「あいざわっ、ゆういちぃぃぃっ!」
知らない女の子の叫ぶ声が、突然、のどかな商店街に響き渡った。
「ねえ祐一、呼ばれてるよ?」
「知らん知らん知らん知らん」
振り返ってつんつんと俺の肩をつついた名雪を背中からCDショップに押し込む。首だけ捻るようにして、ガラスの自動ドア越しに外の様子を伺うと‥‥‥綺麗な金髪の、見たこともない小学生くらいの女の子がひとり、ご丁寧に両手でメガホンまで作って、俺の‥‥‥なのかどうかはわからないが、とにかく俺と同じ名前を連呼しながらうろうろと歩き回っていた。
「知らない子?」
「ああ。他にも相沢祐一がいるんだろ」
「そうかなあ?」
あいざわぁぁぁっ‥‥‥
「あのな名雪よく考えてみろ、俺が今回ここに越してきたのはいつだ?」
「昨日だよ」
「昨日の俺の行動は?」
「えっと、ずっと荷物解いてたよ。私も一緒だったし」
ゆういちぃぃいぃぃいいぃぃぃっ!
「今日の俺の行動は?」
「朝ごはん食べて、今CD屋さんに来た」
相変わらず外ではあいつが喚いている。
「そこを踏まえて、じゃあ問題だ。俺はあの変なのと、いつ、どうやって知り合ったんだ?」
一瞬止まった名雪は、ゆっくりと、不思議そうに首を傾げて、言った。
「いつ知り合ったの?」
目眩がした。膝が折れそうになるのを必死で堪える。
「違うだろ! 知り合いになれるワケないって話をしてるんだろうが!」
「あ、そうなの? 祐一凄いなあ、いつからそんなに女の子に手が早くなったんだろうって、私ちょっと驚いちゃったよ」
‥‥‥流石に、二度は堪えられなかった。
思わずその場にかくんと膝をついた俺と、それでもまだ首を傾げている名雪を、CDショップの店員や他の客たちが怪訝な顔で見つめている。何となく気まずい雰囲気の中、俺たちはそそくさと目当てのCDを買い、急ぎ足で店を後にした。
「見ろ、追い出されちまったじゃねえか」
「私のせいじゃないよ」
「‥‥‥ああわかった。わかったから今日は早く帰ろう」
「うん。でも何なんだろうね?」
俺たちは足早に商店街から抜け出す。背中の向こうに、俺を呼ぶ声はまだ聞こえていた。
翌日、初めて登校した時には既に、俺は有名人だった。転入生という物珍しさもあるだろうが、商店街に突然現れたあいつが大声で探し回ってた誰かと同じ名前だったから、という理由の方がどうもメインらしい。昨日のアレは、俺が思っていたよりも大きな騒ぎになっていたようだった。
放課のチャイムと同時に、俺は机に突っ伏した。
「これじゃしばらくあの辺歩けないなあ」
「でも私は大丈夫だよ?」
「当たり前だろ。あいつが探してたのは名雪じゃないんだから」
「ん。だから、何か必要なものがあったら、言ってくれれば私が代わりに買っておくよ」
「‥‥‥なるほど。サンキュ」
じゃあ部活があるから、と言って教室を出ていった名雪と入れ違いで、さっき教室を出ていった筈の香里が入って来る。
「相沢くん、呼ばれてるわよ」
「誰に?」
「知らないわ。なんか女の子。大声で相沢くんの名前呼びながら校門のあたりをふらふらしてるけど」
「はぁ? またあいつか?」
「ねえ相沢くん、本当は何かやったんじゃないの? 昨日は商店街、今日は学校、引っ越してきた途端から相沢くんのいる場所ばっかり‥‥‥尋常な恨まれ方と違うわよ」
「何だそりゃ? 大体その」
尋常な恨まれ方ってどんなんだ一体?
