真夜中だってのに、階下でがらんがらんと喧しい音がした。
どうせ真琴が食べる物でも探してるんだろう。思ったが、気になったからそっと階段を下りてみた。
「あ、祐一」
思った通り台所にいた真琴が、俺の足音に振り返る。予想通りその辺にフライパンやら鍋の蓋やらを散らかしながら、やけに嬉しそうに目を輝かせながら‥‥‥珍しいことに、火に掛かった鍋なんかかき回しながら。
床に散らかる調理器具を片づけつつ、そのコンロへと近寄ると、甘いような辛いような苦いような、何ともいえない妙な香りと熱気がもわっと顔に纏わりつく。
思わず目を細めながらもさらに近づいてみる。
覗き込んだ銀色の鍋の中で、ごく弱い火にふつふつと煮立てられているそれは、何色、とも表現のしにくい、謎の‥‥‥まさに、謎の、としか言いようのない奇妙な液体だった。
「何だこれ?」
「知らない。秋子さんの鍋」
「嘘だろおい。秋子さんがこんな変なもの作るわけないだろ? 怒らないから正直に話してみろ真琴、本当はお前が何か作ってるんじゃないのか?」
「でも、あたしだって、どうやって作ったのかは知らないよ? かき混ぜてただけだよ?」
言いながら俺をじっと見つめる真琴の目は、俺をからかっているようにも見えない。
いやむしろ、真剣そのものだ。
ここまで散らかっていたのは道具だけだったことを思い出す。手際の悪い真琴が本当にここまで作ったのなら、材料になりそうなものも一緒に散乱していた筈だ。
まさか、本当に真琴は何も知らないのだろうか。
真琴の言っていることが本当だとしたら、これは本当に、秋子さんが夜通し弱火でことことと‥‥‥何だ。何なんだこれは一体。
不意に、背筋を悪寒が滑り降りた。何だかものすごくよくない予感がした。他はともかくこれだけは、触れてはいけないものだったような気がしてきた。そう思うことに根拠はなかったが、もっともらしい根拠が見当たらないことが俺の恐怖心をさらに煽った。それに触れてはならないと告げる自分の内なる声は、もしかしたら、生来人間に備わった危機回避の本能、とかに言い換えてもいいようなものだったのかも知れない。
その何かから鍋の外へ突き出した棒状の何かを両手で握り、嬉しそうにぐるぐるかき回していた真琴の腕を取り敢えず止めた。
いや、握っているのは多分木箆だが、木箆だと想像できるのは見えている部分が木箆の柄のような形をしているからであって、沈んでいる部分がどうなっているかは全然わからない。だから、本当に木箆かも知れないし、本当はおたまかも知れないし、もしかしたら沈んでいる部分はこの得体の知れない液体にもう溶けていて、昔は木箆だったが今はただの棒、かも知れない‥‥‥妄想は際限なく、危険に向かって加速し続けようとする。
「あ、引っ張っちゃダメだよ祐一、お鍋が」
「いいから来い。あれは‥‥‥とにかく、なんか危険だ」
「あう‥‥‥そんなことないのに‥‥‥」
考えるな。今は何も考えるな。
自分に言い聞かせながら、俺は真琴の手を無理矢理引っ張って台所を後にした。
去り際に蓋をして換気扇まで回したのに、ことことと煮詰められていく鍋からあの香りがいつまでも自分を追ってくるような、そんな嫌なイメージはなかなか俺の頭から離れようとしなかった。
「ほら祐一、きっとこれだよ」
自分の部屋から何やらマンガの雑誌を持ってきた真琴は、そのまま俺の膝の上にちょこんと座り、何かを探してページを繰り続けた。
「おいおい真琴」
ちょっと視線を降ろすと、スカスカのパジャマの襟元から、胸のあたりのきれいな素肌まで、ほとんどまっすぐに覗き込めてしまう。いくら名雪のお下がりでサイズの合わないパジャマだとはいっても‥‥‥いくらそれが、真琴の胸が全然薄べったいせいだとはいっても、こんなのをずっと見せられっ放しじゃ何だか変な気持ちになってしまいそうだが、そうはいっても、真琴は当然そんな俺の困惑なんて全前お構いなしというか、そんなことなんか意識の中にカケラほどもない筈で、それがまた、何というか、困ってしまうのだが。
「えっとね、えっと、あう〜‥‥‥あった! あったよ祐一、これだよ!」
