HONEY  


  

 うららかな冬の日差しが窓際の机を暖めている。
 見上げた空の上で相変わらず光っている太陽は、だけど、あの目に刺さるような夏の眩しさを、ほんの少しだけどこかへ置き忘れてきたのかも知れなかった。
『うぐぅ‥‥‥眠たいよぉ‥‥‥』
 俺の肩のあたりに、半分開いた目蓋を擦りながら呟く声があった。
「お前は別に寝ててもいいんじゃないか? 授業受けてるわけじゃないんだし」
『ん‥‥‥そうなんだけど‥‥‥ふぁ‥‥‥でも‥‥‥くー』
 どうやら本当に寝たらしい。あっという間だった。
 寝つきのよさは名雪並みだな。
「寝ちゃだめだよ祐一」
 横から名雪の声がする。でも何だか、相手をしてたら俺まで眠くなってきた。まあいいや。寝ちゃえ。
「祐一ってば‥‥‥もう」
 夢だ。そうだこれはもう夢の中なんだ。そうに違いない。そうでもなければ、よりにもよってあの名雪に俺が起こされるなんて事態が起こる筈がない。
「奥の手使っちゃうよ?」
 何が奥の手だ。きっと本物の名雪はもうとっくに寝てる。絶対そうだ。そうに決まってる。
「先生、次のとこの和訳、相沢くんが是非やりたいって言ってます」
 ‥‥‥あ? 何だと?
 名雪の奴、今何を言いやがった?
「あらそう? じゃあ相沢くん、お願いしようかしら」
 慌ててがばっと身を起こした俺と、先生の視線がぶつかった。
「お休みのところ申し訳ないわね相沢くん。じゃあ、教科書のそこから次の行まで、一気に行っちゃってくれるかしら?」
 にーっこり。普段は優しい先生の微笑みも、今だけは悪魔の笑いにしか見えない。
 慌てて立ち上がり、どうにか答えて着席する。
「なゆきいいいっ」
「祐一がそこで寝てると私まで眠くなるんだもん」
 名雪はしれっと言い返す。くそー。
『あはは。見事にしてやられた、って感じだね』
「お前寝てたんじゃねーのか?」
『だって、祐一くんが寝てていいって言ったんだもん』
「そうなの? なんだ。じゃあやっぱり祐一が悪いよ」
「ぐうっ‥‥‥」
 結局、世の中はどこまでも世知辛い。
 そのまま俺の頭越しに内緒話を続けるふたりに、俺はもう苦笑するしかなかった。



 帰り道。
 いつものように、いつもの道をひとりで歩きだす。
 ふと放課後の校門から校庭を振り返ると、向こうの方に走る名雪の姿を見かけた。
『あれ? 名雪さんはまた部活?』
「あいつあれでも陸上部の部長だからな。なんだ、何か用でもあったのか?」
『ううん。そういうのじゃないんだけど』
「そっか‥‥‥まあ、夜になれば会えるしな。最近いっつも行ってるだろ?」
『ん。そうだね』
 俺の肩に座ったままぶんぶん手を振っていたけど、きっと名雪は気づかなかっただろう。
「‥‥‥今日も、たい焼きでも食ってくか?」
 俺は何となく、肩の上にそう声をかける。
『うんっ!』
 音がしそうな勢いで頷くのがわかった。何となく、嬉しくなる。
 もう一度校庭を振り返った。もうじき、あの校舎の向こうへ夕日が沈む。



 ‥‥‥あの病室の窓から見えた夕日も、やけに綺麗だったことを思い出す。
 そこに眠っていたのは、俺のよく知っているあゆとは全然違うあゆだった。今も昔も、俺の知っていたあゆはずっとあの頃のままのあゆだったから、背が伸びてる姿なんて想像したこともなかった。よく考えてみれば、この歳くらいで七年も離れ離れなら背が伸びるなんて当たり前なのに、それでも「七年後のあゆ」を初めて見た時、いつものあゆと全然違うことに驚いたのを、俺は今でもよく憶えている。
