ここにこうしていても、だから何かがどうにかなるわけじゃない。理由や意味があるわけじゃなく、ただ俺は、ぼーっと噴水の縁に腰を降ろしている。
昨夜のあの寒さは嘘だったのかと思いたくなるような、穏やかな冬の日差しが公園を照らしている。
一日天気がいいくらいでは解け切れない雪が積もったままになっていても、日が差していれば寒くないような気もしてくる。
流れているのかそうでないのかわからないくらい、ゆったりと時間が過ぎていく。
嫌になるほど、ゆったりと。
雲ひとつない青い空が、もうじき赤く染まり始める。
急に背中の噴水が水音をたてる。まるでたった今、自分が噴水だったことでも思い出したかのように。
‥‥‥最初の声は、水音に掻き消されたらしかった。
「祐一さん? 祐一さんってば」
言いながら、誰かの指が俺の背中を押した。その細い指が背中を押す感じが何となく懐かしくて、どこか心地よかった。
振り返るのも億劫だった俺はそのまま空を眺めていた。その目の前に、
「祐一さんっ。もう、ちゃんと返事してくださいよ」
ちょっとむくれた顔の栞が顔を出した。
何も‥‥‥水揚げされた魚みたいに自分の口が動くのがわかるけど、それでも俺は、何も喋っていなかった。我ながら馬鹿な反応だと思った。きっと今、俺は世界中の誰よりも間抜けな顔をしているに違いなかった。
しょうがないなあという顔をして、栞はちょこんと俺のすぐ横に腰掛けた。
それが栞の葬式だったことに自分が気づいていないかのようなもどかしさを感じながら、まるでどこか別の世界の景色を眺めるように俺はその式に立ち会って、結局泣き出してしまった香里の背中をずっとさすっていた。
同じ動きばかりしていたせいで強張ってしまった右腕の違和感は、一晩経ったくらいじゃすべて忘れてしまえるほど抜け落ちてもいなかったけど、何となく、これは現実なんだと俺を納得させるものがその他に何もないような居心地の悪さも、ずっと、本当は今でもずっと、俺は引き摺ったままでいる気がしている。
「まだ、ちゃんと、わかってないんだね」
じっと俺の顔を見つめながらそう言った名雪は、俺よりも悲しそうな顔をしていたと思う。
きっとそうだ。俺はわかってない。
頭が知っている、ということじゃない。心の中で、栞はもういないということが、それがどういうことなのかがまだ繋がっていない‥‥‥だから、栞が死んでしまったことよりも先に、その現実を前にしても妙に冷静なままでいられる自分自身に困惑しているんだと思う。
まさかそれは、また会うことを予測していたから、じゃない筈だった。
今日ここにいたら栞に会えるだなんて、俺は思ってなかった筈だった。
だけど今、栞は俺のすぐ側にいた。
「いい天気ですね」
「ああ」
何でもない言葉にどうでもいい相槌を打つ。
答えながら、だけど、そっちへ向き直りたくなかった。向き直って、もし栞がそこにいなかったら。それが恐かった。
とん。そんな俺の胸の内を見透かしたように、栞の背中が俺に寄りかかる。
「こっち向いてくれないんですね」
「ごめん栞。でも、もう少しだけ」
「もう少しだけ?」
「もう少しだけ、そのまま、そうしていて」
ちょっと首を動かしてそっちを見る。たったそれだけのことをしようと決意するまでに、俺は何十分を費やしただろう?
