ずっと、ここは俺の居場所じゃない気がしている。
本当はどこにいるべきなのか、なんてわからない。ただ、ここは違う、そういう気がしている。
だからって。
「だからってまた名雪の家はないだろ? 別に名雪にも秋子さんにも文句はないけど、でもこんなタイミングであんなとこまで引っ越して、俺がこっちの大学受けるつもりだったのはどうなるんだよ!」
こんな大声で言うほどのことでもないんだろう。
だけど、言わずにはいられなかった。
「とにかく。親父が仕事で、お袋がついていくのは、しょうがないからそうすればいい。だけど俺はここに残るよ」
親父もお袋も面食らっていたと思う。まさかここまで強硬に反対されるとは思ってなかったんだろう。
俺はなんでこんなに反対してるんだろうと自分でも不思議に思うくらいの勢いで、とにかく、俺は反対した。水瀬の家に‥‥‥あの街にまた戻る、ということに。
結局、あれからもああだこうだと言い合っているうちに、親父が転勤するって話の方がなくなって、俺と両親の手元には「こっちの大学に入りたいんだからそんな引っ越しはしないぞ俺は」という主張、というよりは啖呵、だけが残った。だからまあ、結構勉強もしている。別に大学に入ることにこだわりはなかった筈なんだけど、あれだけごねておいて大学に入れなかったりしたら、なんか、それはそれで恥ずかしい気がするし。
それは大体、去年の秋くらいのことだった。
ただ単に、大学受験、という現実に対して俺が手を抜く機会を逸しただけ、という結果は、もしかしたらある意味で最悪の結果だったのかも知れない、と今頃になって思う。
手を伸ばしたら指先に綿埃でも触れるんじゃないかと疑いたくなるような、白くくすんだ空を見上げていた。
‥‥‥思ったよりも簡単に用が済んでしまったからといって、どこか別のところへ行く気にもなれなくて、俺は溜め息をつきながら手すりに寄りかかる。
今は春。
だけど、晴れていれば冬でももっとずっと青くて高い空になる場所を俺は知っている。
そこを最後に訪れてから、今度の冬で八年経つ筈だ。あの年を境に俺とは縁のない場所になっちゃったけど。
そういや、俺が今年は大学受験なんだから、名雪だって大学受験だよな。
名雪は元気にしているだろうか。
あれから全然連絡をとっていない従姉妹のことを思う。
そうだ、舞はどうしているだろう。
あの麦畑に、今でも舞は隠れてしまうのだろうか。
それに昔、水瀬の家で内緒で飼ってた狐。
今でもあいつはあの野原を走り回っているんだろうか。
そして。
あゆ、のことを思い出そうとしたところで、思い出を懐かしがるだけの時間はいつも突然終わってしまう。結末に辿り着かない。あゆと俺のさよならのシーンだけは、記憶のどこを探しても見当たらない。
思い出ばかり見ていたがるから、目の前の幸せに気づかないだけなんだろうか‥‥‥今更そんなことを気にするくらいなら、去年の秋、あの話に頷いておけばよかったんだろうけど。
話の中味は、こんな穏やかな春の日溜まりには全然似つかわしくなかったと思う。
「相沢くん。私のこと、好きじゃないでしょ」
悔しそうに言い捨てた相川の顔を眺めながら‥‥‥今日はこんなにいい天気なのにどうして別れ話なんかしているんだろうと、そんなことをずっと考える。
俺のことを好きになってくれた人のことを、俺が好きでいてあげられない理由がずっとわからなかった。それが自分でもわからないから、好きになれるかどうかはわからないよ、っていつも最初に言っているのに。みんな「それでもいいから」って最初に頷くくせに。
どうしてみんな、俺が好きでいてあげられるようになるまで、待っていてくれないんだろう。
「どうせ私だけなんでしょ。私だけ勝手に相沢くん好きになって、私ひとりだけ勝手にやきもきして‥‥‥もう、馬鹿みたいっ!」
