれを、この景色をあかりにも見せたかったんだ。
「わあ‥‥‥すごい‥‥‥」
 それだけ言ったきり、大きく目を見開いたあかりは言葉を失ってしまう。
 そもそも今日あかりが「行こ?」って言わなかったら、この先こういうチャンスがあったかどうかもわからないような薄弱な願いだったし、辿り着きさえすればこんなに簡単な願いの割には実現まで随分長い時間もかかったが、まあ喜んでるみたいだから、きっとこれでよかったんだろう。



 思えば俺もあかりも時計を持ってきていなかった。
 あの手はまだ繋いだまま、ふたり肩を並べて何も言わずにずっとこの景色を見つめていたけど、どれくらいの間こうしていたのかは、そういえば、よくわからない。
「浩之ちゃん」
 何故だか、何かを決意したような微妙に固い声で、不意にあかりが俺を呼んだ。
「どうした?」
「今、私が考えてること、わかる?」
「‥‥‥ああ。多分、だけどな」
「よかった」
 あかりは笑う。だけど、緊張はまだ解けてないらしい。さっきから繋いだ手に力が入りっ放しだ‥‥‥俺の右手を握るあかりの手に俺は左手も添えようとして、そういえば錆びで真っ赤だったことを思い出し、触れる寸前でそれは思い止まる。
「何がよかったんだ?」
「その、多分、のところ」
「は?」
「えっと‥‥‥あのね、何も言わなくてもわかりあえるのって素敵だと思う。だけど、ちゃんと言わなきゃわからないのも、本当は素敵なことなんじゃないかって思うの。私達、今はつきあってるって知ってても、こういうことをわかるように伝えるのってすっごくドキドキするよ。でも、何も言わなくてもわかってくれることばっかりだと、いつか私、こういうドキドキのこと忘れちゃう気がするから、だから今日は、ちゃんと言わせて? それで浩之ちゃんも、ちゃんと答えて。ね?」
 あかりはちょっと背筋を伸ばす。
「私、浩之ちゃんのこと大好きだよ。今までもそうだったし、これからも大好きだよ。だから浩之ちゃんも、私のこと好きでいてくれたら嬉しいな」
 あの時よりも長い髪。
 あの時よりも大人びた表情と仕種。
 まるであの時みたいな子供っぽさと、あの時よりも強く、本当に強くなった気持ちと。
 大きな満月の夜を背に、はにかみながらそう言うあかりは、やたらファンシーな熊のパジャマなんか着てるくせして、何だか、いつになく綺麗だった。
 浩之ちゃんのこと、大好きだよ。
 まっすぐに俺を見つめたまま、今、そう言ってくれるあかりの唇を、今すぐ俺の唇で塞いでしまいたくなる。
 ‥‥‥まだだ。俺はまだ伝えてない。
 あかりは、ちゃんと答えて、って言ったんだ。
 右手は繋いだまま、空いている左手だけで鞄の中をごそごそ漁りながら、わざと目を逸らした俺は、
「あー‥‥‥実は、今年のクリスマスはどうしようかとこの間から考えてるんだが」
 敢えて話を外してみた。
「え?」
「一緒だったら何でもいいよ、とか言うつもりだったろ」
「うん。だって、本当にそれでいいし」
「俺としては、なんか違うことがしたいと思ってたんだ」
「え、そうなの?」
 あかりがちょっと不安そうな顔をした。
「本当はクリスマスが来るまで出すの止めようかと‥‥‥いやそうじゃなくて‥‥‥ああ、えっと、もうクリスマスはどっちでもよくて」
 その鼻先に、鞄の中から探り当てた紙袋を差し出す。