‥‥‥とにかく、向き直っても栞はそこにいた。理由はわからないが、とにかく。
「だけど昨日、栞の葬式に出た気がするんだけど」
いちばん聞きたくないことを聞いてみる。
「ええ。私、本当に死んじゃいましたから」
にこやかに栞は答えた。
「あのな。そういうこと、笑いながら言わないでくれよ」
「あ。ごめんなさい。えっとそれで、神様が‥‥‥仏様でしたっけ?」
「俺に聞かれてもわからん」
「そういう人が出てきて、一日おまけしてくれたんです。もう一日だけだけど、そこにいてもいいよ、って」
「何だそりゃ?」
「本当は体はないから、私は誰にも見えません。でも、私が『見えてもいい』って思う人には、自分も、相手からも、ちゃんと見えるし触れるそうです。不思議ですね」
不思議ですねって、本人にそんなこと言われても。
「あ、じゃあもしかして、俺って他の奴からは俺ひとりだけでぶつぶつ喋ってるように見えるのか?」
「今はそうかも知れませんね。でもこの公園、今日は他に誰もいないですから、別にいいと思いますけど」
いや、でもそれは間抜けだろう、かなり。例えば俺が他の奴で、こんなベンチで延々独演会やってる俺なんか見かけたら、そいつは何かおかしいと絶対思うぞ。
「急にそんなこと言われて私もちょっと困ったんですけど、でもせっかくおまけしてもらったので、祐一さんに会いに来ました。それで‥‥‥祐一さんに、お願いがあるんです」
「え?」
「私がいなくなるまで、一緒にいてくれませんか?」
いつになく真面目な表情で、栞はそんなことを言った。
そのおまけがどういう勘定で「一日」を決めているのかは知らないが、栞の話が本当なら、長くてもあと二十四時間のうちに栞はいなくなる。もしかしたらそれは、ほんの五分後のことかも知れない。
頷くのはいい。一緒にいられて嬉しくないわけはない。だけど、もう一度、栞が目の前から消えてしまったら‥‥‥その時俺は‥‥‥どうなるんだろう?
そんなことが心配になるくらい、今の俺は冷静だった。
‥‥‥頷いてからそんな心配したってしょうがないよな、と後から思うくらい、舞い上がってもいたんだろうけど。
「どうしたんですか?」
「なんか、俺って馬鹿だなあって思って」
「へ?」
「いや。いいんだけどさ」
考えてもしょうがないことを考えるのはやめた‥‥‥実際、別にどっちでもいいことだった。香里あたりがたまたまここを通りかかれば何て言うかはわからないけど、結局、ここに本当に栞がいるのかそうでないのか、それは俺にしかわからないことだ。実は俺が何か、幻覚とかそういうのを見てるだけなのかも知れない。
だけど栞は、今ここにいる。
本当だろうと嘘だろうと、そのうちまた消えてしまう運命にあろうと、取り敢えず俺としては、今はそれだけでよかった。
「寒くないか?」
「大丈夫です。でも祐一さんは?」
「俺はだって、葬式出たまんまだからな」
「あれ、そういえばそうですね」
なんせ制服の上からコートだ。要するに、昨日からずっとこの格好なんだけど。
言っていたら暑いような気がしてきて、俺はごそごそと脱いだコートを傍らに置いた。
「もしかして祐一さん、お家に帰ってないんですか?」
「ん?」
聞き返す素振りで誤魔化して、はっきり答えることを避けた。
「名雪さんが心配しますよ? 秋子さんも」
答えないことが否定を意味しない、ということが、栞にはわかっていたらしい。
「お前だって、わざわざ帰ってきたのに、香里には会わなくていいのか?」
「それは‥‥‥いいんです。お姉ちゃんはずっと知ってましたから」
「知ってた、って?」
「私がもう長くないこと」
「そ‥‥‥ういうもんなのか?」
「そういうものです」
「そうか‥‥‥」
「それに」
栞は微笑んだ。
「祐一さんが言ってくれたんじゃないですか。笑っていることに一生懸命にならなくていい、って」
次の日は大雪だったけど、何故だかその日はよく晴れていて、夜になっても月が綺麗だった。