ややあって、おもむろに真琴が指差したコマは、得体の知れない洞窟の中で焚き火に掛けた巨大な鍋を木の棒でかき回す、薄汚れたローブを纏った魔法使いの老婆、だろうか。そういう絵だった。
「何のマンガだこれ? 白雪姫か何かか?」
「よく知らない。でもね、このお婆さんね、お薬作ってるんだよ。飲んだ人が自分のこと好きになってくれるお薬」
白雪姫とは違ったらしい。
「だから、秋子さんもきっと、このお薬作ってるんだよ」
大真面目な顔で真琴はそんなことを言う。
「そ」
そんなワケあるか馬鹿。言おうとして、俺は止めた。
『あれは惚れ薬』という真琴の説に裏づけは何もないが、同様に、『あれは惚れ薬』説を覆す根拠もないことに、言いかけてから気づいたからだ。何しろ、真琴の言っていたことが正しいなら、あれは秋子さんの鍋だということになる‥‥‥他の誰かならともかく、秋子さんだ。惚れ薬くらい平然と作りかねない。
「そ?」
「そ‥‥‥うかも知れないけど、わかんないな」
適当にお茶を濁しながら、不思議そうにこっちを見上げた真琴の頭をゆっくり撫でる。
取り敢えず真琴はこれで大人しくなる。言わばそれは、真琴を相手にする時の必殺技だ。思った通り真琴は、気持ちよさそうに目を閉じている。
「だからね、できあがるまではお手伝いして、できあがったら‥‥‥分けてもらって‥‥‥祐一に、飲ませるんだよ‥‥‥そうしたら‥‥‥そうしたらね‥‥‥ずっと‥‥‥」
本人相手に全部言っちゃってどうするんだそんなこと。突っ込もうかと思った時にはもう、俺に寄りかかった真琴はすうすうと寝息をたて始めていた。
ひとつ溜め息をついて、俺は真琴の軽い身体を抱き上げる。
「おはよ‥‥‥ああ祐一、昨夜下で何かやってた?」
翌朝。廊下で顔を合わせるなり、眠そうに目を擦りながら名雪が訊ねてくる。
「えっと、俺じゃなくて真琴が‥‥‥っていうか、あれは秋子さんなのかな?」
「意味不明だよ祐一」
「いや昨夜、夜中に真琴が何だかよくわからない鍋をかき回してたんだよ。なんか妙に嬉しそうな顔して。真琴が言うには、それは秋子さんが作ってる途中の何かで、真琴も何だか知らないままかき回してたらしくて、結局それが一晩ずっと火に掛かったままの筈なんだが、そういう話に心当たりはないか?」
「え‥‥‥うそ」
一瞬前まで半分以上閉じていた目蓋がちゃんと開いている。どうも今の一言だけで名雪の目が覚めたらしい。その顔を見る限りでは、多分何か、思い当たる節があるのだろう。それも、どちらかというとあまり嬉しくない類の。
「わっ私、そういえば陸上部の朝練が」
「もう全然間に合ってないだろそんなの。適当なこと言って逃げるな名雪っ」
自分の部屋へ消えようとする名雪の手を捕まえる。意外に強い力で振り払おうとじたばたするが、ああそうですかと逃がすわけにもいかない。
「うーっ、それは思い出したくないよ」
「だから逃げるな名雪‥‥‥あれは何だ?」
「多分、ジャムだよ」
「は?」
「前に祐一も食べたことあるでしょ? あのジャムだよ。お母さん、また作ってるんだ‥‥‥うー」
嫌な思い出が脳裏を掠めて通る。
「アレ、か?」
頷きたくなさそうに名雪は頷いた。
「祐一さーん、名雪ー、朝ですよー」
絶妙のタイミングで、階下から秋子さんの声が聞こえてくる。
「‥‥‥あ、そういえば俺も陸上部の朝練が」
「祐一、いつ陸上部に入ったの?」
「入ってない」
目の前で不思議そうに首を傾げる名雪は、何を隠そう、陸上部の部長さんだ。名雪が知らない新入部員なんているわけがない。
「でも朝練するの?」
「真に受けるな。ただの言い訳だ」
「みんなの陸上部をそんなことに使わないで欲しいよ」
少しむっとした声で名雪が呟く。
「いいから急ぐぞ名雪っ!」
「うん‥‥‥なんとなく納得は行かないけど、とにかく、わかったよ」
それぞれの部屋であっという間に身仕度を済ませた俺たちは、大慌てで水瀬の家を後にする。
「朝食は摂らないと体によくないですよ?」
言いながら秋子さんと真琴が食パンに塗っていたのが、多分、あの謎のジャムだったのだろう。真琴が結構嬉しそうに食べていたのも不思議だったが‥‥‥そういえば、あんなの食って真琴は大丈夫なんだろうか?
