『ほら、今日からもう秋ですから』
言われて俺は、電話機と一緒に置かれたカレンダーをちらりと確認する。
今日を示す枠には確かに「立秋の日」と書いてあるから、確かに今日から、暦の上では秋だ。それは間違ってはいない。‥‥‥でも実際、秋になったのは暦だけだ。大体、今ここにある夏の暑さは今が本番なんだから、ストールが欲しくなるような寒さがやってくるのはまだずーっとずーっと先のことだ。
なのに。
『さっき、冬物の箪笥から、お気に入りのストールを出したんです』
やけに嬉しそうな声は、電話の向こうでとんでもないことを言い出した。
そして。
ただでさえ暑い真夏日の昼下がりに、『冬物の箪笥から、お気に入りのストールを出したんです』という、どうも本当にただそれだけらしい理由によって俺の家までやって来て‥‥‥玄関先に現れた栞が、ブラウスの上に予告通り羽織ってきたストールをひらひら振ってみせるのを見ただけで、周辺の気温が何度か上がったような錯覚に襲われて、思わず俺は喉元を手の甲で拭った。
いや、あの何か難しい名前の病気が治って、そんなどうでもいい理由で普通に遊びに出てこられるようになったことはもちろん嬉しいんだけど、どうも本当に、本当に理由がただそれだけらしいことの方は、何というか、今ひとつ釈然としない。
「暇だから来た、とかの方がかえって自然なんじゃないのかって気がするんだが?」
「そうですか? でも、ほら、時間があるからちょっと会いたいんですとか、そういう時はちゃんとそういう風な電話を掛けるじゃないですか」
「まあ、そうだけど」
「だから今日は」
ローファーの踵と踵を打ち鳴らして、急に背筋を伸ばして、ストールの裾を両手で広げて。
「祐一さんに、お気に入りのストールを見せびらかしに来ました」
そう言って栞は笑った。それはそれは楽しそうに。
栞に連れ出されるようにして、そのままふらふらと散歩に出掛けた。
「あんなところに水溜まりがありますよ、ほら」
栞が指差したあたりには確かに水溜まりがあるように見えるが。
「ありゃ逃げ水だろ。水溜まりの幻」
「あ‥‥‥れが、そうなんですか?」
呟きながら栞はててっと走り始める。だが、俺がどこまで歩いても水溜まりには近づけないように、栞がどこまで走っても、それで水溜まりに辿り着きはしない。
「祐一さん凄いです! 本当に水溜まりが逃げていくんです! だから逃げ水って言うんですね!」
帰ってきた栞がはしゃぐ。
「私、一度見てみたいなって思ってたんです。凄いです。感激です」
道端の向日葵はみんな元気よく青空に向かっている。
「栞。ひとつ聞きたいんだが」
焼けたアスファルトの上で何かがもやもやと揺れる。
「はい?」
もっと遠くの空を、入道雲がゆったりと流れていく。
「どこが秋なんだ?」
「でもカレンダーには、今日から秋、って書いてありましたよ?」
肩から肘のあたりにかけてブラウスが少し汗ばんでいるように見えるのは、ストールが落とす影のせいばかりではない筈だ。それでも頑固に羽織ったままにしているストールの裾で首元あたりに風を送りながら、栞が呟く。
「それにしても、何だか今日は暑いですね」
そのひとことでさらに気温が上がったような気がしてきて、思わず俺はくたっとうなだれた。
「やめてしまえそんなストール」
「あ、ひどい。そんなこと言う人嫌いです」
不意に立ち止まった栞は、上目遣いに、ちょっと睨むような目つき。つられて立ち止まった俺も、見降ろす感じで栞の視線を受け止める。相変わらずの強い日差しは容赦なく俺の首の後ろあたりを焼き続けた。遠くにも近くにも、いろんなどこかで蝉が鳴いていた。立ち尽くす俺たちのすぐ脇を、子供の乗った自転車が通り過ぎた。
永遠にこのまま続くんじゃないかと思うような突然のにらめっこは、
「‥‥‥暑い」
「‥‥‥暑いですー」
奇しくも、同時に吐いた溜め息と、さらに同時に転がり出した同じ言葉で、始まった時と同じくらい、突然に終わった。
そんなことが何だかおかしくて、また顔を見合わせた俺たちはくすくす笑う‥‥‥その最中に、
「あ。ハッピーアイスクリーム!」
突如、おまじないか何かのような意味のわからない言葉を呟くと、栞は慎ましい胸を得意げに張ってみせた。
「は?」