噴水の真ん中にある飾り時計がオルゴールを鳴らし始め、その曲に合わせてかたかたと人形が踊りだす。
栞の誕生日。午前零時。
それは‥‥‥さよならの合図だった。
「こんな真夜中にもオルゴールが鳴るなんて、私、知りませんでした」
雪の上で横になったまま栞は呟く。これが‥‥‥俺自身の問題じゃなくて、例えばテレビの向こうの物語か何かなら、ドラマみたいで格好いい、とただ喜んでいられたろうに。
「もう零時になりました。シンデレラはおしまいです」
栞は身体を起そうとする。
「こんな時まで、笑ってなくていい」
俺は抱きしめた腕を緩めない。
「祐一さん‥‥‥」
「泣きたいなら泣けばいい。もともとそんな負い目なんかない筈だけど、でもそれが負い目だと思うなら香里の前では笑っていればいいよ。だけど俺と一緒にいる時は‥‥‥俺しか一緒にいない時まで、そんなの気にしなくていいんだ。笑ってることに一生懸命にならなくていい。それが泣き顔でも、怒った顔でも、俺が全部見ててやるから、大丈夫だから、だから」
「でも祐一さん」
俺の腕からするりと抜け出して、栞は微笑んだ。
背中を向ける。
「笑っていることに一生懸命にならなくていいなんて、今更そんなことを言われたって、それじゃどんな顔していればいいのかなんて、私にはわかりません」
僅かに、声が上擦っていた、と思う。
「私、笑っていられましたか? 私は幸せだったって、ちゃんと祐一さんに伝えられましたか?」
それから一度も振り返らずに、頼りない足取りで、栞はこの公園から歩いていった。
最後に小さく囁いた、さよなら、という言葉に、俺が何か言葉を返すよりも早く。
「笑っていることに一生懸命にならなくていいなんて、今更そんなことを言われたって、それじゃどんな顔していればいいのかなんて、私にはわかりません。‥‥‥だったよな、確か」
それが、あの時の栞の答えだった筈だ。
この言葉は間違っていない自信がある。
「よく憶えてますね、そんな細かいことまで」
「言った俺としてはさ、そこで『わからない』なんて言われると思わなかったんだよ」
笑っていないと誰かが悲しむから、そのために笑うんじゃなくて、笑いたくて笑っていて欲しかった。だから笑いたくない時には笑ってなくてもいい。
だけど‥‥‥頑張って笑ってることが普通になっていた栞は、いつでも笑っているためのやり方を一生かけて作り上げてきた。だから逆に、そうやって笑っていない自分が想像できなかったんだと思う。
それじゃどんな顔していればいいのかなんて私にはわかりません。
悲しい答えだと思う。
「でも本当に、私にはわからなかったんです‥‥‥だけど祐一さん、今ここに来て、ちょっとですけど、わかったんです。多分、私がここにいることも、笑ってることに一生懸命にならないやり方のひとつなんだって。ううん、本当はやり方が大事なんじゃなくて、大事なことは、私が、私のために何かをするっていうこと。お姉ちゃんに笑ってもらうためでも、お父さんやお母さんに笑ってもらうためでもなくて‥‥‥祐一さんは優しいから、こんなことしたらきっと祐一さんは後でもっともっと悲しむかも知れないって本当はわかってるくせに、私が会いたいと思うから、ただそれだけの理由で、私のために、ここに私がいるっていうこと」
私が会いたいと思うから、ただそれだけの理由で、私のために、ここに私がいるっていうこと。
「‥‥‥随分、我儘になったんだな」
それでいい。
できれば生きてるうちにわかって欲しかったけど。
「だって死んじゃいましたから。もう恐いものなしです‥‥‥あ」
「ん?」
「本当は恐いことはいくつかあることに気がついたんですけど、それは内緒です」
「内緒? 何だよそれ」
「自分で弱点を教える人はいません」
「そういう人は普通、自分から『弱点がある』とかも言わないと思うが」
「うっ‥‥‥鋭いですね」
それは鋭いのだろうか?
