取り敢えず俺としては、転校初日から遅刻は嫌だった。
「じゃあ行ってきます‥‥‥遅いぞ名雪っ」
「え、だってまだパン」
「歩きながら食え」
「酷いよ祐一」
渋る名雪を蹴り出すように玄関を出る。
恨めしそうな顔をしながらローファーの爪先をこつこつとアスファルトに打ちつけ、ようやく足が落ち着いたのか、ふうっと溜め息をついた名雪の口に、見ているだけで胸が悪くなりそうなくらいイチゴジャムが乗ったトーストを挟んでやった。さっき秋子さんが持たせてくれた奴だ。
「ほえひゃあひふほ」
「お前、何言ってるか全然わかんないぞ。食い終わってから喋れ」
「ふー」
唸るように呟くと、俺の右腕の袖を引っ張って、名雪はさっさと歩き始める。
何となく見覚えのあるようなないような、ただ曖昧に懐かしい気がするだけの景色が、思っていたよりも速いペースで背中の向こうへ消えていく。そこが昔は何だったのか、俺が思い出すよりもずっと速いペースで。
‥‥‥七年、経っていたんだろう。俺にも、名雪にも、そしてこの街にも。
そんなことを思っているうちにもう高校が見えてきた。同じ制服がぞろぞろと門に吸い込まれていく。
「名雪、お前足速いんだな」
「はっへははひ、ほえへほ」
「だから食ってから喋れって」
言われて、名雪はこくんとパンを飲み下す。
「まだ食ってたのかお前。歩くのは速いのに」
「私これでも陸上部の部長さんなんだよ」
陸上部だからって別に、普段歩く足が速くなくてもいいと思うんだが。言いかけて、
「っ!」
いきなり鼻先を掠めた何かから慌てて俺は飛び退る。
慌てて振り向いた名雪と俺の間に、長い髪の女が着地した。
ジャンプして‥‥‥それも、生半可じゃない高いジャンプから、渾身の力を込めた、手刀。こんな学校の目の前で、しかも女にこんな襲われ方しなきゃいけないような悪いことを‥‥‥何かやったか? 俺は?
「やっと見つけた」
やっぱり名雪と同じ制服を身に纏ったその女は、そう呟いたまま、じっと俺を見つめる。
「私を殺した‥‥‥祐一くん‥‥‥見つけた」
「何なんだよそれは!」
いきなり薮から棒にそんなことを言われても何が何だかわからない。
きっと口を結んだその女がいきなり蹴りを放つ。
辛うじて避けた、と思った俺の足を、急に軌跡を変えた蹴り足が見事に抉った。
「くあっ‥‥‥ってだから、ちょっと待てよ舞っ!」
痛む足を引き摺りながら立ち上がろうとする俺の前に立って、そいつは俺を見降ろしている。
綺麗、だと思う。だけど表情がない。冷たい瞳。
見つめあった一瞬の空白に続いて、打ち降ろされる拳が俺の頬に‥‥‥
「もう、舞ったら。いきなり襲っちゃダメでしょ?」
‥‥‥当たらなかった。
突然現れたもうひとりの女が、いとも簡単にその拳を掌で抑えている。
「ごめんなさい。舞はちょっと驚いただけなんです」
人好きのする笑みを浮かべてぺこりと頭を下げた。ますます、何が何だかわからない。
「驚いたのはこっちだよ‥‥‥一体何がどう」
「えっと、もう授業が始まっちゃいますので‥‥‥そうですね、お昼はどうされますか?」
「へ? どうされるって?」
「お昼ごはんです。もしよろしければ、お話がてら、一緒にお昼ごはんはいかがですか?」
倉田佐祐理と申します。後で教室までお迎えに行きますから、続きはその時にでも、とあの笑顔で言われ、さらにあの表情のない顔が一瞬だけ嬉しそうに頷いたのを見たような気までして、何ひとつ事情がわからないまま‥‥‥俺はもう、頷くしかなかった。
「はー‥‥‥なんか、疲れちゃったよ」
「今日一日分は騒いだな、もう」
嵐のような一幕はやっぱり嵐のように過ぎ去って、そのままそこに取り残された俺と名雪は顔を見合わせて小さく笑った。
「ところで祐一、あの人は誰?」
「え? 誰って‥‥‥知らないけど」
「嘘。祐一名前呼んでたよ、まい、って。あの人も祐一の名前呼んでたし」
え‥‥‥?
