「いしゃあまり?」
「ん。そういう風に聞いたよ」
顔だけで振り向いた香里の目に、俯き加減で頼りなげな栞が映った。
「ほら、お医者さんってずーっと現役でしょう? だからあんまり減らないんだけど、でも増えるのは増えていくから、これからお医者さんはどんどん余っていくんだって」
「んー。まあ、それはそうかも知れないわね」
何事かノートに書きつけていた香里の手が止まった。
「普通の会社では定年になるような年齢でも、医者とか政治家は普通に現役だものね。そうかも知れないわ。それで?」
「それで、って‥‥‥それでって、えっと」
きいいっと椅子を回して、香里が栞に向き直った。
栞はそこで言い淀んだまま唇を噛んでいるが、やがて、震える声で無理矢理言葉を押し出す。
「あの、あのね、お姉ちゃん、もし私の‥‥‥身体のこと気にしてるんだったら、わざわざそんな、もう余っちゃうような」
「馬鹿ね。そんなこと心配してたらできる仕事なんて何もないわよ」
しかし香里は、栞の苦労の成果を簡単に斬って棄てた。
「それにね、何をそんなに引け目に感じているのか知らないけど、私が医者目指してるのは別に栞のためじゃないわ」
嘘だった。しかし、まるっきり全部嘘というわけでもなかった‥‥‥その嘘と本当の境目がどこにあったのかは、実はもう、香里自身にも思い出せなくなって久しかった。
「そう、なんだ」
「ええ。そうよ」
一瞬、ふたりの間で時間が凍った。
それにしても、どうして私は栞が相手の時までこんなに言い方がキツいのかしらと、言いながら香里は考えた。今は別に疎んじているわけではない筈なのだが、まだあの頃の癖が抜けていないのだろうか。こんなことでは栞がどんな誤解をしたものやら。
‥‥‥と。
「ん、そうだね」
今の今まで、香里には泣きそうな顔で悄然と立っているように見えていた栞が、
「だからお姉ちゃん、この間私が進路の先生に言ってきたことも、別にお姉ちゃんのためじゃないからね?」
急に、にいっと笑った。
「え? 何それ、何の話?」
「高校卒業した後のこと。看護学校へ行くって言ったんだ。資料もいっぱいもらってきたよ」
「かっ」
職など他にも山ほどあろうものを‥‥‥よりによって、栞が看護婦とは。
仕事として医者がハードワークであることは誰でも知っているが、しかし看護婦だって相当なものだ。病弱な栞にそれが務まるとは、香里にはとても思えなかった。
「あのね栞」
「お姉ちゃん」
困惑顔で何か言いかけた香里の言葉を遮りながら、栞は耳元につっと頬を寄せて、
「嘘つく時、右上の方に目だけ逸らす癖のこと、知ってた?」
ふたりの他には誰もいないのに、香里にしか聞こえないような小さな声でそう告げる。
「だから、心配してくれてありがとう。私も頑張るから、お姉ちゃんも余らないでねっ!」
笑いながら、逃げるように部屋を飛び出していく栞の背中を、なす術もなく香里は見送った。
自分の頬が笑うように吊り上がっていることに香里が気づいたのは、それからしばらく経ってからだった。
「何よ。心配して損したわ」
かりかりと頭を掻きながら、椅子を回して香里は机に向き直る。
‥‥‥心配して、と口に出して言ってしまった自分にまた気がついて、香里はちっと舌打ちを漏らしたが、それでも口元は笑ったままだった。
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