全然、大丈夫じゃなかった。
「祐一ぃ〜」
「うわあっ! って何だ、真琴か?」
放課後。帰ってきた家の玄関を開けた途端、酔っぱらったような真琴がしなだれかかってくる。
「お帰りなさい祐一さん‥‥‥真琴ちゃん、朝からずっとそんな感じなんですよ。何かおかしなものでも食べたのかしら?」
秋子さんは本気で首を傾げているらしい。間違いなくおかしなものを朝食の時に食べていた心当たりがあるのだが、取り敢えずそれについては何も言わずに、ふらふらの真琴を抱き上げて俺は二階へ上がった。
「うにゃ〜、祐一ぃ〜‥‥‥あう〜、ゆらゆら〜‥‥‥」
さっきから真琴はわけのわからないことをずっと口走っている。なんか本当に酔っ払いみたいだ。
「どうした真琴、何があった?」
「あう〜‥‥‥どうしよう祐一ぃ‥‥‥あたしがお薬食べちゃったよぉ‥‥‥祐一に食べてもらわなきゃ意味ないんだよぉ‥‥‥あたしが秋子さんのこと好きになっちゃダメなのにぃ‥‥‥あう〜‥‥‥」
何かにうなされたようなたどたどしい口ぶりでそんなことを言いながら、真琴は運ばれた自分の部屋の床で丸くなる。
それにしても、まだ惚れ薬だなんて信じてたのか。
「あのな真琴、秋子さんが作ってたあれはただの‥‥‥あー、ただのジャムだ。別に、食べた人が作った人を好きになる薬とかじゃないぞ」
まあ「ただのジャム」かどうかはわからないが、この際そこは追求しないことにして。
俺はおもむろに、鞄の中からひとつだけ黄色い錠剤の入った小瓶を取り出す。
「それでこの薬だが、これは本当に真琴の欲しがってる惚れ薬だ。ただし、ふたつないと意味がないのに、ここにはひとつしかない」
かたん。顔を上げた真琴の目の前に、わざと音をたてるように瓶を置きながら、すぐ脇に腰を降ろした俺は真琴の耳元に囁く。
ラベルが瓶から剥いであるから正体不明に見えるが、実は単なるビタミン剤だ。でもそんなことは、言わなきゃ真琴にはわからないだろう。
「ひと粒ずつをせーので同時に飲まなきゃ効果ないんだが、これしか手に入らなかったんでな」
それも無論、口から出任せだ。そんな都合のいい薬があるわけはない。でも、実物みたいなものをちらつかせておいて、ふたつないと意味がないけどもう手に入らない、とか何とか無理なことを言っていれば、そのうち忘れるだろう。それが俺の作戦だった。
起き上がった真琴の手のひらに、俺は瓶から出した錠剤を転がす。しばらくの間、黙ったままじーっとそれを見つめていた真琴は、突然、それを口に含んだ。
がりっ。
何かが砕けたような、耳触りのよくない音が響いた。
次の刹那、何かに押し倒された俺の目の前が真っ暗になった。抵抗する間もなく、俺の唇に押し当てられたやわらかな何かの感触と、その何かから俺の唇の中へ押し込まれる欠片のようなものを‥‥‥それが何で、どうすればいいのかもわからないまま、それを俺は、思わず飲み下してしまう。
「飲んだ? ねえ飲んだ? あははは。半分ずつだけど、でも効き目あったら嬉しいね〜」
手の甲で大雑把に口元を拭いながら、顔を上げた真琴が嬉しそうに笑う。
‥‥‥笑いながら、押し倒した俺の上に突然くてっと崩れる真琴の姿を見て、俺は自分と真琴に何が起こったのかを理解した。どうも、あの時のがりっという音は、真琴が自分の歯で錠剤を半分に割った音だったらしい。
そしてその後、凄い速さで俺の首にしがみついた真琴は、口移しで無理矢理、その片方を俺の口の中へ押し込んだ。勿論、残りの半分は自分で飲んだんだろう。
「効いたらいいねぇ‥‥‥一緒だねぇ‥‥‥ずーっとぉ、一緒だねぇ‥‥‥あう〜‥‥‥ゆらゆらぁ‥‥‥」
俺の上にのしかかったまま、むにゃむにゃと何かを呟きながら眠ってしまった真琴の頭を撫でる。
作戦はこれ以上ないほど見事に失敗した。なんせ、ひと粒ずつをせーので飲まないと効かない惚れ薬を、真琴とひと粒ずつ、せーので飲んでしまったのだ。口から出任せがその通り実現されてしまうなんて思ってもみなかったが、結果はこの通り、真琴のひとり勝ちだった。
‥‥‥このまま、俺にも惚れ薬が効いちまうってのも、案外悪くないのかも知れないな。
真琴の頭をそっと撫でながら、その時俺は、確かにそう思っていた。
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