聞いてやろうかとも思ったが、今はどっちかっていうとそんな些細なことよりも校門のそいつの方が先のような気がした。
慌てて鞄に教科書を詰め込み、俺は校門へ向かう。
そこに、先客がいた。
昨日のあいつの両肩に知らない女の子が両手を置いている。この学校の制服を着た女の子だ。ケープについたリボンの色が名雪と違う。とはいっても、俺も名雪も二年だから、俺たちの学年と「違う」ってだけじゃ上か下かまではわからない。見た感じは年下っぽいと思ったけど、でも俺のそういう勘は割と当たらないからアテにならない。
そのままふたりは、何を話すでもなく、ただずっと、見つめあっていた。
奇妙な光景だった。
あ、もしかしてあの子が「あいざわゆういち」だったのか? ‥‥‥そんなワケないか。「ゆういち」なんて、どう考えても男名前だよな。そうすると、もしかしてアレは女子の制服着てるけど実は‥‥‥だんだん恐いことになってきた想像を無理矢理打ち切って、遠巻きに見守っている生徒の輪に加わってみる。
あいつじゃねえの? あの暗い女。
あああの天野とかいう子?
相変わらずワケわかんないことしてるわね。何やってんのかしら。
ひそひそと囁き交わすギャラリーの声が、聞きたくなくても耳に届く。どうやらあの子は、他の生徒にはあまりいい印象を持たれていないらしい。まあでも、あの厄介なのを引き取ってくれるんだから、俺まで嫌いになることはないよな。
踵を返そうとして‥‥‥その頬に、光る雫を見かけた。
もう一度、俺が振り返ってそっちを見るまでの僅かな間にも、ぽろぽろと雫は零れ続け、校門のコンクリートに点々と染みを残した。
「‥‥‥誰に、会いに来たの?」
色を失うほど噛み締めた唇が呟く。
「あいざわ、ゆういち」
あいつは同じことしか言わない。
「ここにいるの?」
「わかんない。でも、そういう気がする」
「そう。じゃあ、いるんだわ、きっと。それで、あなたのお名前は?」
「‥‥‥」
「あなたの、お名前は?」
「‥‥‥まこと‥‥‥さわたり、まこと‥‥‥」
お前に言うのは簡単なのにな、真琴。
でも人間の真琴さんには、俺まだ何も言えてないんだ。
ちょっと待て。あの時のあれは確かに真琴‥‥‥さんだったけど、だって真琴さんは別にこっちの人じゃないぞ? それに俺より年上だった真琴さんがあんな背丈の筈ないだろ? 大体、真琴さんはあんな金髪じゃなかったし、もっとこう、どっちかっていうとお淑やかな‥‥‥っていうか‥‥‥
何で今頃こんなこと思い出してるんだ俺は?
しかもこんなに必死になって、一体誰に何を言い訳してるんだよ?