「もしかしてあの人が、ずっと前に一緒に遊んでた人?」
どきん。いきなり胸が高鳴った。
ふと気がつくと、目の前に‥‥‥麦畑があった。深い金色の茂みの中から兎の耳がひょこっと飛び出している。そうだ。俺はいつでも、あの耳を目指して走れば、会えるんだ。舞に。
「祐一? どうしたの祐一?」
がさがさと茂みを揺らして俺は走る。でも、自分で思っているよりも俺の足は遅い。まるで子供の足みたいだ。掌を見る。自分が思っているよりも俺の掌は小さい。まるで子供の掌みたいだ。
構わず走る。もう少し、もう少しで、舞の背中に追いつけそうな気がする‥‥‥
舞は急に振り返る。
まるでさっきの舞みたいな冷たい瞳で、小さな舞は俺を見つめて、
『‥‥‥祐一くん、私を、助けて』
そう呟くと‥‥‥次の瞬間には、麦畑ごと俺の目の前から消えてしまっていた。
「何やってんの祐一? 祐一ぃ?」
「え? ‥‥‥ああ」
俺の目の前でひらひらと手を振る名雪の手に焦点が合うのと、始業のチャイムが鳴り始めるのが、大体同時だった。
あの麦畑で俺は舞と出会った。
そうだ、確か俺は迷子になって、あの麦畑へ迷い込んだんだった。
憶えてるもんだなあ、と俺は思った。
舞は不思議な力を持っていた。ああ舞ならそうかも知れない、と妙に納得してしまったあの時の気持ちは妙にはっきり憶えている。
不思議だなあとは思ったけど、少なくとも、恐かったり気持ち悪かったりはしなかった。だから、そんな小さなことで舞を疎んじることができる、舞の周囲の人たちやクラスメイトたちの気持ちが、逆に俺にはわからなかった。それに、それ以外のことになると舞はてんで不器用なところがあって、そういうところを見ていると‥‥‥なんだ普通の女の子じゃん、とか簡単に思っちゃったりできたあたり、昔から俺は根が簡単だったのかも知れない。
背が低い舞は、麦畑の麦が育つと頭まですっぽりとその茂みに埋もれてしまう。だからなのか‥‥‥縁日で俺がたまたま当てた兎の耳のついたカチューシャを舞は欲しがった。
「これで、私がどこにいても、私を見つけてくれる?」
頭の上に伸びた兎の耳を気にしながらぎこちなく笑う舞は、頷いた俺を見て、もっと嬉しそうに笑った。
と。不意に、もうひとつの声が遠い風景に割り込んでくる。
「魔物が来るのっ! 一緒に」
切羽詰まったような声で誰かが喋っている途中だったのに、ぶつん、という音を最後に、突然電話は切れてしまった。
確かに舞の声だったのに。
何か俺にどうしても今すぐ伝えたいことがあったのに。そんな気がするのに。
だけど、先を急いでいた家族に急かされるままに俺はそこを後にして、そして俺はもうここへは戻って来ない、筈だった。
あの時俺に、舞のもとへ走ることができていたなら。
もし本当に魔物がいて、その魔物が舞ひとりじゃ本当にどうしようもなくて、そこに俺が駆けて行けていたとしたら、未来はどんな風に変わったんだろう?