きっと追いかけてきて欲しくて、何度も立ち止まりかける相川の背中が、それでもどんどん、見えなくなるくらい遠ざかるまで、俺はここにぼーっと立ったまま、思いっきりひっぱたかれた左の頬をさすっていた。
またさよならも言わないままで、俺はひとりに戻った。
何だか俺はずっと‥‥‥この高校に入って、急に女の子の方から声をかけられるようになったよりもずっと前から、こんなことばかり繰り返していたような気がした。
さよならと言うのも嫌で、逃げ出すようにそこからいなくなった時にも。
いつも勝手にやってきて勝手に消えていく、恋心にすらなれなかった中途半端な気持ちのいくつかにも。
思えば俺は、今まで誰にも「さよなら」と言ったことがなかった。誰にも。
あの森の中から見上げた空とは比べものにならないくらい低い空の、それでも割と高いところを、薄い雲がゆっくりと流れていく。
木洩れ日が地上の俺たちに向かって掛けた梯子は、確か途中で壊れてしまったのに。
それでも、あの空を今でも懐かしんでいる俺は確かにここにいて、今自分の上にある空があの空と違うことにぶつぶつと文句を言っていた。
あんなに悲しかったのに、もう思い出話なのか。逃げ出したまま、思い出しもしないまま、綺麗なことだけ懐かしがって。最低だな。
自分でそう思うけど、何のことだかよくわからない。
「あーあ。最低、かあ」
誰に言うでもなくそう呟いて、俺はそのまま屋上の床に寝転がった。左の頬はまだ痛かった。
雪。
赤い雪が降る。
俺はその雪を追い越しながら、
ただひたすら、
いつまでも墜落し続ける。
どこにも辿り着かない。
何かに叩きつけられも、
死んでしまいもしない。
目を凝らすと、
もうひとつ小さな背中が遠くにある。
リュックについた羽根飾りが風に靡いている。
まるではばたくように、
‥‥‥はばたきながら、
その背中もまた、
墜ちていくことをやめない。
その翼で舞い上がることが奇蹟。
降り積もった真っ赤な雪の上に、
だけどあんなに願っても、
僅かな水紋だけを残して、
奇蹟は、
あの背中は消えた。
奇蹟は起こらなかった。
かちん。突然、甲高い澄んだ音が聞こえた。
‥‥‥いつから眠っていたんだろう。目覚めると外は暗くなり始めていた。
俺のすぐ側には誰かが座っていて、どうも煙草を吸っているらしい。
「あ、なんだ。起きちゃった? 可愛い寝顔だったのに」
女声でこういうことを言いそうな人の心当たりは、そんなに沢山はなかった。
「夏海ちゃん?」
「正解。相沢って授業サボるとここにいるなあ、高いとこ全然ダメなくせに」
「いや、今日は俺じゃなくて、呼ばれたんですけど」
そういえば、旧校舎の屋上‥‥‥この場所のことは、俺は相川に教わったんだった。
「呼ばれたんですけど?」
「なんか、その後教室に帰るのが面倒になって」
それは全然、教師が相手で話の通るような立派な言い訳じゃない、とわかってはいる。
「まあ、そういうこともあるかもな」
話の通らない言い訳を軽く聞き流しながら、夏海ちゃんはライターと煙草の箱をこっちへ差し出す。
何の飾り気もない銀色のライター。確かジッポ屋に作ってもらったとかいう奴だ。外側の箱が銀で、四万円したとか言っていた奴だろう。
「要る?」
「要りません‥‥‥生徒に煙草薦めるのは教師としてどうかと思いますけど?」
「あのさ。清く正しく美しく、なんてあたし生徒に言ったことないよ」
「知ってます」
「んじゃいいじゃんか」
煙草をシャツのポケットにしまって、夏海ちゃんは笑った。この不良ぶりで高校教師が勤まってるんだから、世の中はわからない。
「しかしだね。こんなところで悶絶してる暇があったら何かパーっと発散した方がいいんじゃないの? 青春の無駄遣いは感心しないなあ、お姉さんは」
「悶絶?」
「うん。なんか、うなされてたけど」
見ていた夢のことなんてもう、やたら赤かったくらいのことしか憶えていない。
今俺は、何を夢に見ていたんだろう?