「あれ、知りませんか? でも私の勝ちですよ?」
何がどうなっているのかよくわからないうちに、何だか、俺は一敗を喫していたらしい。
「入院してた時に仲がよかった、ちっちゃい女の子がいるんですけど、その子に教えてもらったんです。誰かと喋っている時に、ふたりとも同時に同じことを言っちゃうことってあるじゃないですか? そういう時、『ハッピーアイスクリーム』って先に言った人は、言えなかった人からアイスクリームを奢ってもらえる決まりになっているんですよ?」
そんな決まりがあるなんて俺が聞いたのは間違いなく初めてだった。
「どこの決まりだそれは?」
「どこでもです」
微塵の迷いもなく言い切る栞も凄い。
「私、勝率よかったんですよ?」
「嘘つけ」
「そんな、一秒で即答しなくても‥‥‥もしかして祐一さん、私のこと、どんくさいとか反射神経ないとか、そんな風に思ってないですか?」
「それはちょっと違うな」
「え?」
「思ってるというより、それはただの事実だ」
「ひどーいっ! 祐一さんひどいですーっ!」
言いながら遠慮がちに向かってくる栞の手は、俺に何のダメージも与えてはいない。多分、思いきり振り回すと肩からストールが落ちるからだろう。
「本当なんですよ? だって私、お姉ちゃんから、この策でたくさんアイスクリームをせしめたんですから」
もう一度、嘘つけ、と言ってやろうとして俺は止める。
本当に栞が強かったのか、それとも香里が負けてやっていたのか‥‥‥そんなことよりも重大な問題がある、ような気がしたからだ。
「ちょっと待て。それ、本当に奢らないとダメなのか?」
「もちろんです。私もその子に奢りましたし、お姉ちゃんも奢ってくれましたよ? だから祐一さんも奢ってくださいね」
俺は後ろ手でそっとジーンズのポケットを確かめる。もちろん財布はちゃんとそこに収まっていたし、今更アイスを奢ったくらいで何がピンチになるわけでもないが、だからといって、そう簡単に負けを認めるつもりもなかった。
「うえ‥‥‥」
「がっかりです‥‥‥」
やがて見えてきた風景に、俺たちは肩を落とす。
俺たちの他に誰もいない公園の真ん中で、噴水はいつの間にか止まっていた。猛暑に伴う全国的な水不足の影響、という奴かも知れない。何も示し合わせないいつもの散歩は大体そのうちここへ向かうことになっていたが、何日か前にはちゃんと水が流れていた筈で、いつ止まったのかは俺たちにはわからない。
「ここは涼しいと思ったんだけどなあ」
水が抜かれ、干乾びかけた池の底にまだらに残った水溜まりをずっと眺めていると、何だかそのまま熱中死でもしそうに思えてきて、くらくらする頭を押さえながら、水のない噴水の淵に並んで腰をかけた。
「何だか、歩いていると、どんどん暑くなるみたいです」
「そのストールをやめるだけでも相当違うと思うが」
「これはいいんですっ」
何だかもう意地になっているらしい栞は、思い出したように、肩から半分落ちかけていたストールを上げた。
「北風と太陽って話があったけどな」
「私のお気に入りの前には、太陽さえも無力です」
また胸を張る。ブラウスにじっとりと汗が滲んでいる。もともと足りない胸がこのまま全部汗になって蒸発しちゃったら嫌だなあ、なんて馬鹿なことが不意に頭の片隅をよぎったのも、やっぱり、夏のせいかも知れない。
「いや、本当に栞、冗談じゃなくて、そろそろ止めないか? そんなんでまた体調崩されたら」
「大丈夫です。この後すぐに、私と世界はアイスクリームによって救われるシナリオですから」
しれっと言い放つ。
「だから祐一さん、アイスクリームを買いに行きましょう」
結局それか。
「そのストール止めたらな」
「だって、お気に入りなんですよ?」
「なあ栞‥‥‥栞にはちゃんとこの先、秋だって冬だってあるんだぞ? そんな慌てて何でもかんでも全部やらなくたって大丈夫なんだ」
「でも、お気に入りなんですよ?」
まだ栞はぶつぶつ呟いているが、このパターンは。
「止めてしまえそんなストール」
敢えて繰り返す‥‥‥作戦開始。
「あ、ひどい。そんなこと言う人嫌いです」
栞の「あ、ひどい」と同時にスタートを切り、
「そんなこと言う人嫌いですハッピーアイスクリーム」