‥‥‥転校して最初の日だっていうのに、授業はもうほとんど耳に入っていなかった。
本当はそんな意味もよくわからない誘いなんかに乗る気も別になかったけど、わざわざ教室まで俺を迎えに来てくれた佐祐理さんの誘いを無下に断る理由も別になかった。
で、佐祐理さんと俺がそこに着いてみると、殺風景な踊り場には全然似合わないカラフルな敷物が敷かれ、その敷物にちょこんと腰掛けているあの冷たい瞳の女、そして、そして‥‥‥何だかよくわからないけどとにかくそこに鎮座している、巨大な、何かの包み。
「あの、それは?」
包みを指差すと、
「これは今日のお弁当です」
当たり前のように答えながら、佐祐理さんも敷物に膝をつく。
「お弁当? これ、が?」
「あれ? お腹空いてませんか?」
「いえそうじゃなくて、っていうか‥‥‥お弁当?」
「そうですよ。いっぱいありますからねー」
いっぱいあることは、それが展開されていく様を見ていれば誰にでもわかることだった‥‥‥その踊り場に広げられたお弁当が、運動会やお花見でもここまで作ってあるのはなかなか見かけないような、いかにも見事な重箱だったのには驚いてしまった。しかも佐祐理さんは、これをひとりで全部、毎朝作っていると言った。信じられないことができる人が世の中にはいるものだ。
「ああ、そうそう。紹介がまだでした。こちらは三年の川澄舞さんです。で、こちらが、二年の相沢祐一さん」
「‥‥‥よろしく」
その、川澄先輩、がぽつっと呟いた。まるで知らない人を見るような目だった。つられて俺も他人行儀に頭を下げる。‥‥‥よろしくも何も、この舞があの舞だったら七年前から旧知の間柄のような気がしなくもないような感じなんだが、本当にそうなのかどうかにいまひとつ確信が持てなかった俺は、取り敢えずその辺は黙っていることにした。
頭を上げてみると、舞‥‥‥なのかな‥‥‥川澄先輩の目線はもう重箱に釘づけらしい。表情に出ないからわからないけど、今は俺よりも弁当が気になるんだろう。川澄先輩が佐祐理さんくらい表情の多彩な人だったなら、子供みたいにわくわくしているように見えるのかも知れない。そう思えただけでも大分気が楽になる。
「はいどうぞ。お口に合うといいんですけど」
にこにこしながら佐祐理さんが差し出す割り箸を受け取ると、川澄先輩はもう重箱の中身をあれこれ突つき回していた。
俺もいろいろ食べてはいるのだが‥‥‥いや、味はいい。いちいちコメントするのがもう面倒になるくらい、まるで当たり前のように、どれを食べてもおいしい。でも不思議なことに、箱の中身がまるで減っていかない。
「いっつもこんなにたくさん作るんですか?」
「そうですよ?」
「誰がこんなに食べるんですか?」
「普段は私と舞ですね。でも、今日の祐一さんみたいにお客様がいらっしゃることもありますし。ああ、あと、犬さんが時々」
「犬?」
「ええ。校庭で暴れているのはお腹が空いてるからだって舞が言うので。でも本当なんですよ、お腹いっぱいになると何もしないで帰っていきますし」
「はあ‥‥‥何もしないで‥‥‥ねえ‥‥‥」
何なんだそれは一体。何なんだこのふたりは。
‥‥‥結局また何もわからないまま、俺たちは昼休みの終わりを告げるチャイムを聞いた。
あの川澄先輩は、多分、あの舞だ。
もうほとんど間違いないと思うけど、でも本人に確かめたわけじゃない。だから、それを確かめることから始めなきゃいけなかった。そしてもし本当に、あの舞にもう一度出会えたのなら‥‥‥俺には、やり残していたことがある。そう思ったからだ。
放課後、校門のすぐ脇に俺は立っていた。もちろん川澄先輩を見つけるためだ。そして確かめる‥‥‥ってでも、そんなことどうやって確かめればいいんだ?
実は途方に暮れている俺の前に、川澄先輩はやってきた。ひとりだ。
「こんにちは。佐祐理さんは?」
当たり障りなさそうに声をかけてみた‥‥‥俺をちらっと一瞥すると川澄先輩はいきなり俺の頭を捕まえて、その口元へ強引に俺の耳を持ってくる。
「うわっ」
吐息が耳に触れる。
周囲にいた生徒のざわめきが大きくなったような気はしたけど、聞いてなかったから何を騒いでいたのかは知らない。
「準備が要るから。今日の真夜中、ここで待ってる」
準備? 準備って、何の準備だ? ‥‥‥ここ?
