SAUDADE  


  

 どうしてこの街のことが俺はあんなに嫌いだったんだろう?
 机に頬杖を突いて窓の外を眺めながら、俺はぼーっと、そんなことを思っていた。
「祐一、お夕飯のお買い物に行くんだけど、暇だったらつきあってくれる?」
 不意に、こんこんと軽く扉を叩く音。
「おう、今行く。ちょっと下で待っててくれ」
 聞こえた名雪の声に、振り向きもせずに答える。背中の向こうで名雪が階段を駆け降りる音がすぐに遠くなっていく。
 俺は椅子から立ち上がってぐぐっと背筋を伸ばした。それだけで、少し背が高くなったような気がした。
 特別なことなんて何もない、ただの日曜の昼下がり。窓の形に切り取られた、本当はもっともっと高くて青い空のもとで、この世界はまた新しい春を迎える準備でも始めているのだろう。



 そういえば何日か、冬の雲を見ていない。空ごと地面にのしかかるようだったあの重たいグレーの雲。
 今でも街中至る所に冬の欠片は積もっているし、それが実際にすっかり消えてなくなるのはまだまだ随分先の話なんだろうけど、こんな青空を続けて眺めていれば、それもそう遠い話でもないように感じる。
 商店街まで、歩いて十何分かの道程を、名雪と並んでのんびり歩いた。名雪がぶら下げた買い物篭が、季節の割には短めのスカートの裾に擦れて、かさかさと小さく音をたてていた。
「もうすぐ春休みだね」
 空ばかり見ている俺に名雪が話しかける。
「ああ」
「祐一が転校してきたのが二学期の真ん中くらいだったから、もう三ヶ月くらい経ってるんだね」
「ああ」
 生返事になってしまうのは、空が青いから、という理由だけじゃない気はしていた。
「祐一、この街のこと、好きになれた?」
「ああ‥‥‥よくわかんないんだ。さっきも考えてたんだけど」
「ん?」
「俺、こっちに来てから、なんか、わかんないんだよ。どうしてこの街のことが俺はあんなに嫌いだったんだろう、って」
「そう‥‥‥なんだ‥‥‥」
 呟いた名雪の声は、どこか残念そうだったような、何故かほっとしたような、複雑な感じだった。
「ごめんな名雪、まだ思い出せなくて。その」
 名雪は俺に何かを思い出してもらいたがっている。それは多分、俺がこの街のことをあんなに嫌いだった理由と、どこかで繋がっている。
 だけど今の俺には、わかっているのはそこまでだった‥‥‥自分の心の中にどんなに目を凝らしても、いちばん思い出したい風景がある筈の場所には、何故か、血のように赤い闇が大きな口を開けているだけで。
「ううん。いいんだよ」
 向き直ると、名雪はもう笑っていた。
 名雪には、無理に笑っていて欲しくはなかった。‥‥‥早く思い出さないとな、と思う。
「それで祐一。今日のお買い物なんだけど」
「あ? ああ」
「私はここのスーパーでお買い物するけど、祐一、CD欲しいって言ってなかった? 帰る時に荷物持ってくれればいいから、今はCD買いに行ってもいいよ?」
 名雪は突如そんなことを言い出す。
「でもそれだと、なんでついて来たのかよくわかんないような気もするんだけど」
「今日はお母さんのお使いだから、買うものは来る前にみんな決まってるんだよ。だから別に選ぶことないし、大丈夫だよ?」
 もしかして、名雪は俺に気を使っているのかも知れない。ひとりにしておいてあげよう、とか。
 俺自身はどっちでもよかったから、名雪の気持ちをもらっておくことにした。
「‥‥‥そうか。じゃあ、そうするよ。俺の買い物の方が多分早く終わるから、終わったらまたこっち来る」
「ん。行ってらっしゃい」
 名雪に小さく手を振り返して、俺はCD屋へ向かって歩きだした。