「えっと、まあそれはいいとしてですね。祐一さん、お腹空きませんか?」
あっという間に流しやがったなおい。
そう思いはしたけど、取り敢えず今は突っ込まないでおいた。
「栞も腹が減るのか?」
代わりじゃないが別のことを訪ねる。
「いえ、私はそういうわけじゃないんですけど、でも何となく、アイスクリームが食べたいかなって」
「いや‥‥‥だから、食べられるのか?」
「えっと、多分、アイスクリームだったら」
ここにいる栞を生物学的に分類するとどこに属するのかもよくわからないが、アイスクリームなら食べられる、とかいう生き物の方にも俺には心当たりがない。
「この寒いのにまたアイスか?」
「できればバニラがいいです」
「他にも何かあるだろ? そこの露店のお好み焼きとか温かそうだぞ」
「最近はチョコクッキーもお気に入りですけど」
「もうちょっと先へ行けばパスタの店もあるし」
「そういえば私、イタリアンジェラートって食べたことないんですよ」
「ああそうだ、この間香里にうまいカレー屋の場所を教わったんだが」
「楽しみですね、アイスクリーム」
「‥‥‥」
「‥‥‥」
数秒。
「‥‥‥アイスでも買いに行こうか」
溜め息混じりに立ち上がる。吐いた息が白い。
言っていたら寒いような気がしてきて、俺はさっき脱いだコートの袖に腕を通した。
「わーい、嬉しいですー」
見上げると、空が赤くなりかけていた。
もうじき夜が来るだろう。
「なんかあそこの店員にものすごく不審に思われたような気がしたんだが」
「そういう細かいことは気にしなくても大丈夫です」
結局、近所のコンビニで幾つかカップアイスを買って、俺たちは公園の噴水に戻った。
手渡したバニラのカップを栞が開ける。見ているだけで、奥歯のさらに奥にじーんと寒気が染み込むようなあの感じがして、俺は思わず口元を押さえた。
そこに木のスプーンを差し込もうとするが、アイスが固いのか、なかなか差し込めない。
「か‥‥‥固いです‥‥‥」
「まあこの時期、アイスは売れないからな。それだって随分前からあのケースの中で冷やされっ放しだったんだろうから、そりゃ固くもなるだろう」
もっともらしい解説をつけてみたが、もちろん、そんなことをしたからといって解決する問題なんてない。
「祐一さあん‥‥‥」
「わかったわかった」
カップを持った栞の左手ごと、俺の両手で暖めてみる。
「え‥‥‥あっ」
改めて触れてみると、栞の手は、暖かいのか冷たいのかよくわからない。それは、この寒いのにやたら冷たいアイスのカップなんか持っているせいかも知れないし、栞の手がそういう手なのかも知れない。‥‥‥自分の葬式の翌日に神様からおまけをもらって帰ってきた人間は誰しもそういうものなのかも知れなかったけど、他にそういう話を聞いたことがないから、本当はどういうものなのかはわからない。
「あ、あの、祐一さん?」
「死んじゃったから恐いものなしのくせに、こんなんで赤くなってどうする」
「ううっ‥‥‥意地悪です‥‥‥祐一さんなんか嫌いです‥‥‥」
栞が涙目で俺を見上げた。
そんなことをしているうちに、カップの中でアイスが緩くなっていった。思っていたよりも早かったような気もする。栞は慌ててカップに目を戻した。
実は俺としても内心ものすごくドキドキしていたんだけど‥‥‥ひょっとしたら、だから俺の体温が必要以上に高かったりするようなことがあったのかも知れない。
「祐一さんは食べないんですか?」
そういえば、コートと一緒に置いたコンビニの袋にはまだ幾つかカップアイスが入っている。思い出しただけで頭が痛くなりそうだ。
「もしかして、俺も食うのか、これ?」
「もちろんです」
栞は笑顔で即答した。
「どれでも好きなのを取ってください」
「どれでも、って言われてもなあ」
袋の中を覗き込む。暗くなりかけでいい加減寒くなってきた外気よりもさらに温度の低い空気が袋の中に澱んでいた。微かに白いもやもやしたものが見える。気がつくと、俺は奥歯を力いっぱい噛み締めていた。
「やっぱパス」
「えー?」
「いや、えーじゃなくてな」
「残念です。せっかく買ってきたのに」
買ったのは俺だが。
「また戻ってくればいいだろ? 今度は夏にでも。そしたらアイスくらい幾らでもつきあえるんだから」
「でも、また戻ってこれるかどうかなんて」