頭を強く振って、雲みたいに際限なく湧き出してくる映像を振り払う。
閉じた目蓋を次に開いた時‥‥‥すぐ目の前、吐息が触れるくらいの距離にあいつの顔はあって、小さく首を傾げるようにして、慌てた俺の顔を覗き込んでいた。
「うわっ」
そのまましばらくじっとしていたそいつは、後ろで組んでいた手を急に解いて、俺の右手を取り、自分の頭の上に乗せた。俺の手で自分の頭を撫でるように、小さく腕を揺する。
しばらくそんなことを繰り返した後で。
「見つけた。見つけたよ、ゆういち。会いたかったよ、ずっと会いたかったよ‥‥‥」
この世の幸せを独り占めしたような顔をして、そいつはいきなり、そんなことを言った。
「へえ、本当に日曜日に祐一のこと呼んでた子なんだね」
驚いた顔の名雪が、俺とそいつの顔を見比べている。
「ああ‥‥‥本当に俺を探してたみたいだよ」
俺がそいつを連れて帰って来たから、その日の水瀬家の夕食に集まった人数は普段よりひとり多かった。
渦中のそいつは、きょとんとしたまま食卓の椅子でおとなしくしている。
「祐一さんは、この子に心当たりはないんですね?」
「ええ。嘘か本当かわからないけど、こいつ『あいざわゆういち』と『まこと』以外のことは何も知らないらしいんです。で、その『あいざわゆういち』も結局俺のことみたいだけど、俺自身は土曜にこっちに越してきたばっかりでこんな知り合いはいないと思いますし、なんか、どうしたらいいのかわからない、っていうか」
「そう‥‥‥ねえ、『まこと』っていうのは、あなたのお名前なのかしら?」
「ん。そうだよ」
根拠はわからないが、答える方は自信満々だった。
「この子の親御さんがこの子のこと探してらっしゃるようだと問題あるけど、住所とか名前がわかるものも何も持ってなかったんでしょう? それで今あれこれ考えても仕方ないものね」
「じゃあ、本当のお母さんは明日から探すってことにして、見つかるまではここにいればいいよ」
「それがいいわね。それじゃ、これから私たち、あなたのことを『まこと』って名前で呼びたいんだけど、それでいいかしら?」
「うんっ!」
「はい。それじゃまことちゃん、ごはんにしましょう」
なんと‥‥‥たったそれだけ、だった。
まことはこうして、あっという間に水瀬家の家族になってしまったのだ。
「あの、秋子さん‥‥‥連れて来といて俺が言うのも何ですけど、もうちょっとこう、その、警戒っていうか」
「あら。だって、そんな風に怪しがらないといけないような子なら、祐一さんは多分、連れて帰って来たりしないでしょう? 今疑ったって仕方ないですよ」
「それはまあそうですけど」
「でも祐一、本当に手が早くなったんだねえ」
「ぶっ!」
「お味噌汁吹いちゃダメだよ」
「ゆういち、おかしーい」
「おま‥‥‥お前が変な‥‥‥ナンパしたとかそういうんじゃないだろ別にっ!」
「まあ祐一さん、ひょっとしてどこかで声をかけた子を連れ込んだだけだったんですか? でも一応年頃の女の子もいる家ですから、そういうことはなるべく内緒でやってもらった方が‥‥‥っていうか、何だか歳が随分」
「あああ秋子さんまで‥‥‥」
さんざ遊ばれたのは言うまでもなかった。
「ゆういちぃ」
早々に居間から退散し、部屋に引っ込むなり、まことが俺の部屋に上がり込んでくる。
そのまま、机に向かおうとしていた俺の膝の上にちょこんと乗っかってしまった。
「おいこら。珍しく真面目に宿題やってるんだから、その間くらいは宿題させてくれよ」
一応言ってはみるが、案の定、聞いていない。
両手で俺の右手を追いかけるのに夢中だ。
「お前、俺の手好きか?」
苦笑混じりに聞いてみると、
「うん。だってゆういちはずっと、ずっとあたしにこうやっててくれてたでしょ? だからあたし、この手、好き。優しくてあったかいから」