聞き返そうと思った頃にはもう、川澄先輩は歩いて行ってしまっていた。
普通、真夜中というのは何時から何時くらいのことなんだろう。よくわからないから、ちょうど十二時に学校に着くように俺は家を出た。
雪が降っていた。さらさらと傘の上を粉雪が滑っていく。手が痛い。手袋も持って来るんだった。
校門に着くと、校舎の時計は十一時五十五分。思っていたよりも早足だったらしい。
校庭を見回したが人影はない。
玄関の扉は閉まっていたが、鍵は掛かっていなかった。普通鍵とか掛けないか? ‥‥‥こんな雪の日に何か盗みに入る馬鹿もいないか。
自分の下駄箱から上履きを取り出して、履いてきた靴を放り込む。薄っぺらい上履きなんかまるで存在しないかのように、床の冷たさがストレートに伝わって来た。
自分の教室、体育館、三年の教室‥‥‥購買の自動販売機で買った暖かい缶コーヒーをカイロ代わりにポケットにしまって、俺はしばらく校舎内をふらついてみた。
もう十二時を二十分くらい回っている。普通、真夜中というのは何時から何時くらいのことなんだろう。それとも、もう帰った後だったり‥‥‥まだ来てなかったり‥‥‥そもそも最初から来るつもりなんかなかったり‥‥‥。いろいろと嫌な想像が頭を掠めて通る。
自分で言い出しといて、来ない、はないよな。
ぱきん。缶コーヒーの蓋を開ける。
手近な机から椅子を引き出し、腰をおろした俺は缶コーヒーを一口啜った。
『来て、くれたんだね』
後ろで声がした。あの夢に聞こえた声だった。
「約束だからな。‥‥‥いや、舞とじゃなくて、あの川澄先輩と、だけど」
振り返らずに答える。
『うん。わかってる。でも、同じだから』
「そうなのか? ‥‥‥川澄先輩は、舞、なのか?」
『うん』
やっぱりそうだったのか。
でも。
「じゃあ、お前は?」
『お願い。七年前からわたしに捕らわれたままの私を』
わたしにとらわれたままのわたし。
それは一体何を意味するのか。
俺があれこれ考える間にも事態は進んでいた。
どがんっ。‥‥‥いきなり蹴り開けられた扉の向こうから何かが駆け込んできた。別の何かに背中から突き飛ばされた俺が一瞬前まで座っていた椅子に白い刃が落ちていく。それはたちまち椅子を、木の板はおろかそれを支える金属のパイプまでもまとめて両断し、床に突き立ってようやく止まる。
やっとのことで振り返る。床に刺さった刃を引き抜きながら、そこに立っていたのは。
「川澄先輩、か‥‥‥」
「うん」
例によって表情はない。あの舞が言う通り、この川澄先輩があの舞の七年後だとしたら‥‥‥
「あんまり笑わなくなったんだな、舞」
「だって、私は殺されてしまったから」
俺が、舞、と呼んだことにも、別に違和感はないようだった。
「殺されてしまった‥‥‥って、生きてるじゃないか」
「それがどうしてかはわからない。どうして今でも生きているのかはわからない。だけど、あれから私は魔物とずっと戦ってきた。祐一くんはいなくなってしまったから、たったひとりで。一度も、勝てたことはない」
「だけど、俺は舞のことを嫌いになったんじゃなくて‥‥‥そうだ、だから俺、ずっと舞に謝らなきゃいけないことがあったんだ。あの時、あの麦畑へ走って行けなかったことをずっと後悔してた。嫌いになったからいなくなったんだなんて思われたくなかった」
「だけど私は、祐一くんを待ちながら、魔物たちに殺されてしまった。もう何度死んだかわからないくらい」
「だから生きてるだろっ! 何なんだよその『殺されてしまった』ってのはっ」
「あなたを憎む他に、魔物と戦う他に、私には、生きていく標がなかった」
逆恨み?