 遠い昔に高い高い樹の枝から墜ちた少女は、七年経って、俺がすべてのことを思い出した次の日‥‥‥俺が初めてその病室へ見舞いに行った日に、七年も続いた深い眠りから、たった一度、目を覚ました。力のこもらない両手で、それでも懸命に俺の手にしがみついて、何も言わず、穏やかに微笑みながら、溢れる涙の雫を拭うこともしないまま、その瞳に焼きつけるように俺の姿を映して、たった一度、俺の唇にその小さな唇で触れるために、起こせもしない上半身を無理矢理起こそうとするようなことまでして、そうしてあゆは。
 そうしてあゆは、永遠の眠りについた。
 七年後のあゆの身体は、その後の葬式で焼かれてしまった。俺とあゆの学校だった樹は、俺がいなかった七年の間に倒されてしまっていた。そうやって少しずつ、あゆのいた風景の中に、あゆのいない日常がゆっくりと染み込んでいって、いつか、それが当たり前になった‥‥‥それなのに、天使になったあゆの心だけが、相変わらずこの世界に遺されたまま、今でも俺の目の前で、たい焼きたい焼きと嬉しそうに口ずさみながら得体の知れないステップで宙を舞っていた。
 この奇蹟は、起こり方がどこか間違っている気がする。でも、それでもよかった。今という瞬間が奇蹟なら、これからもずっと永遠に、奇蹟のままであればいい。悲しいことを思い出してしまう度に、俺はいつもそんなことを願う。
 例え、その奇蹟のありかたがとんでもなく間違っていたにしても‥‥‥それでも、奇蹟は奇蹟だから、と。



 何度見ても不思議な光景だと思う。
 もうひとつの学校は、今はもう切り株しか残っていない。その切り株に腰掛けた俺の目の前で、空中で水母か何かのようにゆらゆらと揺れながら、何故か足だけはちゃんと正座したあゆが、嬉しそうにたい焼きを頬張っている。あゆの姿はどこか霞んでいるし、よく見ると向こうの景色が透けて見えるし、「そこにあゆがいる」のはわかっても「そこにあゆの身体がある」ようには思えなくて、だから現実として存在しているたい焼きがあゆに消されてしまうようなわけはないのに、あゆの小さい唇に齧られたたい焼きは口の中へ消え、喉をこくっと鳴らす動きに合わせて飲み下されて‥‥‥ありもしない体のどこでどうなっているのか、まるで本当に人間が食べたみたいに、二度と姿を現さない。
『ん? どうしたの祐一くん?』
 自分のことをじっと見つめている視線に気づいたのか、あゆが小首を傾げる。
「そのたい焼きは一体あゆのどこへ消えてるんだろうってのが前から気になっててな」
『どこって、お腹の中だけど?』
「だってお前幽霊だろ?」
『ボク天使だもん。幽霊じゃないもんっ』
「ああわかったわかった。だからお腹の中はまあ納得してやるとしてもだ、じゃあその後はどうなるんだ? 天使でもトイレ行くのか?」
『え? 別に行かないけど‥‥‥ああ、そういえば不思議だね』
 ぽん。両手を合わせる仕種をする。音は聞こえない。
「不思議だねってお前、自分の体のことだろ?」
『だって本当にわかんないんだもん。そんなこと考えたこともなかったよ‥‥‥うぐぅ‥‥‥でも‥‥‥』
「今度はいきなり何だ?」
『えっと、考えてたら嫌なこと思いついちゃって‥‥‥今まで忘れてたから気にしたこともなかったけど、後で急にトイレ行きたいとか思っちゃったりしたらボクどうすればいいんだろうって‥‥‥ああ、何だか急に恐くなってきたよ』
 今度は頭を抱えてしまう。一瞬、心なしか顔色が違ったような気がしたのは、血の気が引いたからか、淡い木洩れ日があゆの顔に透けて見えたからか。