ハッピーアイスクリーム、まで一気に繋げて言い切る。勝った。
「え? あ、はっ‥‥‥あ‥‥‥」
最初のうちは何をされたかわからなかったらしい栞が、
「ずるい! 祐一さんずるいです! 反則です! 卑怯です! そんなの絶対ダメですっ!」
思い出したように抗議を始めるが、当然、後の祭りだ。
とにかく通算成績は一勝一敗に戻った。取り敢えず、タダで奢る義理はなくなった。‥‥‥もちろん、そんなアイスクリームくらい、奢るのが嫌だとかそんなことじゃない。「太陽さえも無力」とまで豪語する無敵のお気に入りを諦めさせるには、それくらい頭を使わなきゃ、ってことだ。
しばらくの間、公園近くのコンビニで涼んでから、バニラアイスのカップをふたつ買って、俺たちは水のない噴水にまた戻った。
「汗かいて急に冷やしてまた汗かいて、何だか風邪ひいちゃいそうですね」
どう考えてもその元凶であるストールは未だに羽織ったまま、指先で摘んだ自分のブラウスを見降ろして、栞が呟く。
「だから止め」
「止めてしまえそんなストール、は却下です」
よりによって栞に機先を制されるのはちょっと悔しい。
「それと、私、ここの噴水のこととか、水がなくても好きですよ? 冷房が強いところよりは、暑くても外にいる方が身体にはいいそうですし」
しかも、当てが外れた噴水の側になんかいつまでも座っていないで、さっさと冷房の利いたところに移動してればよかったな、なんて今思ってたことまで見透かされたみたいで、何秒か前に目を逸らしたのは俺なのに、思わずまた、栞に向き直る。
「随分、元気になったんだな」
「私のお気に入りの前には、太陽さえも無力です‥‥‥祐一さん、この台詞、ちょっと格好いいと思いませんか?」
自分で言ってみて気に入ったらしい。
「そう‥‥‥かも、知れないな」
「いつもみたいに即答してくれればいのに」
木の匙を咥えたまま、栞が満面の笑顔をみせる。
出逢った頃には、その向こうの空へと、今にも儚く消えてしまいそうだった笑顔。
今は、そんな風に不意に消えてしまうこともない、確かな存在を感じられる笑顔。
そこに眩しさのようなものを感じて、少しだけ、俺は目を細めた。
「ごちそうさまでした。おいしかったですー」
空になったアイスのカップに蓋を戻す頃には、空は夕暮れに向かって加速を始めていた。
「でも残念です。祐一さんの奢りになる筈だったのに」
「まだ言ってるのかお前は。っていうか、奢るって言ってるのに自分で払ったのは栞だろ」
「それで、止めてしまえそんなストール、という事態は避けたかったんです」
どうでもいいが、ものすごい根性だと思う。
もしかしたら最初から、栞が戻って来れたのは、奇蹟とかそんなことじゃなくて。そんな風にも少し思う。
「参った。いい。ストールのままでいい‥‥‥だけど今日だけだぞ。まわりにそういう変な心配をかけるのは犯罪だからな」
「祐一さんにそこまで言われては仕方ありません」
ふう、と溜め息を吐いて。
「だから明日は」
今日、俺と会ってから初めて、羽織っていたストールを肩から外した栞は。
「これとは別のストールを見せびらかしに行きます」
玄関先で最初にそうしたように。
ローファーの踵と踵を打ち鳴らして、急に背筋を伸ばして、ストールの裾を両手で広げた。
「止めてしまえそんなストール」
「やめてしまえそんなすとーる」
勢いで言ってしまった言葉に、もうひとつの声が綺麗に重なって聞こえた。
栞が笑った。
勝った、という顔をしていた。
しまった‥‥‥言わされた!
「あ、は」
言いかけた俺の両肩にストールが纏わりつく。いつの間にか立ち上がっていた栞が、俺の背中に回したストールで口元にささやかなカーテンを作る。目を閉じる間もなく、急接近した栞の唇が俺の唇に触れる。間近でふたつの心音が響く。言いかけた言葉をどこで途切らせたのか、咄嗟に、思い出せなくなる。しまった。しまった!
‥‥‥真っ赤に染まった顔を離した栞は、さらに念入りなことに、俺の口元に人差し指で封をしてから。
「ハッピー、アイスクリーム、です」
手も足も出せない俺に向かって、それはそれは楽しそうに、ゆっくりと、そう言ってみせた。
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