言いかけて、俯いてしまう栞。
「‥‥‥食うか」
意を決して、俺は再び袋の中を覗き込んだ。
今度はどうにか挫けることなく、適当に取り出した抹茶アイスの蓋を開けるところまで漕ぎつける。
ところで、アイスはやっぱり、冷たくて固かった。
「そういえば、この間と逆ですね」
俺の顔を覗き込みながら栞が言った。
この間ってのは多分、あのさよならの夜のことだろう。あの時の栞には、俺はこういう風に見えていたのか。
今、俺の頭は栞の膝の上にあった。栞の顔の向こうには星空が広がっている。月が綺麗な夜だった。
‥‥‥それでもかなり頑張って、抹茶のアイスは半分くらいは食べたのだが、そのうち本当に頭痛がしてきて、頭痛がすると栞に言ったらこうなった。
おかげで後ろ頭はずきずきするが、まあ、怪我の功名と言えないこともない。
栞はその後、俺が残した抹茶のアイス半分も平然と食べてしまった。今は、空になったバニラのカップの上に、空になった抹茶のカップが重ねてある。
まさか栞、入院している間中ずっとこんな食生活だったんじゃないだろうな。
聞きたかったけど、頷かれたりしたらどう反応していいかわからないから、それはやめておいた。
「なんか、嬉しそうなんだな」
「はい。私、誰かの看病って今までしたことなかったんですよ。だから実は、ちょっと嬉しいです」
それはそうかも知れない。
「そうだ。治ったら、まだアイスありますからね」
何でもなさそうにとんでもないことを言いながら、栞は俺の額をさすっている。
「要らない」
「そんな、間髪入れずに答えなくても」
「だってアイス食べて頭痛がするのに、治ってすぐアイスなんか食べたらまた頭痛がするだろ」
「そしたらまた膝枕してあげますから」
「別に、頭痛くなくても膝枕してもらえばいいだけのような気もするんだけど」
「でも夢だったんです。私が誰かの看護をする、ってことが、ずっと」
栞は本当に嬉しそうだった。
「嫌な看護婦だな」
「あ、ひどい。そういうこと言う人は嫌いです」
「それはこっちの台詞だろ」
栞の顔を見つめ続けているのが何となく気恥ずかしくなって、言いながら俺は寝返りを打とうとした。
「ダメです。逃がしません。もう、死んじゃったから恐いものなしなんです、私」
「‥‥‥え?」
栞は、俺の頭を両手で押さえて、離してくれなかった。
「さっきの仕返し、です。これくらいで恥ずかしがらないでください」
俺の顔を覗き込んでいる栞の顔は、真っ赤だった。手のひらに熱がこもる。
「顔が赤いぞ栞」
「聞こえません」
目を閉じたその赤い顔は接近することを止めなかった。‥‥‥互いの唇が触れるまで。
今になってまた噴水が水を噴き上げ始めたらしい。
水音が、やけに遠くに聞こえていた。
長い口づけの間に、噴水の水は一旦止まり、そしてまた、水音をたて始めていた。だけど、不意に俺の頬で水滴が弾けたのは、噴水の縁にいるせいじゃなかった。
目を閉じていてもそれくらいはわかった。
それは、栞の。
「泣いてるのか?」
「だって‥‥‥本当は私、いなくなるのは嫌です‥‥‥もうさよならは二度目だから、大丈夫だって思ってても、ここからいなくなるのは、私だけひとりぼっちは、やっぱり、嫌です‥‥‥」
ぽつぽつと滴は零れ続ける。
「私、馬鹿だから‥‥‥もう会わないって決めてたのに‥‥‥いなくなるってわかってるのに、会えば苦しくなるだけだって、そんなことずっと前から知ってたのに‥‥‥誰も好きになっちゃいけないのに祐一さんのこと好きになって‥‥‥普通の女の子は最後の一週間だけって自分で決めたのに、死んじゃった後になってもまだ祐一さんのこと好きで‥‥‥どうして‥‥‥どうして私だけ、こんなに馬鹿なんでしょうね‥‥‥信じてなくても心のどこかでは期待はしてた、だけどやっぱり‥‥‥起こらないから奇蹟なんて、私、自分で言ってたくせに‥‥‥本当に奇蹟が起こらなかったことが‥‥‥こんなに、今はこんなに‥‥‥っ‥‥‥」
俺の上に折り重なるように、栞の体が崩れた。
傍らに置いてあった空のカップが、かたんと音をたてて噴水の縁から転がり落ちた。
「欲しかったのはこんな、どっちも傷つくだけの中途半端な奇蹟じゃないのに‥‥‥こんな奇蹟なら最初から何もない方がずっとよかった‥‥‥一日なんて‥‥‥たった一日だけなんて‥‥‥」