『でもね、でも味はわかるんだよ? 今日のたい焼きは焦げ目がもうちょっとで、この間の日曜日のはパリパリしてておいしかったとか、ボクそういうのはちゃんと憶えてるし、って、あーっ! 笑ったなあっ!』
「‥‥‥あはははははっ‥‥‥はあっはあっ‥‥‥ああ、悪い悪い‥‥‥くくっ‥‥‥」
 その変わりようが微笑ましくて、気がつくと俺は、腹を抱えて笑っていた。腹筋がよじれるかと思った。
『祐一くんなんか嫌いだよっ!』
 あゆが俺からぷいっと顔を背けた。



『祐一くん、名雪さんのところへ行ってきてもいい?』
「ああ。っていうか、それくらいいちいち断らなくてもいいぞ。昨日も言ったけど」
『うん。でも‥‥‥ね。じゃあちょっと行って来るよ』
 最近あゆは、夕食が済むとよく名雪のところへ行くようになった。
 いくら俺の部屋と名雪の部屋の間には壁一枚しかないとはいっても、ドアをノックとかそういう予告の類を全部省いて、しかもその壁を直接通り抜けて行くってのはどうかと俺は思うんだけど、まああゆは女の子なんだし、朝俺が直接部屋に入っていって起こしてることにも文句言わないような名雪だし、それはそれで別にいいのかも知れない。
 そうして‥‥‥もともとひとりしかいなかった筈の部屋の中で、今度こそ本当に、俺はひとりになる。あゆの重さなんていつも全然感じてないのに、こんな時だけは急に、肩が軽くなったような気までしてくる。
 あの壁の向こうで、名雪とあゆは何を話しているのだろう?
 多分、明日はたい焼き一緒に食べようねとか、そんなしょうもないことをふたりして嬉しそうに喋っているんだろう。そう思う。
 そう、思いたいと、思う。
 ひとりだということを意識するのが嫌で‥‥‥ひとりだ、って言葉が胸の中でぐるぐる反響している音が聞こえるのが嫌で、枕元にはリモコンもあるのに、俺はわざわざ寝転がっていたベッドから身体を起こし、机の脇に置いたオーディオまでの数歩をわざわざ歩いていって、アンプの音量を上げた。
 でも、少し大きくなったスピーカーから聞こえる歌がさよならの歌だったのが嫌で、もう一度ベッドに転がった俺は、枕で無理矢理耳を塞いだ。
 目を瞑った瞳にぼんやりと映る景色。その晩は雪が降っていた‥‥‥あゆの葬式があった晩。
 天使になったあゆは、抜け殻のようになった俺の前に突然舞い降りた。大きくて真っ白い、鳥みたいな翼を何故か片方だけ背負った、でも、いつものあゆの姿で。
『行けないよ祐一くん‥‥‥どこへも‥‥‥行けないんだよ‥‥‥』
 そう呟いたあゆは、今まで見てきたどのあゆよりも悲しそうだった。
 自分が悲しい時には、得てして、悲しい誰かのことを思い出すものなのかも知れない。
 あるのかないのかわからない不確かな感覚が、差し出した俺の右手に触れたような気がしたこと。でも、その小さな体を抱きしめようとしても、あゆの形をした深い霧の中にただずぶずぶと腕が沈んでしまうこと。
 ぼろぼろと涙を零しながら、また空へと舞い上がろうとするあゆの手を、
「行かないでくれ‥‥‥ここにいてくれ! 幽霊でも天使でも何でもいいから、もう俺の前から誰もっ、誰も消えないでくれよっ!」
 叫びながら手を伸ばしたあの一度だけ、掴めた。
 こくっと頷くまでの間に、驚いた顔をしたあゆが、呟くように唇を動かした。
 何が言いたかったのかはわからなかった。
 ‥‥‥互いが本当に大切なら二度も別れたりしない筈なのに、別れは二度も訪れなきゃいけなかった。そして三度目に出会った時、俺たちのうち片方は人間じゃなかった。
 一体、どれが奇蹟だったんだろう?