「実は俺、今の今まで、これを今渡そうか、それともまた後回しにしようか、ずっと迷ってた」
 こんなこと恥ずかしくてあかりにはとても言えないが、実は今年の二月から机の中にしまってあった紙袋だ。
「大学四年の今頃に就職先も決まってないような俺がこんなの渡してどうするんだって、本当は、今でも思わなくはないんだけど」
 今にして思えば、たまたまあかりの仕事が忙しくて二月十日の誕生日に会えなかったのがそもそもの失敗で、後はもうずるずると、渡される機会を窺いながら机の中で眠り続けてきた紙袋だ。
「あの頃はまだ、自分の将来のこととかも、自分で言うのもアレだけど結構楽観視してた。最初から保母目指してたあかりと違って、俺はもともと何かになりたかったんじゃなかったから。でもずっとこうやって、自分と一緒にこれのことも先延ばしにし続けて‥‥‥結局、せっかくこんなチャンスが来てるのに、ちゃんと自信持ってこれをあかりに渡せるだけの根拠がない自分に、俺、ちょっと呆れてるし、腹も立ってるんだ」
 あかりの空いている右手が紙袋を受け取った。
「これ‥‥‥?」
 紙袋から小さな箱を掴み出す。
 綺麗にラッピングしてリボンをかけた箱だ。どこにでもある普通の紙袋から出てきそうには思えないような。
「今までの自分のどこを振り返っても、あかりが一緒にいるんだ。あかりにしてみれば、俺は無闇に恐かったこともあるかも知れない。からかって遊んだことも数え切れないくらいある。自分から強引に誘っておいて、その‥‥‥最後までできなかったことをあかりに八つ当たりするような、最低な俺だったことだって、ある。それでも今、私のこと好きでいてくれたら嬉しいって、あかりは俺に言ってくれる」
 破り捨てれば早いのに、あかりは丁寧にリボンを解き、右手だけで器用に包装紙を畳みながら、ようやく姿を現わした小箱の蓋を開けた。
「‥‥‥あ‥‥‥こ、これって‥‥‥二月の‥‥‥」
 かつてない強さであかりが俺の手を握る。
 驚く気持ちはよくわかる。
 だけど、いくら頑張ったとはいっても、結局は学生がバイトで稼いだ金で買える代物だ。確かに中身は曲がりなりにもアメジストなんて宝石のついた指輪だが、驚いたままあかりが固まるほどの大きい石がついてるわけじゃない、と俺は思っていた。
 でも実際は、そんな簡単なもんでもなかったらしい。
「どうせ今だって俺はほとんどひとり暮らしみたいなもんだし、俺が大学卒業して働き始めたら一緒に暮らそうって、それはそう言って渡すつもりだった。だから本当は、まだ渡さないでおこうってことにもできたんだ。だけどあかりの、あかりの本当の気持ちを聞いたから‥‥‥それでもまた誤魔化し続けるんじゃ‥‥‥あかりはもしかしたら赦してくれるのかも知れないけど、もう俺は、簡単に自分を赦したくなかった。それに、俺の勝手であかりに待ち呆けさせるのは、もう、一回やったしな」
「浩之ちゃん‥‥‥」
「自分で言っててもすげー情けない奴で嫌になるけど、嘘だけはついてない。本当の俺の気持ちだ。‥‥‥幼馴染みの次が恋人同士で、その恋人同士にも次があるなら、次も、その次も、その後もずっと、俺はあかりと一緒がいい。だから、それでもあかりが俺のこと好きでいてくれるなら、受け取って欲しい」
 俺の目の前で、あかりのうなじを隠していた髪が大袈裟に跳ねた。顔を上げたあかりの頬を伝って、ひとすじ、目にいっぱいに貯められた涙が零れる。
「浩之ちゃん、受け取ってもいいの? こんな‥‥‥大切な約束する人が私で、本当にいいの?」
「当たり前だろ。よくない奴にこんなこと言うかよ」
「あ‥‥‥ごめん」
「謝るな。どっちかっていえば謝るのは俺の方だろ」
「ごめ‥‥‥えっと、えへへ」
 それは、またやっちゃった、の笑いだった。