 途中にたい焼きの屋台が出ているのが目につく。
 別に屋台はたい焼きだけじゃなく、クレープもたこ焼きも出ているのに、何故だか、たい焼きが妙に気になる。
 春になったらもう食わないし、そろそろ時期が外れちまうよな。まるで誰かに言い訳するように口の中でだけ小さく呟きながら、俺は財布の中から百円玉をいくつか摘み出した。何か、後ろめたいような気がしたのは、名雪が知らない所でたい焼きなんか買い食いしてるからだろうか?
 とりとめもなく思いながら財布の口を閉じて、手元から目をあげると‥‥‥ちょうど、凄い勢いで駆け込んできた女の子が、ずざざざざっと砂埃をあげながら、俺とたい焼き屋の間に滑り込んできた。背負った鞄に何故かついている天使の翼みたいな飾りはまだぱたぱた揺れ続けている。
「なんだよ嬢ちゃん、埃っぽくなるからあんまり急いで走って来んなっていつも言ってんじゃねえか」
「うぐぅ‥‥‥ごめんなさい」
 たい焼き屋の親父はあからさまに嫌そうな顔をしたが、口が笑っている。本気で怒ってもいないらしい。多分、この子は本当にいつもこうなんだろう。
「ったく。海へ飛び込んだたい焼きが釣られて喰われてから何十年経ったと思ってんだよ。鉄板から逃げたたい焼きなんて後にも先にもあれひとつっきりだぜ?」
 親父は何だかよくわからない悪態をついている。
 もしかしてそれは、昔歌にあった「およげたいやきくん」のことだろうか?
「え? たい焼きが逃げたの? 本当? ねえおじさん、それ本当?」
 ところが、その子はマジだった。
 身を乗り出すようにして屋台の中に首を突っ込む。地面に足がついていない。
「ほれ嬢ちゃん。客は嬢ちゃんだけじゃねえんだからよ、その話はまた今度ゆっくりな‥‥‥なあ兄ちゃん」
 親父は困っているらしい。突然俺に声をかけてくる。
 その声につられたように、首だけ動かして女の子がこっちを見た。赤いカチューシャの上で、髪が、跳ねた。



 白い。雪。たい焼き。あゆ。ひとつめの約束。泣き虫の女の子。忘れない。ふたつめの約束。俺たちの学校。木枯らし。天使。みっつめの約束。赤い。雪。空。手のひら。切れなかった指切り。冷たい手。笑わない女の子。病室。扉のプレート。扉を叩く音。泣いている俺。泣いている名雪。俺の頭を撫でる、小さな手のひら。名雪。大丈夫だよ。大丈夫だから。泣きながら、囁く声。俺を連れ出す手。古い駅舎。雪兎。さよなら。壊れた雪兎。逃げ出す影。明日は、さよなら。お願い。立ち尽くす影。その前に。流れていく景色。もういちどだけ。遠くなる街。何を叶えたらいいのかわからない約束。破ってしまった約束。紙袋。赤いカチューシャ。笑っている女の子。赤い。赤い瞳。雪兎。泣いている女の子。もう思い出さない。お願い、もういちどだけ。もう思い出したくない。



「あゆ、なのか?」
 いきなり堰を切ったように、記憶の欠片が頭の中からどんどん溢れ出してくる。あゆ、というその名前を、自分がこの口で呟いたことにすら、しばらく気づけなかったくらい。
「祐一くん、だ‥‥‥」
 それは多分、あゆも一緒だったんだろう。石像みたいにそこに固まったまま、俺たちはふたりとも、それ以上何も言えずに、ただ立ち竦んでいるしかなかった。
「‥‥‥ふえっ? わっわっわっ‥‥‥うぐううっ!」
 屋台に身を乗り出していたあゆがバランスを崩して、結局、派手に転がり落ちるまで。
「何やってんだい嬢ちゃん」
 呆れた顔の親父が頭を掻きながらあゆを見ていた。売り物のたい焼きは無事だったらしいことが取り敢えず功を奏したらしい。そうでなければ、この程度の突っ込みじゃ済まなかっただろう。
「祐一くんだ祐一くんだ祐一くんだ祐一くんだ祐一くんだ祐一くんだあああああっ!」
 そんなことにはお構いなしのあゆが俺に抱きついてくる。転げ落ちて擦り剥いた膝も血が滲んだ手のひらもそのままで。勢いは昔と変わらないどころか、加速にはさらに磨きがかかっているような気までする。
「ぐはっ!」
 おかげで、凄い速度で頭から鳩尾に突っ込まれた俺はその場で気を失いかけた。
「祐一くんだよ‥‥‥うぐっ‥‥‥祐一くんが来てくれたよおっ‥‥‥」
 そんなことにもお構いなしで、俺に抱きついたまま泣き出してしまったあゆに、つまらない突っ込みを入れる気にも今はなれない。俺はそのままそこに立って、あゆの小さな肩をきつく抱きしめていた。
 そういえば、親父はさっき屋台の奥に引っ込んでから出てこない。もう好きにしろ、ということだろうか。
 好きにすることにした。
 俺の頬を伝って涙が落ちる。それでも、そのままあゆを抱きしめている。ぽたぽたとあゆの頭に落ちた滴がカチューシャに黒く痕を残す。何が落ちてきたのかわからなくて、不思議そうに俺の顔を見上げたあゆの、涙でくしゃくしゃになった顔が、笑った。もう、今はもう、それだけで。