そう思ったが、口に出しては何も言わなかった。
「本当は、もしかしたら、祐一くんのせいじゃないかも知れない。だけど私、私‥‥‥」
一瞬だけ、何も伝えない舞の瞳に感情が閃いた。
悲しい。やりきれない。
「もう私にはこうするしかない‥‥‥何もかも、すべてを滅ぼすしか‥‥‥」
そして舞はその手に握った白鞘を振り上げる。その何も伝えない瞳は、まっすぐに俺を見つめたままで。
「舞っ!」
叫ぶのと、また横から何だかわからないものに突き飛ばされたような感じがしたのが、ほとんど同時だった。抗う術もなく、周囲の机や椅子をいくつか巻き添えにしながら俺はごろごろと床を転げる。
ようやく身を起こした俺が見たものは、四人ほどいるあの幼い舞を相手に白刃を振るう舞の姿だった。
「止めろ舞っ! それが何だかわかってるのかっ」
「魔物」
短くそれだけを答えるのがどうやら精一杯だったらしい。あんな凶器を携えていながら、舞は幼い舞の群れに明らかに圧されていた。
そして、その幼い舞のうちの、恐らくは最後のひとりが、座り込んだままの俺の手を取った。そのままぐいぐいと腕を引っ張って、舞が蹴り開けた扉をくぐって行く。
そこに、あの麦畑があった。
『ここ、憶えてる?』
「もちろんだよ」
『よかった‥‥‥わたしは、ここで生まれた。あの日、私が祐一くんに電話をかけた時に』
風がそよぐ。黄金色の草原が穏やかに波立つ。
その草原の真ん中で、俺は幼い舞と向き合っていた。
「生まれた、って‥‥‥?」
『祐一くんがいなければ私はわたしに勝てないから、だから私は祐一くんを呼んだ。私は祐一くんがいないとわたしに勝てなくて、祐一くんがいればわたしに勝てる。それが私の望んだわたしだったから‥‥‥あの時私が願った通りであるためには、一対五くらいの絶望的な数の差が必要だった。ひとりずつのわたしは絶対に私よりも強いくらいの絶望的な力の差が必要だった』
もしかして舞は、あの不思議な力で‥‥‥自分で自分の敵を産み出した、のか?
『私の望みは、半分だけかなって、半分だけかなわなかった。私から生まれたわたしは私よりも強くて五人もいたのに、あの時はとうとう、祐一くんは来てくれなかったから。それでも襲いかからなきゃいけなかったから、わたしは五人で同時に私に襲いかかった。だけど私はわたしより弱かったから、それだけで私は瀕死の傷を負ってしまった。その時私は死ぬことを望まなかったから、だけど助けて欲しいとも願わなかったから、わたしにはそれ以上は何もできなくて‥‥‥血で濡れた体を必死で引き摺って、この麦畑を這っていく私を黙って見ているしかなかった』
その光景が目に浮かぶ。もしかしたらそれは、目の前の舞が昔見た光景なのかも知れない。全身血に塗れた舞がやっとのことで麦畑から出てくる。そこに通りかかった、もうひとり別の女の子が驚いて手に持っていた鞄を取り落とす。でもそれはほんの数秒のことで、すぐにその子は舞に駆け寄って肩を貸す。血で汚れるからと舞は遠慮するが、そんなことは全然気にする風でもなく、鞄と舞をそれぞれの肩に乗せて、懸命に歩いていく。
この人といる時に魔物に襲われたら、私はこの人を護れない。その時、舞がそう思ったのが俺には何故かわかった。だから、
『だからわたしは佐祐理を襲わなかった。佐祐理と一緒にいる私を襲わなかった』
「あれが佐祐理さん?」
『うん。その後すぐにお母さんが死んでしまって、私はひとりになってしまったから、それから私は佐祐理の家にずっといる』
あれが佐祐理さん‥‥‥ってことは‥‥‥。
『佐祐理は知っている。私が話したから。祐一くんが私を置いて行ってしまったこと。その時に現れた魔物を私が追っていること。だけど佐祐理はわたしを見たことはない‥‥‥と思う。わたしは佐祐理を襲わないから』
幼い舞は言いながら、急に顔を顰めて右肩を押さえた。
「でもそれじゃ、どうして佐祐理さんは舞が‥‥‥魔物を追ってるなんて、そんな夢みたいな話を信じてるんだ?」