真面目な顔でまことは答えた。
ずっとって、だって俺とは会ったばっかりだろ。
言ってみたかったけど、ものすごく悲しい顔をするんじゃないかって予感がして、結局それは言わなかった。
「だからなんかね、こうやってると落ち着くの」
言いながら、遂に俺の右手を捕まえることに成功した。そのまま頭の上に手のひらを乗せようとするが、実は持ったままだったシャーペンのが頭に直撃して、ごちっと鈍い音を立てた。
「あうう‥‥‥いったぁ‥‥‥」
そのまままことは、俺の膝の上で、頭を押さえてうずくまってしまう。‥‥‥おかしい。こいつを見てると、俺はどうしてもあいつのことを思い出してしまう。
そもそも俺には、「まこと」って名前の知り合いはひとりしかいない。隣のお姉さん、幼馴染み‥‥‥いろいろありすぎてどれが正しいのかわからないような関係だったけど、とにかく他に、「まこと」って名前の人はいなかったと思う。少なくとも、俺の記憶にはない。
人間以外になら、ひとつだけ心当たりがあった。誰にも内緒で、あいつのことを「真琴」と呼んでいたのは俺だから。その頭を撫でながら、いろんな話をしたことも憶えている。あの時思ってたことは、多分、全部話した。真琴さんのことも全部。だけど、だけどそれは。
お前に言うのは簡単なのにな、真琴。
でも人間の真琴さんには、俺まだ何も言えてないんだ。
「なあ、お前もしかして」
「ん?」
撫でてもらえるのが嬉しいのか、頭が痛いのも忘れた様子で、まことはにこにこしながら俺を見上げている。
‥‥‥そんなわけないよな。頭をさすってやりながら、俺は勝手に思い直して口を噤む。
だから聞けなかった。
お前本当は狐なんじゃないのか? なんて。
「そう‥‥‥連れて帰ったんですか」
昼休み。まだまだ寒いこの時期、中庭は閑散としている。今は真ん中あたりのベンチに俺とその子がぽつんと座っているだけだ。
昨日、まことの前で泣いていたその子は、名前を天野美汐と言った。
あいつじゃねえの? あの暗い女。あああの天野とかいう子? 相変わらずワケわかんないことしてるわね。何やってんのかしら。ひそひそ話が耳に戻ってくる。この子、あんまり好かれてないんだな。
「なあ、よかったら教えてくれないか? なんでその、天野さんは」
「天野でいいです」
「天野は昨日、なんであいつの前で泣いてたんだ?」
「それは‥‥‥言えません」
確かにちょっと愛想はないかも知れない。だから嫌いだ、とは俺は思わないけど。
「そうか。それじゃあさ、えっと天野、もしかして昔‥‥‥いや、いいや。何でもない」
狐を飼ってなかったか? 聞こうとして、俺はやめた。
そんな夢みたいな話があるわけはない、と思った。本当は、そんな夢みたいな話が実際に起こってるんでもなければ、俺の知っているそれ以外の可能性をどんな風に並べても、この事態には説明がつけられない。
でも、わかっていても聞けなかった。続く言葉が、否定でも、肯定だったとしても、天野の次の言葉によって、俺が知ってる現実はとにかく現実でなくなってしまいそうで、それが恐かった。
長い沈黙。
「どうして、そういうこと、聞くんですか?」
次の言葉は肯定でも否定でもなかった。
‥‥‥否定、ではなかった。
「何が言いたかったか、わかってるんだな。天野には」
不意に天野が顔を上げる。答えてしまったことを後悔している顔、だと俺は思った。
「だからもしかして、だから天野はあいつのことが気になるんだとしたら、あいつの名前は多分、本当に真琴‥‥‥沢渡真琴って言うんだろうなあって、そう思ったんだよ」
ベンチの上で膝を抱えて、天野は目を伏せる。
「さわたり? 相沢さんとは名字が違うんですか?」