「祐一‥‥‥もしかして、思い出したの?」
 不意に、聞こえる声。
「ああ」
「全部?」
「ああ」
「祐一、さっきから、ああばっかり」
 ちょっと拗ねたような声。
 いつの間にか側に立っていた名雪が、俺の目の前にハンカチを差し出した。
 受け取ったハンカチであゆの顔を拭いてやる。次に、自分の顔。あっという間にびしょ濡れになってしまったハンカチをそのまま返すわけにもいかなくて、俺は取り敢えずそれを自分のズボンのポケットに捻じ込んでおく。
「名雪さん、ですか?」
「うん。あゆちゃんだよね? 祐一から聞いてるよ。ずっと昔から、知ってるよ」
 名雪はそこにしゃがみ込んだ。目線の高さがあゆと同じになる。
「そう‥‥‥ですか‥‥‥えっと、あの」
「ねえ、うちで一緒にお夕飯食べない?」
「‥‥‥へ?」
「ずーっとここに立ってると、お夕飯の時間過ぎちゃうよ。一緒に行こう?」
 どうしていいかわからない顔で俺を見たあゆに、俺は小さく頷いてみせた。なんでいきなりそういう話になるのか、本当は俺にもよくわからないけど‥‥‥水瀬家にかかれば、一緒に夕飯を食べる人が何の予告もなくひとり増えるくらいのことは、多分、問題でも何でもない。
 この三ヶ月くらいで、そういう家なんだということには察しがつくようになっていた。