『ひとりで麦畑にいる人間は普通、どういう酷い転び方をしたとしても、全身血塗れでひとりじゃ歩けなくなるような怪我にならない』
それは、そうかも知れない。
『それでも私は、最初のうちは、もしかしたら麦畑を護り通せば祐一くんが帰って来てくれるかも知れない、とも思ってた。だけど何年か経つうちに、その麦畑もなくなってしまうことになった。もともとこの麦畑は佐祐理の家の持ち物で、だから舞と一緒に佐祐理は随分、佐祐理のお父さんにお願いをしてくれたけど、駄目だった』
風が渡った。黄金色の草原がざわざわと揺れた。幼い舞の頭についた兎の耳が揺れた。
『護りたいものを護れなかった悔しさを、佐祐理はとてもよく知っていた。だから佐祐理は、あの麦畑が麦畑でなくなってしまって、それでも魔物が消えていないと知った時に、私に力をくれた。あの刀は本当の刀で、虎徹さんという名前で‥‥‥本当はわたしには触れることもできないものだけど、これがあれば勝てるかも知れないと私が思った時から、あの虎徹さんだけはわたしを傷つけることができるようになった。でもそれも、傷つけられるだけで、倒せるわけじゃない』
パラパラ漫画か何かのようなぎこちない動きで、草原の景色が小さく折り畳まれていく。
『そんなことばかりずっと繰り返しているうちに、ただの空き地になってしまったその場所は』
小さく小さく、見えないほど小さく‥‥‥やがて黄金色の欠片は、さっき連れ出されたあの校舎の中の景色に紛れて消えてしまった。
「もしかして、ここか? この学校なのか?」
幼い舞が頷いた。兎の耳がまた揺れた。
『そして、麦畑までなくしてしまった私は、いつからか祐一くんを憎むようになった。嫌いじゃないって‥‥‥好きだってわかってるのに、私を置いて消えてしまった祐一くんのせいなんだって思うことでしか、来てくれなかった祐一くんを憎みながら、時々思い出したようにわたしたちに挑みかかることでしか、私は私をこの世界に繋ぎ留めておけなかったのかも知れない。そうしていなければ、私は私でない誰かになってしまいそうな気がしていたのかも知れない』
頷いたまま、幼い舞は苦しそうに胸をさすりながら俯いている。
遅かった、んだろうか。
俺は‥‥‥七年は、遅すぎたんだろうか。
七年前に置き去りにした舞のために、俺にできることは‥‥‥もうない、のか?
『だからわたしは、私が「魔物を倒さなきゃ」って思う度に、私の前に魔物として現れた。私をこの世界に繋ぎ止めておくために。私はどんどん強くなっていった。だけどどんなに強くなっても、私はわたしに勝つことはできない。だから私はもっと強くならなきゃって思う、だけど私が強くなるとわたしはもっと強くなる』
でも、だけどそれじゃ、
「いつまで頑張ったって絶対勝てないじゃないか」
『そう。わたしはそうあるように生まれてきたから。そして、わたしがどんなに強くて、祐一くんが本当はどんなに弱かったとしても、わたしは祐一くんには勝てない‥‥‥お願い。もう私を、わたしから解き放ってあげて。わたしが檻なの。七年もずっと、もうなくなってしまったあの麦畑に私を縛りつけているのはわたしなの。そして檻は祐一くんにしか壊せないの』
顔を上げた舞の唇の端から、赤いものが一筋、流れて落ちた。
「止めるって、どうやって?」
聞き返したけど本当はわかっていた。
『わたしを殺す』
「殺されたら、お前はどうなる?」
『わからない。だけど、それしかないの‥‥‥』
そうだろうか。本当に、そうだろうか。
「祐一‥‥‥くん‥‥‥」
背中の向こうで声がした。
振り返ると舞がそこに立っている。苦しそうに肩で息を吐いている。ボロボロになってしまった制服は右肩のところが大きく裂けていた。胸のあたりに引き摺られたような痕があった。そして、唇の端に、血の雫が落ちた痕があった。
ちょっと待て。