 二度引き裂かれたことか。
 三度出逢えたことか。
 あゆが片翼だけの天使になったことか。
 どれが正しくてどれが間違っているのかなんてその時俺にはわからなかったし、わからないことなんて本当はどうでもよかった。
 思い出したら涙がとめどなく溢れてきて、いつか俺は、泣きながら眠ってしまっていた。



「そういえば学校のタイムカプセルって、ここに何々を埋めました、って看板立てとくんだよな」
『看板?』
「ああ。あっちの学校の校庭にそういう看板がいくつかあったんだよ。なんでこんな間抜けな看板立てとくんだろうとか思ってたけど、こうやって見失っちまう方が看板立てるより間抜けだからなんだな」
『そうなんだ‥‥‥ねえ、ボクたちも看板立てとけばよかったね』
「そうは言っても、ここは校庭じゃなくて普通の道だからな。立てても抜かれちまうんじゃないか?」
『うぐぅ‥‥‥』
 よく晴れた日曜日。公園に続く並木道を前にして、俺たちは途方に暮れていた。
 この並木のどれかの足元に、あの時、俺たちは思い出を埋めた。だけど。
「‥‥‥全然わかんないな、見ただけじゃ」
『んー、そうだね。でもほら、どこに埋めたかそのうち思い出すかも知れないし』
 本当はそれでいいんだろうと思う。だけど、その時の俺は、そんなの待っていたくなんかなかった。
 そこに落ちていた板切れを拾って、俺は手近な木の根元を掘り返す。
『祐一くん?』
 怪訝な顔のあゆが俺の目の前に湧いて出た。掘っている穴の中からあゆが顔だけ出したから、俺はまるで、タイムカプセルじゃなくて、あゆを土から掘り出してるみたいだった。
『どうしたの祐一くん? 何をそんなに焦ってるの?』
 ただ何となく、片方だけしか翼がないのはまずい、とあの晩からずっと思ってはいた‥‥‥それがどうして並木の根元を掘り返すことになるのか、それは俺にもわからない。だから、ちゃんとした理由になっているのかどうかも、本当は。
「わからん」
 それだけ答えて、俺はまた穴掘りに頭を戻す。
『もう‥‥‥』
 ふと顔を上げると、片方だけの翼をぱたぱたと揺らしながら、穴を掘る俺をあゆが見降ろしていた。
 悲しそうな顔をしていた。
 それは今は気にしないことにして‥‥‥そうやって延々と、手当たり次第に掘り進めては土を埋め戻して次の木に向かう。まだ何も出てこない。
『あ、名雪さんだ。祐一くん、名雪さんが来たよ』
 聞こえた声に顔を上げてみると、あゆに手を振りながら名雪が歩いてきていた。
 ついでに改めてあたりを見回してみる。いつの間にか、世界はもう夕暮れ間近だった。
「何やってんの祐一?」
「見たらわかんないか?」
「全然わかんないよ」
『あのね、探してるんだよ』
「何を?」
『ボクと祐一くんで、昔、この辺のどれかの木の根元に埋めたものがあるんだ。それをね、探してるんだけど‥‥‥』
 名雪は何か考え込んでいる。
「それって‥‥‥埋めたのって、七年前なんでしょ?」
『そうだよ?』
「五年くらい前に、この先に公園ができる時に、ここの道も凄い工事したんだよ。その時に並木も全部入れ替えてたと思うから、そんな壜なんてもう‥‥‥多分、埋まってはいないと思うよ」
『なっ名雪さん、それ本当っ?』
「うん」
『うぐぅ‥‥‥』
 そういう事態は‥‥‥予想の範疇になかった。大事なものを埋めたんだから掘り返すまでは埋まっているに違いないと、俺は今まで子供のようにそう信じていたから。
 でも世界は俺たちの都合だけで動いてるわけじゃなかった。何だか急に、たったひとりでどこかに取り残されたような不安な気分になる。