 食後のお茶請けに供された、紙袋から溢れるほどのたい焼きは、さっきのたい焼き屋の親父が去り際に渡してくれたものだ。
 こんなにもらうんじゃ悪いからお金は払う、とは言いかけたものの、めでたい時は細かいことをつべこべ言うな、いいから黙ってとっとけ、と強引に手渡されてしまった。その時は、もしかしてこれはあゆが軒先で大騒ぎした時に埃を被ったたい焼き全部、とかそういう曰くつきの品なんじゃないかと疑ったりもしたけど、結局、そういう砂っぽいのやできそこなったようなのはひとつもなかった。
 本当に祝ってくれていたんだ。それなのに、心の中だけとはいえ、疑ってかかったのは済まなかったと思う。
 紙袋から目を上げると、正面のあゆは名雪と楽しそうに喋っている。まるでずっと、もう何年もずっとこんな風にしていたみたいに、あゆはこの場に溶け込んでいた。
 だけど、そんな筈はなかった。他のすべてに七年経っているのに、あゆだけは何も変わっていなかったから。
 例えば俺が去年の冬にここへ来た時、最初に名雪や秋子さんに会ってから、それが本当に名雪や秋子さんなんだと俺が理解するまでには少し時間が必要だった。見てわからなかったわけじゃないけど、でも、やっぱり秋子さんと名雪なんだって自然に思えるようになったのは、本当は、会ってすぐのことじゃなかった。七年も離れていればそれは当たり前だと思う。それなのに、あゆだけは、何もか七年前と同じままだった。
 違うといえばもうひとつ。あゆの髪を留めている赤いカチューシャは、あれは確か、似合うだろうなって思ったから買ったんだけど、でも直接渡しはしなかったと思う。だから、あゆがあのカチューシャをつけているところを、本当は俺は見たことがない筈だった。
「あゆ、そのカチューシャ」
 へたくそな字で「あゆちゃんへ」って書いた紙袋を‥‥‥俺はあの時、最後に、どうしただろう?
「ん? これ? 祐一くんがくれたんだよ‥‥‥忘れちゃったの?」
「いや、あげるつもりで買ったと思うんだけど、でもいつ渡したのか憶えてないんだ」
「うん。渡されてはいないよ」
「‥‥‥え?」
「これはね、あの時、ボクの病室の扉の前に落ちてたんだよ。祐一くんの字で、あゆちゃんへ、って書いてあったから、看護婦さんがボクのところに持ってきてくれて、だから、直接渡されてはいないんだよ」
「病室?」
 秋子さんが悲しそうな顔をした。
「あゆちゃん、まだ病室で寝ているのよね?」
「うん‥‥‥えっと、はい。ボク、まだ起きてないんです」
「起きて、ない?」
 俺だけが会話についていけていない。
「あの、もう祐一さんも、あの時のことは思い出していると思いますから、全部お話ししますね」
 秋子さんは俯いたままだ。
「あゆちゃんは、あの樹から落ちた時に入院したまま、今まで一度も、目を覚ましていません。最初は意識もないくらいの重体で、容態がこれ以上悪くなったら、もう‥‥‥その時はそういう状態でしたけど、体の方は何とか、それから順調に回復していって、今は‥‥‥今はただ、どうしても目を覚まさないだけです」
「目を覚まさないって‥‥‥じゃあ今のあゆは」
「目を覚まさない理由がよくわからないので、お医者様は植物状態だということにしています」
 目を伏せていた。多分、そこにいた全員が。
 不意に訪れた沈黙は、明るかったそれまでの空気をあっという間にどこかへ追いやってしまった。
「あのね‥‥‥あゆちゃんの代わりに、何度も手紙を書いたよ‥‥‥祐一は一度も返事くれなかったけど、私は何度も書いたんだよ」
「‥‥‥て‥‥‥手紙?」
「あゆちゃんの具合のこと、だんだんよくなってること、でも目を覚ましてくれないこと。きっと祐一、ひとつも読んでくれなかったんだよね? ‥‥‥死んじゃう心配はもうしなくていいんだよ、って手紙書いても返事がなかった時に、もしかしたらそうじゃないかなってちょっと思ったよ」
 ぽつぽつと、名雪は喋り続ける。