考えてもわからないことを考えるのはやめた。寝転がっていた身体を起こす。
「一本もらえます?」
数秒‥‥‥躊躇ったけど、もらってみることにした。
「ん? 相沢、煙草嫌いなんじゃなかったっけ?」
「死ぬほど嫌いです」
本当のことだった。
だから、他人が吸うのは別にいいけど自分で吸うことはないと思っていた。今は自分を苛めて憂さを晴らしたかっただけ、のような気がする。
憂さ晴らししたいのも自分なのに、自分を苛めてどんな憂さが晴らせるのかはわからなかったけど。
「ほう‥‥‥まあいいけどね。ほれ」
さっきしまった煙草の箱が改めて差し出される。
一本引き抜いて、引き抜いて‥‥‥どうしていいのかわからない。
「ああ、わからんか。取り敢えず銜える」
言われるままにフィルタを銜えた。
さっきの、かちん、という音がまた聞こえた。ライターの蓋が開く音。
煙草の先に火が灯る。ちりちりと、小さな悲鳴。
「そこで息を吸う」
言われるままに息を吸い込んだ。
「‥‥‥! ごほっごほっ」
塊みたいな濃い煙がいきなり胸の中に落ちてきて、凄い勢いで俺は咳き込んだ。
「あっはははははっ! 馬鹿だねまったく」
思いっきり笑われてしまった。
「そこで息を吸う‥‥‥って‥‥‥言ったの‥‥‥ごほっ‥‥‥夏海ちゃんでしょ‥‥‥」
「なんでそこで息を吸うかったら、ちゃんと燃えるだけの酸素を煙草の中に通してやるためで、煙吸うためじゃないんだから、そんな豪快に吸わなくたっていいんだよ」
慣れた手つきで二本目の煙草に火をつける。
「目的を理解し、手段を把握し、正しく実行する‥‥‥ま、こうなるわけ」
「だったら先に言ってくださいよ、あんまり吸いすぎるなって」
「じゃあその前に言っといてよ、吸えって言われても加減がわからないって」
こういう時は悪戯が好きな子供みたいな顔をしている。
もう大分暗くなってきて、細かい表情まではよくわからないかったど、大体いつもがいつもだから、夏海ちゃんは多分そうだ。
敵わないと思う。
「で、煙草はどう?」
「二度と吸いません」
「そう言うだろうと思ったよ」
言いながら、夏海ちゃんはうまそうに煙草をふかした。
「今日は随分サディスティックなんだな。もしかして彼女にでも振られたか?」
「違いますよ」
違わないけど。
「顔に書いてあるぞ」
そういえば、引っぱたかれた左の頬が‥‥‥手を当ててみて、もう大分暗くなっていることを思い出す。そんな色の違いなんてもう、それこそライターの火でも翳していなければわからない筈だ。
「殴られたのか。豪快な彼女だな」
それくらい夏海ちゃんにはお見通しだった。
敵わない、と思う。
それからしばらくの間、ふたりとも何も言わずに、ただ並んで煙草をふかしていて。
そのうち、指の間に残ったフィルタを携帯用灰皿に突っ込んだ夏海ちゃんがつっとこっちへ手を出すけど、まだ長く残ったままの煙草くらいしか、その時俺が手に持っていたものはなくて‥‥‥本当かよ、とは思ったが、他にないから仕方なく、吸いさしの煙草を渡してみる。
ところが、不審げに見つめる俺の目の前で、夏海ちゃんは受け取ったそれを当然のように口の端に咥えてみせた。
「ん?」
「‥‥‥それって」
「間接キス?」
ふーっと息を吐く音がした。目の前にうっすらと白い靄がかかる。煙たい。
咳き込む俺を見て、また、おかしそうに夏海ちゃんが笑う。
「少年少女は純情でいいねえ。うんうん」
「何ですかそれ‥‥‥」
「で、話さなくていいの? これ吸い終わったらお姉さんは職員室戻っちゃうぞ?」
突然、夏海ちゃんは話を変える。
俺と夏海ちゃんの間から煙草の煙を払うように、ゆっくりと風が渡っていく。
「何か置いて来たものがある、として」
唐突に、俺はそこから話し始める。
「ん?」
「どこか遠いところにものすごく大事なものを置いたまま、俺は昔、逃げるみたいにそこから帰って来ました。それは大事な、大事なものだった筈なのに、それが何なのかは思い出せなくて‥‥‥今はもう、思い出すことの方が恐いような気がして、だから置いて来たものを取りに行こうと思えないし、そこへ行くことを考えただけでも嫌になるっていうか‥‥‥でも俺、多分、そこにあるものをちゃんと持って帰って来ないと、このまま、いつまでもこのままだと思う。そういう気がするんです」
「ふむ。‥‥‥で?」
「いや、それだけですけど」
「なーんだ、それだけか。簡単じゃんか」
夏海ちゃんは笑った。
「簡単って‥‥‥」