「ん、まあな。だから本当は、『沢渡真琴』ってのは厳密に言うとあいつ自身の名前とは多分ちょっと違うんだけど、まあそれは俺ひとりの個人的な思い入れだけの話で、昨日今日知り合いになった人にそんな微妙な説明してもきっとわかんないと思うし。だからその辺を大雑把に四捨五入すると、大体そんなもんで合ってる感じなんだ」
「そう、なんですか」
それだけ答えて、天野はベンチから腰を上げた。
「だけど私、もうあのことは思い出したくないんです。灰ばかり残して、強い炎は簡単に燃え尽きてしまうから‥‥‥失礼します」
立ち去る天野の背中は、俺が追いかけることを頑なに拒んでいた。
相変わらず真琴は、夕食が済むと途端に俺の膝の上にやってくる。
取り敢えず右手を頭の上に乗っけておけば文句は言わないが、さすがにこれは、宿題がちゃんとできる状態ではない。別に勉強は好きじゃないけど、転校したてで慣れてない間は宿題くらい真面目にやっておこうと思っていたのに‥‥‥毎晩女の子を膝の上に乗っけてるから宿題ができない、なんて事態はいくら何でも想像の範囲外だった。
「なあ真琴、お前どうして真琴って名前なんだろうな」
本当はわかっていることを聞いてみる。
「んー、わかんない。ゆういちがずっと、あたしのこと『まこと』って呼んでた気がして、でもそれだけ」
わかってる通りの答えが返ってくる。
「そういうのって、憶えてるもんなのか?」
「うん。嬉しかったんだよ。だって、ゆういちがあたしを『まこと』って呼んでくれるまで、あたしは『まこと』じゃなかったから。『まこと』って言葉は、あたしのいちばん大事な言葉なの」
真琴は笑った。
今更疑う意味もなかった。もう、こうなった理由なんか考えたってしょうがない。どんなに起こりそうじゃない奇蹟だったとしても、今この膝の上で現実に起こってることまでなかったことにはできない。
これはあの真琴だ‥‥‥多分名雪も知らない、俺の初恋の相手、と、同じ名前の狐だ。
「なあ真琴。昔さ、俺、ちょっとだけこっちに住んでたことがあるんだ。あっち‥‥‥あっちとかこっちとか言ってもどっちだかわかんないか。とにかくまあ、昔、ここじゃないとこからここに来てた頃だ」
「うん」
「その時、俺、好きな人がいてさ、それがお前と同じ名前なんだ。沢渡真琴。向こうの家の隣の姉ちゃんなんだけどさ」
「うん。憶えてるよ」
「そっか‥‥‥憶えてるのか」
思い出す。暑い夏の日だ。
その時俺がどうしてその草原にいたのか、その理由はもう記憶の中にない。
傷ついた狐が草原で喘いでいた。今から思えば別に大した怪我じゃなかったかも知れない。だけど俺は、そいつをそっと抱き上げて、水瀬の家に連れて帰る。
そいつを机の下に隠した。救急箱を持ってきて、慣れない手つきで消毒したり包帯を巻いたリした。そういうことの下手な自分がもどかしくて、何度も秋子さんや名雪に打ち明けようと思ったけど、それもできなかった‥‥‥俺はそいつを「真琴」と呼んでいたから。
そういえばあの頃はもう、水瀬の家は秋子さんと名雪のふたり暮らしだった。今でもそうだけど、俺は憧れている女の人の話を女の人相手に臆面もなく語れるような垢抜けた子供じゃなかった。だから真琴さんのことは、名雪にも秋子さんにも喋ったことはない。
もしかしたら俺は、狐が可哀想だったんじゃなくて、「王様の耳は驢馬の耳」と叫んでもいい相手が欲しかったんじゃなかったか、と今になって思う。
内緒で面倒を見ながら、内緒でいろんな話をした。そいつ相手に何かを隠しておく理由も意味もなかった。狐は秘密を秘密のままにしてくれるから。とにかく、狐の真琴は、俺が初めて好きになった人の秘密を共有する唯一の存在だった。
だから俺たちはずっと一緒だった。
真琴の怪我が治るまで。
夏休みの終わりが近づいて、俺がこの街を離れるまで。