「七年経って会ってみたら、あの時のこと祐一は本当に憶えていなかったから、ああやっぱり、って思ったよ。きっと、憶えているのが辛くて辛くて、忘れちゃわないと死んじゃうくらい、祐一にとっては辛いことだったんだって、その時初めて、私にもわかったんだよ。だから私は、手紙を読んだかどうかは聞かないことにしてた。それに、あゆちゃんのこともお母さんと相談して、祐一が自分で思い出すか、もしかしたら‥‥‥あゆちゃんの具合がまた悪くなるか、どっちかになるまでは内緒にしよう、って決めてた」
 あの時。あゆと再会した時に、全部思い出したつもりだった。だけど、それでも俺は、全部を思い出していたわけじゃなかった。
 今まで、手紙のことになんて気づきもしなかった‥‥‥きっとあの時の俺は、あゆが生きてる、だなんて思いもしなかったからだと思う。
 あの時も、それからも、名雪はずっと俺のことを心配していてくれたのに、そんな簡単なことにもずっと気づけないままで。
「ごめん名雪」
「ううん。もういいんだよ。だって、私じゃないから。悲しかったのは、辛かったのは、本当は私じゃなくて、あゆちゃんと祐一だから」
「違う、そうじゃないんだよ‥‥‥あの時、俺は悲しかったと思う。だけどそんなの、約束を破っていい理由にはならない。名雪がくれたあの雪兎を壊していい理由になんかならない。ずっと、名雪のこととか、あゆのこととか‥‥‥この街で起こったことに目を瞑っていてもよかった、ってことにはならないんだ。それに」
 俯いたままのあゆの手を握った。
「今頃出てきてこんな我儘なことしか言えなくて、どうしようもないなって思うけど、それでも俺、あゆが生きててくれて嬉しい。嬉しいんだ」
「祐一くん‥‥‥」
 握った俺の手にあゆが頬を寄せる。髪が腕をくすぐる。
「あのね、ボク、ずっと探してた。眠ったままのボクはまだ目を覚まさないけど、ボクはずっと、今までずっと、この街で何かを探してた。ボクたちの学校がなくなっちゃったのも知ってた。大事なタイムカプセルを埋めた場所で工事があって、もう、どこへ行ったかわからないことも知ってた。それなのに、何を探さなきゃいけないのかも、どうして探さなきゃいけないのかも、本当はボクにはずっとわからなかった。だけど今はわかるよ‥‥‥ボクが探してたのは祐一くんだった。眠ったままのボクはこんなに背が低くないのに、ボクだけ七年何も変わらないままでいたのは、祐一くんにも、いつかまたボクを見つけて欲しかったから。眠ったままのボクじゃ、ボクがあゆだって祐一くんに気づいてもらえないかも知れなくて、きっと、それが恐かったから」
 身体を起こしたあゆの手がゆっくりとその頭からカチューシャを外した。顔に落ちかかってきた髪が、束の間、その表情を隠した。
「もう天使さんはいなくなっちゃったけど‥‥‥もしも、それでも祐一くんがボクの願いをかなえてくれるなら、みっつめのお願い、言ってみてもいいかな?」
 ことん。カチューシャを食卓に置く。
 次に顔を上げた時、あゆは笑っていた。
「今はまだ、これはボクのじゃなくて病院の落とし物だから、祐一くんに返すね。だけどボク本当は、このカチューシャのことすっごく気に入ってるんだ。だから、えっと‥‥‥それじゃあ、みっつめのお願いです」
 涙でくしゃくしゃの顔のまま笑っているあゆの向こうに、不意に、居間の壁が透けて見えた。
「祐一、あゆちゃん消えてるよっ」
 慌てて立ち上がりかける名雪を秋子さんが止める。
「もしよかったら、祐一くんが嫌じゃなかったら、このカチューシャをちゃんとボクにください。今度は、病室の前に置いておく、とかじゃなくて、祐一くんの手でボクに、本当のボクにプレゼントしてください。そうしたら、そうしたら、ボクは」
「わかってる。約束だ。これはあゆにやる。もう一度、今度はちゃんとプレゼントしに行くから、だから今度は待っててくれ」
「‥‥‥ん。嬉しい」
 嬉しそうに頷いたあゆの姿が、まるで今までそこにいたのも嘘だったかのように、跡形もなく掻き消えた。
 紙袋に一杯のたい焼きと、食卓に残された赤いカチューシャ、そして、名雪と秋子さんと俺。今まであゆがここにいたことの証人は‥‥‥この世界中に、たったこれだけだった。
 だけど悲しくはない。もう、あゆは目を覚ますから。
 あゆが置いていった赤いカチューシャを手にとった。これを俺があゆに渡す時、奇蹟は起こるんだから。