「‥‥‥た‥‥‥たっ‥‥‥」
『ん?』
「たい焼きだ。あゆ、たい焼きを買おうっ」
『祐一くん、本当にどうしたの?』
「俺が変だとたい焼きは要らないのか?」
『うぐぅ、それとこれとは話が違うけど‥‥‥』
「祐一、私のは?」
「安心しろ。ひとつくらいなら奢ってやる」
「わーい。たい焼きたい焼き」
 ‥‥‥ひとりじゃないことを確認していたかった。別にたい焼きがイチゴパフェだったとしても同じことだ。俺にとっては、この際、何でもよかった。
 どこか釈然としない顔をしているあゆと、手を叩いて喜んでいる名雪を連れて、俺はその並木道を後にした。



 夜になって雪がちらつき始めた。
 例によってあゆは名雪の部屋へ行っている。
 特に何をするでもない俺は、何となく階段を降りて、何となく冷蔵庫の奥から缶ビールを引っ張り出し、
「あら、晩酌ですか?」
「うわああああああっ」
 封を切ったところで、不意に秋子さんに声をかけられた。口もつけていない缶を危うく取り落としそうになって慌てる。
「え、あ、あの、いやこれは」
「別にそんな煩いことは言いませんから、ビールくらい好きに飲んでください。それとも」
 弁解しようとする俺の前で冷蔵庫を開けた秋子さんは、
「一応未成年だから、保護者がいた方が安心ですか?」
 悪戯好きの子供のように笑いながら、自分も缶ビールを一本取り出した‥‥‥確かに、それならその方が、俺としても随分気楽ではあった。
 そのまま俺はダイニングの椅子に座る。エアコンの設定温度を上げて、秋子さんもテーブルに戻ってきた。
「そういえば、あゆちゃんは一緒じゃないんですか?」
「ああ、あゆだったら名雪と何か喋ってると思いますよ」
「一緒に連れてくればよかったのに」
「いやまあ‥‥‥なんか、知らないけど、あるんだと思うんですよ。女の子同士の話とかそういうの。俺ちょっとそういうの苦手で」
「でも寂しそうな顔してますよ」
「え、それは」
「そういうのは、他から見てるとわかっちゃうものですよ? でも名雪はどう思ってるのかしら。天使がライバルだなんて」
「ライバル、って」
「ごめんなさいね。私もう酔ってるの」
 秋子さんは手に持った缶をくいっと呷って笑った。
「そういえば、夕食の時、何か木の根元に埋めたものを探してたって言ってましたけど、それは?」
「結局見つからなかったんですけど‥‥‥あ、壜なんです。全然大きい壜じゃなくて、中には天使の人形がひとつ入ってるだけの。あれは、俺があゆに初めて渡したプレゼントで‥‥‥あれに約束したんです。俺はあゆに願いをみっつかなえてやるって。そのうちふたつは本当にかなったけど、俺が引っ越すことになって‥‥‥じゃあ最後のひとつは再会してから、ってことにして、タイムカプセルみたいにあの道で」
「だけど再会してみたら、どこに埋めたかわからなかった。そういうことですか?」
「ええ」
「そう‥‥‥あの道は何年も前に工事があったから、今掘り返してもそういうものが残っているかどうかはわからないんですけど、それは」
「え? はい、名雪がそんなこと言ってました」
 五年くらい前に、この先に公園ができる時に、ここの道も凄い工事したんだよ。
「聞いた時にはもう随分服も」
 その時に並木も全部入れ替えてたと思うから、
「汚しちゃった後だったんです‥‥‥け‥‥‥ど」
 そんな壜なんてもう‥‥‥多分、埋まってはいないと思うよ。
「秋子さんっ!」
 そんな壜なんてもう。
「何ですか?」
 壜なんて。
「秋子さんは、俺とあゆがあそこに何を埋めたか、知らなかったんですよね?」