‥‥‥あの日、真琴と出会った草原に、俺は真琴を放した。俺の足元から離れようとしない真琴を置いて、俺は全力で走った。ばたんと玄関の扉を閉めるまでをほとんど一気に走りきった俺が、どうして走りながら泣いていたのか、名雪はずっと気にしていたみたいだった。秋子さんは何も言わなかったけど。
水瀬の家に続く最後の角を曲がった時、まっすぐ前に見えた赤い夕焼け空が綺麗だった。
「ねえ、あたしと真琴さんと、どっちが好き?」
「んー‥‥‥どっちも真琴だからな」
「えー? ゆういち、あたしのこと嫌い?」
「そんなことないぞ。嫌いな奴の頭撫でたりしないだろ?」
「そっか。そうだよね。じゃあゆういち、その人のことも好きでいいよ? そしたら、あたしもまことだから」
「お前って簡単でいいよなあ」
「ん?」
「いや、何でもないよ。それに結局、そっちの真琴さんには、俺、何も言えなかったんだ」
「好きって言ってあげないの?」
「今はどうだかわかんないからな。今の俺があの真琴さんのこと好きかどうかなんて、自分でもわかんないんだ」
「どうして?」
「どうして、だろうな」
本当はわかってる。そんなの簡単だ。憧れる気持ちだけでいいってことにしておけば、何も手に入らない代わりに、何かをなくすこともないからだ。俺は結局、自分勝手に真琴さんのこと好きになって、それを自分勝手に自分から遠ざけていただけで、真琴さんのこと、本当に、本気で欲しがってたわけじゃなかったからだ。
傷つこうが何だろうが、それでも真琴さんを欲しがれるくらいの強さがあの時の俺にあったら、俺と真琴さんは今頃どうなっていただろう。それでも今と同じか。もしかして今よりも遠かったのか。それとも。
「‥‥‥ゆういち、寂しい顔してる」
急に、真琴が俺に抱きついた。小さくて速い鼓動が直に響いてくる。
「あのね。ゆういちが『まこと』ってあたしを呼ぶ時、ゆういちはいつも寂しい顔をして、あたしじゃない人のこと見てるんだよ。だけど、いつもゆういちはあたしに優しいから、それがとっても嬉しいから、だから今度はゆういちのこと、あたしがこうやってぎゅってしてあげたかった。ゆういちがあたしにしてくれるみたいに、あたしがゆういちの頭を撫でてあげたかった。だからあたしは、人間になりたかったの。ゆういちは優しいから、すぐあたしのして欲しいことをしてくれるから、いつも忘れちゃうけど」
抱きしめる力が強くなる。
「大丈夫だよ、ゆういち‥‥‥あたしが、一緒に、いるよ」
必要以上に熱い体温が伝わってくる。
‥‥‥ちょっと待て。それは熱すぎないか?
「どうした真琴? なんか熱があるんじゃないか?」
真琴の鼓動がどんどん速くなる。息が荒い。
額に手を当てる。やっぱりおかしい。熱がありすぎる。
「真琴、おい真琴っ!」
「大丈夫‥‥‥大丈夫だから‥‥‥」
熱に浮かされた子供のように、大丈夫、という言葉を繰り返し呟きながら、真琴は俺の腕の中に崩れた。
『それで?』
電話の向こうで、天野は相変わらず素気なかった。
「だから、熱が引かないんだ。人間の薬が効くもんかどうかもわからないから、薬は飲ませないようにして、熱を下げようとしてるんだけど‥‥‥天野、この後はどうなるんだ?」
『どうして私に、そういうこと聞くんですか? 思い出したくないって言った筈なのに、わざわざこんな夜中に電話かけてまで』
「それは聞いた。悪かったって思ってる。そんなこと言ったって信じてもらえないかも知れないけど‥‥‥だけど」
小さく、しゃくりあげるような音が混ざる。
『一度しか言いませんよ‥‥‥どうにも、なりません』
「どうにもならない、って?」
『私の時もそうでした。それまで全然平気そうだったのに、いきなり熱を出して倒れて、熱が全然下がらなくて‥‥‥奇蹟は、あの子の奇蹟はそれでっ、全部おしまいだったんですっ!』