振り返る。幼い舞はまだそこにいる。さっき肩を押さえて顔を顰め、苦しげに胸をさすりながら話すことを止めず、唇の端から赤い何かを。
舞と舞は戦いながら、互いに同じ傷を負っている。
「舞! 答えろ舞っ! お前を殺したら舞はどうなる? 舞を殺して舞が檻から解き放たれたら、解き放たれた舞はどうなるんだっ!」
『多分‥‥‥死ぬ』
「多分‥‥‥死ぬ」
前と後ろから、同じ答えが返ってきた。
「それじゃ意味ないだろ! 俺は舞を殺すために帰ってきたんじゃない!」
「だけど私は、祐一くんを、この魔物たちを、憎む以外のことを知らない。祐一くんのことは大好きだけど、憎むことを止めてしまったら何を信じて生きればいいのかわからない。この魔物を傷つければ自分も同じ怪我をするのも何となくは知ってたけど、魔物をすべて倒してしまった後のことなんて私には考えられない。だからきっと、私にはその次なんてない」
「違う。そんなの違う! 最初から檻なんてないんだ。舞、お前が相手にしてるその魔物は舞自身だ。戦うことで舞は自分を傷つけてる。何もかもなくしてしまったお前は、そうすることでしか自分を護れなかった。だけどそんな檻、本当はあっちゃいけないんだ。もっと違う、何か別のやり方があった筈なんだよ!」
「何を言っているのか、よくわからない‥‥‥」
「舞、お前はわかっているんだろう? お前が閉じ込めてるんじゃない。舞が閉じ込めて欲しいと願っているから、お前がいつまでも檻のままなんだって。俺はお前を殺せるかも知れない。じゃあ殺してどうなる? また新しい檻が出てきて、またそれぶっ壊すために俺と舞はずっと一緒にいるのか? そんな‥‥‥そんな理由じゃなくたって、俺は俺の意志で、もうどこへも行かないで舞の側にいられるんだ! 舞だって、舞が‥‥‥そう思ってくれるなら、舞が望む限り、そんな理由なんかなくても、俺の側にいられるのに」
『だけど、わたしは私の望みのために生まれたから。私がそれを望む以上、わたしは檻以外の何かにはなれない』
‥‥‥それは、あんまりにも軽率な、賭けというにも分の悪すぎる賭けだった、ような気はしていた。だけど、七年分の遅刻を一気に埋め合わせるなら、これくらいやらなきゃだめだと思った。
理屈じゃなかった。舞の手から奪った日本刀を自分の胸に突き刺した時の俺の気持ちは。
「ゆ‥‥‥祐一くんっ! 何を‥‥‥何をっ」
ボロボロの制服を着た舞と幼い五人の舞が慌てて俺に駆け寄ってくる。その手は必死に、俺の胸に深々と刺さった刃を引き抜こうとしているが、俺はそれを許さない。入らない力を必死で振り絞って、刃を沈めていく。
「何って舞‥‥‥七年もずっと‥‥‥こうしたかったんだろう‥‥‥俺を‥‥‥」
『違う! そんなわけない! そんなわけないよ! 本当に嫌いなら、嫌いなら‥‥‥わかってるでしょう! 本当に嫌いなものを、たったひとつだけを七年も想い続けるなんてできないよ!』
「そうだよ‥‥‥だから舞、これで気がついてくれ‥‥‥お前に必要なのは魔物なんかじゃない‥‥‥舞はただ舞であればいい‥‥‥舞であるために‥‥‥要るものは檻なんかじゃないんだ‥‥‥なくすものなんてひとつでいい‥‥‥俺がひとり‥‥‥いなくなるだけで舞が‥‥‥気づいてくれるなら‥‥‥俺はそれでいい‥‥‥」
「馬鹿っ! 祐一くんの馬鹿っ!」
叫ぶ舞の手を取って、幼い舞の小さな手を取って‥‥‥まるで力の篭らない俺の手で、舞と舞の手を繋ぐ。
それが俺の、最期の仕事だった。
「自分同士で殺し合うなんて馬鹿な真似はもう止めるんだ‥‥‥不思議な力があったって、刀振り回すのが上手くたって‥‥‥ひとりの力なんて結局ちっぽけなんだ‥‥‥何もわからなくていい‥‥‥不安で不安でしょうがなくても、これからは佐祐理さんや、お前のまわりにいる人たちが何とかしてくれる‥‥‥ひとりの檻に閉じ篭らなくていいんだ‥‥‥昔からずっと‥‥‥これからだって‥‥‥ずっと‥‥‥ひとりなんかじゃ‥‥‥」
意識はどんどん闇に沈んでいく。