 埋まってはいないと思うよ。
「ええ。どうしたんですか急に?」
「もしかして秋子さん、その壜、見たことないですか?」
「そうですね‥‥‥あれが本当にそうだったのかどうか、本当のことは私にはわかりませんけど‥‥‥」
 溜め息をひとつ吐いて、秋子さんは続けた。
「ええ。私は多分、それを知っています」
 ‥‥‥キッチンを飛び出し、俺は階段を駆け上がった。



「名雪、入るぞー」
 一応声をかけてから、俺は名雪の部屋のドアを開けた。
「いいよー」
 答えた頃にはもう踏み込んでいる。いつものことだ。
「あれ? あゆは?」
「もう祐一の部屋にいるよ‥‥‥っていうか、そんなことどうして祐一が知らないの?」
「ああ、俺今まで部屋にいなかったんだ。それより名雪」
「ん?」
「壜を知らないか? 俺とあゆが、七年前にあの道に埋めた奴だ。中に天使の人形がひとつ入ってる」
「‥‥‥どうして、そういうこと聞くの?」
 言いながら、名雪は絨毯から腰を上げる。
「探してるからだ」
「探して、見つけたら、どうするの?」
 見つけたら。
 ‥‥‥見つかったら、それが何だというのだろう?
 今更、そんな人形に何ができるというのだろう?
「わからない」
「そう‥‥‥」
 机の引き出しから取り出されたものは。
「直したのも五年前だからあんまり綺麗じゃないけど」
 確かに、あの壜と天使だった。
 天使は随分傷んでしまっていたらしい。翼が片方なくなっているだけじゃなくて、修理した痕がいろんなところに残っている。
「あゆちゃん聞こえる? こっちに来てくれないかな」
 壁に向かって名雪は呟く。そんなに大きな声でもなかったけど、
『どうしたの? ‥‥‥あああああああああああっ!』
 机ごと壁を通り抜けてきたあゆは、その目の前に置いてあった人形に気がついて大声を上げた。
「なんで名雪がこれを?」
「私、初めから知ってたんだよ。祐一とあゆちゃんがそれをどこに埋めたのか。多分それは、私にとって初めての失恋だったと思うから、憶えていたくなんてなかったけど、そういうことって‥‥‥そういうことの方が、きっと忘れられないんだよ」
 名雪の指が人形の輪郭をなぞる。
「祐一はあゆちゃんにはこうやって約束を残したけど、私には何も残してくれなかったから、失恋した、って、その時思った‥‥‥私、本当はこんなのどうでもよかった。捨てちゃったってよかった。真夜中に、あんなに寒いのに、泥だらけになってこんなの探したりしなくたって本当はよかった。だけどそれじゃ悲しいから。これは祐一とあゆちゃんの大切な思い出で、助け出せるのは私だけだったから、必死で探したよ。あの時はもう夜中で、今日みたいに雪が降ってて、寒くて、かじかんだ指先が痛くて‥‥‥泥だらけの壜を持ったまま、玄関のところで朝まで寝ちゃってたんだって、お母さんが教えてくれた」
 翼を失くした肩のあたりで、その指先が止まる。
「結局あの時の私には、洗ったり、破れてるところを直したり、くらいのことしかできなくて。羽根も片方なかったけど、残ってる羽根と同じのを作ることはできなくて」
 名雪は顔を上げた。
「でもね、祐一がここに帰ってくるなんてあの時は思ってなかったし、帰ってきた祐一がまたあゆちゃんと会うことも想像してなかった。この人形は多分ずっと、誰にも返さないって私は思ってた。だからこっちの羽根は、私にとっては、直らなくてもいいものだったんだ」
『名雪さん‥‥‥』