急に声を張り上げる。それがきっと、天野のいちばん思い出したくないことだったんだろう。
『‥‥‥もうやめてよっ‥‥‥思い出させないでよっ‥‥‥あの子は私の、最後の‥‥‥友達‥‥‥っ‥‥‥』
電話の向こうで、天野は泣いていた。
『もう二度とかけてこないでくださいっ!』
その涙声を最後に、電話は切れた。
「そう‥‥‥じゃあ真琴ちゃんは、あの時の狐だったのね。こんな風に帰ってくるなんて思ってなかったけど」
いちばん驚いたのは、真琴は実は昔内緒で飼ってた狐だ、なんて夢みたいな話をしても、秋子さんが全然動じなかったことだ。
「あの時のって、じゃあ秋子さんはあの時、俺が狐飼ってたって知ってたんですか?」
「ええ。だってあの子、私がお買い物に行こうとすると部屋から出て来るんですもの」
「えええ‥‥‥私全然気づかなかったよ‥‥‥」
「その時には、名雪はもう猫アレルギーだってわかっていたから。狐が大丈夫かどうかはわからなかったし、もしダメだったら置いてあげられなくなるかも知れないようなことを、簡単に試してみるわけにもいかないでしょう? それで、祐一さんは内緒で飼いたかったみたいだったから、私も何も言わないことにしていたの」
‥‥‥あの時。
真琴を草原に置いて来た日に、泣いている俺を見ても秋子さんが何も言わなかった理由が、今になってやっとわかった。俺が狐をどこかに放しに行ったんだってことが、秋子さんにはちゃんとわかっていたんだ。
「迂闊に人間と同じ薬を飲ませなくてよかったわね。どんな効き方するかわからないもの」
「でもお母さん、だからって真琴ちゃんをこのままにしておいても、熱は下がらないよ」
「‥‥‥それは」
「打てる手は、もうない」
言い淀む秋子さんの代わりに俺が答える。
「さっき電話で経験者に聞いた。その子の時も、奇蹟はこれでおしまい、だったって言ってた。もう俺たちには、真琴と一緒にいてやる他に、できることは残ってない」
「そんなっ! そんなのって酷いよ祐一っ」
「駄目よ名雪。それ以上は言っちゃ駄目」
「‥‥‥ううっ‥‥‥だって‥‥‥悲しいよ‥‥‥ごめん祐一‥‥‥わかってるけど‥‥‥だってっ‥‥‥」
こんな夢みたいな話に、ちゃんと取り合ってくれる秋子さんでよかった。
自分自身とは殆ど何の縁もない真琴のために、本気で泣いてくれる名雪でよかった。
ここが水瀬の家で本当によかった。
だから俺は‥‥‥今は真琴のためだけに、ここでただ、真琴の頭をさすりながら、みっともなく泣くことだけに一生懸命でいられる‥‥‥
嵐のように唐突にやってきた真琴は、やってきた時と同じくらい唐突に俺の前を駆け抜けて行って、最後にそこに横たわっていたのは狐の姿をした真琴だった。
死にそうになるくらい悲しい別れだったけど‥‥‥悪い方へは考えないようにしよう、と俺たちは決めた。
そう、真琴の願いは叶えられた。人として俺に接することができた。自分が嬉しかった気持ちを、本当に伝えたかった気持ちを、真琴はちゃんと俺に還すことができた。だから今度は俺たちが‥‥‥俺が、今はもうここにいない真琴に、何を還してやれるか、なんだ。
『え? もしかして祐ちゃん? どうしたの突然‥‥‥そうだ、引っ越したんでしょ、ねえそっちはどう?』
その晩俺は、真琴さんの家に電話をかけた。
いろんな話をした。他愛ない話。馬鹿みたいな話。昔、好きだったこと。真琴さんの彼氏のこと。最後の話は、もうすぐ真琴さんとその彼氏が挙げる結婚式の話だった。
夜も更ける頃、もしかしたら今でも心のどこかで中途半端に燻っていたのかも知れない俺の初恋と一緒に、長い長い電話は静かに終わった。
「まあそんな感じだったよ。一応、天野には報告しとこうと思ってな。世話になったし」
「‥‥‥そんな話‥‥‥聞きたくありませんでした」