笑ってることに一生懸命にならなくていい。それが泣き顔でも、怒った顔でも、俺が全部見ててやるから。
あの時、俺がこの口で言った言葉が、今は自分の胸をこんなにも締めつけていた。
どんなに本人が終わることを望まなくても、既にここにいない栞はやっぱり、いつまでもここに留まってはいられない。栞の奇蹟はこれでおしまいだということを、栞は嫌になるほどちゃんとわかっていた。
栞の人生全部と同じだけの時間をかけて、栞の心のいちばん奥でずっと暖められてきた気持ちは、口先ひとつで簡単に支えられるような軽い気持ちじゃなかった。
そんなこと最初からわかっているつもりでも‥‥‥それでも、泣き崩れる栞の姿は、痛々しくて見ていられない。いっそ、栞をここに残したまま、俺だけ走って逃げ出したいくらいだった。
「祐一さんっ! 祐一さんっ! 私、私‥‥‥っ! うわあああああっ!」
何か言おうとすると俺まで泣き出しそうで、結局何も言えないまま、俺は栞をきつく抱きしめるしかなかった。
「ごめんなさい。泣いちゃいました」
小さく呟いた栞の目尻に指を当てて、その涙を拭った。
「言ったろ。全部見ててやる、って。泣く顔も笑う顔も全部だ。だから栞はそれでいい。何も心配しないで、泣きたい時は泣けばいい。それでいいんだ」
本当は逃げ出そうかとまで思っていたくせに、口に出るのはそういう言葉だった。俺は自分で思っているよりもずっと嘘つきな男なのかも知れない。
「俺に奇蹟は起こせないけど‥‥‥この一日を永遠にしてやることは、俺にはできないけど‥‥‥一緒にいる限り、俺は栞と一緒に泣いてやる。一緒に笑ってやる」
‥‥‥意外と、嘘つきでもないのかも知れない。
「そして、美坂栞はこの世からいなくならない。俺が一生忘れないからだ」
俺の人生の最後の最後にこの約束のことを振り返ったら、もしかすると、俺は約束を果たせていないかも知れない。
「‥‥‥はい」
「この世から美坂栞が消えてなくなるのは、俺もこの世にいなくなる時だ。それだったら俺でもできる。本当はこの世の中に絶対だなんて言えることが何もないとしても、それだったら絶対に大丈夫だって、俺は胸張って約束できる。だから約束を残そう、栞。俺はお前を忘れない。いつでも、どんな時でも、俺は栞と一緒にいる」
本当に忘れていたら、その時に振り返ることすらできないかも知れない。
「はい」
だけど、俺は思う。
誓いを立てることに意味があるんじゃない。本当の意味は、誓う気持ちを伝えることにある筈なんだ。
「おまけで一日もらえるんだから、おまけでもう一回、人生だってもらえるかも知れない。できるかどうかはわからないから絶対に帰ってこいとは今は言わないけど、でも栞、もしもまた帰ってこれるなら、その時戻る場所はここだ。俺のいる場所だ」
「はい」
「約束してくれ、ここで待ってる俺のことを栞も忘れないって。そうすれば、俺たちの中に約束がある限り、俺たちはひとりぼっちなんかじゃない」
「はいっ!」
「よし」
満月の下で、俺たちは初めての指切りをした。
繋いだ指を切りながらはにかむように微笑んだ栞を、俺はもう一度抱きしめる。
もう迷わない。すぐそこにどんな悲しい別れが迫っているとしても、立ち止まらずに歩いて行ける筈だ。‥‥‥行けなかったら、行く気になれるまで思いっきり泣いてやる。俺はそう決めた。だって、泣きたい時には泣いてもいいんだってことを、栞はちゃんと思い出したんだから。
俺たちは水辺に肩を寄せ合うように座って、どういう時に噴水なのか、周期のわからない間欠泉みたいな噴水を眺めていた。
噴水の中に落としたバニラと抹茶のカップが、同じ水面に映った満月に近づいたり遠ざかったりを繰り返しながら、湛えられた水の上でボートみたいに揺れていた。
ふたりとも何も言わずにいると、この夜がとても静かな夜だったことに今更のように気づく。
夕方、いきなり栞が俺の背中をつついてから、何だかんだで随分と騒がしく過ごしてきたことを思う。
まるで、今俺たちがこうして座っているこの夜が、さっきまでとは違う夜のようだった。
「祐一さん‥‥‥えっと、今まで本当に、ありがとうございました」
「ん?」