「そうだ」
 ぱくん。小箱の蓋が閉じる音がする。
 何を思いついたのか、あんなに強く握っていた手を離すと、そこに膝を突いたあかりはパジャマの裾で俺の左手から錆をごしごし落とし始めた。
「止めろあかり。パジャマが汚れるだろ」
「いいの」
「だってお前、そんな錆なんかでパジャマ汚して、後でこれどうしたのとかおばさんに聞かれたら、なんて答えるつもりなんだよ」
「い‥‥‥いいのっ」
 ちょっと動揺したらしいが動きは止まらない。
 言ってる間にも錆はどんどん落ちていく。
 されるままになっていると、それが粗方終わったところで、あかりは、不自然な赤がまだ抜けきらない俺の手のひらの上にぽんと小箱を置く。
 ‥‥‥それはもしかして、返した、ってことなのか?
 やっぱり、ダメ‥‥‥なのか?
「そうじゃないよ。私、本当に、本当に嬉しいんだから。‥‥‥でも浩之ちゃん、一回だけ、意地悪言っていい?」
 見透かしたようにあかりは言う。
「紙袋プレゼントされても、私、あんまり嬉しくない」
 ぽろぽろ涙を零しながら。
 あかりは、その左手を、俺に、差し出した。
「あかり‥‥‥」
「あのね浩之ちゃん、私がいちばん欲しいものは、今、浩之ちゃんの手の上にあるよ。ちゃんと、あるんだよ。だから私、紙袋なんか要らない」
 涙は零れるに任せたまま、優しげに微笑むあかり。
 少しだけ、左手の薬指を浮かせるような仕種。
 錆びの色が染みついた俺の手の上には、アメジストの指輪が入った小箱。
 あかりは待っている。
 俺の手を、待ってくれている。
 もう、迷うことなんて何もなかった。
 俺もハンカチは持っていない。紙袋をもみくちゃにして手を拭き、さらに両手をズボンの太股に擦りつけてから、俺は小箱を開けて、右手に指輪を摘み上げる。
 あかりの左手をとって薬指に通そうとするが、
「あれ‥‥‥えっと、あれ?」
 今更緊張しているのか、なかなか思う通りにいかない。
「ふふっ」
 俺の右手の迷走を、あかりは嬉しそうに見つめていた。




 公園まで戻ってきた時、柱時計は四時を少し回ったあたりを指していた。もうじき夜は終わってしまうだろう。
「さっき浩之ちゃん、私が最初から保母さん目指してたって言ったけど、それはちょっと違うよ」
 あかりは不意にそんなことを言う。
「私も今まで内緒にしてたんだけど、私の最初の夢は、浩之ちゃんのお嫁さんになることだったの。保母さんの仕事は好きだけど、順番はその次。だからね?」
 前を歩いていたあかりが振り向いた。
 薬指のアメジストを愛おしげにさすっている。
 ‥‥‥そういえば、そんなの気にしながらじゃ危ないから、階段降りてる間だけでも預かるって言ったのに、あかりはとうとう指輪を外さなかった。今でも左手に嵌めたまま、箱と包装紙はリボンで纏めてカーディガンのポケットに放り込んだままだ。嬉しがってくれるのは嬉しいけど、後先はもう少し考えて欲しいと思う。
「だから私だって、本当になりたいものにはまだなってないよ。ほら、届いてないのはお互いさまだから、だから一緒に、ゆっくり頑張っていこ?」
「お嫁さんって‥‥‥それ、時間の問題じゃねーか?」
「だったら、浩之ちゃんの問題だってきっと時間の問題なんだよ。焦らなくても大丈夫だよ。私じゃ頼りないかも知れないけど、でも、私は絶対、一緒にいるから」
 そこで急に俺があかりを追い越してすたすた歩いていくのはどうしてだったかというと、こんな顔、恥ずかしくてあかりには死んでも見せられないと思ったからだ。
 ‥‥‥泣き出しちまいそうな顔なんて。
「あ、待って浩之ちゃん」
 あかりの足音が聞こえる。
 それは俺の予想を越える速さで、あっという間に俺に追いついた。背中から俺に抱きついたあかりが囁く。
「泣いても、いいよ?」
 本当に泣き出したりしたらそれこそ止まらなくなりそうで、はいそうですか、なんてわけにはいかなかった。
 あかりの囁く声に聞こえない振りをしたまま、俺は抱きついたままのあかりを強引に引っ張って歩き続ける。



「あ。浩之ちゃん」
 あかりが半纏の背中を引っ張った。
「どうした?」
「空。いい天気になるよ」
 見上げると、雲ひとつない空がもう白み始めている。
 確かに今日も、いい天気になりそうだった。

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