同じベンチの向こうの方に、ほとんどこっちには背中しか向いていないくらいの姿勢で、仏頂面の天野が腰かけている。相変わらず人気のない中庭には、やっぱり天野と俺しかいない。
「どうしてそっとしておいてくれないんですか? こんな、愛想がなくてみんなから嫌われてる女の子をからかうのが、そんなに楽しいですか?」
えらい言い様だな。自分のことなのに。
「まだ、思い出したくないか?」
「ええ。できれば」
「そっか‥‥‥あのさ、真琴がさ‥‥‥お前のことなんか思い出したくないんだよ、なんて俺に言われちまったら、わざわざ狐が人間になるような真似までして俺に会いに来たのがまるごと全部いけないことみたいになっちまうような気がするんだ。ぱっと出てきてぱっと消えちまって、俺があんなに悲しかったんだからそりゃ天野だって悲しかったんだろうけど‥‥‥天野に会いに来たそいつのことを天野が本当に忘れちまおうだなんて思ってるなら、そいつがここにいたって証拠は誰が、どこに残しといてやれるんだろう、って今は思う」
「え‥‥‥」
立ち上がりかけた天野の動きが止まる。
「忘れちまえたら楽だろうなあ、って俺も思ったよ。俺ひとりだけだったらね。でもなんか、うちの場合は家族総出だったからさ。名雪とか‥‥‥って言ってもわかんないか。俺の従姉妹だけど、まあその辺とか、みんなで泣いた。もう、あんなにいっぱい立ち会った人がいてさ、俺だけもう忘れちゃいましたってわけにもいかないだろうし。でも天野の時は‥‥‥多分、その時も、天野はひとりだったんだろう?」
「はい。‥‥‥どうして、そんなこと、知ってるんですか」
縋るような瞳で俺を見つめている。そういえば、今日になって初めて、天野がちゃんと俺を見た気がする。
「知らなかったよ。そんな気がしたから言っただけ」
本当のことだった。
「なあ、真琴がさ、一億何千万人いる人間の中から俺を探し当てるエネルギーって、なんか、凄いと思うんだよ。だって七年会ってないんだぜ? そんなのわかるか普通? ‥‥‥でも、それでもあいつは俺に辿り着いたんだ。天野、俺たちは、あいつらのそういう気持ちにちゃんと応えてやれてるかな?」
「だけど‥‥‥」
「だからさ。思い出が悲しくても、その悲しい思い出ごと、全部憶えててやれるのは俺たちだけだ。悲しい気持ちを伝えられるのも俺たちしかいない。俺たちだけは、あいつらの思い出を投げちゃいけない‥‥‥ひとりぼっちの天野とそいつでやっとふたりになれたのに、そいつがいなくなったからまたひとりぼっちに逆戻り、って天野は思ってたかも知れない。でも今だったら、天野にも俺たちがいるだろ? 同じ痛みを分け合える誰かがさ。だから、忘れようとすることになんて、もうそんなに一生懸命にならなくていいんだよ」
「‥‥‥っ‥‥‥ううっ‥‥‥」
とうとう泣き出してしまった天野の両肩に制服を掛けてやる。
肩を震わせている天野の頭を撫でていると、俺の手のひらのすぐ側に、もうひとつ、小さい手のひらがあるような気がした。そっちに目をやると、どことなく真琴に似た感じの、綺麗な金髪の男の子が、天野のすぐ側で笑っている気がした。
「相沢さん、夢みたいな話は嫌いですか?」
「いや。嫌いじゃないよ」
「えっと、長い話は嫌いですか?」
「嫌いじゃないよ」
「でも、何だかわからない狐のお化けが出てくる変な話ですよ? 笑わないで‥‥‥笑わないで、最後まで聞いてくれますか?」
「なんだ奇遇だな。俺にもそういう友達がいるぞ。だから‥‥‥大丈夫だ」
「よかった」
涙を拭いながら、顔を上げた天野が、笑った。
そういえば俺は、笑ってる天野を初めて見た。
「相沢さん。あの‥‥‥今度は、私たちのお話を聞いて欲しいんです」
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