この刀を自分の胸に刺した時の、あの灼けつくような痛みもだんだん薄らいできている。
『ひとりじゃなくてもっ! 私が‥‥‥わたしがひとりじゃなくてもっ!』
「私を置いて行かないでよ! もう離れ離れは、祐一くんがいないのは嫌ああああああっ!」
ふたりの舞が、互いに握る手の力が少し強くなった、ような気がした。
手のひらに触れていた暖かい何かの感触を最期に。
古い電球の光が途切れるように、俺は途切れた。
目が覚める、ということが、最初俺にはどういうことなのかよくわからなかったんだけど。
目が覚めると俺は白い部屋にいた。病院だろうか。ベッドの上だ。そのベッドの右脇には、女の子がひとり、うつぶせになって眠っている。舞だろう。多分。
よくわからないが、何だか、俺は生きているらしい。
「あ、起きましたか?」
水差しに活けた花を持って佐祐理さんが入って来る。
「舞が運んできたんですよ。祐一くんが死んじゃう、って泣きながら‥‥‥今までは泣いたり笑ったりってあんまりしなかったのに。ちょっと、驚いちゃいました」
「‥‥‥魔物は、どうしたって言ってました?」
こんなこと佐祐理さんに聞いていいのかどうかはわからなかったけど。
「新しい約束と一緒に、いなくなったそうです」
答えながら、佐祐理さんは笑った。
「新しい約束?」
「魔物が舞に言ったそうです。わたしを信じて。わたしを私に戻して。今ならまだ間に合うかも知れないから。祐一くんを助けられるかも知れないから。そして、私と新しい約束を。そうすれば、わたしは私の力、わたしは私の望み、わたしは」
「わたしは私の希望になれるから」
続けたのは舞だった。のそっと体を起こす。
涙の痕が頬に残ったままの酷い顔だった。
「魔物と手を繋いだのは初めてだったけど、魔物の手は暖かかったから、祐一くんの手くらい暖かかったから、信じてもいいって思った。思った途端に、魔物はどんどん私に入ってきて、私の体はどんどん熱くなって、祐一くんの体から刀が抜けて、傷がどんどん塞がっていって」
その酷い顔があからさまにむくれっ面だったから、さらに酷いことになっていた。
「私もボロボロだったけど、何となく、その時は祐一くんを背負って歩けそうな気がして、だから家まで背負って帰った‥‥‥ねえっ!」
むくれたままの舞の顔がぐっと俺に近づく。
「私、新しい約束をしたの。祐一くんを信じるって。ひとりぼっちはもうおしまいにするって。そうしてないと泣いちゃいそうなの。何か信じてないと死んじゃいそうなの‥‥‥ねえ、私は大丈夫だって‥‥‥祐一くんがいるから私は大丈夫なんだって、これからもずっと大丈夫なんだって‥‥‥信じても‥‥‥いいの?」
言うまでもなかったけど、言わなきゃ伝わらないことだってあるかも知れない。
「信じていい。大丈夫だ。任せろ。ひとりじゃない。舞は、ひとりなんかじゃない。俺がここにいる。佐祐理さんだっている。絶対にひとりぼっちなんかじゃない」
思いつくだけ言葉を並べながら、頬に残った涙の痕を指で拭って、俺は舞を抱きしめた。
「馬鹿‥‥‥なんてことするのよ‥‥‥私がそれでも魔物を信じなかったら死んでたのよ‥‥‥?」
「それはさ、俺も舞を信じてるってことだよ。助けてくれると思ってた」
「馬鹿‥‥‥馬鹿っ馬鹿っ馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿っ!」
俺にしがみついたまま泣き出してしまった舞を抱きしめている。
多分こんな風に感情を剥き出しにしたことなんてなかったんだろう。そう、こんな風に‥‥‥置いてきたすべてのことは、今から始まっていけばいいんだ。
どうやら俺は檻の鍵になれたらしかった。
檻を壊す斧じゃなくて、檻の格子扉を開く鍵に。
始まりには約束を。
そして、新しい始まりには、新しい約束を。
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