 その日の真夜中。
 机に頬杖を突いた俺は、窓の外を眺めている。
 目を閉じると、思い出したくないこともそうでないことも、いろんなことが目蓋の裏をよぎる。眠れない。
「祐一、まだ起きてる?」
 大きな音が立たないように、そっと扉を叩く音。
「ああ」
「あのね、一緒に行って欲しいところがあるの。ちょっと、つきあってくれないかな?」
「わかった。今行くから、ちょっと下で待っててくれ」
 名雪の声に、振り向きもせずに答える。背中の向こうで、名雪が階段を降りる音はすぐに聞こえなくなる。
 何となく左手に持っていた赤いカチューシャを机に置いて、俺も音を立てないように部屋のドアを閉じた。



 俺の手を引いて、何も言わずに名雪は歩いてゆく。
 七年前に起こったこと。この七年間で起こったこと。七年経って、帰ってきた俺のこと。あゆのこと。名雪自身のこと。そういえば、全部知っていたのは名雪と秋子さんなんだな、と思う。俺じゃなく、あゆでもなく。
 だから名雪は知っていた。
 すべてを思い出せば、俺は名雪のもとへは戻らないと。
 次に奇蹟が起こったら、俺と結ばれるのは名雪じゃなくてあゆだ、と。
 そして俺たちは七年前の約束の場所に立つ。
 七年の遅刻を埋め合わせるために。今度こそ本当に‥‥‥名雪が、俺に振られてしまうために。



 徐々に春らしくなってきているとはいっても、実際はまだ冬だ。夜は寒い。‥‥‥すぐに真っ赤になってしまう手で積もったままの雪をかき集めて、名雪は何かを作り始めた。
「あの時の兎さんは七回も夏越せなかったから」
 やがて両手の上に現れた、相変わらずどこか不格好な白い雪兎。赤い瞳が俺を見ている。
「私、七年前にもう一度伝えたくて、でも伝えられなかった言葉があるんだよ。多分返事はわかってるけど、でも今度はちゃんと聞いて欲しいから‥‥‥泣かないで祐一‥‥‥ふぁいとっ、だよ‥‥‥」
 言われるまで気づかなかった。
 俺は‥‥‥泣いていた。
「もう泣かないで。あゆちゃんだってきっとよくなるよ。そのうちきっと元気になって帰ってくるよ」
 七年眠り続けたあゆがもうすぐ長い夢から覚めることを、きっと名雪も知っている。
「もし、もしもあゆちゃんが帰ってこれなくても、ずっと、私が一緒にいるよ」
 だからこれは、今、の言葉じゃない。
「これから祐一が引っ越して、離れ離れになっちゃっても、私がずっと、ずーっとずーっと、祐一のこと、好きでいるよ」
 約束の日に言いたかった言葉。
「祐一。私は、祐一のこと、大好きみたいだから」
 ずっと伝えたくて、でも今まで伝えられずにいた、七年分の本当の気持ち。
 雪兎を両手に抱いて、俺は名雪を見つめる。
「名雪」
「ん」
「ごめん。俺‥‥‥でも、名雪が思ってるようには、名雪の気持ちに応えられない‥‥‥」
「うん」
「俺、俺っ‥‥‥俺っ‥‥‥」
「ふぁいとっ、だよ」
「あゆの‥‥‥あゆのこと、今でもずっと、好きだから」
「うん」
「あゆと、一緒に、生きてく‥‥‥ごめん名雪‥‥‥本当に‥‥‥俺‥‥‥」
「そうだね‥‥‥えへへ、振られちゃったよ」
 悪戯に呟いて、俺を抱きしめる腕は暖かかった。
「なゆ‥‥‥」
「いいんだよ、私はずっと前からこうなるって知ってたから。でもね、私は不器用だから、ちゃんと終わらせないとちゃんと始められないよ。みんな中途半端なままで、祐一じゃない誰かのこと、ちゃんと好きになんかなれないんだよ。だからこれでいいんだよ。頑張ったね、祐一」
 溶け始めた雪兎が、俺の服に黒く痕を残していた。
 もしかしたらそれも、七年待たされた雪兎が俺に何かを叫んだ言葉だったのかも知れない。
「それにね。これで、やっと祐一がこの街に帰って来れたんだよ。だから今なら‥‥‥今だから私、お帰りなさいって祐一に言えるんだよ」
 名雪の腕に、痛くなるくらい力がこもる。
「遅かったよ‥‥‥七年も待っちゃったよ‥‥‥お帰りなさい、祐一‥‥‥お帰り‥‥‥」
 そう。多分、俺は帰って来てたわけじゃなかった。
 帰ったつもりの俺は、肝心なことが何もかも靄の向こうに隠れて見えない、でも何故だかあの街によく似た場所に、今までずっと行っていたんだと思う。
 譫言のように「お帰り」を繰り返す名雪の腕に抱かれながら、俺は初めて、あの街へ‥‥‥ここへ帰って来た、ことを実感していた。
「名雪‥‥‥俺‥‥‥」
「祐一。帰ってきたら、ただいま、だよ」
「‥‥‥待たせてごめん。ただいま、名雪」
「あゆちゃんにも、ただいま、だね」
 目を閉じた名雪の唇が俺の唇に触れた。
 最初で最後のくちづけが終わった時、長かった名雪の物語がひとつ、その幕を降ろした。