「うん。でも結局、そんなことなかった。私にだってちゃんと奇蹟は起きてるんだよ‥‥‥この人形は、これから私がきちんと直すよ。お裁縫はあんまり得意じゃないけど、なくなっちゃった羽根もちゃんと頑張って作るよ。だからもう少しだけ、このまま私に預からせてくれないかな? あゆちゃん」
 ‥‥‥何かを決意したような顔で。
 あゆは、こくんと頷いた。



「そうですか‥‥‥じゃあ結局、名雪の壜が、祐一さんの探し物だったんですね」
 キッチンに戻ると、秋子さんはまだテレビを見ながらビールを飲んでいた。掻い摘まんで事情を説明する。
「大事そうにあの壜を抱えて、真夜中に泥だらけになって帰ってきて、おかしなことをしてる、とは思ったんですけどね‥‥‥それじゃ今度は、名雪はお裁縫の特訓しないといけませんね」
 そう言って秋子さんは笑った。
『あの‥‥‥秋子さん‥‥‥』
 急に改まった顔をして、あゆが空中で正座する。
「はい?」
『えっと、その‥‥‥ごめんなさいっ! ボクずっと、名雪さんから祐一くん取り上げて、そのせいで名雪さんが悲しかったことになんて全然気づいてなくて、それなのにそんなボクがこの家に居候なんかして』
「そんなこと気にしなくていいよ。私は気にしてないし」
 答えたのは、秋子さんじゃなかった。
「あら、名雪」
『名雪さん?』
 名雪が立っていた。
『気にしてないって』
「だって、これからだったら、ちゃんと始められるんだよ‥‥‥あの人形は私じゃなくて本当の持ち主のところに帰るから、そしたら私は、あの人形に‥‥‥あの天使の約束に遠慮して、今までできなかったことができるよ」
 名雪は目を伏せる。
「あゆちゃん。私はね、本当は、あゆちゃんとか他の人が思ってるようないい子なんかじゃないんだよ。それに今と同じでいいなんて‥‥‥ずっと同じがいいなんて、私、本当は全然思ってないんだよ‥‥‥だけど、私は祐一のこともあゆちゃんのことも本当に大好きだから、こんな風になっちゃった今でもまだ大好きでいるみたいだから、だからまだ、取り上げられてはあげられないよ」
『うん‥‥‥うんっ!』
 それは、名雪からあゆへの、宣戦布告、だったと思う。
 だけどその時あゆは、何だかとても嬉しそうだった。



 たい焼き以外は何も飲み食いできないあゆのために秋子さんと名雪がわざわざたい焼きを焼いたり、俺は俺で適当なつまみを買いにコンビニまで行ってきたり‥‥‥いろんな準備の末に、あんな夜中から突然飲み会が始まって、賑やかに一夜が明けた。
 こんなことは初めてだ。不思議な家だと思う。
 そのまま眠ってしまった俺が目覚めると、目の前で名雪が裁縫をしていて、横についた秋子さんとあゆがその指先を見つめている。
「あ、祐一、起きた? もうすぐできるよ」
 名雪の声は、心なしか震えているようだった。
『あのね、祐一くん‥‥‥』
 あゆが呟く。
『あゆさんと秋子さんにはさっき話したんだけど‥‥‥本当はね、本当はこの人形も、ボクがどこへも行けなかった理由なんだ。ボクはこの天使と同じ羽根を失くしちゃったから、だから自分の力だけじゃ空まで飛んで行けないんだよ』
「‥‥‥ちょっと待て、それじゃ」
『理由を知っていたから、ボクはそれを探しにここへ来たけど、本当は、見つからなければいいなって心の中では思ってた。だって、この人形の羽根が直ったら、その時ボクは、ここにいる理由がなくなっちゃうから』
「なっ‥‥‥名雪よせ、直すなっ! それは」
『違うよ』
 名雪は手を止めない。
『直してってお願いしたのはボクの方なんだよ』
 あゆの背中に、もうひとつの翼が戻りつつあった。
「どうして!」
