「でさあ、俺のダチにおりくらってのがいるんだけど」
喫茶店の片隅で男ふたりが顏を付き合わせ、ぺちゃくちゃとおしゃべりに興じている。
「そいつがカラオケに行くと、ブルースばっか入れて歌いまくるの」
「でもってついたあだ名が『ブルース・おりくら』」
「わはは、なんだそりゃ」
騒がしい会話は席ひとつ離れて座るカップルの間の空気をも揺らした。しかし男も女も何も言わない。周りがどうであろうと、目の前の相手がどうあろうと、全く気に留める素振りがない。
「おい、そろそろ出ないと間に合わないぞ」
「おっけ。じゃあ行こう」
先に立った男を追いかけるようにもうひとりが慌てて伝票を引っつかみ、去っていく。
騒々しさが消えて静かになったなか、カップルの静けさがあからさまとなった。ひとつ先が騒がしくなる前からここにいて、今になるまで静かなままのふたり。
「ねえ、祐一。祐一はブルースって歌ったことある?」
さっきの会話を聞いていたのかと祐一は意表を突かれながらも、悠然と口を開いた。
「ラジオで聞いたことはあるけど、自分で歌ったことはないよ」
「そう」
それだけで用は済んだとばかりに、冷めたコーヒーの水面に名雪は視線を落とした。黒く澄んだ水面に綺麗で冷たい表情が映り、水面を映し返す瞳は黒く染まっている。
祐一は自分のカップを持って名雪の言葉が続くのを待つ。喧噪は遠くにあるのみ。彼らふたりが向かいあうそこにだけぽっかりと穴が空いている。
来ないとわかっていた続きの言葉、来るとわかっていた沈黙を確認してから、祐一はカップを元に戻して彼女に聞こえないよう細く長く息をはいた。
音は消せても、かすかに上がる温度はごまかしようがなかった。名雪が面を上げる。視線は、合わない。祐一の目に今の名雪の顏だけが映る。
物憂げな表情。
あの頃の眠たそうな表情。いらいらさせられることもあったけど、見ているこっちが安らかになった表情。それがいつからか、こんな表情に変わってしまった。腹が立つことはないけれど、こっちの心が重くなってしまう表情に。
いつだったろう。イチゴサンデーを前に嬉々としていたのは。いつからだろう。コーヒーを前に置き、機械的に飲むようになったのは。そこまで考えてから初めて祐一は、自分もコーヒーを機械的に飲むようになったのがいつからかわからないことに気づいた。
静かな店内に流れていた音楽が切り替わる。軽いポップスの響きを聞いて、昔ラジオから流れていた音楽がふいに頭の中に蘇る。
なんとなく悲しくなる曲調。意味のわからぬ英語の歌詞。わからなくても、聞いていれば心に感情がうずまいてきた音楽。
あのときの感情が、何もない今の祐一の心に染み渡っていく。
今の俺たちはブルースしか歌えない
頭に流れた音楽が終わったときに告げられたそのフレーズを、祐一は口を動かすことなくぎゅっと噛みしめた。
[おりくらはブルースしか歌わない[A] title:やまぐう / cast:やまぐう / author:やまぐう]
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