 次の日もよく晴れていた。おかげで、着てきたコートは家を出て五分でお役御免になった。コートのハンガーになってしまった左の二の腕が不自然に暑い。
 額にもうっすらと汗をかいている。ポケットから取り出したハンカチで汗を拭こうとして、俺は苦笑した。ポケットに入っていたのは、昨日名雪に借りてポケットに捻じ込んだままのハンカチだった。まだ湿っていた。あゆが流した涙のことを、このハンカチも憶えていた。
 汗を拭くのは諦めて、ポケットにハンカチを捻じ込む。俺はそのまま街のはずれまで歩き続けた。
 病院は、駅周辺の開発に置いて行かれたような静かな丘の上にあった。‥‥‥確かに、「街のはずれ」と言うに相応しい場所だ。
 秋子さんが渡してくれたメモの通りの、いちばん上の階、いちばん端の個室。差し替えられることなく、七年もずっとドアの横に掛けられっ放しだった二枚のプレートは、そこが目指す場所だと俺に教えていた。
 月宮あゆ。
 面会謝絶。
 ドアノブを捻ると、扉は簡単に開いた。
 窓から差し込む陽光に照らされた、思っていたよりも小さな病室の真ん中に、白いベッドが設えてある。
 手前のフックに吊ってある茶色のダッフルコート。枕元の棚のいちばん上に置かれた、ぱたぱた揺れる羽根の飾りがついたリュック。見覚えのあるものばかりだった。
 その鞄の下には、丁寧に畳まれた茶色い紙が敷いてある。マジックで書かれた字のようなものの一部が見えた。それが何なのか、手に取らなくても俺にはわかった。多分、ここへカチューシャを持ってきた時の紙袋だ。
 そして、ベッドの上には‥‥‥見知らぬ女の子がひとり眠っていた。七年寝たきりの身体は痩せて、体重なんか名雪の半分くらいしかなさそうだった。
 これが、背が伸びたあゆだ、と言われればそんな気もするし、違うと言われれば違うような気もする。
 眠ったままのボクじゃ、ボクがあゆだって祐一くんに気づいてもらえないかも知れなくて、きっと、それが恐かったから。あゆの言葉を思い出す。確かに、こっちのあゆがいきなり飛び込んできても、気づかなかったかも知れない、とも思う。
「恐かったんだな。俺にわからないように自分が変わっていくのが。そうやって、俺に気づかれなくなるのが」
 あゆは答えない。
「だけどもう恐がらなくていい。俺はもうどこへも行かない。ずっと一緒にいる。あゆが成長することも、あゆが変わっていくことも、全部、俺が見てる」
 あゆの頭に赤いカチューシャをつける。
「七年前と同じじゃなくても、これからは俺がちゃんとあゆを見つけてやる」
 いい加減に切り揃えられた髪を顔の上から払って、涙を流したような痕を指で拭う。
「だから」



 目を覚ませ。
 ‥‥‥最後の呪文に声は要らなかった。



 重そうな目蓋を懸命にこじ開けて、眠り姫の瞳が俺をじっと見つめている。
「ボクで、いいの? あの時みたいに元気じゃない、こんな痩せっぽちのボクで、祐一くん、本当にいいの?」
 掠れた小さな声が囁く。
「言っただろ。もう恐がらなくていい。俺がずっと一緒にいるから、もう、大丈夫だ」
「でもそんなこと言われたら、ボク、信じちゃうよ? 本当に、本気にしちゃうよ? それでも、いいの?」
 あゆの、折れそうに細い両肩を抱いた。
「ボクでいいの、なんて寂しいこと聞くな。俺はあゆがいい。痩せてるとか何とかじゃない。あゆがいいんだ」
 不安でいっぱいのあゆの目蓋を指でそっと閉じて、俺はその乾いた唇にくちづけた。