『名雪さんとも秋子さんとも、いろんなお話をしたよ。直すの嫌だって名雪さんは泣いてくれたよ。だけど、本当はボクはもうここにはいないから、やっぱり、このままずっとはいられないよ』
「本当はって、でも今はそうやっているだろ!」
『泣かないで祐一くん‥‥‥ねえ、泣きながら眠ってる祐一くん見てるの、ボクだってずっと、ずっとずっと、辛かったんだよ。だからひとつだけ、わがまま聞いてくれるかな‥‥‥一度だけ、自惚れてみてもいいかな?』
 あゆは笑っていた。目に涙を溜めたまま。
『ボクの最後のお願いはね、祐一くんが泣かないことなんだ。ボクの姿が見えないことを思い出して‥‥‥ボクがいないことを思い出して、祐一くんが泣いちゃう夜が、これから先もずっとずっと‥‥‥そんな夜がもう二度と来ないように。今はそれだけを願ってる』
 ‥‥‥気がつくと俺は、あゆの両手を握っていた。
「そんな、そんなのってないだろ! そんな、永遠に同じでいられないなら、なんで中途半端に思い出させるようなことしたんだよ!」
 あゆの背中に、翼が、揃っていた。



『じゃあ、そろそろ行くよ‥‥‥そうだ名雪さん、ボクの祐一くんをよろしくね』
「私の祐一だったら、大丈夫だよ」
 名雪の答えに嬉しそうにあゆは頷いた。
 だんだんと、あゆの体が浮かび上がっていく。
『ボクを直してくれてありがとう。それと‥‥‥多分また帰ってこれると思うから、さよならは言わないでおくね』
「うん。いつでも来てね」
『秋子さんも‥‥‥お世話になりました』
「ええ。気をつけてね」
 相変わらず、秋子さんはとぼけているのか本気なのかよくわからない。
 そして‥‥‥あゆが俺を見つめていた。
『泣かないで祐一くん。さよならは今まで二回も練習したんだから、多分もう、大丈夫だよ』
「お前は大丈夫かも知れないけどな‥‥‥俺は」
『ボクだって本当は大丈夫じゃないけど。それに、きっとまた帰ってこれるから、祐一くんにもさよならは言わないよ』
「わかったからひとつ約束しろ」
『何?』
「月に一度でも年に一度でもいいから、絶対帰ってこいよ。帰ってこなかったら‥‥‥忘れてやるからな」
『うぐぅ‥‥‥それもなんか嫌だよ』
「わかったら指切りだ」
『うん』
 翼が戻ったあゆにはちゃんと触れることができた。
『ゆびきりげんまん、嘘ついたら針千本飲ーます』
 お互いに右手の小指を絡めて、
「指切ったっ!」
 ‥‥‥七年経って、あの時は切れなかった指をやっと切ることができた。
 そしてあゆは、



「とうとう私‥‥‥あゆちゃん殺しちゃったよ‥‥‥」
 名雪がぽつっと呟いた。
「そんな言い方するなよ。あゆがそうして欲しかったんだから、仕方ないだろ」
「ん‥‥‥でも、こんな私の手でも、祐一がぎゅって握ってくれる日は来るのかな‥‥‥」
「悪いけど、今すぐにはちょっとな」
 正直な感想だった。
「でもきっと、いつまでも引きずってはいられないんだ。あいつは絶対またここに帰ってくるって約束したから、その時に俺たちが不景気な顔してたんじゃ可哀想だし」
「うん。それでいいと思う。でも私は頑張るよ、私の祐一は大丈夫ってあゆちゃんとも約束したから」
「そっか‥‥‥」
 ふと、あゆがまだ俺たちに手を振っているような気がして、もう一度、俺は空を見上げた。
 透き通った青空には雲ひとつなくて、だからそこには、空と太陽しかなかったんだけど。
「約束、したからな‥‥‥」
「うん」
 眩しそうに太陽を見つめながら、名雪が頷いた。

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