「私、馬鹿だから、祐一さんの気持ちなんか本当に何も考えないで、今日だっていきなり押し掛けてきて‥‥‥あの、私がいなくなって祐一さんが悲しんでくれたら嬉しいなって、なんか変なこと言ってますけど、本当はちょっと、そんなことも思ったんです。でも、祐一さんが悲しむってことは、それは祐一さんは悲しいんだよって、自分が祐一さんに悲しい思いをさせてるんだよってことには目を瞑ったままで。本当に、我儘で」
「まあ、そうかもな」
「でも、私が好きになった人が祐一さんでよかったです。きっと自分の方が辛いのに、ちゃんと私を抱きしめてくれる祐一さんで、本当に、私は幸せだったって思います」
「それは‥‥‥栞のためじゃないかも知れないよ」
「え?」
「俺がそうしたかった、ってことが、絶対栞のためになってるかどうかなんて、俺にだってわからない。だけど‥‥‥後先考えないで飛び込んできてくれる栞で、俺も本当に嬉しかったんだ。躊躇った時に‥‥‥出てこようかどうしようか、その感じだと随分躊躇ったんじゃないかって思うんだけどさ、それでも飛び込んでみる、なんてことは、相手のこと本当に信じてなかったら恐くてできないんじゃないかって気がするし。そういう風に、栞は俺のこと信じてくれてたんだなって‥‥‥最初は栞の我儘だったかも知れないけど、それがわかったから、俺だって嬉しい」
「優しいんですね」
とん。栞が俺に寄りかかった。
「えっと、今まで言えずにいたんですけど、本当は、もう少しなんです。あの時計のオルゴールがまた鳴るまで」
「あと十分もないな」
「はい。だけど、今度はいきなり消えないように‥‥‥悲しいから祐一さんの声を聞かずに帰るようなことをするんじゃなくて、今度はちゃんと、さよならを言って別れようって、そう思ってました」
「そっか‥‥‥あのさ、俺、栞の葬式やってる間中、泣かなかったんだ」
「ええ。見てました。お姉ちゃんの背中、ずっとさすっててくれましたよね」
栞が死んでしまったことよりも先に、その現実を前にしても妙に冷静なままでいられる自分自身に困惑しているんだと思った。
「あれはさ」
また会うことを予測していたからじゃない筈だった。
「何となく、わかってたからかも知れない」
今日ここにいたら栞に会えるだなんて俺は思ってなかった筈だった。
「もしかしたら、ここにいたら栞にまた会うんじゃないか、なんて思ってたからかも知れない」
言っていることと、会った時に思っていたことと‥‥‥今となっては、どっちが本当だかわからない。
「名雪に、まだちゃんとわかってないんだね、って言われたんだ。あの時俺には何がわかってなかったのか‥‥‥泣けなかった理由が、今は何となくわかる。だから」
だから、栞がどこかへ旅立って、この公園に残ってるのが俺ひとりになったら、きっと俺は、泣くと思う。
そこまでは栞には言わなかったけど。
そして、また。
噴水の真ん中にある飾り時計がオルゴールを鳴らし始め、その曲に合わせてかたかたと人形が踊りだす。
あの晩はそれだけだったのに、今度はちゃんと、時報に合わせて水まで流れ出した。
「今度こそ、シンデレラはおしまいですね」
「それで残るのがガラスの靴じゃなくて、コンビニのカップアイスなんだもんなあ」
「あ、そうだ。それ取っておいてくださいね‥‥‥えっと、それじゃなくてもいいですから、祐一さんのお家の冷蔵庫には絶対アイスクリームが入ってることにしておいてください。食べに行きますから。これも約束です」
栞は微笑んだ。
「わかった。それも約束だ。今度は木のスプーンなんかあっさり折れちまうくらい固く冷やしとくから、いつでも遠慮なく食べに来てくれ」
「‥‥‥そういうこと言う人、嫌いです」
ぷいっと横を向きかけた栞の顔をこっちに向ける。
「待ってるからな」
頷いて栞が目を閉じる。
抱きしめて、そっと唇を寄せて。
そのまま俺はそこに立っていた。
鳴り止んだオルゴールの残響と一緒に、この腕の中から空気へ溶け込むように栞が消えてしまっても、栞の唇に触れていた俺の口元に、その唇の代わりに冷たい風が触れていても‥‥‥泣きたい時は泣いていいなんて言いながら、自分が流すことは忘れていた涙が、頬から零れて落ちるまで。
泣きながら食べたチョコクッキーのカップアイスは、甘いのにどこかしょっぱいような、不思議な味がした。
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