 ところで、水瀬家の夕食は、普段に比べれば今日もちょっと少なめだった。袋に目一杯のあのたい焼きが、まだ山のように余っていたからだ。
 ‥‥‥七年前に樹の上から落ちて以来ずっと目を覚まさなかった少女が今日になって急に目を覚ました、という話は、テレビのニュースでちょっと取り上げられるくらいの話題になった。もっとも、それ以外の事情は何もわかっていなかったから、今まで目を覚まさなかった理由も、目を覚ました理由も、ニュース番組の中では不明ということになっていた。
 三人で居間の卓袱台を囲み、他人事のようにそのニュースを眺めながら、俺たちはたい焼きを齧っていた。
「まあ七年寝たきりだったんで、普通に動けるようになるまでは病院でリハビリした方がいいらしいです」
「それで、退院はいつ頃になりそうですか?」
 緑茶を淹れながら秋子さんが聞く。
「それはわからないそうです。でも、他に何か悪いところがあるわけじゃないんで、目が覚めたならもう何も心配は要らないと。後は経過を見て決めるから、ちょくちょく顔出してくれ、って医者は言ってました」
「そうですか。でもあゆちゃんですから、きっとあっという間ですよ‥‥‥それなら、うちも準備を考えないといけませんね」
 準備?
「客間はもうひとつあるから部屋は大丈夫だし、洋服はしばらく私のお下がりを着ててもらって、サイズがわかってからお買い物に行けばいいと思うよ」
「そうね。そうしましょう。でも、二階のお部屋で大丈夫かしら? 階段が辛そうだったら、慣れるまでは居間にいてもらった方がいいわね」
「あ、そうかも知れないね。まあ、来ればわかるよ」
「ええ。そうね」
 何の話だ? なんかまるで、水瀬家であゆを引き取る相談みたいに聞こえるんだけど‥‥‥?
「すいません秋子さん、それ何の話ですか?」
「あれ、言いませんでしたか? 退院したらあゆちゃんはうちで預かることになってるんですけど」
 ‥‥‥。
 まさか、本当にそうだったとは。
「初めて聞いたんですけど?」
「あのね祐一、あの事故があった時にお母さんが調べてくれたんだけど、あゆちゃんってご両親がもういないみたいなんだよ。それに、これといった身寄りもないみたいだったから、入院する時も一応、あゆちゃんはうちの親戚ってことにしておいてもらってたんだよ」
「あゆちゃんなら大歓迎ね。賑やかになって嬉しいわ」
 普通、人がひとり増えるということは、賑やかになって嬉しい、で片づくくらいの問題だろうか。そう思わなくもないんだけど、秋子さんも名雪も本気で嬉しそうにしているので、それ以上考えるのはやめた。
 水瀬家にかかれば、一緒に暮らす人が突然ひとり増えるくらいのことも、多分、問題でも何でもないんだろう。



 毎日毎日、学校が終わると病院に直行する。
 そういえばもう一学期も始まっていて、季節は本格的に春だった。雪もほとんど残っていない。今年の春は例年よりも暖かい傾向にある、と昨日テレビの天気予報も言っていた。
「あ、祐一くん。今日は早かったんだね」
 病院の中庭を覗くと、俺に気づいたあゆが手を振りながら歩いてくる。‥‥‥この回復の早さは異様ですらある、と前に医者が言っていた。でも、あゆが七年ずっとこの街を駆け回ってたことを俺は知っている。勘が鈍っていないんだろう。
 この分だと本当にもうすぐ退院できるかも知れない。
 まだまだ軽いあゆの身体を抱き上げて、子供をあやすようにぶんぶん振り回しながら、俺はここに自分が、そしてあゆがいることの喜びを噛み締める。
「うぐうっ、恐いよ祐一くんっ」
「大丈夫だってば」
「ちっとも大丈夫じゃないよぉ‥‥‥」
 七年続いた冬の後にも、春は、やっぱり訪れていた。

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