「うん。簡単。いやその、置いて来たものの中身の方はわかんないけどさ、それ、今頃そんなに深刻になるようなことなのかね?」
「そりゃ夏海ちゃんの問題じゃないから」
「違う違う。そんなの本人とか他人とかの問題じゃないよ。だってもう、相沢の中では答えが出てるでしょ?」
「そんなことないですよ」
「あー‥‥‥わからないなら、その話要約してあげようか? 相沢には思い出したいことがある。思い出すためにそこへ行きたいと相沢は思ってる。だけど、いきなりひとりでそこへ乗り込んで行く口実がないから、相沢は躊躇してる」
‥‥‥。
「あのね、そういうのは相談って言わないのよ。誰かに背中を押して欲しい、ってだけの話でしょ」
かちん。また音がして‥‥‥火がついたままのライターを、夏海ちゃんは俺の顔のすぐ前に差し出した。
ゆらゆら揺れる炎の向こうに夏海ちゃんの顔が見える。教壇に立っている時よりも真剣そうな顔をしているように見えるのは、その明かりのせいだろうか。
「片づけないと進めない、ってことはあると思うよ。具体的に相沢が何を置いて来たかなんてことはあたし全然知らないけどさ、気になってしょうがないなら追いかけるしかないんじゃないの?」
いかにも簡単そうに‥‥‥まるで、夕食を食べないとしょうがないからコンビニへおかずを買いに行く、くらいの気軽さで、夏海ちゃんはそんなことを言った。
「だけど俺、あの、あそこへ行くのは恐いんです。思い出したら自分がどうなるかわからないっていうか」
「うん。気持ちはわかる。で‥‥‥相沢、あんたそれでもその場所から目を逸らして、ずーっとここに座ってると、何がどうなる?」
どうって、
「何も、どうにも」
「ほら、わかってるじゃんか。それじゃ相沢が今いちばん欲しがってる答えをあげるよ。行ってきな。ちゃんと、置いてきたものが何だったか確かめてきな。どんなに嫌だろうと、それでどんな目に遭おうと、今のままじゃいけないと少しでも思っちゃったなら、今と同じことをいつまで繰り返したってダメだ。こんなところで寝っ転がってる間にだってできることはある」
ライターの火が風に揺れた。
その火の中から差し伸べられた、赤い、小さな手のひらを、俺はじっと見つめている。
「青春の無駄遣いは感心しないなあ、お姉さんは」
「無駄ですか?」
「無駄」
一発で切り捨てる。
「後先考えずに飛び込んでいい奴は、飛び込んだらどうなるかなんてオヤジみたいなこと考えなくていいんだよ。見る前に飛べ。飛べっ!」
まるでその「飛べ」が合図だったように。
かちん。突然、ライターの火が消えた。
相変わらず純度の低い、星の見えない夜空の下に俺たちはいた。もうこんなに暗くなっていたのか。
「相沢、ライターはいいだろう? 燃えてる火なら、蛍光燈には照らせないものに光が当たる」
「え‥‥‥」
もしかしてあの手のひらは、夏海ちゃんにも見えてたんだろうか?
「だからライターを持ってることがあたしの第一義で、煙草はそのついでにすぎない‥‥‥ってのは、煙草吸う理由としてはダメかなあ? ダメだろうなあ。毎日あれだけ吸ってりゃなあ」
なんか、火が消えたら、普通の夏海ちゃんだった。
「ダメですね。全然」
「言っとけ」
ぱかん。煙草の箱で頭を叩かれた。
「痛てっ」
煙草を引き抜く、小さい音がした。
「要る?」
「もう要りません」
「そうか」
小さな炎の中から夜に溶けていく煙を眺めていた。
俺にはもう、煙草は要らなかった。
『もしもし。水瀬です』
「あ、水瀬さんのお宅ですか? 相沢と申しますが」
『あい、ざわ? ‥‥‥祐一? ねえ、祐一?』
「ああ。名雪か?」
『そうだよ。久しぶりだね‥‥‥急に電話なんかして、どうしたの? おじさんに何かあったの?』
「いやそうじゃなくて。あのさ‥‥‥えっと、ゴールデンウィークあたりにでも、俺そっちへ行こうかと思ってて」
『本当にどうしたの? 去年の秋はこっちに来たがらなくて随分揉めたっておじさんから聞いたけど‥‥‥内緒だけど、お母さん落ち込んでたんだよ。祐一くんに嫌われちゃったかしら、って』
「そんなことないのに」
『だから、そんなことない、ってお母さんにちゃんと言いに来てね。それから、ホテルとか予約しなくても、うちに泊まればいいから』
「ああ、助かる。もうちょっと近くなったらまた連絡するから、細かいことはそれからな」
『うん。‥‥‥待ってるよ、祐一』
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